貫き流れる母なる故郷の川の夏






 ある土曜日の午後一時、芝浦の日の出桟橋、水上バス乗り場に隣接する、当該施設の待合で、スマホを手に、人待ち顔で佇立している省子の姿があった。

 言うに及ばず、待ち人は慎一である。動き易いスタイルで、との勧めにより、ブルーデニムに白のポロシャツ、白のスニーカーで纏めている。茶色い革製のバックパックには、一応上着も入れてあった。

 約束の時間ちょうどに現れない、慎一を想い、少し口を尖らせたり、辺りを見ったりしていると、

「ごめんなさい、遅れちゃって……お待たせしました!」

 息を弾ませて、慎一がやって来た。

 中目黒の出逢いから十日余り、慎一は、省子のスマホに直電を入れて、このデートを申し込んだ。その際、自身が既婚者である事、行き詰まった夫婦関係の大枠を、意気地いくじのない男との非難覚悟で告白し、謝罪した上で、真面目な誘いの要旨を述べた。省子曰く、「その落ち着きからして、年齢的にも当然察しており、夫婦の事情よりも、ただ、楽しいひと時を一緒に過ごしたい……」 とのコンセンサスが、今日の逢瀬を運んだのであった。慎一はその言葉に、自らの胸の痞えがなたらかに融けて、魂に沁み展がってゆく安堵に微酔ほろよった。が、しかし、それは、ひかり明らかなる程に、影濃ゆし事を意味している。難が去った訳に非ず、正に、ひと時の夢かも知れない。省子にしても同様の、それでも良い、共通認識を確かめ合った。

 巡り来た機会、その想いを、省子も慎一も盛んに感じていた。待ち遠しかった故の嬉しさを、共に生来の謙虚さがそっと包んで、羞じらいを寄越した。こころ膨らむままに、共同体としての第一歩が、今正に始まろうとしている……。

「ううん、待っている間も楽しかった。今日はよろしくお願いします!」

「こちらこそ。良い一日にしましょう!」

「慎一さん、敬語は止めよう?」

 省子は、言葉尻を持ち上げて提案した。

「うん、ラフに行こう!」

 笑顔で頷き合った。

 十三時二十五分、日の出桟橋発浅草行きの便に乗船するべく、十三時に待ち合わせでいた。

 慎一は、夏休み期間中の土曜日の混雑を予想して、水上バス運航を二社で担う内の、この便を運航する、東京都観光汽船に、電話を入れて問い合わせ、春の花見以外の時期は、予約せずとも、直接乗船場の窓口で当日券を買え、満員札止めになる事はない、との案内に安心していた。故に、少々遅参した訳ではないのだが、はなから劣勢に立たされたような気分に、尚羞じらった。

 実は、まだ学生時分に二回程、この遊覧航行の経験があったが、かなり月日が経っている。しかも、デートである。やはり、万感胸に迫るものがあった。江戸の情緒と今の東京を併せ持つ、故郷の表情に触れて、


〈……何かを感じたい、何かに気付きたい……素直な気持ちを、省子に伝えたい、感じて欲しい。離れがちになる人のこころを、離れてしまうかも知れない想いを、省子を連れて、自身のこころを確かめて置きたい。偽りのないこころを知った時、自ずと、先が見える。拠り所になる。強くなれる。省子と、こころを繋ぎたい。見えない何かを、見る為に……省子のこころが、知りたい……〉


 必要であった。

 それは省子とて……


「券、買っといた」

 省子は、気を利かせて、浅草まで大人二枚の乗船券を、うに購入していた。

「ごめんね、ありがとう!」

 連係プレーの自然な呼吸に、互いに相性の良さを覚える。慎一は、自らの財布を手にすると、

「いくらだった?」

「後で良いよ」

「じゃあ、後でご馳走する」

「うん!」

 まるで子供のように、無邪気に返す省子であった。

 先程来、東京港を望む巨大なガラスの一線越しに、青一色に奮然とした空と海、加えて果敢な日射しが、これでもかと一心に寄り立てている。怖ろしいくらいの快晴。手の届かない端っこで、雲が狼煙のろしを上げている。今まで見た事もないような青い煌めきが、圧倒的な開放感を以て、ふたりを追い込んでいた。

 電話の案内通り、二階建ての《海舟かいしゅう》号が接岸し、場内アナウンスに促された乗船客達が、係員の誘導で二列を成し、乗船券と引き換えに桟橋へ出た。

 忽ち、盛夏の昼下がりの熱気と直射が、潮の香りを伴って、岸壁を焼き尽くすように掛かって来る。都心とはいえ、海のそれは強烈である。ここは、紛れもなく海であった。瞼が透ける程の眩しさを知った。風は無風に近く、海上はいでいた。

 港内を航行する数隻の中型船舶は、忠実に水先を守り、その間隔を保ちながら、多くの小型船舶が、長閑のどかなディーゼル音を発して、個々の方向に散逸している。白い航跡も、おもむろに紺藍の富饒に呑まれ、鎮まれる海の鏡面に、愁眉を開くが如く居並ぶ、沿岸の港湾施設の建築群が、大型船舶の入港を約束する、充実振りを示している。数多の倉庫、大型コンテナ、クレーン等の遠景の後方には、火力発電所の、数基の巨大な集合煙突を、白く湧き上がる雲の峰々が、背後から抱き締めるように、夏の続きを物語っている。対岸のお台場まで、港を東西に跨ぐレインボーブリッジ上には、首都高速道路十一号台場線が走り、やや傾斜しつつ緩やかにカープを描き、幾何学模様的な立体交差にて、湾岸線に合流している。その造形が、あたかも港の辺縁を成すかのように横臥し、尚も果てしなく向こうへ延伸している。かすかな波音、車の走行音、小規模な埋め立て工事の重機の運転音が、ノイズを制しているが、時折、船の汽笛がその虚を衝いていた……

 大吊り橋に至る、ループ道の高架橋の偉容に、礼を執るように、一列を作って、足下に注意しながら乗船した。省子が前、慎一は後ろである。その殿しんがりが、

「二階へ行こう」

「うん!」

 階段を昇った。

「デッキベンチが良い」

 省子の先導で、最後部の広いスペースへ出、船尾をなぞるように半円を巡らせた形の、長いベンチシートに座った。省子は、屋上デッキに通じる階段を、確認済みで、

「後で行ってみようよ」

 その、喜色に満ちたおもての瞳が、好奇の濃潤な光を放っていた。

 この二階席の頭上も、全面屋根に覆われているのだが、船の左右両サイドと、このデッキベンチのスペースには、窓ガラスが一切ない。前面及び続きの一部を、一階席からルーフガラスに守られてはいるものの、両サイドと、階下にも備わる同様の船尾小空間は、一階席とてオープンエアである。半ばき出しの乗り心地が、観光気分を大いに盛り上げる。

 ……出航の船内アナウンスと共に、ディーゼルのエンジン音が慌ただしく響いて来た。船尾のスクリューが、落ちたぎる滝壺さながらの、水流の白い撹乱を憤然と生み出し、航跡にとどめて、およそ四十分の船旅が始まった。進路は飽くまでも北、先ず、隅田川河口を目指す。

 全方向に拡がるパノラマは、どこまでも群青ぐんじょうの世界であった。空と海が連なり、その境界や果てさえ想像させない、むしろひとつの壮麗な流れが、ふたりに訴える。剴切がいせつたる、哲学的な絶佳一景の絵画然とした教育に対して、最早、従順な態度で臨むより選択肢は奪われ、加えてオープンエア故の、風を斬る感触が、洗心のシンプルへいざなった。

 側方を横切るかもめの、意外な大きさをやり過ごす船首の水切みずきりは、絶え間なく、水の抵抗の残骸の白波を、両脇へ押し流し、それはやがて航跡と落ち逢い、尾を引くだけである。水は一瞬で砕かれ、白く削られ、めくり上がって応戦するも虚しく、後方に崩落して左右に掻き分けられ、その白波を作る時の苦し紛れの声を、のんびりとしたエンジン音が、優しく被せるが如く慰藉している。船と波の密接な営みの中、《海舟かいしゅう》は穏やかな海面に、小刻みな上下動を見せながら進んでゆく。

 水の葛藤は、はじめ白く、それが青と混ざり合い、刹那、緑みを帯びる。さりながら、静かに青の万能に消えてしまう……泡沫うたかたの反抗は、何れ青に帰す……浅草育ちの慎一は、子供時代、限りなくこんな光景を見て育って来た。橋の上から、堤防から。たまらなく、懐かしさに襲われていた。


「……何とも言えないなぁ……」


 想わず本音を吐露した。


「でしょう、わかる。水辺では素になれるもん」


 省子とて、本心を発していた。

 その、強い風と日射しに、目をすがめる横顔に、黒い髪が名残惜しそうに乱れ掛かり、ほんのり石鹸の香りを含んでいた。それぞれの瞳に映って息く、自らの影が、次第に大きく、今や濃く、その領域を拡げている現実に、半ば気付いては酔いれ、半ば気付かぬ体でれ、相反する均衡に我が身を投じる、そんな喜びが、恋なるもの、いては〝生きる〟 という事を、今更実感しないふたりではない。

 なぜなら、既に、その先のような、何ものかの予感を、互いの横顔に見付けていた。


〈そして、その横顔を、こちらに、正面に、振り向かせたい……振り向いて欲しい……〉


 さるにても、眩しい。

 とはいえ、水上の疾走感は愉快である。

 開け放たれた視界には、澄み渡る光彩のしゃが浴びせ掛かり、目を凝らす程に、その目の舟型が狭まって、同時に顎が上がり気味になり、自然とくちばしのように、やや突き出した口元からは、常に白い歯がこぼれ、風が頬をけしかけながら、通り過ぎてゆく。際限なく、波を押し退ける音が、耳に届くばかりである。

 最下流部の築地大橋の下をくぐる、一瞬の日陰が、既に海上ではなく、隅田川に達している事を知らせた。

「ほう?!……」

 水上からしか見られない、橋脚下部や橋梁の裏側の、鉄骨群の力強い構造に、他の客達と一緒になって、ふたりも小さな歓声を上げた。

「こうなってるんだねぇ、凄いねぇ!……」

 と、目を丸くする省子に、慎一は、

「子供の頃、悪戯小僧だったんだけど、うちの両親は決まって、『橋の下に棄てちゃうぞ!』 って叱るんだよねぇ」

「アハハハハ! 」

 ふたりして笑って、省子が、

「それ聞いた事ある! 」

 輪を掛けて哄笑した。

「慎一さんって、実は……凄く面白い人でしょ? 」

「ええ〜っ?! 」

 語尾が昇り詰めてしまった。

 互いに目を遊ばせているのだが、極く自然に、相手の面貌が見て取れる。手に取るように、わかる。

 過日の、中目黒のカフェのテーブル越しではなく、すぐ隣りの、手首を返せば、体に触れられる程の距離に、肩を並べて座っている。

 息づかいに上下する胸、肌の湿感しつかんまばたきの頻度、瞳の純度……確かな健康体を纏ったふたつの精神が、それぞれの想いを、目に見えないこころの触手に託して、触れ合い、結ぼうとしている意識に、駆け引きなど、挿し挟む必要もない。真に想いのそのままに、語り、見つめ、笑い、興味を持ち、耳を傾け、そして気が付けば、また……笑っていた。互いに覿面てきめんにしている存在が、


