家にいても、帰りたくなるのは、何故だろう。

 今日の私は、調子が良かった。髪型はいつも以上にさらさらしていて、前髪はぱっつりといるべき位置にいた。気に入っているパーカーとピアスはお揃いの紫で、嫌いなブーツを履かずに、いつも藍色の靴を履いた。アラームの曲はsiaの“I Go To Sleep”で、起きるのに《眠りに就く》というタイトルだけど、素敵。あとはなんだろ。頭痛もなく、天気もよく、メヌエットも弾けた。いつもはしないアイシャドー(これも紫)もつけて、はきはきとしていた。


 妹が生まれた。やっとって感じ。

 母から報告を受けた時、なぜか緊張し、混乱した。阻んでいた存在が、姿を現したから。私は、彼女から逃げていたの。何故か怖かった。


 生命。他者。誕生。


 奇妙に思えた。


 嫌いな人に出迎えられ、車で病院まで向かった。ハイウェイの下を通り、夜道を進む。車のヘッドライトからの赤が、道の裏側に反射していて、綺麗だった。嫌いな人が隣でべらべらと喋っていたけど、気持ちは落ち着いていた。

 そいつが来るまで、私は中村文則の『王国』を読んでいたの。そいつはどうでもいい話をするべきに、主人公の「興味のない男の身の上話ほど、つまらないものはない。」という文章を思い出し、本当に、その通りねと心の中で同意した。本当に、そう。


 病院に着くと、まず母と会った。とても疲れていた。けれども、元気そうに見え、少し泣いてしまった。大好きよ、母さん。


 そいつは日本語が話せないから、私は看護師さんの言葉を翻訳してあげたの。何一つ、無駄なことを言っていないのに、突如として彼は私に怒り出した。この病院のシステムは、クソだ。だとか、嫌な言葉を使って、私に言った。多分、お医者さんと看護師さんたちにも、言っている。また、それを聞いて泣いてしまった。

 私は戸惑っている看護師さんを助けようとして、彼女たちの言葉を伝えた。困っていたから。

 それなのに、「君は翻訳をする必要はない。私たち(そいつはよくそのような言葉を使う)は彼らのフィロソフィーを知っていて、そいつらが知らないんだ。君は彼らの味方をするべきではなく、私たち、私の考えだけに賛同すればいい。それが出来なければ、黙ってくれ」なんて、目を真っ赤にさせながら言った。大っ嫌いよ。


 そいつはよくF WORDを使うのだけど、私は一度もその人に使ったことはないよ。汚い言葉を使ったことがない。偉いでしょ。殴りかかって、怒鳴ることもできたのよ。彼の所有物を全て捨てることだって、なんなら殺すことだって、できる。でも、私は耐えているよ。感情を抑えて、黙って聞いたわ。

 それでもやっぱり、涙がぽつぽつと溢れ出てしまって、何度も母の暖かな手を握り締めた。着いてから、帰るまで、私の目は真っ赤。これを書いている、今だってそう。


 私は彼から逃げるために、妹に会いに行った。目を固く閉じて、眠っていた。母の部屋に戻ろうとした時、欠伸をした。

 私、彼女のこと知っていたの。会ったこと、あるわ。多分、夢でだと思う。

 そうだ。私ね、彼女がいつ生まれるか知っていたの。きっと太陽が輝く時間だろうって。夜ではなく、朝か昼。そうしたら、見事当たり。お昼に生まれた。

 彼女は明るい子。黄色、橙色、桜色、金色。そんなイメージがした。まぁ、知らないけどね。


 緊張と恐怖は、会った時、全然無かった。安心感のみ。多分、上にも書いてあった通り、知っていたから。

 私はにこにこしながら、部屋に戻った。会えたよって、二人に伝えたかった。それなのに、同じ話をまた繰り返した。そんなの、どうでもいいわ。触れられなくても、違い惑星にいようが、どこにいようが、いい。窓越しでも、会えたから。私は、嬉しい。

 それでも理解できないようだった。私は、また泣き、また廊下へ出た。

 看護師さんがやってきた。心配した表情で、私のことを聞いた。日本語が上手ねって、言われたわ。少し笑ってしまって、ありがとうございますと答えた。

 お姉さんの優しさで、また少し泣いてしまった。ごめんなさいねと、謝りながら、頭を撫でてくれた。優しい手。いえ、私たちの方こそ、ごめんなさいと言いたかったけど、どう言えばいいのか、わからなかった。そして何より、そいつに私の言った言葉を聞かれる気がして、嫌だった。私は誰の味方でもないよ。敵も、味方もいない。ごめんなさい。


 人は、誰もが正しい。正しいのに、歪みあっている。

 正しく、不正だ。

 誰かが間違っている。とかはなく、ただただ個人の持つ、自らの「正しさ」が壁を作りあっているだけだと思う。それを、誰もわかっていない気がしてならない。

 みんな正しい。けど、みんな正しくない。


 私は、誰でもないけど、誰かである。国籍も、性別も、宗教も、言語も、哲学も、主義も、年齢も、名前も、何もない。あるのは、何者かである、自覚のみ。自らを認識する、思考のみ。


 私は——

 いや、人はみんな、空っぽなんだと思う。


 大好きよ。大好き。好き。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。私は何も悪くない。間違っていない。それなのに、何かがいつも違っていて、他者を困らせてしまっている気がする。


 もう、疲れちゃった。

 彼女に会いに行った時の服装は、全身真っ黒だった。喪服のように思えて、生と死は隣り合わせのものだと、思い出した。


 私は祈っているわ。キリスト教徒の祈りでもなく、イスラムでも、仏教でも、神道でもなく、ゾロアスターでもなく、ヒンドゥーでもなく、私自身の祈りで。拙い言葉ながらも、文字を紡ぎ、捧げる。何一つ、奇跡は起こせないけど、祈るぐらい、いいでしょ。許してちょうだい。


 そこで笑っていなさい。

 明日には、涙も乾くはずだから。

 おやすみなさい。

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