三人模様のオペレーション
厳しかった今年の残暑を、漸く見送り、ここ目黒の街にも、秋涼の候が訪れ、ほっと落ち着いた表情を見せていた。最早暑からず、とはいえまだ寒くはなく、服装も、ジャケットを羽織る程度で、間に合う時季である。そして、体が楽になった分、夏の疲れが出易い時節でもある。省子と慎一も、油断は禁物、事実、年齢という大きなテーマと、如何に上手に付き合うべきか、考えざるを得ない年代に達している。加えて、あと三ヶ月余りで、また年が変わる。一年は、かくも早い。天高く馬肥ゆる秋の
さるにても、この秋という季節は、どうしてこんなにも、気が
正に憧憬と断言し得る、思索に
さて、今夜の慎一はというと、だいぶ空腹である。
今日の日勤シフトを終え、帰宅ラッシュ時間帯のピークを、電車に揺られている時も、胃袋の悲鳴が羞ずかしくて、辺りを気にしつつ、些少の辛抱
「いらっしゃーい、お帰り! 」
いつになく、やけにママが明るい事に、慎一は、特に気にも留めずに、三名の先客の常連達へ、軽く挨拶しながら、
「鶏唐定、
とオーダーを告げて、奥のテーブル席の椅子に座った。
油と醤油を熱する匂いや音に、唾液を何回か飲み込んで、のんびり待っていた。
それでも、やはり、想い出すのは、省子の事ばかりである。省子の体の丸い感触と温もりが、消えてはいない。自身の強靭な肉体が、少しでも加減を誤れば、忽ち壊れてしまいそうな、白く柔らかな省子の体を、この胸に
〈省子の全てを、丸ごと守ってあげなければ……俺が、省子を幸せにする……〉
可憐な花の如き想いに応える為に、既に走り出していた。
食欲の秋に、更にライス並盛りをお代わりして、平らげつつあると、客は、もう慎一だけであった。
「ねえ、周ちゃん」
みはるが話し掛ける。
「私ね、聞きたい事があるの……」
「んん、何? 」
「実はね、私……もう二回見たの、朝、駅前で、何か渡されている所……」
〈しまった! 〉
と、
〈もう話そう……〉
ふたつの想いが、ほぼ同時に、慎一の胸に去来している。
「ねえママ……」
みはるの顔は、早くも真剣そのものに仕上がっている。先程とは、違う。慎一は、
〈この人なら……やっぱり、信用に足る〉
勘が働いた。
「あの
慎一は、潤いを失った家庭の状態を、表立って、みはるに語った事はなかった。やはり男のプライドとして、家の恥を曝すような話は、
そんな苦心を、下町人ならではの当たりの良さで
「真面目な周ちゃんが、そこまで言うなら……ごめんね、言わせちゃって……」
みはるは、素直に嬉しかった。
それは、決して不倫を褒める訳ではなく、慎一の、いつも遠慮がちで純粋なこころを、長い付き合いの中から、充分過ぎるぐらい理解出来るからであった。女房の愚痴を余り
「学大の人でさ、岡野省子っていうんだ。三十代独身。地元同士だから、目撃される気掛かりはあったんだけど……ママがねえ……」
こういう時の男は、どんな顔をすれば良いものやら、思案する隙間に
「私で良かったでしょう、でもねえ……何か、意地らしくってさあ……」
みはると慎一は、
〈他言無用……〉
言葉にしないまでも、アイコンタクトで、絶妙なスルーパスを完成させている。やはり慎一は、いつまで経っても、このみはるママには頭が上がらない。
〈ママ、ありがとう……〉
泣きそうになってしまう。
みはるは、カウンターの中で、優しい笑顔のまま、仕事を続けている。まるで実の親子のように、目には見えずとも、深く繋がっている
「彼女のお弁当の味はどう? 美味しい? 」
「うん、とっても……」