〈大好きなひと……〉


 になってゆくのを、真っすぐな体温を感じていた。


〈止められそうに……ない……この船のように……〉


 川幅のほぼ中央を走る 《海舟かいしゅう》は、水面の両側方りょうそくほうにて、二列に垂直に聳立しょうりつし、限りなく伸展するコンクリート色の堤防に向け、船首の水切を頂点として、左右の船型のそれぞれの方向から、時間差で、押し剥がすような、波の一線を生み続けては、堤防へ寄せる。

 ひとつ、ふたつ……そして三つ目の波は、水面がやや盛り上がる程度ではあるものの、辛うじて堤防へ往き着き、三つ悉く跳ね戻って、返しの波に変わる。

 ひとつ目の寄せ波は、返され、ふたつ目の寄せ波に均され、川面は落ち着きを取り戻す。三つ目は、寄せも返しも終始穏やかである。そして、上り下り問わず、次の船が通り過ぎるまで、暫し、平和な時間が流れる。

 船舶の往来を許す川の風景には、こんな場面が日常的である。堅固な堤防を控えた、都市の河川の顔でもある。現在の隅田川は、昔と違い、堤防を階段で降りられ、水面と同じぐらいの高さに、親水公園の遊歩道が整備されており、断然、水辺が身近な存在となっている。殊に、浅草界隈の隅田川は、桜の名所として全国にその名が知られ、滝廉太郎たきれんたろうの歌曲集第一曲〝花〟 にもうたわれている事は、余りにも有名である。

 慎一は、省子の表情が、時を追うに連れ、


〈……女性らしい優しさが、羽搏はばたいている〉


 悟っていた。

 その、瞳に湛えた冴え渡る輝きの中に、慊焉けんえんとせぬ粒子がちりばめられていた。

 隅田川遡行そこうの揺動の旅は、〝旅の恥は掻き棄て〟のことわざに相応しく、省子なる存在を構成して来た、無形の片鱗を、さり気なく、一枚ずつ剥がしながら、それでも尚、揺れて、正に、この時を捉えて現れたが如く出逢った、慎一の「愛」 によって、遺された何枚かの鱗を、取り去るだけであった。


〈俺だけに許された、作業である。俺にしか、出来ない。他愛なく主張する、その核に、じかに、触れられもしよう……〉


 省子とて、スポーツマンの慎一の包容力を、その逞しい肉体に守られた温かいこころを、言動の端々から受け取っていた。


〈……なかなかにキュートな性格は、つまり基本的に、楽しい事ばかり考えている人なのだろう。笑顔、優しいこころづかい、人を大切にする、人が好きなのだろう……人を笑わせ、飽きる事なく一緒にいられる。話好きな女性の言葉も、関心を持って聞いてくれる。また、そこから何かを拾って、更に繋がってゆく内に……〉


 時を忘れ、その代わりに、


〈……大好き!〉


 を遺していた。

 人に笑顔を与える事の出来る人。

 人を笑顔にする人、である。


 海鳥の小さな群れが、河口方向へ飛んでゆく。

 この季節、この時間帯は干潮である。鳥は、その翼を休めもしようが、また飛び発ち、無尽の蒼空を駆け巡りもするだろう。太陽の恩恵を、小さな羽根一杯に浴し、光点となって飛び去る挿絵さしえを、たまさかふたり共眺めていた。目を一文字にして、目尻が切れてしまいそうなくらい、追い駆けていた。一途に遠方へ赴く鳥の自由に、自然にこころが重なった。省子も慎一も、遠くにある何ものかに、思慕の情を馳せていた。まだ、遠くにある。見えてはいても、まだ、遠くにあった。でも、手が届くかも知れない。鳥のように、飛んでゆけば。

 もう、幾つ目のどの橋かも、良くわからないが、橋下潜航の刹那の暗闇に説かれ、視線を切ったふたりだったが、今度は急に無口になってしまっている。ふと、目が合うと、眼差しの中に、同じ色の光が宿っている気がした。ただ、ゆらゆらと、彷徨うに任せていた。

 鳥は、どこまでも飛んでゆくのだろう。


 ……しかし、東京も随分変わった。

 下町を貫き流れる、この隅田川の両岸の街の趣きに、かつての高度経済成長時の、我武者羅がむしゃらな、押し付けるような勢いは姿を消し、人間の自然な生命活動に即した、ゆとりをふんだんに取り容れつつ、決して先鋭的にならず、それでいて、イノベーティヴな外観形成に取って代わっていた。

 この微妙なラインを、新旧の東京の代表的な横顔を併せ持つ、下町の風情を、臆せず展開しながら、ふたりを乗せた《海舟かいしゅう》 は、懸命な遡上を止めない。小気味良いディーゼル音が、かえって一興を添え、ふたりだけでなく、船中の客それぞれが、満悦の相を呈している。正しく、東京にいるという、東京の臨場感を味わっていた。

 そして慎一は、郷愁が漂うままに、逆らわない。

 どうしようもなく、溢れるばかりで……止められない。

 その様子に、省子のこころとて、ただ付き従って、合わせ鏡の如く、互いのうちを映している事に、ここまで来て疑問符の付けようもない。


 見つめ合う時、自分を見つめていた。


 自分の中へ、ただ、逃れてゆくのだろうか?……


 ふたりは、見られているときめきの陰にある、本当の自分の存在に、気付いた。相手と目が合う時、自分が見ているものは、自分のこころに他ならない。他人ひとが自分を見る目が、それを語っている。故に、自分が他人ひとを見る目は、他人ひとを見る以上に、自分のこころを見よう、知ろうとしている。ならば、自分のこころがわからない時、他人ひとを見る自分の目は、何を語れば良いのだろう?……その目で見られる他人ひとは、どうすれば良いのだろう?……自分が他人ひとを見る目と、他人ひとが自分を見る目が、折り合わないという事になる。そこに……何が成立するだろうか? そして、何の為に、見つめ合うのか?……


〈だから、虚勢を必要とする……〉


 省子は、慎一のその目から繋ぐように、こんな想いに満たされていた。愛の欠片、「絆」の、始まりであったろうか……。


〈慎一さんの目の中に、素顔の、ありのままの、本当の私がいる。慎一さんが見ている、私の目の中には、本当の慎一さんがいる。それは、きっと、んなじ想い、んなじこころ。だから、私は、ただ……願うだけ……〉


 この上とも慎一は、懐かしさを膨らませる……


〈……川面は、昔と変わらない顔をしていた。そういえば、川へ行くと、いつも待っていてくれた。語り掛けると、必ず何言なにごとかを返してくれた。ただ優しいばかりではなく、時に荒天で厳しい顔も見せた。決して媚びへつらわず、忌憚のない意見を伝えてくれた。俺を育て、いつ如何なる時も共にあった。石ころも良く投げ込んで遊んだ。野球のボールなど、どれだけ、川に嵌まって流されて失くしたか知れない。俺の喜びの雄叫びも、悔し紛れの暴言も、悲嘆に暮れた涙も、この川は青春の全てを知っている。嘘などない、そのままの喜怒哀楽を、余す所なく呑み込んでくれた。いつでも変わらず、気軽に『よう!』 と声を掛けてくれる、地元の幼馴染みの大先輩のような、優しくて、でもちょっと怖くて、だけど頼もしい限りの、実にありがたい存在なのだ。教えられた事は山程ある。それらが年齢と共に感傷となって、今尚、授けてくれている。忘れられる訳がない、懐の大きな、こころの友である。またそれは、温かい母の愛に似通っていた。そしてこの上、どこまでも深く、果てしなくひろく、無上の安らぎを、見返りを求めずにひたすら与え続ける、この営為は、真に全てを具有する、〝母なる故郷の川〟 に異論はない。だから、無性に、逢いたくなる……〉


「屋上へ行こうよ!」

 いざなう省子の後を拝して、慎一も階段を昇る。すると、全角度遮るものが消散した、全開のオープンエアの世界があった。二階デッキベンチの居住環境を、何倍増しても及ばない、アクロバティックな開放感の洗礼を受け、そのスピードに、身ぐるみ引っがされる感覚を愉しまざるを得ない、それはそれだけ強い風である。

「大丈夫?!」

 慎一の心配をよそに、

「全然平気! 楽しい! 」

 まるで遊園地に来たかの如く、音吐朗々と答える。

「本当楽しいね! 」

 慎一も賛成した。

「本当、今日来て良かったぁ、慎一さんありがとう! 」

「いいえ、喜んでもらえて良かった。また誘っても良い? 」

「勿論! 」

 手摺りを掴む両腕を伸ばして、上体をやや仰け反らせながら話す、省子の可愛いさに、慎一は、抱き締めたくなる衝動に駆られていると、更に、

「あっ、高速道路だ! 」

 と、小さく叫ぶ歓声に畳み掛けられ、自らを冷ますように、

「両国ジャンクションだね」

「もう両国なんだ。慎一さん、国技館でお相撲観た事ある? 」

「うん、あるよ。両国はそんなにないけど、蔵前は子供の頃しょっちゅう」

「えー凄い! 蔵前にもあったの? 」

「うん。平成改元と同時に、両国国技館が開館したんだよ。国技館の発祥は両国。今の国技館のすぐ南に、《回向院えこういん》 っていうお寺があって、《力塚ちからづか》 なる石碑が建ってる」

「流石地元、詳しいね」

「その東隣りのビルが、もうかなり昔だけど、日大講堂だったんだ。そこに、初代の国技館があったって聞いてるよ」

「へぇ〜……」

 省子は感心しながら、慎一の往時の東京の話を拝聴した。

 俄かに船内アナウンスが響き、間もなく浅草到着を告知した。ふたりは二階へ降り、再びデッキベンチに座ると、省子は、

「あっという間だったね」

 満足のきわに名残惜しさを滲ませる。

「また来よう! 」

 声を合わせて誓い合った。

 船は徐々に速度を落とし、川幅の右、墨田区側に寄り進む。前方には《吾妻橋あづまはし》 の、真っ赤に塗られた橋脚と欄干が待ち受け、その東の橋詰には、琥珀色のアサヒビール本社ビル横の、スーパードライホール屋上に鎮座する、黄金色の雲型のオブジェが、もうすっかりお馴染みの顔で出迎えている。このオブジェ、実は雲ではなく、仏語で「フラムドール」、金の炎をイメージしたものであり、これを支える下部のスーパードライホールは、聖火台なのだそうで、確かにその形状を成している。ちなみに、本社ビルの琥珀色は、やはりビールの色だという事である。フランスのデザイナー、フィリップ・スタルク氏の発想による、この異空間の出現によって、都内最古の寺院、《金龍山浅草寺きんりゅうさんせんそうじ》 を守る浅草の街にも、対岸の墨田区の建築物ではあるものの、同《東京スカイツリー》 と併せて、一風新しい花を添える存在になっていた。

 船が右側方みぎそくほうに寄ったのは、この《海舟かいしゅう》 が、折り返しの、浅草発下りの便に就航する為に、予め船首を川下に向け直す、大旋回の必要があり、それには川幅一杯を使えば、操船の安全性は高まる。ここは、結構見応えのある見せ場である。省子は、

