三人模様のオペレーション

 厳しかった今年の残暑を、漸く見送り、ここ目黒の街にも、秋涼の候が訪れ、ほっと落ち着いた表情を見せていた。最早暑からず、とはいえまだ寒くはなく、服装も、ジャケットを羽織る程度で、間に合う時季である。そして、体が楽になった分、夏の疲れが出易い時節でもある。省子と慎一も、油断は禁物、事実、年齢という大きなテーマと、如何に上手に付き合うべきか、考えざるを得ない年代に達している。加えて、あと三ヶ月余りで、また年が変わる。一年は、かくも早い。天高く馬肥ゆる秋の鰯雲いわしぐもが、足早に通り過ぎるように。

 さるにても、この秋という季節は、どうしてこんなにも、気がそぞろになるのか? それは……自宅の郵便受けに、一通の手紙が配達されていて、開封すると、緩やかな下り坂への招待状が、柔らかな文面でしたためられているかのような、一抹の寂しさが、人のうちなる平衡感覚を、ほんの悪戯っぽく刺激するからなのだ。くすぐられた内懐うちぶところは、不明瞭な、それでいて決して悪い気はしない、甘美な歌を教えられ、秋思しゅうしの憂鬱も、人恋しさも、自ら煩わしさを求めるが如く、その境界へ侵入する。

 正に憧憬と断言し得る、思索にふけるという、精神行為の対象は、やはり、恋愛を第一に挙げずして他にない。想い煩いたいのは対象者なのか? それとも考えるという作業なのか? 明言はけるとしても、とにもかくにも、精神的な自身に対する、半ば恍然とした欲求が、高揚するのは間違いない。精神性盛んなる、憂愁の秋に、省子と慎一は、愛する人の何を想うだろう? そして、どこへゆくのだろう? ……悩める、秋である。


 さて、今夜の慎一はというと、だいぶ空腹である。

 今日の日勤シフトを終え、帰宅ラッシュ時間帯のピークを、電車に揺られている時も、胃袋の悲鳴が羞ずかしくて、辺りを気にしつつ、些少の辛抱づらのまま、学大駅に到着したばかりであった。今夜もみはるで夕食、オーダーは〝鶏唐揚げ定食〟 、勿論大盛りと決めていた。

「いらっしゃーい、お帰り! 」

 いつになく、やけにママが明るい事に、慎一は、特に気にも留めずに、三名の先客の常連達へ、軽く挨拶しながら、

「鶏唐定、だいで」

 とオーダーを告げて、奥のテーブル席の椅子に座った。

 油と醤油を熱する匂いや音に、唾液を何回か飲み込んで、のんびり待っていた。

 それでも、やはり、想い出すのは、省子の事ばかりである。省子の体の丸い感触と温もりが、消えてはいない。自身の強靭な肉体が、少しでも加減を誤れば、忽ち壊れてしまいそうな、白く柔らかな省子の体を、この胸にいだいた時、周藤慎一なるひとりの男の、去り難く、失くす事が出来ない保護本能を、自身の肉体が、覚えてしまった。


〈省子の全てを、丸ごと守ってあげなければ……俺が、省子を幸せにする……〉


 可憐な花の如き想いに応える為に、既に走り出していた。

 食欲の秋に、更にライス並盛りをお代わりして、平らげつつあると、客は、もう慎一だけであった。

「ねえ、周ちゃん」

 みはるが話し掛ける。

「私ね、聞きたい事があるの……」

「んん、何? 」

「実はね、私……もう二回見たの、朝、駅前で、何か渡されている所……」


〈しまった! 〉


 と、


〈もう話そう……〉


 ふたつの想いが、ほぼ同時に、慎一の胸に去来している。かぶとを、脱ぐしかなかった。

「ねえママ……」

 みはるの顔は、早くも真剣そのものに仕上がっている。先程とは、違う。慎一は、


〈この人なら……やっぱり、信用に足る〉


 勘が働いた。

「あのひとと、付き合ってるんだ、真剣に……。俺を心配して、お弁当を作ってくれるんだよ。何れ、女房には、話そうと想ってる……」

 慎一は、潤いを失った家庭の状態を、表立って、みはるに語った事はなかった。やはり男のプライドとして、家の恥を曝すような話は、甲斐性かいしょうなしの烙印を象嵌してしまい、社会的に、好ましからざる事は必定。ましてや地元である。

 そんな苦心を、下町人ならではの当たりの良さでかわしながら、少々のごとのような世間話の合間に、ぽつり、時にまたぽつり、こぼしていた。みはるは、小出しにされる大常連客の悲哀を、客と店主の垣根をぱらって、むしろ血を分けた息子への愛情にも似た優しさを、前面に立てて接する自身に、今は亡き夫との、懐かしい青春の日々をだぶらせていたのであった。あえて言葉にせずとも、妻も持ち家もある大の中年男が、定食屋へ日参する姿を見れば、その内情は、想像に難くない。小さな告白が積もって、大きな矛盾の山を成している事が、汲み取れる。そうして、触れずに、静かに、見守っていた。

「真面目な周ちゃんが、そこまで言うなら……ごめんね、言わせちゃって……」

 みはるは、素直に嬉しかった。

 それは、決して不倫を褒める訳ではなく、慎一の、いつも遠慮がちで純粋なこころを、長い付き合いの中から、充分過ぎるぐらい理解出来るからであった。女房の愚痴を余りこぼさない、真っすぐな慎一を、衷心から心配していたのである。夫婦の関係と併せて、痛い程、その心情がわかるのであった。