嬉しさを憚りながら、正直に答えた慎一である。その照れ笑いは、謙虚で一途なふたりの愛が、みはるの懐に、
「省子さんの御両親は、どう感じてらっしゃるんだろう? ……」
年長者として、当然の質問である。
「うん、会話は少し減ったらしい。省子がいうには、わかってくれるはずって……」
「ねえ周ちゃん」
「うん」
「老婆心ながら言わせて。あなたの鳥越の御両親に対してもそうだけど、ふた親を泣かせるような事だけは、しないって約束して。親ってね……我が子を愛して止まないんだから、幸せになって欲しいんだから……裏切ったりしたら駄目、絶対に駄目だよ。私、許さないからね」
「わかってる。ママ、ありがとう」
「絶対に、幸せになるんだよ……」
「……」
閉店時間まで遺り少ない店内に、ふたりの
「そこで、私から提案なんだけど」
「えっ、何? 」
「……省子ちゃんに、朝ここへ来てもらって、この厨房でお弁当作ったら? 」
「ええーっ!? 」
絶叫に近い慎一である。
「私も週に二日は、朝、築地へ通ってるし、誰にも見られる心配要らない。先ず以て、私さあ……省子ちゃんと、お
「ママ……」
慎一の、涙腺崩壊が止まらない。
「ねっ、それが良いと想わない? 遠慮しなくて良いから、善は急げ、早速連絡してみてよ。
絶句とは、正にこの事である。
途方もないみはるの企画力に、ただ圧倒されるしかない自身を、加えて省子も、かくも幸せ者であると想わずにはいられない、
……そして慎一は、自身のスマホから省子へ直電を入れた。すると、こちらの予想に
「明日から楽しみ! 」
〈これも、親孝行なのかな……〉
かくして、学大駅前の育ての母の加護の下、省子と慎一の秘密の通信が、幕を
日が変わって、翌朝六時半、食材やらをたくさん詰め込んだ、大きい布製のトートバッグを抱えるようにして、
「おはようございます! 」
と、定食屋〝みはる〟 の引き戸に手を掛けた省子がいた。
「おはよう! 待ってたわよぉ。初めまして、小坂みはるです。どうぞよろしく」
割烹着姿で、野菜の皮剥き中の手を休めての第一声である。
「初めまして、岡野省子と申します。この度は、何と言えば良いのか、本当に……ありがとうございます……」
最後は、涙声で言葉にならない挨拶を、みはるとて何度も頷きながら、優しく迎えるその
「〝省子ちゃん〟 で良いでしょ? 可愛いいわねえ……こりゃ周ちゃん、やられちゃうな! 」
「いえ、いや、とんでもないです……」
盛んに首を横に振って俯く、省子の羞じらいに、
「素敵な方……」
と気を良くしたのか、更に、
「
「よろしくお願い致します」
頻りに頭を下げる省子であった。
「もう今日から、ここでは
「はい! 」
「食材でも調味料でも、勿論、鍋釜だって自由に使って。うちはご覧の通り小さい店だから、私の朝の仕込みなんて、どうって事ないの。ねっ? 」
「でも……お邪魔ではありませんか? 」
省子の心配をよそに、
「平気平気! 愛妻弁当作りのさ、少しお手伝いというか、見学したいだけ。ごめんね、余計なお節介焼きで……」
「もう、言葉がありません……嬉しくて……」
「で、今日は何作るの? 」
感激の内にも、そうだ、仕事が待っている。省子は気を取り直して、
「慎一さん、今日は泊まり勤務なので、昼と夜の二食分、作ろうかと……」
「じゃあ周ちゃん、二食分の荷物を持って行くんだ。愛は重いからねえ〜! でもさあ、嬉しい重さのはず。彼はね、誰よりも、温かい家庭を望んでいると想う。以前に、ちらっと聞いた事あるけど、鳥越のご実家が、飾らず笑顔に包まれた、本当、〝浅草〟 って感じの雰囲気らしいの。だから、ああいう奴に育ったんだろうね! 」