「へえぇダイナミック! 」

 と、掻き回されて渦巻き、青白まだら模様で歯向かう水面を見って、喫驚する。生み出された白波は、最後の生みの苦しみに呻く声を、若干高く震わせ、見事にかしらしもへ導いて、無事、浅草到着を見るに至った。

 船内は、大満足の空気が膨張してざわめき、省子もひと言、

「わぁ着いたぁ! あぁ楽しかったぁ! 」


 とにかく、明るい人である。

 慎一だって、んなじ気持ちである。

 十二分に、遊覧航行の旅を満喫したふたりは、体中から発散するその痕跡を、何等憚る事なく、出逢いの喜びを噛み締めつつ、ちょっと、見つめ合った。儚い夢には終わらせたくない想いが、盛夏の眩ませる日射しと、川面の反射に勢い付いて。その瞳の色合いを、尚以て濃厚な黒に仕上げている。黒は、もっと深い黒に、ただ呑み込まれてゆくだけであったろうか。そしてそこには、強い意志があった。

 省子も、やはり慎一も。



 下船したふたりは、直接川底から鉄骨の基礎を組み、吾妻橋西詰の堤防から跳ね出した格好の、正に川の上に設置された、さほど広くはない、この水上バス発着場の待合で、暫時、腰掛けて休憩を取っていた。

 揃って、慎一が買った赤い缶コーラを飲みながら、ほっとする中にも、澄明な余韻が遺り、相半ばしていた。地下鉄銀座線及び、東武スカイツリーラインの起点、終点でもある、浅草駅前交差点のアトモスフィアに、慎一は、いよいよ懐古の情が禁じ得ない。まだ上陸したばかりであるのに、通りすがりのこの桟橋の利用客達の顔が、みな一様に、昔馴染みのように想えて、浅草ッ子らしい人懐こさが蘇りつつある事に、気を良くしていた。そんな慎一に合わせるかのように、連れの省子も、自然にリラックスしているようである。ふたりは、既に浅草の街に、違和感なく融け込んでいた。どこにでもいるような、普通のアクティヴなカップルに見えた。


「疲れた? 」

 省子に尋ねた。

「うん、少し。でも最高に愉しかった。だからお腹空いちゃった! 」

「じゃあ食事しよう。何が良い? 」

「慎一さんが、昔、良く食べてたものが良い」

「洋食なんかどう? 」

「OK! 」

「そこのデパートの少し先なんだけど、大丈夫? 」

「全く問題ありません! 」

 警備員の真似をして、敬礼で答える省子である。相変わらず、元気で無邪気だ。

 東武浅草駅は、そのデパートの二階を占めていた。ここから、果ては世界文化遺産の日光や、群馬県の伊勢崎いせざきまでの路線である。東京スカイツリーの開業に合わせて、路線名も《スカイツリーライン》、次の業平橋なりひらばし駅も、駅名を《東京スカイツリー前》 と、それぞれ変更していた。いにしえの日光詣ででれ違う、日光街道沿いを走る東武電車は、現在では東京のベットタウンである、埼玉県東部地域住民達の、貴重な足となっており、朝のラッシュなどは、それは凄まじいものであった。

 ベンチから立ち上がったふたりは、出入口から、数段の階段を降りていると、この季節、この時間帯であるにもかかわらず、予想外に心地良い風が、浅草の街にそよぐ。それは、空腹のふたりをくすぐるように、僅かの小休止とて、高揚するばかりの想いを、この風の手が、諌めているのかも知れない。そして、デパート方向へ、連れ立って歩いていると、背後から不意に、


「周藤さん……」


 ……どこかで聞き覚えのある、中年男性の声に呼び留められた。

 ふたりは振り返ると、その声の主に、慎一は一瞬、戸惑いに突つかれた。


 ……前任の現場の同僚であった、〝渡辺わたなべ〟という男だった。

 慎一より歳上の、五十少し手前の氏は、いささか白いものが目立つ、ふわりとしたオールバックの髪に、手をりながら、満面の笑みを浮かべている。ある一件が元で、警備会社を退職していたのだが、以来約四年振りの、偶然の再会であった。

「お久し振りです。一別以来ですね、お元気そうで何より」

 と、氏は一礼を付した。

「お久し振りです。渡辺さんもお元気そうで……」

 慎一も返礼を執り、省子も腰を折って黙礼した。氏の屈託のない笑顔が、ふたりの川面を鎮める。渡辺は、

「今日は、家族で来てるんですよ」

 桟橋の方に目を移した。ふたりもそれに倣うと、そこには、氏の妻とおぼしき同年代の女性と、二十代半ばぐらいの若い男女の、併せて三人が、こちらを見ながらにこやかな顔を、深々と御辞儀に込めている。ふたりも、それに応じて、深めの礼で挨拶した。

「地方へ嫁いだ長女が、旦那を伴って里帰りしてるんですよ」

「じゃあ久し振りでしょう、互いに孝行して下さい」

「いやぁ、わがまま娘でしたから、心配してたんだけど、何とか幸せにやってるみたいですよ」

「良かったですねぇ」

 慎一は笑顔で祝福して、ふと、付き添う省子に目を配ると、三人家族へ返すように、何とも優しい面持ちで、そちらへ視線を預けている。その眼差しに、自らも幸せという領域に参加している、自負と安堵が、均衡を保っていた。幸せな、女の顔をしている。

「船ですか? 」

 慎一の問いに、

「ええ、お台場まで」

「僕達も今、日の出から来たばかりですよ」

「あっそうですかぁ、じゃあ入れ違いですね」

「ゆっくり楽しんで来て下さい」

「どうもありがとう、おふたりも……」

「ありがとうございます」

 慎一がこうべを垂れると、省子も揃えた。

「ではまた、何れ……」

 そう言い遺し、渡辺はきびすを返して、家族と合流すると、今度は四人一緒に、最後にふたりに一礼を供した。無論ふたりも、最後に一礼を贈ると、四人は桟橋の中へ消えて往った。

 束の間の突然の出来事に、省子と慎一は、小さな喜びを見付けた。この小さな芽が、やがて大きく育って、更なる幸せという、大輪の花を咲かせる事を祈る程に、四人の後ろ姿と重なり、静かに、見送るのであった。

 浅草は観光地だけあって、古今東西老若男女、実に色々な人が来るものである。慎一も良く聞かされた、かつての華やかさは、影を潜めてしまったが、街ぐるみの年中行事がとにかく多彩で、それを目当てに訪れる人で、今も賑わいは健在である。初詣に始まり、東京マラソン、桜まつり、流鏑馬やぶさめ、早慶レガッタ、三社祭、ほうずき市、隅田川花火大会、サンバカーニヴァル、菊花展、とりの市、羽子板市……目白押しで、枚挙にいとまがない。加えて、一月と五月と九月は、対岸の両国にて、大相撲の本場所が開催され、浅草、両国、押上地区は、殊の外、活気が漲るのである。五月初旬の《三社祭》 などは、正に、江戸ッ子の粋が炸裂する。

 ふたりは、江戸通りを横断し、デパート西側の馬道うまみち通りを、浅草寺二天門方向へ、北上の歩を進める。相変わらずの人と車の往来に、慎一は、欣快たる形貌のまま、省子を伴っている。その慎一のこころを、省子とて敏感に汲み取って、自身の裡から自然に紡ぎ出された、明快なオーラを、し気もなくあらわしている。

「ねえ慎一さん」

「ん? 」

「渡辺さんご一家、私達、夫婦に見えたかなあ? ……」

 慎一は想わずドキッとしたが、表情を変えずに、

「んん、『奥様ですか? 』 って聞かなかったからねえ、どうかなあ」

「見えるよねえ……」

 省子は、嬉しそうに俯いて、そして、頬を紅らめた。

 そんなふたりの会話は、街のノイズに掻き消されそうになって、でも、想いだけは遺って、急拵えの夫婦は、尚も歩道を泳ぎ続ける。並んで歩いているのだが、慎一の歩幅が、そのまま省子の歩幅ににじり寄って重なり、肩が触れ合う程の親しさが、人波にはぐれまいとする耳のかわしとなって、折節縦の列を成し、この時慎一が後ろに回った。

 東京の繁華街や観光地は、特に近年、どこへ行っても外国人の姿が多い事に気付かされる。我々日本人はもう慣れっこで、普通に街の風景の一部と化している、と言っても過言ではない。日本の首都にとどまらず、世界に開かれた国際都市、東京として、来たる二○二○年の夏季オリンピック、パラリンピック開幕の近さを、肌で実感出来るのである。

 言問こととい通りとの十字路、馬道うまみち交差点に出た。直進方向の青信号で、そのまま真っすぐこの通りを横断すると、そこには、一般の住宅街、庶民の暮らしの匂いがせ返っていた。浅草の路地裏、生活圏内に足を踏み入れたのだ。慎一は、記憶に蘇るものを漫然といだきながら、夏の、鮮やかな花と共に、右左折を計三回繰り返して、とある店舗の前に着いた。

「洋食屋さんらしい、可愛いいお店……」

 省子は、そのままの笑顔で話す。

「老舗なんだけど、下町はざっくばらんだから、俺は落ち着けるなあ」

 ふたりでの飲食店への入店は、中目黒のカフェ以来である。何といっても人間は、食事の時間が一番楽しい。ましてや愛する人と一緒なら……尚の事。

 そして、店の扉を開ける時……省子は、もう既に、一歩を踏み出している己に、自信めいたものを受け取っていた。それは、痞えのようなネガティヴな性質ではなく、愛する想いに対する優越意識に他ならない。しかし、純粋であるが故の、由美子への気兼ねから、正面切って自信と呼ぶ事を、控える立場を選んだ。愛するこころは、誰にも負けない。強いこころに芽生えた、小さな自信であった。

 昨日までの、ひたすら受け身の岡野省子は、卒業したのだ。いつも一歩退がってばかりの自身との訣別である。それは……


 美しくも温かい、そして、厳しくも理性的な、愛という名の下の、精神の自立。


 それが始まった事を意味する。

 愛は、きっと、省子を強くする。


「十七時に予約しました周藤です」

 大女将たる年配の女性の優しい案内に、この小さな空間の片隅のテーブル席で、ひと先ず翼を休めたふたりである。

「慎一さん予約してたんだ」

「うん。ここは知る人ぞ知る人気店なんだよ」

「うん。行列だもんね……」

 カウンター席が八、テーブル席も八の、合計十六席の店内には、特に慎一にとって、憧憬以外の何ものでもない、家庭の気がこぼれ、五感を通して、ふたりの身もこころも和ませてくれる。カウンター内厨房で、手際良く調理を進行する、白いコック服に白いコック帽のスタイルのシェフは、若い女性で、長年この店を夫婦で営み、地域に愛され続けた、亡き先代主人のお孫さんで、先程の大女将はおばあちゃんである。おじいちゃんの遺志を孫娘が継ぐ辺り、如何にも浅草、泣かせる話である。家族経営の店であるから、家庭的でない訳がない。