「学大の人でさ、岡野省子っていうんだ。三十代独身。地元同士だから、目撃される気掛かりはあったんだけど……ママがねえ……」

 こういう時の男は、どんな顔をすれば良いものやら、思案する隙間にはさみ込むように、

「私で良かったでしょう、でもねえ……何か、意地らしくってさあ……」

 みはると慎一は、


〈他言無用……〉


 言葉にしないまでも、アイコンタクトで、絶妙なスルーパスを完成させている。やはり慎一は、いつまで経っても、このみはるママには頭が上がらない。


〈ママ、ありがとう……〉


 泣きそうになってしまう。

 みはるは、カウンターの中で、優しい笑顔のまま、仕事を続けている。まるで実の親子のように、目には見えずとも、深く繋がっているえにしであった。

「彼女のお弁当の味はどう? 美味しい? 」

「うん、とっても……」

 嬉しさを憚りながら、正直に答えた慎一である。その照れ笑いは、謙虚で一途なふたりの愛が、みはるの懐に、ささやかな贈り物を届けるが如きこころ、寸志故の、礼節を踏襲し、先例に対する畏敬であった。みはるも、それをそっと受け取る自身を、疑うべくもなく、自然に許した。

「省子さんの御両親は、どう感じてらっしゃるんだろう? ……」

 年長者として、当然の質問である。

「うん、会話は少し減ったらしい。省子がいうには、わかってくれるはずって……」

「ねえ周ちゃん」

「うん」

「老婆心ながら言わせて。あなたの鳥越の御両親に対してもそうだけど、ふた親を泣かせるような事だけは、しないって約束して。親ってね……我が子を愛して止まないんだから、幸せになって欲しいんだから……裏切ったりしたら駄目、絶対に駄目だよ。私、許さないからね」

「わかってる。ママ、ありがとう」

「絶対に、幸せになるんだよ……」

「……」

 閉店時間まで遺り少ない店内に、ふたりのすすり泣きが、波紋を展げた。互いの涙を、初めて見た。その、ひとしずく落ちる音が聞こえそうな程、密な涙は、この店の流儀に書き加えられるかも知れない。それはあるいは、ノスタルジックに過ぎるだろうか? 支えや共感を欲しがる涙に、ただ寄り添いたい一念の、時間が用意した隙間を、ふたりは見付けた。


「そこで、私から提案なんだけど」

「えっ、何? 」

「……省子ちゃんに、朝ここへ来てもらって、この厨房でお弁当作ったら? 」

「ええーっ!? 」

 絶叫に近い慎一である。

「私も週に二日は、朝、築地へ通ってるし、誰にも見られる心配要らない。先ず以て、私さあ……省子ちゃんと、おはなししたいんだあ……」

「ママ……」

 慎一の、涙腺崩壊が止まらない。

「ねっ、それが良いと想わない? 遠慮しなくて良いから、善は急げ、早速連絡してみてよ。ちなみに、明朝は築地行きの日よ。あっ、それから、材料は持ち込み、ご自由に……」

 絶句とは、正にこの事である。

 途方もないみはるの企画力に、ただ圧倒されるしかない自身を、加えて省子も、かくも幸せ者であると想わずにはいられない、さぬ仲の息子であった。

 ……そして慎一は、自身のスマホから省子へ直電を入れた。すると、こちらの予想にたがわず、度肝を抜かれた反応を示した省子であったが、電話口からのみはる直々じきじきの説得に、すぐに恐縮して、〝翌朝からお伺いさせて下さい〟 との返事であった。みはる日く、

「明日から楽しみ! 」


〈これも、親孝行なのかな……〉


 かくして、学大駅前の育ての母の加護の下、省子と慎一の秘密の通信が、幕をけようとしていた。三人揃って、百万の味方を得たような、されどうわつかない勇気が迸出へいしゅつしていた。何もかもが動き出す予感が、体中のあちこちに閃く、秋涼し夜長である。



 日が変わって、翌朝六時半、食材やらをたくさん詰め込んだ、大きい布製のトートバッグを抱えるようにして、

「おはようございます! 」

 と、定食屋〝みはる〟 の引き戸に手を掛けた省子がいた。

「おはよう! 待ってたわよぉ。初めまして、小坂みはるです。どうぞよろしく」

 割烹着姿で、野菜の皮剥き中の手を休めての第一声である。

「初めまして、岡野省子と申します。この度は、何と言えば良いのか、本当に……ありがとうございます……」

 最後は、涙声で言葉にならない挨拶を、みはるとて何度も頷きながら、優しく迎えるそのまなじりには、やはり、温かく光るものがあった。

「〝省子ちゃん〟 で良いでしょ? 可愛いいわねえ……こりゃ周ちゃん、やられちゃうな! 」

「いえ、いや、とんでもないです……」

 盛んに首を横に振って俯く、省子の羞じらいに、

「素敵な方……」

 と気を良くしたのか、更に、

なんか、凄く気が合いそうな感じがするね! 」

「よろしくお願い致します」

 頻りに頭を下げる省子であった。

「もう今日から、ここでは母娘おやこだ! うちの嫁だからね、何でも遠慮しないで言ってね」

「はい! 」

 母娘おやこは目を合わせて微笑む。流石さすがはみはる、瞬時の意気投合へ導いた。

「食材でも調味料でも、勿論、鍋釜だって自由に使って。うちはご覧の通り小さい店だから、私の朝の仕込みなんて、どうって事ないの。ねっ? 」

「でも……お邪魔ではありませんか? 」

 省子の心配をよそに、

「平気平気! 愛妻弁当作りのさ、少しお手伝いというか、見学したいだけ。ごめんね、余計なお節介焼きで……」

「もう、言葉がありません……嬉しくて……」

「で、今日は何作るの? 」

 感激の内にも、そうだ、仕事が待っている。省子は気を取り直して、

「慎一さん、今日は泊まり勤務なので、昼と夜の二食分、作ろうかと……」

「じゃあ周ちゃん、二食分の荷物を持って行くんだ。愛は重いからねえ〜! でもさあ、嬉しい重さのはず。彼はね、誰よりも、温かい家庭を望んでいると想う。以前に、ちらっと聞いた事あるけど、鳥越のご実家が、飾らず笑顔に包まれた、本当、〝浅草〟 って感じの雰囲気らしいの。だから、ああいう奴に育ったんだろうね! 」