と臆せず笑うみはるに釣られて、省子も哄笑した。
「私、お料理上手じゃないけど、それでも、作ってあげたいんです。そして、拙いお弁当で申し訳ないけど、食べて欲しいんです……」
「うん……すぐ、上手く作れるように、なるよ……」
今日は休日ではないのに、朝から和やかな気が溢れる、〝みはる〟 のホールであった。揃って幾度となく、目には見えない暖気を呑み込んで、円やかな満足が、省子の、手を動かしたい期待を宥める。
「今朝はね、もう炊飯ジャーでご飯炊いてるの。ね、あと……五分だ」
ジャーの液晶画面が、炊き上がりまで、そう表示している。昨夜の内に、みはるは洗米し、研いで、ジャーに釜をセットしていた。そして先程、〝炊く〟 のスイッチを入れたのだった。
「ママ、ありがとうございます」
「ご飯はさ、私が前の晩に準備して置くね」
「はい。あとこれ……慎一さんの、今月の出勤日のメモです。日勤時は、昼の一食分だけ作ろうかと想います」
「それと、日曜日はどうする? うち休みだから……」
「はい。家で作って、人も少ないでしょうから、駅前で渡します」
「気を付けてね」
「はい」
と、忍笑する省子であった。
「さて、始めよう! 」
みはるが景気を付けると、
「はい! 」
省子は腕
「はいOK」
と、背中で紐を結んでくれた。
「ありがとうございます」
「そんなに
軽く娘の背中を叩く駅前の母は、正に〝肝っ玉母さん〟 であった。嬉し涙を、心内限定に
そんなこんなで、みはるは引き続き、店のメニューの野菜の煮物用の、食材の皮剥き等の下準備に入り、省子も、昨夜家で手
このソースには、大根下ろしの他に、
昨今のローフードダイエットブームの、澱粉質を敬遠する流れに、逆らうようではあるものの、省子にとってお弁当といえば、このハンバーグは必要不可欠なものであり、中学高校の食べ盛りの学生時代の、学校での昼食は、この母の手に成る毎日のお弁当を、遺さず完食して、六年間を過ごして来たものだ。正しく青春の一ページとして、省子を支えていたといっても、決して過言ではなく、絶対に外せないものであった。また、このハンバーグが、同級生達にも実に評判が良く、省子自身が食べる分がなくなってしまう程、〝一個ちょうだい! 〟 と
されば、ブロッコリー、かぼちゃ、にんじんの三種の緑黄色野菜をボイルして、温野菜サラダを作りたい省子は、材料を洗って、みはる愛用のステンレス製の洋包丁を
「一家には一家の、忘れられないストーリーってあるよねえ……」
みはるが、しんみり呟く。
「私、お弁当は、このハンバーグしか想い付かないんです。それと、手軽に食べられるように、やっぱりご飯は、おにぎりにしようかなって……」
「うん、うん、それが良いね。実はね、私もおにぎりを勧めようかと想って、ご飯も少なめの水加減なの。男の人ってさ、お母さんでも奥さんでも、女性の手で握ったおにぎりって、とにかく嬉しいらしいよ! 亡くなった主人がさ、『お前のおにぎり食べると、元気出るんだよなあ』 って、良く言ってくれた……」
「素敵なお話……」
「それ程でもないけどね。でも、若い頃は楽しかったなあ」
「私も、そういう家庭を築きたいなあ」
「私達これでも、親の猛反対を押し切って、一緒になったの。条件の良いお見合い話もあったけど、私、惚れちゃったから……」
「大恋愛だったんだあ」
省子は、目を丸くする。
「それなりの苦労もあったよ。子供も出来なかったし……でもね、こころから、愛し合ってた……」