 そして、

 味の方はというと……


「おじいちゃんとんなじ味……」

 慎一は、省子と同じオーダーの、ミックスグリルを食べながら、みと語った。店の看板メニューでもある、この料理の圧倒的なボリュームを見た瞬間、明るい省子は開口一番、

っごーい! 」

 と、喜声を上げた程で、牛、豚、鶏の三種のソテーに加えてハンバーグ、その上にベーコンが乗っかって、黒の丸い鉄板の中でせめぎ合い、デミグラスソースの煮えたぎる音と、肉の焼ける音の連合軍が、食欲を掻き立て、一段と香りと湯気を巻き込みながら、まるで絶海に屹立きつりつする火山島の如き存在感を呈して、ふたりに迫って来たのである。でも、とにかく美味いのだ。この店は何でも美味しい。

「この量、食べられるかなあ? ……」

 驚き覚めらぬ省子に、慎一は、

「大丈夫。みんな最初はそう言うけど、結局ぺろっと食べちゃうから」

 大女将が笑顔で頷いている。

「省子ちゃんは健康自慢でしょう、イケるよ! 」

「うん。お腹ペコペコだし」

「いただきまぁす」

 声を合わせてから一口食すと、省子曰く

「美味しーい! 」


 慎一にとっては、懐かしい故郷、浅草の味がした。過ぎ去りし昭和が、孫娘の手に成る料理に、そして、この店全体に遺っていた。昔と変わらず、あの時代のままで、逞しく生きていた。飾らず、力み過ぎず、省子と慎一を温かく迎えてくれたのである。

 何も動かないもの、何も変わらないもの、揺るぎない確かなもの、本物を、本物たらしめる為には、極く当たり前の事を、当たり前の事のように難なくこなす、何の変哲もない日常の、地味なルーティン、努力の継続以外に道筋はなく、努力なる、時に辛い作業には、当然忍耐が伴う。本物と呼べるレベルを維持し続ける事、つまり守る為の方法論はただひとつ、積み重ねるしかない。無論それは、過去の確認作業であり、加えて、進取の柔軟な精神が要求される。そしてこれこそが、明日に繋がる、申せば繋げるというターンオーバー、更新手続きと言え、現在の姿とは、過去を映すエビデンスであるが故……騙せるはずもない。


「ねえ慎一さん。さっきの渡辺さん達、本当に幸せそうだったね」

「うん、そうだね」

「羨ましいなあ」

「……」

 慎一は、答えられなかった。美味しい洋食の所為せいではなかった。



 ……満たされてゆく胃袋に、口へ運ぶ手は止まらなかったが、反面、矢継ぎやの嚥下えんげに非ぬ、新たな胸の痞えが、実は、慎一を悩ませていた。それは……省子との秘密の逢瀬の発覚に対する、渡辺氏への警戒心ではなく、同じ渡辺氏に纏わるまた別の、同僚時代のある一件に原因があった。

 慎一は、前任地時代、都内の某大型商業施設の防災センターに派遣され、勤務していた。今の現場でもそうだが、警備の世界というのは、やはり先輩は新人の教育も、重要な任務のひとつであり、規律に厳格な警備員としての常識、心得、あり方、実務の手順等の必須事項を、行動で示さねばならなかった。いわゆる、縦の序列に統制された集団である。本社は、このような企業風土、業界体質に対する適性を判断した上で、未経験者であっても、広く応募者を採用していた。前職の職種が、大きな判断材料であった。

 そしてそこに、警備業未経験の新人として配属されたのが、この渡辺なる中年男性であった。慎一よりも年長ではあるものの、後輩は後輩、しかも初めて警備業に携わるという事で、正に一から教えねばならない。真面目で温厚な人となりの渡辺は、大手化学メーカーの製造部門を早期退社して、そこそこ余裕のある暮らし振りの人間であった。現場の先輩諸氏総掛かりで、一人前の警備員に育てる。建前は、かくの如しであった。

 が、しかし、時に現実は意に任せぬ事が起こるもので、実際、この渡辺に接してみると、その生来の職人気質に由来する、製造部門の人間らしい、ひとつの事を突き詰める、長年の職業体質が災いしてか、臨機応変さに難がある。切り替えの上手い、要領の良いタイプの人間ではなく、その代わり、人としての習熟度が表れる文字などには、抜群の冴えを見せた。少々時間を要し、一通りの業務を単独で執れるようにはなったが、どこの世界にも、口の悪い人間はいるもので、この警備の縦社会に於いてもしかり、口撃の洗礼を浴びた訳である。

 かかる状況下、羞ずかしい話ではあるが、残念ながら慎一も、浅草ッ子の気っの良さからか、時々、浴びせてしまっていたのだ。これは実に大人げない、正に言葉の暴力で、渡辺も良く辛抱した。しかし、これが元で、警備は自分には合わないとの旨の辞表を出し、本社は、配置転換の方向で動いたものの、最終的には受理に及んで、正式に退社に至ったのだった。短い、警備員生活であった。

 さればこの一件は、慎一の中に、暗く大きな影を落としたのである。それは、渡辺の就業機会を奪ってしまった行為への反省は、勿論の事で、こころから謝罪したい気持ちで一杯であった。そして更に追及すれば、このような態度に走ってしまった、自身をそうさせてしまった根本に、深く想いを致し、これに対して、大きな決断を下さねばならぬ時期が、訪れている事を、知らされたのである。冷え切った夫婦生活のさを、他人ひとに向けてしまったのだ。原因は、正しくここにある。家庭内別居状態の夫婦関係に、最早自らの精神的限界を知る所となり、無視出来なくなってしまった。

 しこうして、渡辺の退社と時を同じくして、慎一も本社に配属替えを願い出、今の現場に転勤した、複雑な経緯があったという事実……


〈……あれから、もう四年が経っている。不毛状態のまま、四年か……〉


 故郷での楽しい食事の最中に、慎一は、省子に対する後ろめたさを押し隠しながら、努めて明るく振る舞っている。確かに、


〈とても愉しい。そして、省子が大好きだ。心の暗部が蘇生してしまった事は、俺の不徳の致す所ではあるが、愛を真ん中に据えて、満ち足りた家庭生活は築けなかったが、それでも、省子への気持ちに、一点の嘘もない。もう、迷いたくない。これからは、ここが全ての根拠になる事を、強く誓う。絶対に忘れない。この想いを、消したくない……〉


 もう二度と、「好きだ」というこころを、失いたくなかった。

 こころの不在、空虚な毎日は、もうたくさんである。


 慎一が想うに、理想的な家庭像とは、先ず以て、社会に於ける最小単位の、相互意識確認の場でなければならない、としていた。

 たとえば、どんな子供でも、親に、大人達に、「自分は大切にされている」と自覚する場面が、必ずあるはずである。つまり、「愛されている」と感じ取る経験が、絶対にある。するとその時、子供は、どういう反応を見せるだろうか? 言うまでもなかろう。優しさで返す、優しさで応える。人を愛せば、愛された人は優しくなれる。これが、最小社会たる家庭内の、基本中の基本の姿である。

 言い換えるなら、正に、相互意識の確認作業、愛と優しさのやりとり、好循環、正のスパイラルと言いす事が出来る。


 愛というものは、愛とは、

 信じ、認め、許し、待つこころ、

 そして、与えるというこころである。

 つまり、受容するこころを、給う事、

 広く、受け容れるこころを、

 与える事である。

 愛を与えれば、愛すれば、

 優しさの返礼を受ける。

 この優しさとて、やはり、

 愛である。


 この愛の応酬……。

 帰する所、人は、愛という名の下に、対等であらねばならない。であるから、家庭とは、フラットになれる、修正出来る場でなければならない。愛を確認する空間たるべきである。下らない冗談で笑い合う事だって、充分に愛の確認行為たり得る訳で、極く自然に、幸福感に目覚め、更には、この幸せが、いつまでも続いて欲しいと祈り、永遠なる概念に辿り着く。いわば、家庭内に於いて、めりはりを利かせるという作業であり、その為には、愛なるエッセンスが必須である。愛は自然に、永遠へと流れてゆく。


〈……ならば、なぜ、由美子への愛が消えてしまったのだろう? どうして、愛を繋げなかったのだろう? 愛せなくなってしまったのだろう? ……〉


 慎一は、大事な愉しいデートであるにもかかわらず、由美子への想念にふける不遜、不忠不孝を呪った。百花繚乱たる趣きの、省子なる光の前で、灰黒色におぼめく影の如き懺悔ざんげに、事実、さいなまれている。


〈……自業自得の、罪である……〉


 そして、この刑罰の恩赦をこいねがうように、省子の存在に直観が働いたのだろうか? 希望の光が灯ったのである。神への感謝が止まない。

 だからこそ、生来の慎ましさから、尚一層謙虚になれた。愛は、人を素直にする。省子には、失礼極まりない話ではあるが、更に追及の手を緩めなかった。この問題を乗り越えなければ、


〈前へ進めない、資格がない〉


 それは、省子に対する、最高級の敬礼であった。省子に対して、自ら名乗りを上げたからには、男として、当然の精神行為である。



 ……つまり周藤家とは、慎一にとって、こころを融かすフラットな環境に非ず、正反対の、ひたすら忍従を強いられるだけの空間に過ぎなかったのだ。愛の流通のない閉塞感は、即ち、我慢させられている、受動的な感覚に支配されており、被害妄想を煽動するのだが、自身の優しさが、理性に、歩み寄る。

 要するに、由美子へ、責任転嫁しなかった。正確にいえば、


〈……出来なかった……〉


 従って、自責の念を抱え、辛抱を重ねて来たのである。決して、由美子の所為せいではない。全ては、夫である自身の責任と、位置付けていた。


〈由美子が悪い訳ではない。だから……嫌いになれなかった、嫌いになった訳ではない……嫌いなら、っくの昔に家を出ている。離婚もしているだろう。確かに、住宅ローンの満期まで、あと一年遺しているが、即離婚ではなく、先ず別居して、ローンの完済を見てから、機が熟すのを待ち、しかるべき時期に、正式離婚へ踏み切る、段階的なシミュレーションを、過去何度も繰り返して来た〉


 どこをどう考えても、やはり、コミュニケーションの不在が、致命的である事は明らかである。

 新婚時代は、互いに物珍しさからか、それはとても新鮮な蜜月関係にあった。常に一緒に行動し、たとえば、共通の趣味こそなかったが、慎一はサイクリング、由美子は映画鑑賞の余暇活動にも、共に相手の好みに充分に理解を示して、実に良く付き合ったものである。夫婦共同作業を通じて、尚以て新たな発見が嬉しくて、互いを真似る事に、幸せを実感していた。他人ひとも羨む程の、正に花も実もある、笑顔に包まれた穏やかな暮らしの中に、愛し愛される、それでも今以上の喜びを求める空気が、優しく流れていた。慎一の喜びが、そのまま由美子の喜びであった。

 同じ空気を吸って、同じ水を飲んで、同じものを食べて、同じ事で笑って、同じ事で悲しんで……そして、同じベットで眠って、同じ夢を見た。幸せという夢を見た。それが、夫婦の現実であった。

 ただひとつの、夫婦合わせて、ひとつのこころの。

 だから人並みに……互いを求め合った。

 慎一の、若い肉体のたけりを、由美子とて、溢れんばかりの性愛で受け容れて、融け合う時間を多々持った。

 由美子は、慎一に、女の悦びを教えられた。

 それぞれの肉体に、エゴを掲げる異性の肉体を、記憶付けるように、体を交わした。若さ故の、睡眠不足をいとわぬ営みであった。

 その翌朝、ふたりで食事を摂る時の、由美子の面映ゆそうな顔付きに、慎一は、殊の外優しくなれた。由美子も、そんなスーツ姿の慎一のネクタイを、出掛けに玄関で直してあげてから、「行ってらっしゃい」 と送り出す時に、〝女として、主婦としての幸せを、一番感じる瞬間である〟 と、折に触れて、自身の幼馴染み達に惚気のろけていた。