 と臆せず笑うみはるに釣られて、省子も哄笑した。

「私、お料理上手じゃないけど、それでも、作ってあげたいんです。そして、拙いお弁当で申し訳ないけど、食べて欲しいんです……」

「うん……すぐ、上手く作れるように、なるよ……」

 今日は休日ではないのに、朝から和やかな気が溢れる、〝みはる〟 のホールであった。揃って幾度となく、目には見えない暖気を呑み込んで、円やかな満足が、省子の、手を動かしたい期待を宥める。

「今朝はね、もう炊飯ジャーでご飯炊いてるの。ね、あと……五分だ」

 ジャーの液晶画面が、炊き上がりまで、そう表示している。昨夜の内に、みはるは洗米し、研いで、ジャーに釜をセットしていた。そして先程、〝炊く〟 のスイッチを入れたのだった。

「ママ、ありがとうございます」

「ご飯はさ、私が前の晩に準備して置くね」

「はい。あとこれ……慎一さんの、今月の出勤日のメモです。日勤時は、昼の一食分だけ作ろうかと想います」

「それと、日曜日はどうする? うち休みだから……」

「はい。家で作って、人も少ないでしょうから、駅前で渡します」

「気を付けてね」

「はい」

 と、忍笑する省子であった。

「さて、始めよう! 」

 みはるが景気を付けると、

「はい! 」

 省子は腕まくりして覇気も併せ示し、トートバッグからエプロンを取り出して、身に付けようとしていると、みはるが、

「はいOK」

 と、背中で紐を結んでくれた。

「ありがとうございます」

「そんなにかしこまらないで……ラフに行こう! ねっ! 」

 軽く娘の背中を叩く駅前の母は、正に〝肝っ玉母さん〟 であった。嬉し涙を、心内限定にえたつもりでいるが、自信が持てそうにない。それは、母娘おやこ共々。

 そんなこんなで、みはるは引き続き、店のメニューの野菜の煮物用の、食材の皮剥き等の下準備に入り、省子も、昨夜家で手ねをして焼き上げた、小判型の小振りのハンバーグを、岡野家特製の煮込みソースを熱して、煮込みハンバーグの完成に向け、取り掛かるのであった。

 このソースには、大根下ろしの他に、り下ろしたじゃがいもが少量入っており、芋の澱粉質が、とろみの役目を果たして、ハンバーグに良く絡む。これは元来、和食のテクニックなのだが、料理好きの母、真澄はこれをれ、長年に亘って、岡野家の食卓を彩って来た、お馴染みの味であった。

 昨今のローフードダイエットブームの、澱粉質を敬遠する流れに、逆らうようではあるものの、省子にとってお弁当といえば、このハンバーグは必要不可欠なものであり、中学高校の食べ盛りの学生時代の、学校での昼食は、この母の手に成る毎日のお弁当を、遺さず完食して、六年間を過ごして来たものだ。正しく青春の一ページとして、省子を支えていたといっても、決して過言ではなく、絶対に外せないものであった。また、このハンバーグが、同級生達にも実に評判が良く、省子自身が食べる分がなくなってしまう程、〝一個ちょうだい! 〟 と強請ねだられた想い出が数え切れない、正真正銘の「母の味」 であった。そして、これから、省子の味になる……。

 されば、ブロッコリー、かぼちゃ、にんじんの三種の緑黄色野菜をボイルして、温野菜サラダを作りたい省子は、材料を洗って、みはる愛用のステンレス製の洋包丁をふるい、適当な大きさに切る作業の、同時進行に着手する。勿論、雪平鍋ゆきひらなべで湯を沸かす事も忘れない。

「一家には一家の、忘れられないストーリーってあるよねえ……」

 みはるが、しんみり呟く。

「私、お弁当は、このハンバーグしか想い付かないんです。それと、手軽に食べられるように、やっぱりご飯は、おにぎりにしようかなって……」

「うん、うん、それが良いね。実はね、私もおにぎりを勧めようかと想って、ご飯も少なめの水加減なの。男の人ってさ、お母さんでも奥さんでも、女性の手で握ったおにぎりって、とにかく嬉しいらしいよ! 亡くなった主人がさ、『お前のおにぎり食べると、元気出るんだよなあ』 って、良く言ってくれた……」

「素敵なお話……」

「それ程でもないけどね。でも、若い頃は楽しかったなあ」

「私も、そういう家庭を築きたいなあ」

「私達これでも、親の猛反対を押し切って、一緒になったの。条件の良いお見合い話もあったけど、私、惚れちゃったから……」

「大恋愛だったんだあ」

 省子は、目を丸くする。

「それなりの苦労もあったよ。子供も出来なかったし……でもね、こころから、愛し合ってた……」

 みはるの顔は、優しい自信に満ちていた。懐古の情を惜しまず、そして、愛し愛されたキャリアを持つ、幸せを知る女の顔をしていた。

「私を置いて、先に逝っちゃったけど、この家は遺してくれた……」

「幸せだったんですね……」

 鍋が沸騰し、硬いものから時間差で、野菜を入れ始める省子であった。

「うん。とっても! 」

 更に、明るい自信を漲らせて、胸を張って語るみはるがいた。省子はその顔ばせに、母と等しく、女の矜持きょうじを、あるべき姿を、確かにこの目で、見た。揺るぎなく、生きていた。みはるの呼吸が、体温が、何気ない仕種が、夫と共に歩んだ人生の、遺産ともいうべき、この店の隅々にまで、繊細で、かつ曲がらず善良な、こころの断片をちりばめていた。みはるに、相応しく……。

 煮込みハンバーグが出来上がり、バットに並べ移して、常温で冷ます。次は、厚焼き玉子を作る。

 ボウルに卵を割りほぐし、砂糖、薄口醤油、みりんを、それぞれ適量加え、泡立てないように箸で混ぜ合わせて、卵液を用意した。角型の卵焼き器を準備する省子であったが、ふと、みはるを見ると、如何にも業務用の、箱型の魚焼き専用オーブンレンジの網棚に、西京味噌で漬けたたらの切り身を、数尾揃え入れている。