みはるの顔は、優しい自信に満ちていた。懐古の情を惜しまず、そして、愛し愛されたキャリアを持つ、幸せを知る女の顔をしていた。
「私を置いて、先に逝っちゃったけど、この家は遺してくれた……」
「幸せだったんですね……」
鍋が沸騰し、硬いものから時間差で、野菜を入れ始める省子であった。
「うん。とっても! 」
更に、明るい自信を漲らせて、胸を張って語るみはるがいた。省子はその顔ばせに、母と等しく、女の
煮込みハンバーグが出来上がり、バットに並べ移して、常温で冷ます。次は、厚焼き玉子を作る。
ボウルに卵を割り
「周ちゃんね、魚の西京焼きが大好物なの。だからさ、今日は
「
鍋の野菜類が茹で上がり、
「上手じゃない! 全然心配要らないよ。絶対、良い奥さんになる! 」
〈やって見せ、言って聞かせてさせてみて、
娘へのエールである。
四角いフライパン型の卵焼き器の、油を熱し、卵液を多からず注ぎ、焦げない内にここからは手早く、薄い玉子焼きを作る。その上の端を手前に向かって、つまり奥から丸めながら、手元へ寄せるように巻き手繰って、こちら岸に辿り着いた。それを奥へ滑らせてから、小さく折り畳んだキッチンペーパーを使って、拭く感じでまた油を引き、再び液を流し込んで、同様に薄焼き玉子を作る。飽くまで時間との勝負、早技が要求される事さえ、考えている
〈楽しい!……〉
今の省子にとって、料理とは如何にも、そういうものであったろう。全身が暖まるのは、火力の
更にもう一回、遺りの液を全部注ぎ切り、この作業を繰り返して、かなり大きな厚焼き玉子が出来上がった。満足げな省子にみはるは、
「慣れてるよねえ、大丈夫大丈夫! 」
ダイレクトに喜びを貰い受けた母とて、
ご飯の炊き上がりを知らせる通知音が、店内に響いた。
……
さて、おにぎりは、素手で握る。
炊飯ジャーの蓋を
すると、当たり前のように、三角形のおにぎり? おむすび? になるのである。
ご飯の熱さに耐え、今朝もこころを込めて拵えた、白く輝く愛らしい姿形が、六個、出来上がってゆく。それらは飯粒のひとつから、温かい光沢を放って、慎一の心の御馳走になる時を期待して、自らの体の熱を自然に冷ましながら、厨房の一角に静かに並んで佇んだ。気取らず、
そして省子は、大きめのリンゴ二個を、包丁で皮剥きして櫛型にカットし、塩水を張ったボウルに浸す。塩分が、酸化による色の黒ずみを抑える。もうおにぎりの熱も、程々に冷めた頃だろうか、短冊型の海苔を、おにぎりひとつに一枚、その底側から包み込むように
良く食べる慎一の為に、結構なサイズのタッパーふたつに、おかず類を栄養バランスを考えて配分し、盛り付ける段である。先ず昼食用として、厚焼き玉子、西京焼き、温野菜、リンゴ、加えてみはる製のお新香も添えた。夕食用には、ハンバーグ、温野菜、みはる製野菜の煮物、そしてリンゴを詰めた。みはる日く、盛り付けにはその人のセンスが表れるらしく、
「女性らしくって、色とりどりで可愛いいねえ! 」
好評
「こりゃ周ちゃん、絶対に速攻完食だ! 」
更に畳み掛けると、
「日々の献立に悩む主婦の気持ちが、少しわかりました……」
羞ずかしそうに、返した。
ふたりは無言で、互いの目を見て頷き合った。穏やかな満足と安堵の光が、共にその瞳に灯っている。そして、お弁当用に準備した、二枚の巾着袋に、昼夜それぞれの一揃いを収める。タッパー一個ずつ、熱湯を注ぐだけのカップの味噌汁と、サラダに振り掛けるパウダー状のドレッシングも、併せて一個ずつ、当然、おにぎりは三個ずつ、更に昼用袋に、箸一対が入った細身の箸ケースを付け添えた。大型の合財袋が両全し、かくして、みはると省子による、初の