 円やかに、人生が流れていた。

 そんな、極く一般的な夫婦にも、唯一、気掛かりがあった。子供が出来ないのである。由美子は、一向に妊娠の兆しを見せない。

 その機会は、他の夫婦に比べて、むしろ多いと想えるのに、心配の余り通い始めた、地元でも評判の、産婦人科専門クリニックの、医師の言葉に、〝おめでとう〟 のひと言が聞かれない。無論、セカンドオピニオンの観点から、高名な産婦人科を有する、幾つかの病院の門も叩いた。そして、何れの病院の精密検査に於いても、夫婦共々、生殖機能を初めとする健康状態に、器質的な異常は、露程も見受けられず、全くの健常者であるという結果であった。

 しこうして、由美子三十歳の時に、〝原因不明の不妊症〟 なる正式な診断が下り、病名となった。

 どこも悪くないにもかかわらず、付いた病名に対して、当初由美子は、やはり釈然とせぬものを否めず、少々、こころが鬱した。そして、つらつらおもんみるに、横浜の実家の母が、かつて、子宝に恵まれない期間が長く、ふたり兄妹の兄、のぼるとは、十二歳離れていた。どうやら、妊娠しにくい体質を受け継いだようで、こればかりは如何ともし難い。

 そして……「妊活」 なる夫婦共同作業が、本格的に始まった。

 どうしても、自然妊娠にこだわりたい由美子の為に、採用された手段とは、先ずタイミング法。排卵日の二日前の行為が、実は最も成功率が高く、妊娠のチャンスは六日間ある。当然、基礎体温のチェックは、重要な日課となり、慎一は、泊まり勤務明けの朝帰り直後であろうが、その日が土日祝祭日の由美子の休日ならば、願いを込めて、由美子の身もこころも愛した。

 医師の指導に従い、妊娠し易い身体からだ作りにも精を出し。漢方薬や鍼灸しんきゅう、日々の食生活、睡眠、運動等、多岐広汎に渡って、善しとされる事は何でも採り容れた。

 そして、ストレスフリーを目指して始めた、ヒーリング・ミュージック鑑賞の、映像の世界に魅了された由美子は、のちに、中学時代からの映画鑑賞の趣味に、没頭するようになる。店をひらけるぐらい、DVDを買い集めた。絵に描いたようなインドア派へ変わっていった。

 そんな生活振りの由美子に対し、勿論慎一とて、最大限に協力して来た訳で、共に、一意専心の絆で固く結ばれていた。しかしながら成果は上がらず、妊娠には至らない。出口の見えないトンネルを走るが如き、この作業に、次第にいら立ちが募り、些細な事から、小さな夫婦喧嘩が頻発して、


〈日常の不満が、つい口をいて出てしまう。その時の後悔といったら、実に忸怩じくじたるものがある。詫びるという事に、嫌気が差す……〉


 そこで、環境の刷新が、いつしか、夫婦の話題の中心に取って代わるようになり、現在の学大のマンションを購入したのである。自ら望んだ環境の変化に、下町育ちの慎一は、少々戸惑いを覚えはしたが、これも妻の為と想えば、気分も新たに再スタートを切れた。

 この辺りの人達は、みんな親切で、優しくて、大人しくて、山の手らしく上品で、そしてお洒落である。下町のサンダル履きのような、気軽さこそ希薄なものの、一歩退がって静観する眼差しが、街のアトモスフィアを満たしている地域性である。いわゆる、小金持ちの家が数多く存在していた。

 そして、この街の優しい空気、静かな住宅街の落ち着いた趣きが、果たして、ささくれ立った夫婦の間に流れ込んで、表面上、平らかな日々が訪れ、


〈息を継ぐ。数え続ける〉


 共に三十代半ば、働き盛りの人生のピークを迎えている。年齢的にも、人としてのクオリティに、一段と磨きを掛けねばならぬ時期、それを問われる世代である。若いばかりではない。従って仕事に於いても、質の高い業務、成果を要求され、当然、役職も給与も上がる。責任感、使命感が否応なく高揚する。


〈……非常に疲れる。とにかく、心身共に消耗する。それでも、ひたすら仕事に打ち込むしかない〉


 慎一も、由美子にしても。

 であるから、この頃、寝室を別にした。

 勤務形態が不規則な慎一は、由美子の健康を慮って、提案したものである。ゆっくりと日頃の疲れを癒し、充分な睡眠時間を保証する環境の確保という願いは、子育てのない周藤家にとって、極く自然な流れであるように感じていた。由美子も同意し、これを機に、それぞれ想いのままに、趣味に入り込んでゆく。

 互いに、必要以上の干渉をけるようになってゆく。過干渉を怖れる。

 会話も減り、子供が欲しかった想いは、


〈知らぬ間に、ぼやけて、しまった……〉


 そして、この曖昧さが、回答を保留するが如き生活態度が、夫婦の優しさ、そのスタイル、更に差し当たりの〝幸せ〟 なのであった。〝自由〟 であった。当面このままでという、暗黙のコンセンサスが、底流に横たわっている。面倒臭さを、排除したつもりでいた。

 ……慎一は、有給休暇を利用して、泊まり掛けで遠出のサイクリングに、ひとりで良く出掛けたものである。

 箱根や富士山、富士五湖方面、更に脚を延ばして、伊豆地方を旅して巡るのが好きで、嵌まってしまった。箱根などは、本当に風景が美しい所で、いつも東横線の車窓から望む、富士山の壮麗な容姿の足下に展がる、箱庭然とした佇まいの、正に日本を象徴する自然の造形美に、郷愁を禁じ得なかった。


〈……ひとりでに涙が溢れて、我慢出来ずに、嗚咽おえつを漏らした事さえある。なぜか、無性に、泣けて来る時があった。どうしようもなく……〉


 すると、不思議と気分が晴れたように想えた。一服の清涼感が、温かく自身を後押しする事に、こころからの感謝の念を贈りながら、帰路に就いたものである。やっぱり、自然は良い。

 そして、存分にストレスを発散して、帰宅すれば、由美子へ手土産を渡しつつ、旅の話をした。余りしつこくならぬ程度に、さらりと語った。そんな慎一に、いつも由美子は、さほど主観を交えずに、ただ、「良かったね」 と返した。

 それぞれ勝手に、といえば言い過ぎかも知れぬが、好きな事をして生活していた。もうこの頃には、結婚当初から一括して由美子が預かっていた、一家の財源、いわゆる財布も、自己管理に戻って、慎一は、小遣い制から解放されていた。住宅ローンも、月の期日までに振り込み、税金や公共料金の、銀行口座自動引き落とし明細の、通知を元に、ここでは話し合って、細かくはないものの、相互に補っていた。食費も、慎一は由美子に月三万円を渡し、由美子がキッチンに立って料理を作っていた。買い物も献立も任せていた。夫婦として、ありきたりの事ではあるが。

 しかるに、由美子の手に成った料理を、妻の手料理を、一緒に食べるという事、こんな至極当然の行為が、周藤家の場合、少々変わっている。慎一は、日勤時を除く、二十四時間の泊まり勤務の時、帰宅は翌朝の午前十時前後で、由美子はうに出勤している。よって、土曜日曜及び祝祭日の世間一般的な休日、由美子の休日以外の日は、誰もいない自宅にひとり帰って来て、ひとりで食事を摂らざるを得ない。なので、そんな慎一を案じた由美子は、夫の為に料理を作り、夏場などは鍋ごと冷蔵庫へ保管して、慎一は、それを温めて食べていた。たまに、由美子のメッセージのメモが添えてある事もあり、こころから安心して、妻お手製の煮物などをおかずに、一日の疲れをひとりねぎらっていたものである。その由美子の手料理を楽しみに、家路を急ぐ自身に、極く普通の、ありふれた、当たり前の日常に、幸せを感じていた。こんな、小さな喜びの中にこそ、ほのぼのとした、夫婦ふたり暮らしの温もりがあった。

 しかしながら、時の移ろいは、次第に、夫婦のかたちにさえ変化を及ぼした。

 互いの忙しさ故の理解、深い想いやりが、自制という仮面を装い、


〈料理を作らせたくない……〉


 それに対して、


〈料理を作る手間を、心配させたくない……〉


 という双方の想いを、まるで狙い撃つかのように引き出し……


「頑張って、作らなくても良いよ」

「うん。じゃあこれからそうする」

 と、

 交渉を容易に結び付けてしまった。


〈……なぜ? あんな事を言ってしまったのだろう。どうして? あの発言に至った自身を、疑わなかったのだろう……〉


 ふたり共、一抹のやましさが、あるにはあった。無論、発言の撤回も考えない訳がなかった。


〈が、でも、訂正すれば、気を悪くして……〉


 それを考えると、ただ、怖かった。

 夫婦なのに、本心が言えない。


〈不用意なひと言がきっかけで、大切な何かを、壊してしまうかも知れない。今のこの幸せを、失ってしまうかも知れない。考えたくない。頓挫してしまう……〉


 慎一も、由美子も。

 そして例によって、曖昧な方向へ流れてゆく。

 非情ともいうべきか、不運にも、ここからふたりの隔心かくしんが、動き始めてしまったのである。まさか、こんな事になろうとは、想ってもいない。坂道を、一旦転がり出したつぶては、止めたくても止めようがない。夫婦の間には、ポジティヴな想念の代わりに、先ず〝遠慮〟 が、幕間まくあいを置いてから、〝諦め〟 が、心象なる舞台に於いて、ネガティヴな演目を競うに至っていた。そして大詰は、お決まりの〝曖昧〟 である。夫婦ふたり舞台の掛合いで、三幕の世話物狂言が、立方地方たちかたじかたの二相入れ替わるが如き、浮いつ沈みつする様相を演じるのである。本心を秘す、仮初めのおもてを拵えて。

 その壁は、段々と高さや厚みを増し、恋愛関係から妊活の同志が、今となっては、もう同居人という家族に格を下げ、最早、


〈恋愛の対象に非ず、異性に非ず〉


 といった想念が、ふたりの精神の主流を成すまでに及んでしまった。

 一緒に食卓を囲む事、洗濯する事、リビングでテレビを観ながら寛ぐ事などなど、ふたり一緒なら一度で済むような事でさえ、別行動を執り、その矛盾があえてソフトランディングした地点が、「無関心」 なる、渺茫びょうぼうたる地平であった。そして共に……


〈身もこころも、愛せなくなってしまった〉


 それぞれの優しさが、謙譲という仮面を拵えたものの、夫婦の愛まで覆い隠した挙句、一体何を遺したというのか?