「周ちゃんね、魚の西京焼きが大好物なの。だからさ、今日はたらも入れてあげなよ」

流石さすがお母さん、良くご存知。色々教えて下さい」

 鍋の野菜類が茹で上がり、ざるに上げた省子は、卵焼き器を熱して、厚焼き玉子作りに掛かる。母と共にキッチンに立つ機会も多く、なかなかの手際の良さに感心したみはるは、

「上手じゃない! 全然心配要らないよ。絶対、良い奥さんになる! 」


〈やって見せ、言って聞かせてさせてみて、めてやらねば人は動かじ……〉


 娘へのエールである。

 四角いフライパン型の卵焼き器の、油を熱し、卵液を多からず注ぎ、焦げない内にここからは手早く、薄い玉子焼きを作る。その上の端を手前に向かって、つまり奥から丸めながら、手元へ寄せるように巻き手繰って、こちら岸に辿り着いた。それを奥へ滑らせてから、小さく折り畳んだキッチンペーパーを使って、拭く感じでまた油を引き、再び液を流し込んで、同様に薄焼き玉子を作る。飽くまで時間との勝負、早技が要求される事さえ、考えているひまもない。小刻みな、デリケートな箸先の動きに、全神経が集中する。そして今度は、奥で待ち兼ねる先輩厚焼きごと、手前に転がすと、何層かの厚みを成形して、ふっくら大きくなってゆく。


〈楽しい!……〉


 今の省子にとって、料理とは如何にも、そういうものであったろう。全身が暖まるのは、火力の所為せいばかりではない。

 更にもう一回、遺りの液を全部注ぎ切り、この作業を繰り返して、かなり大きな厚焼き玉子が出来上がった。満足げな省子にみはるは、

「慣れてるよねえ、大丈夫大丈夫! 」

 ダイレクトに喜びを貰い受けた母とて、うに喜色満面で、出来たての急造母娘おやこは、この玉子焼きや数々の料理の、初々しいまでの愛の証しにいだかれつつ、輝いていた。溢れていた。うららかな、秋の朝日のように……今日も、良い一日になりそうな予感が、みはると省子をくすぐる。ご飯を炊く香りや、西京味噌の焦げる匂いが、何とも食欲をそそる。幸せとは、かくあるものであろうか。すぐ隣りに、ある。一緒に、いる。その芽は、誰だって例外なく、持っている。

 ご飯の炊き上がりを知らせる通知音が、店内に響いた。

 ……しこうして、ご飯も只今、蒸らしの真っ最中である。みはるの煮物も、美味そうに煮えて、出来上がりまであとひと息といった所である。省子はこれから、二食分のおにぎり計六個を握る。中の具は、〝梅干〟 、〝昆布の佃煮〟 そしてみはるが炙ってくれた、〝タラコ〟 に決めた。ちなみに、梅も昆布もみはるのお手製、初日はやっぱり、ベテラン料理人たる母に、負んぶに抱っこの娘である。

 さて、おにぎりは、素手で握る。

 炊飯ジャーの蓋をけると、新米を待ち侘びる、日本人の秋の想いごと炊き込んだ、出来たての白飯の香が、店内所狭しと散らばってゆく。充分に蒸れているようである。みはるが、目を細めながらボウルへ移してくれた、おにぎり約六個分のご飯の山から、大きなご飯茶碗に軽く一杯採り、その白飯をへこませた箇所に、具を詰めて均し、次に茶碗を揺すって、白い玉を転がすように丸型に纏めた。そして、ここからは、掌でじかに触れて、握る。手水を付け、少々塩を振り、右手人差し指と中指の付け根の関節(MP関節) を折り曲げて、三角形の山型を保ち、左手で受けた白い粒選りのひと塊まりの、外側を固める要領で、数度の回転と適度な加圧を、両掌の因果関係に委ねた。

 すると、当たり前のように、三角形のおにぎり? おむすび? になるのである。

 ご飯の熱さに耐え、今朝もこころを込めて拵えた、白く輝く愛らしい姿形が、六個、出来上がってゆく。それらは飯粒のひとつから、温かい光沢を放って、慎一の心の御馳走になる時を期待して、自らの体の熱を自然に冷ましながら、厨房の一角に静かに並んで佇んだ。気取らず、おごらず、出過ぎず、分を弁えつつ、ほんの小さな動かざる山の如きなりをして、ただ黙して、じっと出番を待ち続ける。他ならぬ省子の愛が、小さいにもかかわらず、濃密なその形に凝縮され、証左の微笑みを湛えている。懐かしい母の味に似た、省子なるひとりの女性の、愛を象徴する、柔らかな塊まりであった。

 そして省子は、大きめのリンゴ二個を、包丁で皮剥きして櫛型にカットし、塩水を張ったボウルに浸す。塩分が、酸化による色の黒ずみを抑える。もうおにぎりの熱も、程々に冷めた頃だろうか、短冊型の海苔を、おにぎりひとつに一枚、その底側から包み込むようにてがい、三角形の上部へ向かって巻いた。差し詰めここまでが、一個の完成である。そうして一個ずつラップでつつんでから、更にアルミホイルでくるんだ。

 良く食べる慎一の為に、結構なサイズのタッパーふたつに、おかず類を栄養バランスを考えて配分し、盛り付ける段である。先ず昼食用として、厚焼き玉子、西京焼き、温野菜、リンゴ、加えてみはる製のお新香も添えた。夕食用には、ハンバーグ、温野菜、みはる製野菜の煮物、そしてリンゴを詰めた。みはる日く、盛り付けにはその人のセンスが表れるらしく、

「女性らしくって、色とりどりで可愛いいねえ! 」

 好評嘖々さくさくに遠慮は要らぬ。

「こりゃ周ちゃん、絶対に速攻完食だ! 」

 更に畳み掛けると、

「日々の献立に悩む主婦の気持ちが、少しわかりました……」

 羞ずかしそうに、返した。

 ふたりは無言で、互いの目を見て頷き合った。穏やかな満足と安堵の光が、共にその瞳に灯っている。そして、お弁当用に準備した、二枚の巾着袋に、昼夜それぞれの一揃いを収める。タッパー一個ずつ、熱湯を注ぐだけのカップの味噌汁と、サラダに振り掛けるパウダー状のドレッシングも、併せて一個ずつ、当然、おにぎりは三個ずつ、更に昼用袋に、箸一対が入った細身の箸ケースを付け添えた。大型の合財袋が両全し、かくして、みはると省子による、初の母娘おやこ共同作業、〝初仕事〟 が終了した。