重い荷物が、慎一の大きなバッグに
そのお弁当の作り手は、
〈実は、私……〉
秘密の矜持が、今日からみはるの手を借り、大きくその翼を
〈秘密は、秘密に非ず、何れ、恋人に非ず……〉
愛の正道をゆかんとする心が、「魂」 ともいい得る強さに、充実向上する予感が、実に心地良い。
そしてそれは、隣りにいるみはるとて賛成である。我が子を心配する駅前の母は、
〈が、しかし、
母は覚悟を決めた。
母は強し。
「周ちゃん、ここへ取りに来るんでしょ? 」
「はい」
「省子ちゃんも、これから出勤でしょ? 遅くなるようなら、私が渡してあげても良いよ」
「渡してから、一旦帰宅して着替えて、それから出社しようかと……」
「ふうん、好きにしたら……あのさあ、着替えとかお化粧とか、うちの二階を使っても、全然構わないよ。ここから出勤したら? 」
「えーっ!? 」
「ねっ! 遠慮しないでさ」
「じゃあ……次回から、そうさせて下さい。ママ、何から何まで……本当に、ありがとう……」
「朝っから、泣かない! 泣かない! ……」
「ママ……慎一さんに、渡して下さい。今日は家に戻って、そのまま出勤します……」
「うん、わかった」
省子は、
〈これからは、いつもママが渡して下さい、お願いします〉
と、多くを言えなかった。みはる温柔な愛の溢出が、省子の言葉を優しく呑み込んで、言葉を失くした代わりに、限りなくウエットな、それでいてクリアな余韻が尾を引いた。
省子が帰ったあと、ガラリと変わって、朝の静寂が訪れていた店内で、ひとりみはるは、カウンターの椅子に腰掛け、テレビのニュースを観ながら、慎一の到着を待っていた。さっきまで一緒だった省子も、早々に化粧直しや着替えを済ませて、池田山へ向かったであろうと想われた。厨房の中の、洗った食器類の水切り用のラックには、みはると省子が味見を兼ねて、初めて共に摂った朝食で使用した食器が、数個立て掛けられたまま、最後の拭き上げと、棚への収納を控えている。
すると、唐突に出入口の引き戸が
「おはようございます……」
慎一が照れ臭そうに現れた。
「おはよう! 周ちゃん、来たねえ〜! あのさ、いつも私が、お弁当を渡す事になったからね」
「うん。さっきLINE来て、知ってる」
「良い
母は手厳しい。
「まあ……何? ママ、朝からいじめないでよお!……」
「ほらねえ、男ってもう……でも、省子ちゃんは真面目だねえ、真っすぐ。大切にしなさいよ。彼女なら、間違いない! 」
みはるは、確信を込めて頷いた。慎一とて、そんなみはるの語勢に異を
「ママ、本当に、どうもありがとう。今後とも、俺達をよろしくお願いします……」
「うんうん、わかってる。それと……はい! 今日のお弁当二食分! 」
みはるのその、重ねた〝うん〟 に、慎一は、朝から融け出しそうである。
「うわあ! ……またでっかいなあ!」
「でしょう……愛は重いのよ! 」
慎一は、自らのバッグのファスナーを開けて、ふたつの巾着袋を詰め込む。つい先日まで、食料といえば、コンビニで買ったものだらけであった自身が、今はこうして、白い歯を
「じゃあママ、行って来ます」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
慎一は、出入口の引き戸を半分程開けた所で、ふと止めて、振り向き、
「次は、あさっての朝。どうぞよろしく……」
「うん、わかった。頑張ってね」
「ありがとう、じゃあ……」