 それは、人生の、生きるという事の本質、その煩雑さに対して、正面から向き合わず、逃げ出してしまった罪である。そして、その罰として、打ち消しても打ち消しても、また現れてすがり付く、無念、屈辱、後悔、悲しさ、寂しさ……


 辛くなるばかりであった。

 もう、やり直す事は出来ない。

 そこまで、押し詰まってしまった。


 そんな内面は、男の慎一の場合、一際顔に刻まれている。人の内面は、余す所なく、表面に現れる。特に男の顔という奴は、そうして出来ている。人生を、そのまま映している。喜びも悲しみも、全て顔が物語っている。慎一の眼差しの深奥には、孤独な光が宿っていた。何を、どう話せば良かったのだろう、という。


 先刻の渡辺にも、その、影からの叫びの如き、先鋭的な直言にて、幾度か畳み掛けてしまったのであった。自らの精神の均衡、安定を図らんとする深層が、半ば無意識の内に外へ向けて、一般社会を利して、本能的に自己保身に走ってしまったのである。家庭での我慢百パーセントは、会社で発散せねば、トータルでフラットになれず、精神が持たない。しかしこれは、攻撃性をはらんだ、人権軽視行為に相当し、自己中心的、更には個人主義なるそしりを免れない、あたかも、人生は複数回あるが如き、舐め切った態度の所業である。

 それでも渡辺は、文句ひとつこぼさず、静かに去って行った。偶然再会した氏は、当時と変わらず、柔和な笑顔で、省子と慎一に相対した。慎一は正に、穴があったら入りたいぐらいの、恥辱にまみれた訳だが、それ以上に、渡辺の、過去に被った不名誉など物ともしないような、幸せ振りを見せ付けられ、自身の甲斐性かいしょうのなさに、ただ怯えた。限りなく優しい、リベンジャーたる氏には、吸い込まれるが如く、清冽な光が射し込んでいた。その色は、正にアベンジの光彩を擁した、遍照へんじょうの色相であった。

 確かに、慎一は明るい人間である。いつも笑顔を絶やさず、誰とでも分け隔てなく話す事が出来、冗談も良く言う、典型的な下町人である。しかし、その笑顔の内訳とは……実際、コンプレックスからの笑い、自己防衛の笑いであった。停滞した家庭の現状、望めそうもない将来に対し、こころは正直に反応して、その受け容れ難さ、嫌悪感から、自身の精神を守る為に、過剰に笑ってしまうという、精神行動に出た性質のものであった。渡辺に対する、まるでこころの平和を奪うが如き傷付ける、言葉の暴力とて、ここに、周藤慎一なる問題の根源がある。そして更には、虚言なる行動を示す可能性をも秘め、嘘に嘘を上塗りして固めた世界へ逃げ込み、自身さえ欺くという、自己欺瞞じこぎまんに陥り、呪縛じゅばくのような自身の正当化の、負のスパイラルが待っている。攻撃的な言動や過剰な笑い等の、極端化の裏には、深い闇が眠っている。そうならぬ内に、可及的速やかに、完全決着を図るべきである。



「ごちそうさまでした! 」

 揃って挨拶を納め、店のスタッフの笑顔に見送られて、再び潜り込んだ浅草のちまたは、落日の直中ただなかにあった。夕暮れ時の、寂寞せきばくの境に投げ出されたふたりは、自然に相携えて、時折、目を合わせる。


「桜橋に行ってみたいなあ……」


 省子とて、佗びし気に呟く。


「うん……」


 真夏の長い日中、日没まではまだ時間がある。

 隅田川沿いに寝そべったように縦長の、隅田公園内にある、リバーサイドスポーツセンターを志して、ただ、街を遊泳する。そんなふたりを充たすものは、満腹感だけではなく、その隣り半分のこころは、ひたすら輪郭を滲ませて、空っぽの手触りを、実存たるそれぞれに授け合っている。てて加えて隣りの人は、たったひとつの事実たり得る存在として、論を待たない。ふたつの実体が、隣り合って、並んで、そして……手を繋いで、生きていた。愛の介在という真実に、ふたりの関係は繋がって、ただ、空虚な気持ちに、空虚なる、目には見えない充実に、今尚以て酔っていた。それが、愛だった。だから、幸せだった……この上とも、空っぽのこころは、何かに、まだ良くわからない何ものかに、果てしなく続いてゆく予感が、ふたりの中を駆け抜けていた。尽きる事のない、大きな流れに。

 慎一は、久し振りの懐かしい故郷の、この空、この街の匂い、そしてこの風になだめられ、全てをひもとき、余計な衣裳を脱ぎ棄て、偽らざる素顔、裸身、つまりこころの芯を、省子に開示したがっている自身を、押しとどめながら歩いている。


 目には見えない何かを見る為に、

 今ここにいる。

 そして、今日……

 見た。真実を見た。

 ありありと気付いた。

 省子の強さと、

 それに対照的な、

 自身の弱さを。


 ……慎一の敷衍ふえんは止まない。


〈全ては、俺の怯懦きょうだな性格が招いた悲劇なのだ。それ故の間違ったプライドが、夫婦の関係をこじらせ、悪化の一途を辿り、問題を長期化させ、取り付く島もない所まで追い込んでしまったのだ〉


 言うに及ばず、由美子とて同罪、共犯行為である。

 夫妻は、根拠のない、脆弱な基盤の上に、砂上の楼閣を築いていたのである。よって、決然たる姿勢が欠落した曖昧さに、殊更意義を与え、正当化した為に、僅かばかりの優しさや、遠慮深さをかてに、唯一の拠り所を守って、細い糸で繋がり、長年、夫婦生活を営んで来れたのだ。本能的な優しさではなく、限りなく理性におもねった、大人の優しさによって、周藤家は成立していたのである。だからこそ、それに追従するが如く、ひとりの世界を尊重するに至ったのだろう。そして、これはもう、関係の破綻に他ならず、家庭生活は、虚像以外の何ものでもない。互いに自身の弱さ故、嫌いになる事も出来ず、にもかかわらず、関係の根拠たる愛情を消してしまった。

 間違ったプライド。それは、他を容れないという、排他的な、盲目的なもの。換言すれば、閉ざされたプライドである。本来プライドとは、開かれた性質のものであるはずで、当然、他を受容する。人間とは、エゴを内包する生き物である。虚勢なる概念もまた、含んでいる。時に、そのような精神行為を見せたりもする。それもやはり、自身の弱さ、臆病さに起因する、現状の不満、自業自得のやり切れなさとして、表出される事がほとんどである。自らを信じて疑わない、プライドなる精神、それが、他を容れない、閉ざされたものであった場合、これは間違いなく、不幸である。プライドであるが故、間違った状態が長く続くこの顛末てんまつを、不幸といわずして、例外はない。そのようなものに、何の根拠がある? 何の役に立つ? 大したものは遺らない、中途半端な結果に終わるだけではないのか? その間違いに気付かせてくれるのは、いつだって、他者であるのに……ただのエネルギーの無駄遣いに過ぎないのに……そして、胡散臭うさんくさい、権威主義の足音が聞こえる。

 それでも人間は、年齢を重ね、その年代に達しないとわからない事というものがある。四十路五十路の人生の道程に、その間違いに、はたと、ひとりでに気付く。併せて、大切な事にも。しかし、宴のあと、夢幻泡影むげんほうようである。それが、顔を作る。男の顔を成す。



 ……真実は、省子と慎一それぞれの芯を射抜き、最短距離で、そのバックグラウンドを表白し得る、ラインぎりぎりの地点まで、うに到達していた。と、ほぼ同時に、隅田川の土手道に差し掛かっていた。すぐ南に、《言問橋ことといはし》 の翡翠色のアーチが、両腕を拡げるように、大らかな架設の所作を供覧に付している。

 ふたりは、手を繋いだままで、省子は、堤防のきわを歩きたがる。北へ向かって、川を遡上するかたちで寄り添う、その後ろ姿を、角度の小さい空にやっとぶら下がっている落陽が、音もなく、鮮やかな朱色に染め上げ、温もり合うふたりの隙間を、柔らかな風が過ぎ去ってゆく。夏という、大いなる燃焼、その活動盛んなる時季の、このひと時、束の間の安堵が、なぜかしら、川べりの風景に、ひと握りの物悲しさを落としている。日盛りの忘れものを探すように、省子と慎一は、ただ黙って、歩みを揃えていた。

 そして、川面へ目を移せば、風になぶられるその表面は、いささか立腹の風情をあらわして角を立てる、三角形の小々波さざなみの、不揃いの連鎖に埋め尽くされ、それを鎮めるが如き、斜日の光を蓄えて、黄金色こがねいろに煌めく穂波の、豊饒たる叙景を綴っている。

 ふたりは、揺々たる光束の奔流の中、漸く辿り着いた《桜橋》 の真ん中で、ただ、立ち尽くすだけであった。

 視界の焦点を引き絞るいとまも与えぬ程の、眩い光跡を、瞼の裏に映し込まれ、言葉もなく、掌の温かさを頼りに、小々波さざなみの囁きを聞いている。あともう少しで、日が沈む。光の色相は、やがて残照の趣きに移ろい、今以上、もっと色合いを深めて紛擾し、光と影が惹かれ合うように崩落して、この上乱れ迷うのだろう。

 だから、それでも、


〈……このままで良い、このままで……ずっと、このままでいたい、ふたりだけで……〉


 互いに、愛していた。

 ただ、愛していた。どうしようもなく。

 それが、嘘偽りのない真実であった。

 こころの芯には、愛が、

 愛しているというこころが、

 揺るぎなく存在していた。

 本心であった。


 この、限りなくポジティヴな感情、〝好きである〟 という想念は、無尽のパワーを生む。その対象は、人や物事全て、あとう限りの事々物々、森羅万象、何でも自由である。たとえば、〝私はあの人が好き〟 そのこころ。〝僕はプロ野球選手になりたい、野球が好きだから〟 その気持ち。この想いが原点となり、ここから全てが始まる。 プリミティヴな芯であり、核を成す。であるから、この想いを強力に維持せねばならず、忘れないように、想いを繋げる為に、自らの中で何度も反芻はんすうする作業には、往々困難が伴うものである。しかしながら、好きなのであるから、どこまでも頑張れる。努力を継続出来る。どんな壁やプレッシャーにも耐えられ、むしろそれを楽しめるというか、それを食らって生きる事に、喜びさえ覚えるようにもなる。芯がぶっくなり、鍛えられる。よって、自己実現に繋がる。

 シンプルにいえば、「好き」 なる想いは、神が与えた至高の武器である。これ以上、素晴らしいものはない。だから、〝大切なもの〟 なのである。

 さりとて、事実、神はこれと対極を成す、正に試練ともいうべき課題を、人類に用意している。それは、「忘れる」 という事……忘却こそ、最大の敵である。〝好きである〟 というこころは、大きく育まねばならないが、その尊い想いまで、忘れてしまう、消してしまう。

 時に、人は、忘れてしまいたい、いやな事に出逢う。そんな時は、忘れてしまいたいと念じるより、その対象から、一切の感情を排除する事、つまり、考えない事である。忘れたいとする感情は、ややもすると邪魔をして、その想いばかりを過度に膨らませがちで、結局、忘れたい対象を覚えたまま、心象に変化をきたさず、客観的にも問題点を遺しっ放しで、解決しない事が珍しくない。であるから、頭の中からその存在を消す事。要するに、悉くの感情を完全に遮断し、冷徹なまでに放置する事が肝要である。従って、忘れた事と同じ事になる。勿論、意図的なこの精神行為には、時間と人生経験が必要である事は言を待たず、厄介この上ない。