 重い荷物が、慎一の大きなバッグにしまい込まれる訳であるが、省子は、そのバッグの大きさを考えて、タッパーのサイズを選んだ。それにしても、お弁当二食分の重みたるや、如何ばかりか。正に慎一にとって、こころから望んでいた、嬉しい愛の重さに違いないはずであろう。もう一ヶ月近く、お弁当を作って貰っている慎一であった。現場に到着するや否や、すぐさま休憩室の冷蔵庫に、このお弁当を保管する為、庫内が以前に比べて、だいぶ混雑するようになった事に、一部の同僚から、妻共々揶揄やゆされたりして、照れる自身の反応に、「正直、微酔ほろよっている」 と、次にお弁当を渡す時の、朝の駅前で、併せて前回分の空タッパーを返しながら、嬉しそうに話す慎一の笑顔が……今、省子の胸裡一杯に、浮かび展がってゆく。


 そのお弁当の作り手は、


〈実は、私……〉


 秘密の矜持が、今日からみはるの手を借り、大きくその翼を羽搏はばたかせたがっている。


〈秘密は、秘密に非ず、何れ、恋人に非ず……〉


 愛の正道をゆかんとする心が、「魂」 ともいい得る強さに、充実向上する予感が、実に心地良い。

 そしてそれは、隣りにいるみはるとて賛成である。我が子を心配する駅前の母は、


〈が、しかし、諸手もろてを挙げる訳にはいかない。心配で仕方ない。ふたりのゆく末に、容易ならざる波に巻き込まれる可能性を、私の人生経験が、私をつつくように心配させる。でも……乗り掛かった船、最後まで見届けよう……〉


 母は覚悟を決めた。


 母は強し。


「周ちゃん、ここへ取りに来るんでしょ? 」

「はい」

「省子ちゃんも、これから出勤でしょ? 遅くなるようなら、私が渡してあげても良いよ」

「渡してから、一旦帰宅して着替えて、それから出社しようかと……」

「ふうん、好きにしたら……あのさあ、着替えとかお化粧とか、うちの二階を使っても、全然構わないよ。ここから出勤したら? 」

「えーっ!? 」

「ねっ! 遠慮しないでさ」

「じゃあ……次回から、そうさせて下さい。ママ、何から何まで……本当に、ありがとう……」

「朝っから、泣かない! 泣かない! ……」

「ママ……慎一さんに、渡して下さい。今日は家に戻って、そのまま出勤します……」

「うん、わかった」

 省子は、


〈これからは、いつもママが渡して下さい、お願いします〉


 と、多くを言えなかった。みはる温柔な愛の溢出が、省子の言葉を優しく呑み込んで、言葉を失くした代わりに、限りなくウエットな、それでいてクリアな余韻が尾を引いた。母娘おやこは、心から慎一を愛している。


 省子が帰ったあと、ガラリと変わって、朝の静寂が訪れていた店内で、ひとりみはるは、カウンターの椅子に腰掛け、テレビのニュースを観ながら、慎一の到着を待っていた。さっきまで一緒だった省子も、早々に化粧直しや着替えを済ませて、池田山へ向かったであろうと想われた。厨房の中の、洗った食器類の水切り用のラックには、みはると省子が味見を兼ねて、初めて共に摂った朝食で使用した食器が、数個立て掛けられたまま、最後の拭き上げと、棚への収納を控えている。

 すると、唐突に出入口の引き戸がき、秋の清爽な朝光がホールに射し込んで、その待機中の食器の白い反射に、口元を緩められたのか、

「おはようございます……」

 慎一が照れ臭そうに現れた。

「おはよう! 周ちゃん、来たねえ〜! あのさ、いつも私が、お弁当を渡す事になったからね」

「うん。さっきLINE来て、知ってる」

「良いじゃない! 可愛いいじゃない! 周ちゃんのひと目惚れでしょう? ……白状しなさいっ! 」

 母は手厳しい。

「まあ……何? ママ、朝からいじめないでよお!……」

「ほらねえ、男ってもう……でも、省子ちゃんは真面目だねえ、真っすぐ。大切にしなさいよ。彼女なら、間違いない! 」

 みはるは、確信を込めて頷いた。慎一とて、そんなみはるの語勢に異をはさむべくもなく、自らの見立てとの一致に、胸が透く想いである。

「ママ、本当に、どうもありがとう。今後とも、俺達をよろしくお願いします……」

「うんうん、わかってる。それと……はい! 今日のお弁当二食分! 」

 みはるのその、重ねた〝うん〟 に、慎一は、朝から融け出しそうである。

「うわあ! ……またでっかいなあ!」

「でしょう……愛は重いのよ! 」

 慎一は、自らのバッグのファスナーを開けて、ふたつの巾着袋を詰め込む。つい先日まで、食料といえば、コンビニで買ったものだらけであった自身が、今はこうして、白い歯をこぼしながら、いそいそとバッグにしまっている。どこにでもある、特別ではない、普通の家庭の温もり、生活感が、実に久し振りに息吹きを通わせて、この上とも麗しい鼓動を証明するかの如き、この荷物の重さに、省子なる、ひとりの女性への真実の愛に対する、責任感を新たにした。またそれは、運命という、形のないレールの上を、正に二人三脚の人力のみで、みはるの伴走を仰ぎつつ、出発した事を意味している。永遠の旅路が、始動していたのである。いうまでもなく。

「じゃあママ、行って来ます」

「行ってらっしゃい、気を付けてね」

 慎一は、出入口の引き戸を半分程開けた所で、ふと止めて、振り向き、

「次は、あさっての朝。どうぞよろしく……」

「うん、わかった。頑張ってね」

「ありがとう、じゃあ……」

 静かに戸が閉まって、慎一は店を後にした。店内には、早朝からみはると省子が拵えた、数々の料理の匂いが、まだ僅かに遺っている。みはるは、ただふたりの笑顔が、こころの窓辺に浮き立つばかりで、穏やかな秋の朝の気に誘われるように、人知れず、幸せを祈った。