静かに戸が閉まって、慎一は店を後にした。店内には、早朝からみはると省子が拵えた、数々の料理の匂いが、まだ僅かに遺っている。みはるは、ただふたりの笑顔が、こころの窓辺に浮き立つばかりで、穏やかな秋の朝の気に誘われるように、人知れず、幸せを祈った。
……そうして、ずっしり重たいバッグを抱え、勤務先に辿り着いていた慎一は、漸く、一時間の昼休憩の順番が、今さっき巡って来た所であった。
冷蔵庫へ保管して置いた、ふたつの巾着袋の内の、昼食用の緑色の袋の内容物が、この休憩室の小さなテーブルの上に展げられ、慎一の胃袋とこころの満足を約束する、御馳走振りに、今日から初めて、みはると省子
「最近、周藤さんって、どことなく丸くなったような気がしてるんですけど、やっぱり、この特大の愛妻弁当の
「いやいやいや、そんな事ないよ……」
慎一は、右手を左右に大きく振って否定してから、カップの味噌汁にポットの熱湯を注いだ。更に蒔田は、
「みんな言ってますよ、一段と良く笑うようになったって」
「何て言ったら良いのかなあ……」
返事に窮し、温野菜に振り掛けた、パウダー状ドレッシングの空き袋を、丸めてからオーバースローでゴミ箱へ投げると、見事ナイスインした。肉体派の人間にありがちな、いわゆる単純なわかり易い性格が、どうやら全開の様相を呈している事を、たまさか後輩から知らされ、悪い気はしない、満更でもない表情を浮かべた慎一は、旺盛なままの食欲を抑えつつ、野菜類とドレッシングを和えた。チーズの香ばしさが、部屋中に漂った。
見るからに美味そうな昼食群は、どれから手を付ければ良いのか、迷ってしまう程、その量、品数、栄養バランス、色合い……確かに、パーフェクトな昼食であった。みはるの協力を得た、省子の愛のエビデンスが、慎一の胃の
〈美味しい! ……美味かった! 〉
そして、また味噌汁で口を湿してから、梅干のおにぎりをひと口……忽ちほろりと融けて……この味は何だろう? ……
省子の、味がした。
謙虚な、こころの味がした。
それは、母の味に似通っているものの、非なる、省子だけが作り出せる、唯一無二の愛が為せる
〈こんな食事がしたかった! ……〉
〝やはり、日本人には、おにぎりが欠かせない〟
次から次へと箸が伸び、盛んな
それならば、今だって……もう、充分に、言葉もないぐらい……ただ、食べた。実感があった。身もこころも、一杯になった。
〈省子、そしてママ、ありがとう……〉
ひたすら深謝せずにはいられない。
自身の存在の全てが、
温度を上昇させている事が、
嬉しい。
慎一は、確かに、生きている。
シンプルに……
矛盾の憂い顔を、消さんばかりに、
そして尚、
夕食も楽しみが膨らむ。
続きは、まだ、後に……
ある。
省子は、みはるとの初仕事後、すぐ
……先刻、ダイニングルームで、家族三人で摂ったいつもの夕食時、母、真澄がこさえた一品の中に、たまたま、今朝自身が慎一の為に、調理したような温野菜が、食事を飾っていた。
豊富なビタミン類を含む、濃い色をした緑黄色野菜を、手を替え品を替え、毎日どっさり献立に登場させる、真澄のこころ、妻として、母として、主婦としての、女性の高純度な情愛に、長女として、長年付き従って来た省子は、いつしか自然に、そんな母そっくりに出来上がっていた自身を、微笑ましく客観的に眺めている事へ、いやに笑いが込み上げて仕方がない。
そして、勿論顔かたちまで、良く似た
実際、〝段々お母さんに似て来るね〟 と指摘される事が、最近増えたような気がしている。それにしても、作る料理まで、同一人物の手に成ったものといって、誰ひとり疑わないであろうと想えた。そのくらい、見た目実に良く似たサラダを作ったものだ。であるが故、味しかり、愛情もまた、しかり……。比較するものではないにせよ、それぞれの、百パーセントのこころという無形のものが、優しい有形のものを生産したといい得ようか。