 されば人は、忘れたくない、忘れてはいけない、大切な事は忘れ、忘れたい、忘れなくてはいけない、たとえば無意味な事、役に立たない、根拠のないプライド等は、忘れられないものである。そもそも、忘れたいという否定の感情は、大きなストレス反応を伴い、エネルギーを浪費する。それを回避するべく、人は、忘れられないのかも知れない。それも人のごう、悲しいさがなのか……



 ……斜陽とて、

 ほんの、たった一日の名残りを、惜別の涙が潤みくずおれ、真っ赤に泣き腫らした顔をして、低天に踏みとどまっていた。その涙は、果てしない高天原たかまがはらのキャンバスを、朱赤色しゅあかいろに染め尽くす、腐心の汗をも滴り込ませ、気紛きまぐれに通り掛かった、細長の雲の連山の、脊梁せきりょう懸想けそうするが如き、くれないの濃淡の変調を奏で、真横に撓垂しなだれ掛かっていた。

 夕景のグラデーションの仮相かそうの、日替わりの変則的な一幅いっぷくは、光の崩壊が兆した薄暗い影が、時間や風向の変移の威を借り、おもむろな凋落が始まったプロセスを染筆している。

 夕日の赤橙あかだいだいの光は、ある所では誇らし気に情熱を燃やし、またある所では落ち込んで影を成し、その敗北の灰暗色はいあんしょくが、時に騙し討ちのように、赫奕かくやくたる光を懐柔し、互いの領域を混沌の淵酔えんすいいざない、溶融した鉛色なまりいろの鈍い光沢を溜め込みつつ、放射していた。

 彼方に仰ぐ、紅い雪景の山脈の如きその偶像は、所々跳ね出した絶壁の啓示が、神聖の弥栄いやさかたる、幽寂閑雅ゆうじゃくかんがな気に包まれ、それすら全く意に介さんばかりの、神々しいまでの光炎こうえんに照映し、朱紅しゅこう八重棚雲やえたなぐも煙霞えんかかしずかれ、超然と座していた。辺りに人影は疎らで、黙して語らずとも、その神意は雄弁である。人は、何を感じ、そして、何を想うだろう?

 悠々たる横長の、雲の深山幽谷しんざんゆうこくは、幾重に折り重なる、かさねの色目の如き明彩の、相異なる度合どあいに、暫し戯れていた。

 叢雲むらぐもの層の、かさねの前合わせのような被さりは、中天のそこかしこで、衿元で行き逢い、羞じらう素振りの真紅しんくに燃え、横へ流れる程に、一歩退がる気兼ねの、茜色あかねいろの落ち着きを見せて置きながら、ふと、その端が千切れ、唐突にまた、一点の断雲だんうんが追い駆け、憂い顔を隠す笠雲かさぐもが、溜め息交じりに薄紅色うすべにいろぼかすものの、雲間に射し込む斜光に、強かよこつらを張られ、想わず濃紅こいくれないに気色ばむ。

 雲の火影ほかげは、あちこちで落ちくぼんで谷を作り、時として、恋煩こいわずらいにちぢれ展がる面相を、汲み取って欲しかったのだろうか、振り向きざまに訴えた残火ざんかに、紫黒しこくの陰影が巧妙に近付き、妖艶な分厚い光沢を放ちながら、尚更夜闇やいんに招き入れ、奥まるだけである。

 狂おしいまでの生への執着、わきまえの付かない、見当さえも付かない煩悩ぼんのうの表出が、炎上する夕照の乱れるに任せた、光彩陸離こうさいりくりたる感情を露わに、魂の限りに絶唱している。何ものをも憚らぬ最期の歌に、全力を傾注している。たとえ下手でも、格好が悪くても、笑われようとも、ただ、その燃え盛る想いの丈を、伝えようとしている、いや、伝えるしかない……別離の歌を、血潮の如き赤い涙を浮かべ、何度も後ろを振り返りながら、「聞こえているのか? 見えているのか? 」 と、旺然と投げ掛けている。怖ろしく遼遠なる火光は、その相形そうぎょうの血色を、予測不能な美しさのうちに隠し切れない。

 人は、この夕日の営為とこころに、どれ程気付く事が出来るだろうか? 苦悩の果ての汗と涙に対し、誰がねぎらい、あるいは謝罪するのだろう? ……他ならぬ人の為に、ひたすら捧げて来たのかも知れないではないか? だから、以心伝心の情を以て応える事が、筋道というものではないのか? 親しき仲にも礼儀はある。情には情を以て、ほんの少しだけ、それだけで良い、一瞥を、一考を、真っ赤な泣き顔のようなあまはらへ、手向けるこころがないものか……同じ色を感受する、聞く耳を持つ、温かいこころが……。

 一途な赤は、世の栄枯盛衰の習い通り、静かにその役目を終える。終末のこの時、今のこの時だけ、生命いのちの限りとばかりに、才知と、慈悲憐憫じひれんびんの情を出し尽くしていた。有無を言わせない、圧倒的なキャパシティの、断末魔だんまつまの叫びの如き、光と影が織り成す、壮大なエピローグの一部始終は、この地球上の、全ての生命体に於ける、自然摂理の源流を、正に象徴的に啓蒙する、神の下賜物のひとつである。生命いのちの終焉の、恐怖や空寂は、入り日の赤い倒壊によって、優しく説かれ、何もかも許され、自ら供するように、その導きに任せてしまう。そして人であるなら、黄泉の客に帰する寂滅の、永遠の平安が、永遠という遺伝子を、正しくこの時、神の手によって等しく授けられ、巡り来る旭日の潮時を、礼讃するが如く、呱々ここの声を上げるだろう。平和な環境が、極く自然に、永遠なる概念を想起するのは、この無常の輪廻に由来しているものであり、終わりは、次の始まりを意味する。故に、永遠なる概念は、死さえも怖れない。そして死の先には、再び新たなる晨光しんこうが、炯然けいぜんとその扉を開いているに相違ない。

 さればこの境には、疑い、憂い、迷い、寂しさ、痛み、悲しみ、苦しみ、悩み、惜しみ、憎しみ、羨み、妬み、ひがみ、恨み、屈し、逃げ、嘆き、媚び、あなどり、怖れ、怯え、恥、嘘、虚勢、後悔、無念、意地、嫌悪、矛盾、孤独、そして、無関心、忘却……云々うんぬんの、ネガティヴな感情は一切存在しない。なぜなら、そこで立ち止まってしまう。滔々とうとうたる流れ、循環が途絶える大罪に値し、正のポテンシャルを葬る。

 さてこそ、そこには無為の世界が花咲き、言葉さえ、微睡まどろみの中で途切れがちになる。ありのままの、自然の営為の前に、人の作為、殊に否定的な思考は無力で、基本的に、意思の介在を必要とせず、更に、宇宙空間の創造概念へと飛躍する。

 無限の旅路が、正にここから始動する……逢魔おうまどきは、〝終わりなき旅ごころの入口〟 であるから、旅情を駆る、憧憬がある、そして、温かい、涙がある。



〈……今日という一日は、もう二度と来ない。今日のこの一日に、逢えて良かった……そして、また、逢いたい……〉


 黄昏時たそがれどきの想いとは、破壊の美に臨み、再びの新生を望む想念。それはいつでも、遥かなるものを手繰たぐる序説である。人は誰しも、こころに神仏を、聖なる御心みこころ一如の想いを宿す。大切にしなければいけない。愛さなければいけない。


 ……慎一は、内省に陶然としていたのだろうか、隅田川遡行の旅は、この上時間を巻き戻したのかも知れない。今日という一日、自身の心胆は、光の波濤に浄化され、最早一糸纏わぬ、生まれたままの姿をさらしていた。


〈きっと、洗心のシンプルに、自身の存在がある〉


 そしてそこには、ふたつの想念が、たったふたつだけの想いが、自身を覚醒させていた。

 その内のひとつ、それは、


〈なぜ、大切な物事を、忘れてしまうのか? 失ってしまうのか? その結果、大切なものがのか? ……結局、築けなかったのか? 〉


 これに対する回答であった。

 畢竟ひっきょう、余計な、無駄なものを持っているから、のである。忘れなければいけない、棄てなければいけない、無意味もどきのものを持っているから、失ってしまったのだ。大切なものを持っていないのである。

 人間ひとりの存在は、実に弱く、脆く、そして小さい。その器の大きさなどたかが知れている、ボロボロのざるのようなものである。慎一はこの器に、個人主義なる厄介ものを、詰め込んでしまっていたのである。

 とかく、このいわばネガティヴな代物しろものは、曖昧で、優柔不断で、面倒な事を忌み嫌い、先送り後回しが常套手段の悪さをする。ほんの悪戯の如く、安易に。それが困りものである。この軽挙妄動は、更に何等迷う事なく短絡的に、身近な目先の自由に、自身の欲求を充たそうと走りがちであろう。たとえば、酒、ギャンブル、異性、クルマ……趣味に浪費する傾きを、多々見せる。局所への偏りは、同時に、その陰の増長を促進させるにもかかわらずに。

 考えるに、もっと、もっと大きな自由がある。人生トータルで幸せに生きるという目標、理想がある。それを誰もが善しとして、大切なものとする。神が与えたテーゼである。

 されば、


〝幸せとは何か? 如何にすれば、幸せになれるのか? ……〟


 これは飽くまで、慎一の私感の一端であるが、幸せとは、愛と金である。間違いなく。

 先ず、愛が核にある。そして金とは、愛を保持建設する為の手段である。人を愛し、大切にし、人に尽くすこころ、つまり優しい人柄、いい換えるなら謙虚さ、加えて間違ったプライドを持たない精神は、得てして、大切な事に気付くものである。それは、堅実な分相応の生き方、平たくいえば、賢い金の使い方、無駄のない効率的な使い道と、そのタイミングを指す。故に、謙虚で堅実な生き方によって、幸せは実現する。愛は金を生み、金は愛を輝かせる。

 愛という花を咲かせる樹は、我慢次第で金という実を付ける。この実の種が、再び樹に育ち、また花が開く。絆が生まれる。この樹とて人の子、こころがある。花も咲かせたけりゃ実も欲しがる。しかし、その花を食って生きてはゆけぬ。従って実を結ぶ事こそが、絆を守り、深める唯一の手立てとなる。花も実もある、それが幸せ。そして、愛するひとの花のような笑顔を守り、その笑顔に幸せにしてもらう、幸せを感じる。それが男の愛である。だから、平和である。

 いやらしい話ではあるが、金とは、稼ぐ、貯める、使う、の三つの顔を持っている。増やすという概念は、稼ぐというカテゴリーに含まれる。時に世間では、金は怖い、なる言葉を良く耳にする。この怖さとは、卑下する訳でも見下す訳でもないが、収入が豊かとはいい難い、生活にゆとりを持てない、一義的な怖さだけの事ではない。たとえ経済的に潤沢であっても、的を得た使い道やタイミングを逸した結果、形として、何も遺らない事態に陥ってしまう場合がある。この時、〝金は、あってもなくても怖い〟 という感覚が遺るもので、大切なものを失う怖さを知るに至る。と同時に、最終的に一義的な、無い怖さと目線が揃う事になる。これが、増減の止まない生き物、金の正体である。