 ……そうして、ずっしり重たいバッグを抱え、勤務先に辿り着いていた慎一は、漸く、一時間の昼休憩の順番が、今さっき巡って来た所であった。

 冷蔵庫へ保管して置いた、ふたつの巾着袋の内の、昼食用の緑色の袋の内容物が、この休憩室の小さなテーブルの上に展げられ、慎一の胃袋とこころの満足を約束する、御馳走振りに、今日から初めて、みはると省子母娘おやこふたりに向け、静かに衷心より謝意をひょうしていると、今日も一緒に休憩の、同僚の蒔田まきたが、

「最近、周藤さんって、どことなく丸くなったような気がしてるんですけど、やっぱり、この特大の愛妻弁当の所為せいですか? 」

「いやいやいや、そんな事ないよ……」

 慎一は、右手を左右に大きく振って否定してから、カップの味噌汁にポットの熱湯を注いだ。更に蒔田は、

「みんな言ってますよ、一段と良く笑うようになったって」

「何て言ったら良いのかなあ……」

 返事に窮し、温野菜に振り掛けた、パウダー状ドレッシングの空き袋を、丸めてからオーバースローでゴミ箱へ投げると、見事ナイスインした。肉体派の人間にありがちな、いわゆる単純なわかり易い性格が、どうやら全開の様相を呈している事を、たまさか後輩から知らされ、悪い気はしない、満更でもない表情を浮かべた慎一は、旺盛なままの食欲を抑えつつ、野菜類とドレッシングを和えた。チーズの香ばしさが、部屋中に漂った。

 見るからに美味そうな昼食群は、どれから手を付ければ良いのか、迷ってしまう程、その量、品数、栄養バランス、色合い……確かに、パーフェクトな昼食であった。みはるの協力を得た、省子の愛のエビデンスが、慎一の胃のに納まりたがって、手招きをして、饒舌に語り掛けて来る空想? にふけりつつ、血糖値の急上昇防止の観点により、味噌汁のあとに、先ず温野菜から食べた。すると……今日のお弁当は、格別に……


〈美味しい! ……美味かった! 〉


 そして、また味噌汁で口を湿してから、梅干のおにぎりをひと口……忽ちほろりと融けて……この味は何だろう? ……


 省子の、味がした。

 謙虚な、こころの味がした。


 それは、母の味に似通っているものの、非なる、省子だけが作り出せる、唯一無二の愛が為せるわざである。母の愛を継承して、独自に進化を遂げた、慎ましい女の誇りが、素朴な味と姿形を、控えめに表現している。省子なる、一個の独立生命体を、丸ごと食しているかのような、限りなくプリミティヴな安心が、慎一にとって正しく、「こころのごちそう」 であった。


〈こんな食事がしたかった! ……〉


〝やはり、日本人には、おにぎりが欠かせない〟


 次から次へと箸が伸び、盛んな咀嚼そしゃく嚥下えんげが止まらない。学生時代の部活後の、強烈な空腹を満たす時の、自身の姿が彷彿として、夢と希望に育まれた往時の生活が、堪らなく懐かしい。そしてそこには、やっぱり、溢れんばかりの家族愛がど真ん中にある。だからこそ、幸せである。

 それならば、今だって……もう、充分に、言葉もないぐらい……ただ、食べた。実感があった。身もこころも、一杯になった。こぼれてしまいそうであった。


〈省子、そしてママ、ありがとう……〉


 ひたすら深謝せずにはいられない。


 自身の存在の全てが、

 温度を上昇させている事が、

 嬉しい。

 慎一は、確かに、生きている。

 シンプルに……

 矛盾の憂い顔を、消さんばかりに、

 そして尚、

 夕食も楽しみが膨らむ。

 続きは、まだ、後に……

 ある。



 省子は、みはるとの初仕事後、すぐさま帰宅して、出勤仕度を整え、翔ぶが如く自転車を駆って間に合った、会社の勤務も滞りなく終え、自宅二階の自室で寛いでいた。そして、何をするでもなく、こんな事を想い出していた。


 ……先刻、ダイニングルームで、家族三人で摂ったいつもの夕食時、母、真澄がこさえた一品の中に、たまたま、今朝自身が慎一の為に、調理したような温野菜が、食事を飾っていた。

 豊富なビタミン類を含む、濃い色をした緑黄色野菜を、手を替え品を替え、毎日どっさり献立に登場させる、真澄のこころ、妻として、母として、主婦としての、女性の高純度な情愛に、長女として、長年付き従って来た省子は、いつしか自然に、そんな母そっくりに出来上がっていた自身を、微笑ましく客観的に眺めている事へ、いやに笑いが込み上げて仕方がない。

 そして、勿論顔かたちまで、良く似た母娘おやこである。

 実際、〝段々お母さんに似て来るね〟 と指摘される事が、最近増えたような気がしている。それにしても、作る料理まで、同一人物の手に成ったものといって、誰ひとり疑わないであろうと想えた。そのくらい、見た目実に良く似たサラダを作ったものだ。であるが故、味しかり、愛情もまた、しかり……。比較するものではないにせよ、それぞれの、百パーセントのこころという無形のものが、優しい有形のものを生産したといい得ようか。


〈こころは、かたちを生み出す。しかも、価値のある〉


「省子、何をニヤニヤしてるんだ? 」

 父が、冗談交じりに触れて来る。

「ううん、お母さんのお料理は、いつも美味しいなあって」

 上手く、誤魔化した。

「お父さんも省子も、『美味しい美味しい』 って、たくさん食べてくれるでしょ。だから、凄く作り甲斐がいがあるのよねえ。省子、あなたも結婚したら、旦那様に盛んに『美味しい! 』 って、言って貰いなさいよ。腕前だって、すぐシェフ並みに上達しちゃうから! ハハハハハ! 」