〈こころは、かたちを生み出す。しかも、価値のある〉
「省子、何をニヤニヤしてるんだ? 」
父が、冗談交じりに触れて来る。
「ううん、お母さんのお料理は、いつも美味しいなあって」
上手く、誤魔化した。
「お父さんも省子も、『美味しい美味しい』 って、たくさん食べてくれるでしょ。だから、凄く作り
三人で笑い合った。
母の破顔一笑は、ちらりと省子の目を見た。父とて哄笑しているが、愛娘の眼差しを追っている。省子は、
〈……最近、お弁当作りに精を出す私に、言いたい事もあるだろうに、あえて我慢して、一歩
優しい両親、みはる、そして、慎一……今、省子を取り巻く人達は、みな一様に、それぞれが可能な限りの、それぞれが相応しい形を以て、省子に相対しているに違いない。それを享受する、当の本人にしても、
〈真にありがたく、そして、信じて疑わない。うちの両親と慎一さん、更にみはるママも、まだ面識はないものの、それでもこころを
……といった空想、いや、確信が、今こうして自室のベッドに寝転んでいる、省子の中で飛翔していた。
幸せであった。
そして省子は、この上かつての自身を手繰るに任せた。
窓を撫でる風が、今夜はなぜかしら、東横線の走行音を、遥か彼方へ運ぶように、ゆっくり響かせている。時折強く吹き流れて、窓を叩く。壁掛け時計の秒針が、生真面目に時を刻んでいるのだが、ゆくりなくも、自身の拍動と重なり合うが如き、その落ち着きに、仄かな安心を知る。またそれは、レールを軋ませて遠ざかる、電車の車輪の回転音と
……底抜けに楽しかった学生時代、その友人達とは、中学、高校、大学と、通算十年間、それこそほぼ毎日、顔を合わせていた訳で、非常に付き合いが長い。真に幼馴染みの同級生であり、共に将来を夢見て、若い女性にありがちな、何をする時も一緒、みんなと同じである事に、喜びと意義を見い出している、女子校らしい女子学生であった。想い出を挙げれば数え切れず、折節それが何等かのきっかけで、走馬灯の如く蘇る。人は誰でも、子供時分の懐かしい顔触れは、友情の原体験に於いて、何がどうあっても忘れざる、そして失くせない宝物である。いつまでも、記憶の中で、煌めきを放たずには置かない。
それでも、楽しい時間というものは、忽ち足早に過ぎ去り、みな惜春の涙に
就職率の高い女子大であった為、様々な分野に活躍の場を求め、OG達が奮戦しており、卒業後も、なかなかに活発な交流が遺っている。取り分け中学から入学した省子は、在籍十年選手であるが故、何から何までこの学園の、楚々として順良な女性たらんとする校風の中で、価値観を育てて来た。
昔は何々さん
ひとり、そしてまた、ひとり……段々家族が増えてゆく。
そんな、極く普通の家庭の、どこにでもある幸せに、省子は、強い憧れを
人は、幸せの形を変える。立場が変わってゆく。それを成長と呼び、いい換えるなら、自立である。そして、省子自身は、まだ、岡野さんのお嬢さんなのであった。そのコンプレックスのレベルは、普通の幸せに対する憧憬のレベルと、同程度であろうかと想え、かくの如く、悩んでいたのだ。慎一と出逢った中目黒の、目黒川日の出橋で見せた涙の真実は、ここに、ある。
年頃の省子にしても、女として、この世に生を
〝ああ、幸せな、良い人生であった……〟
と、締め
そんな一生を想い描いていた。