 三人で笑い合った。

 母の破顔一笑は、ちらりと省子の目を見た。父とて哄笑しているが、愛娘の眼差しを追っている。省子は、


〈……最近、お弁当作りに精を出す私に、言いたい事もあるだろうに、あえて我慢して、一歩退がって静観を決める、父と母の心情が、痛い程胸に刺さる。両親の温かさが、私のうちに輪を押し展げて、沁み渡る。父も母も、うにわかっている……私の、真剣さを……〉


 優しい両親、みはる、そして、慎一……今、省子を取り巻く人達は、みな一様に、それぞれが可能な限りの、それぞれが相応しい形を以て、省子に相対しているに違いない。それを享受する、当の本人にしても、


〈真にありがたく、そして、信じて疑わない。うちの両親と慎一さん、更にみはるママも、まだ面識はないものの、それでもこころをいつにする、正に同じ世界で生きている。同じ風景が、スペースが見える、仲間意識で繋がっている。だから、慎一さんと私は、歩んでゆける……〉


 ……といった空想、いや、確信が、今こうして自室のベッドに寝転んでいる、省子の中で飛翔していた。


 幸せであった。


 そして省子は、この上かつての自身を手繰るに任せた。

 窓を撫でる風が、今夜はなぜかしら、東横線の走行音を、遥か彼方へ運ぶように、ゆっくり響かせている。時折強く吹き流れて、窓を叩く。壁掛け時計の秒針が、生真面目に時を刻んでいるのだが、ゆくりなくも、自身の拍動と重なり合うが如き、その落ち着きに、仄かな安心を知る。またそれは、レールを軋ませて遠ざかる、電車の車輪の回転音と相俟あいまち、限りない思慕の情を寄せつつ、内省に近い感情を喚起するのである。


 ……底抜けに楽しかった学生時代、その友人達とは、中学、高校、大学と、通算十年間、それこそほぼ毎日、顔を合わせていた訳で、非常に付き合いが長い。真に幼馴染みの同級生であり、共に将来を夢見て、若い女性にありがちな、何をする時も一緒、みんなと同じである事に、喜びと意義を見い出している、女子校らしい女子学生であった。想い出を挙げれば数え切れず、折節それが何等かのきっかけで、走馬灯の如く蘇る。人は誰でも、子供時分の懐かしい顔触れは、友情の原体験に於いて、何がどうあっても忘れざる、そして失くせない宝物である。いつまでも、記憶の中で、煌めきを放たずには置かない。

 それでも、楽しい時間というものは、忽ち足早に過ぎ去り、みな惜春の涙にむせびつつ卒業を迎え、社会へと巣立ってゆく。人生なる果てしない航海に、学園の理念、良妻賢母たる精神をコンパスとして、それぞれに船出したのである。

 就職率の高い女子大であった為、様々な分野に活躍の場を求め、OG達が奮戦しており、卒業後も、なかなかに活発な交流が遺っている。取り分け中学から入学した省子は、在籍十年選手であるが故、何から何までこの学園の、楚々として順良な女性たらんとする校風の中で、価値観を育てて来た。

 しこうして、当然ながら、比較的早く結婚する友人が多い事には、合点がいく。当時から懇意にしていた二人の親友も、揃って二十代後半で華燭かしょくてんを挙げていた。為にそれ以降、自然に交流が疎になるのも、仕方のない事であった。結婚式の招待状が自宅に届き、正装して威儀を整えてそれに列し、花の如く美しく微笑む親友たる新婦に、こころからの祝意を贈り、幸せのお裾分けを頂戴する事、親友に限らず、もう幾度経験した事か……ひとり、そしてまた、ひとり、幸せな妻に生まれ変わってゆく……。

 昔は何々さんのチビちゃんが、何々さんのお嬢さんに大きく育ち、青春を謳歌おうかして、いつしか嫁ぐ。何々さんの奥様と呼ばれるように落ち着いて、子を成し、お母さんになる。やがてその子も大きくなって、愛し合った誰かと結婚して、子を成す。そして今度は、おばあちゃんと慕われる。

 ひとり、そしてまた、ひとり……段々家族が増えてゆく。

 しゃくさわる事も、確かにたくさんあるけれど、泣きたい事もあるけれど、泣いた事も一度や二度では済まないけれど、それでも……最後にはいつも笑顔に戻っている。仲睦まじい、おじいちゃんとおばあちゃんのように、いつまでも、歳を取っても、手を繋いで、公園をのんびり散歩する事が、日溜まりのベンチで日向ぼっこをする事が、当たり前であるように……。

 そんな、極く普通の家庭の、どこにでもある幸せに、省子は、強い憧れをいだいていたのである。

 人は、幸せの形を変える。立場が変わってゆく。それを成長と呼び、いい換えるなら、自立である。そして、省子自身は、まだ、岡野さんのお嬢さんなのであった。そのコンプレックスのレベルは、普通の幸せに対する憧憬のレベルと、同程度であろうかと想え、かくの如く、悩んでいたのだ。慎一と出逢った中目黒の、目黒川日の出橋で見せた涙の真実は、ここに、ある。

 年頃の省子にしても、女として、この世に生をけたからには、恋愛がしたいに決まっている。愛の花を咲かせ、家族の笑顔に包まれて、幸せという同じ夢を見ながら、生涯を平和の内に築き上げ、遺すべきものをしっかりと遺してから、次代へ全てを託したい……そして、


〝ああ、幸せな、良い人生であった……〟


 と、締めくくりたい……


 そんな一生を想い描いていた。


 お洒落な街、中目黒は、未来の幸せを夢見る、若いカップルの宝庫のような、正に恋人達の街であった。街中のそこかしこに、幸せの芽が落ちていて、その真ん中に横たわる、シンボリックな目黒川とて、恋愛に纏わる、様々な色の違う涙が、ひとすじの流れを成したかの如く想像させるのは、恋愛という、限りなく本能的な、それでいて、果てしなく抑圧的な、相半ばする妄想と理念の、グレーゾーンの境界にて、感情の振幅に全てを委ねたい欲求、その、神が与えた人のさがに対する、純粋無垢な憧憬、そして焦燥に他ならない。


〈恋する人はみな、そんな心象風景を見つめながら、結ばれてゆく……そうして恋人達は、みんな幸せになってゆくのに……私だけ、置いていかないで……〉


 孤独感が、一時期省子を覆い尽くし、自室に閉じ籠もった。


 体内時計は微睡まどろみ、部屋の空間識は、朦朧と漂流するに任せるしかなく、それなのに、それでも時間は前進してゆく。うちなる無為と、外の温度差との矛盾が、自身の内面を構築し、アイデンティティに、プライドに育て上げたこころを、まるで剥がすように、「私は、私である」 という現実感さえ、奪いつつあった。


〈時間は、どんどんなくなってゆくのに……〉


 自身の成長の速度が、周囲のそれに付いてゆけず、離されてしまった感覚が、そのまま投影されたかの如き、心的世界の解離の海を、


 ただ、ひとり、泳いだ。

 ただ、怖かった。耐えるしかなかった。

 そして、両親の想いに、応えたかった。


〈幸せになりたい……私だって……〉


 会社も欠勤の日が続き、楽天家の母、真澄にしても、本来の笑顔が消えてしまう程、愛娘の心中を案じた。普段はむっつりして寡黙な父、忍は、流石さすがは歳のこう、豊かな知識と経験を活かし、


〈……不用意なひと言が、更に状況を悪化させる事が懸念される。ここは無理に励まさずに、半ば自由にさせて、時間の経過の自然快癒の方向を選択しよう。お母さんを説得し、母娘おやこ共倒れないように、俺は気概を示して、がんとした構えを、女ふたりに見せねばならない。安心こそ、何よりの良薬である〉


 しこうして、およそ一年の時が流れた。


 そんな両親の願いが通じたのか、そろりそろりと、省子のこころ持ちにも仄明かりが灯り出し、おもむろな歩調ではあるものの、少しずつ眺望が展け始め、ささやかながら、一条の光明が射し込んだのである。

 さり気ない、家族のひと言。控えめな、その笑顔。毎日食す母の手料理の、優しい味付け、こころづかい。自宅の小さな庭の片隅で、ひっそりと咲いている可憐な花。そよ風の匂い……そして、その庭の端っこに、いつも近所の家の飼い猫が、一匹、わだかまっていた。

 複雑な、黒っぽいぶち模様の体を丸めて、日溜まりの移動に併せて、それを追い駆けるように居場所を変えていた。酣秋かんしゅうの陽光の中、気持ち良さそうに眠りこけている様子を、時折リビングから眺めていた省子は、可愛らしいその姿に癒されて、平らかな心地に浸っていた。

 時間軸が、自宅丸ごと、空間識を後退させて、あたかも無重力の大気圏外に放り出された、木製の小箱の中で暮らしているかのような、むしろ喜ばしい浮遊感に包まれていた。


〈これが、平和というものかも知れない……私が、望んでいたものかも知れない……〉


 見逃してしまいそうな、何でもないような物事に対してでも、純粋に、その上深長な想いを致す事、併せてそれを、こころから嬉しく感じられる事……その意味とは、こころに降り積もった雪を、春を待つ想いが融かすかの如き、淡く、けがれなき祈りにも似た、真の優しさであろうか。冬を耐え、春を迎えたこころは、それを知っている。小さな喜びの陰には、ささやかな幸せが隠れている。静かに微笑みながら、待っている。

 ネガティヴな方向に伸び縮みしていた時間識は、愛の援軍を賜り、真逆の、悠久の大河へ、いざ注ぎ込まんとして、謀反の正拳せいけんを温め、うやうやしく差し延ばしているのだろうか? 幸せを、宣誓する為に。

 斯様かような生活が続く中、ある時省子は、ふと、流れ巡って浮かんだ、ひとつの想念に辿り着いた。


〈幸せとは、冬の日溜まり。小さく灯る、暖かい希望の光。その小さな光、ひとつさえあれば、人は生きてゆける。幸せを感じられる。幸せの芽を、拾い集めよう……私だって、幸せになりたい……〉


 省子は、人知れず散々泣いた末に、本心に出逢ったのである。


 それは、

〝疑問〟 なる概念を、常に自身にのみ向け続け、確かに心が鬱した時期もあったが、その甲斐かいがあって、元々の本心が以前にもまして、逞しいばかりの命脈を繋いで、正しく自身にとって、最強のものを遺したのである。畢竟ひっきょう、終始一貫、変わらなかった。むしろ、もっと力を得た。そして、いうべくも非ず、これこそ〝原点〟 である。これはそのまま、ひたすら謙虚な精神活動がもたらした功名であった。躊躇ためらいもなく、愛という名の下の。だから……


〈泣いていた事なんて、涙なんて、忘れられそうな気がする。笑顔が、咲きたがっている……〉


 泣くという事は、結構良いものである。余り大袈裟だと、嘘っぽく映り、周りに迷惑を与えてしまうが、陰でじっと辛抱して、静かに落涙すれば、何れ自然に笑顔が生まれる。幸せへのステップ、助走である。

 若い時代の、威丈高な個人主義、ともすれば、目先の取りあえずの充足に、埋没してしまいがちの秘密主義が、人生に於いて、大いなる矛盾の、疾風怒濤時代を経て、静穏な平和主義が訪れ、自立する。愛という、遥かなる旅路の切符を携え、華やぐ気持ちを抑えつつ、再び、凜として、真っすぐ一本、咲いて立ち、歩んでゆく。

 刹那の自由、時代の主張、仮説の幸福は、愛を知り、時間を超越した、無始無終の平和を求め、流転の旅に発つ。いつまでも、どこまでも、永遠に……。


 ……今夜の回想は、尽きる事を知らない。もう既に、日付が変わる頃である。部屋の明かりを消して、ベッドに入った。全ては始まったばかり、まだ、夢の直中ただなかにある。それを拾うように、すぐに、眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る