お洒落な街、中目黒は、未来の幸せを夢見る、若いカップルの宝庫のような、正に恋人達の街であった。街中のそこかしこに、幸せの芽が落ちていて、その真ん中に横たわる、シンボリックな目黒川とて、恋愛に纏わる、様々な色の違う涙が、ひと
〈恋する人はみな、そんな心象風景を見つめながら、結ばれてゆく……そうして恋人達は、みんな幸せになってゆくのに……私だけ、置いていかないで……〉
孤独感が、一時期省子を覆い尽くし、自室に閉じ籠もった。
体内時計は
〈時間は、どんどんなくなってゆくのに……〉
自身の成長の速度が、周囲のそれに付いてゆけず、離されてしまった感覚が、そのまま投影されたかの如き、心的世界の解離の海を、
ただ、ひとり、泳いだ。
ただ、怖かった。耐えるしかなかった。
そして、両親の想いに、応えたかった。
〈幸せになりたい……私だって……〉
会社も欠勤の日が続き、楽天家の母、真澄にしても、本来の笑顔が消えてしまう程、愛娘の心中を案じた。普段はむっつりして寡黙な父、忍は、
〈……不用意なひと言が、更に状況を悪化させる事が懸念される。ここは無理に励まさずに、半ば自由にさせて、時間の経過の自然快癒の方向を選択しよう。お母さんを説得し、
そんな両親の願いが通じたのか、そろりそろりと、省子のこころ持ちにも仄明かりが灯り出し、
さり気ない、家族のひと言。控えめな、その笑顔。毎日食す母の手料理の、優しい味付け、こころ
複雑な、黒っぽいぶち模様の体を丸めて、日溜まりの移動に併せて、それを追い駆けるように居場所を変えていた。
時間軸が、自宅丸ごと、空間識を後退させて、
〈これが、平和というものかも知れない……私が、望んでいたものかも知れない……〉
見逃してしまいそうな、何でもないような物事に対してでも、純粋に、その上深長な想いを致す事、併せてそれを、こころから嬉しく感じられる事……その意味とは、こころに降り積もった雪を、春を待つ想いが融かすかの如き、淡く、
ネガティヴな方向に伸び縮みしていた時間識は、愛の援軍を賜り、真逆の、悠久の大河へ、いざ注ぎ込まんとして、謀反の
〈幸せとは、冬の日溜まり。小さく灯る、暖かい希望の光。その小さな光、ひとつさえあれば、人は生きてゆける。幸せを感じられる。幸せの芽を、拾い集めよう……私だって、幸せになりたい……〉
省子は、人知れず散々泣いた末に、本心に出逢ったのである。
それは、
〝疑問〟 なる概念を、常に自身にのみ向け続け、確かに心が鬱した時期もあったが、その
〈泣いていた事なんて、涙なんて、忘れられそうな気がする。笑顔が、咲きたがっている……〉
泣くという事は、結構良いものである。余り大袈裟だと、嘘っぽく映り、周りに迷惑を与えてしまうが、陰でじっと辛抱して、静かに落涙すれば、何れ自然に笑顔が生まれる。幸せへのステップ、助走である。
若い時代の、威丈高な個人主義、ともすれば、目先の取りあえずの充足に、埋没してしまいがちの秘密主義が、人生に於いて、大いなる矛盾の、疾風怒濤時代を経て、静穏な平和主義が訪れ、自立する。愛という、遥かなる旅路の切符を携え、華やぐ気持ちを抑えつつ、再び、凜として、真っすぐ一本、咲いて立ち、歩んでゆく。
刹那の自由、時代の主張、仮説の幸福は、愛を知り、時間を超越した、無始無終の平和を求め、流転の旅に発つ。いつまでも、どこまでも、永遠に……。
……今夜の回想は、尽きる事を知らない。もう既に、日付が変わる頃である。部屋の明かりを消して、ベッドに入った。全ては始まったばかり、まだ、夢の
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