 金に限らず、それを知る事が、人生に於いて、どれだけ大きな意味を持つ事だろう……真に、大切な事である。人生とは、成長とは、そういうものであろうか。人間の深み、味、つまり器量、そして顔を創る。この怖さを知った時、ベテランはベテランたり得る。本物になる。であるから、更には、失うもののない、それもまた、怖さ……ここに深く想いを致す事こそ、真の優しさであると、斯様かように考える。そして、何も一を聞かずとも、十も二十も三十も察する、大人の礼儀、日本人の精神性の真髄が、これにあると、信じる。


 ……高卒の慎一は、学歴や職業がダイレクトに影響する、稼ぐ、なる概念よりも、むしろ、使う、という分野に力点を置いていた。

 短大卒の由美子も、これに賛同し、勿論しっかり貯蓄も並行して、子供の教育資金確保の概念がない周藤家にとり、当然、住宅、老後の二点の問題が遺る。

 そこで、比較的若い内に家を持ち、ローンの満期後は、老後一本に備えるべく、夫婦共々、堅く無駄遣いもせず、新婚当初に立案した生涯設計にのっとって、それを実行して来た。

 やっぱり第一に、早くに家を求めた事が大正解で、慎一は、鳥越の両親がそのような人であった為、悪戯小僧いたずらこぞうでも肌で実感があり、それを見習った。これには両親もいたく感心して、余り人を褒めない職人気質の父、吾郎に、「お前、俺達を良く見てたな! 」 と、泣きながら抱き締められた想い出がある。次男坊であるが故、家を持つ必要がある。足下を良く見る事、見失わない事も、この時併せて諭されたものである。固定資産を持つという、足が地に着いた行いこそ、安定の礎と知った。

 人生には、目標設定と、それに基づく生涯計画が大前提で、ただ目的もなく頑張るだけでは、大抵、道に迷う。確かに、大切な事は、自然にわかって来るものだが……。それに、無難に時が流れていても、様々な経緯、しがらみ、人間関係、そして意地も加わって輻輳ふくそうし、イレギュラーを生み出して付いて回る。かくの如き、目黒の周藤家である。持ち家がある安心に油断したのか、個人主義の跋扈ばっこ……。失ったものは、余りに大きい。正に、人生に諸行無常の響き、皮肉なそれを抑え難い。


 結果、自身とて、道に迷ってしまった……


〈……由美子の、何を見ていたのだろう? 何をわかっていたのだろう? 俺は、何をやっていたのだろう? ……〉


 失った寂しさと、築けなかった慚愧ざんきの念の葛藤によってもたらされた、個人主義の副産物である。

 増長した影が、跳ね返って来たのだ。

 善かれ悪しかれ、やって来た事は必ず返って来る。カルマである。男こそ簡単に、人に頭を下げるべきである。

 そして、悲しいかな、人のさがは、脆弱な自己の器、キャパシティに、ネガティヴな悪習が、一度でも兆そうものなら、善しとする大切なものまで、容赦なく侵食して、忽ち染め尽くしてしまう。善かれとする美しいものは、行き場のない儚さに、ただ自ら消えゆく運命をも背負う、硝子細工のような繊細さを秘める。加えて、ビタミン群と同様に、蓄積されない。故に、日々の栄養補給が命綱、溜まる一方のネガ(略称) とは、全くの異質のものである。

 自らの不手際が、さも充実たらんとして虚勢に走り、威張る。尚も嘘なるよろいにて、武装を習熟するに至る。これ程の状況は、先ず見られないものの、正に病んでいる。それに対して、深く想いを致し、語らず静かに、触れないこころを供するべきである。周りだって、みなそれぞれに大変である。自らを棚に上げる道理など、どこにも存在しない。

 自らを不幸であると想うのなら、それは親の所為せいでも誰の所為せいでもない。他ならぬ自身の、うちなる敵の仕業である。責任転嫁など、いうまでもなく言語道断、筋が違う。自身の中で消化し切れない、子供の話である。精神的未成熟の、未自立の……伊達だてに歳を食っただけの話に過ぎず、聞く耳を持たない、罪深さであろう。

 社会に於いて、〝男は簡単に頭を下げるべきではない〟 とする意見が散見する。この姿勢、正しく間違ったプライドそのもの、こうした傾きは、正直、危なっかしい。威張る偉振る利口振る態度は、所詮、虚勢。大したものは遺らない事が多いのではないか? 馬鹿げた話である。いわば、利口馬鹿であろう。

 そうではなく、間違ったプライドを持たぬ証しともいうべき、馬鹿になれる、という精神こそ尊い。商売の王道、〝損して得取れ〟 のことわざの如し、生涯トータルで、自己実現すれば良い訳であるから、これ即ち、馬鹿利口といえようか。ピエロのような、平身低頭な振る舞いが、その人の能力や努力を隠す、臥薪嘗胆がしんしょうたんたる魂は、ここ一番で、一瞬で突き刺すような冴えを見せるだろう。よって、本物の自身に出逢えるものである。ユーモアのセンスがなければ、人間関係は窒息する。もっとも、馬鹿になれないなら、利口になれば良いだけの事ではあるが。馬鹿も利口も幅広く兼ね備えてこそ、ベテランたり得るように想えてならないのだが。

 この両者の間には、大きな隔たりがある。それもまた、現実である。しかるに、この前者とて、こころを持った人である。人の人たる所以ゆえんなど問題ではない。こころを内包する実存であり、人間なる実体である。大切にしない理由など、あるはずもなく、それでも、人は人である。

 動かし難い現実がある。人は弱く、怠惰な生き物である。さりとて、当然現実はたったひとつ、傍目はための客観性もまた、ひとつである。その現実には、そこに至る、そこに導いた原因、ファクターなるものが幾つか存在し、現実の成立を見ている。人は様々。時々人は、このファクターに対し、自らに都合良く扱いたがる。曲解、曖昧模糊あいまいもこ、虚偽……それぞれの器量に相応しい、意義を与えるべく、その着地点探しに明け暮れる。自身の好きなように、勝手に操作し、如何にもそのような形を作り出してしまう。つまり、真実を真実たらしめて、限りなく現実に接近しようと試みる。現実とは、人の主観により、善くも悪しくも、形態を変化させる事が可能である。

 このプロセスに於いて、好都合への趨勢すうせいに逆らうように、一点の疑義の淀みが生まれがちである事もまた、確かである。あたかも痞えの如きその不安は、好都合なる完成形を目的とする関係上、意図的に除外された、信憑性の高度なファクターであり、実は、これらが黙ってはいない。

 初めは、全体の力にへつらって見せて置いても、案の定、見事なまでに反作用の力が働き、充分に現実的な結論を想像し得る、正に真実という本線に復そうと、挽回するものである。最後は、きっちりと締める。このファクターを、本心、本質と呼びす。真実のこころである。

 無論、虚偽など足下にも及ばぬ、その力は強く、曲解や曖昧とて、面前にひざまずくだけである。虚しい操作に、人知れず懺悔ざんげの情念が、額の皺の深いひと筋となって、刻まれるだろう。

 本心を偽れば、必然的に現実との解離が生まれる。噛み合わない歯痒はがゆさは、本心に正面から向き合わずにいた、自身の姿勢に端を発した、真に怖ろしいものである。見て見ぬ振りには限界があり、頼るべきものが違う。拠り所はただひとつ、真実のこころである。本心を曲げようとする、自身の脆弱なこころではない。そのようなものに、甘えてはいけない。

 嘘という認識の有無に関係なく、現実逃避行動に躊躇逡巡ちゅうちょしゅんじゅんする事なく、ただ解離の海を漂うだけの、その果てには、〝無関心〟 と〝忘却〟 のふたつしかない、虚無の世界が、肥大化した口を開けている。色も音も風もなく、温度の概念すらない、他に類を見ない世界であろう。それを、孤独という。

 であるならば、たとえば、堅固な意思の力、つまり、たったひとつだけの本心を生み出して、かけがえのない、尊い現実とて、きっと創造し得る。一直線に繋がる。現実とは、気持ち次第で、こころひとつで、如何様いかようにも成る、変える事も出来る……。

 真に、人間は素晴らしい。無限の可能性をしまっている。答えはひとつではなく、いつどこで巡り逢うのか、誰にもわからない。神のみぞ知る幸運を諦める事なかれ、至誠通天である。

 たから……人間が好き、人間を愛している。これ以上、大切な事があろうか? もしあるのなら、今すぐ教えて欲しい。この想いを決して忘れない為には、やっぱり一も二もなく、ただひたすら、「好きになる」 、「愛する」 と、強く望む。理由など、そんなものは要らない。他人ひとは、自分にはないものを持っている。自分に出来ない事が出来る。実に羨ましい、真に凄い事である。たとえ批判の対象になり得たとしても、尊重こそすれ、過剰な批難には及ばない。それがマナーである。このマナーを逸した時、ルール違反に至るケースが見受けられるが、ルール違反なるトラブルの前には、多々このマナー違反が引き金になっているのではないか? トラブルという事実に隠れた、真実が存在するものである。さればこそ、酌量の情けたる精神とて、大切な事であると、考える。

 愛されている認識、その経験は、極く自然に、「ありがとう」 そして「ごめんなさい」 のこころを紡ぎ出す。〝私の為にありがとう、こんな私の為に、ごめんなさい……〟 されど、愛の受容体たる人のこころは、実に移ろい易い。必要以上に求め、わがままにもなれば、供給不足の所為せいかして、簡単に反対側の世界、〝畜生ちくしょう! この野郎! 〟 のネガの境、いては解離の地平へ駆け込む。故に、人のこころを軽く見てはいけない。他人事ではない。他人とて人、そして他ならぬ自身とて、人である。人は、いつまでもどこまでも人である。限りなく人間である。それ以上でも以下でもなく、そのままの存在である。


〈俺は……愛と感動の求め方を、誤った……〉



 ……如何せんネガティヴの専横を許し、瓦全たる巡り合わせに、甘んじざるを得なかった慎一であったが、暗渠あんきょとて、何れひらけた本流と、流路形状が一緒になり、間違いに気付かせてくれる、岡目八目おかめはちもくの如き誰かの、救いの手を待っていたのである。神の恩赦にも似た、温かいその手を……。

 そして、自由が利かなかったうつし世に、正に夢幻ゆめまぼろしの如く行き逢った省子が、今、隣りで、微笑んでいる。

 省子というひとは、



〈だって、こんなにも可愛いい。だから……ずっと、そばにいて……〉



 省子とて、

 ずっと……

 の想いは、

 一緒。

 ただ、愛し合っていた。


 それから、慎一の、遺るもうひとつの想いとは……


 慎一は、俯きながら小さな溜め息をくと、髪を風にほどかれ、夕日に煌々こうこうと照り映えた、省子の若々しい横顔を、視界の端に見付けていた。人間には到底数えられない、無限の光芒の集光体のような、その省子の額の髪の生え際から、うぶげを透かした金色の光暈こううんが生じ、白いポロシャツの、ボタンを掛けていない襟元で途切れている。

 その胸元、真珠を集めて出来ているような、白く滑らかなデコルテが引き留めているのは、何も残映だけではなく、慎一は、そんな温感さえ、自身の横顔でそらんじている。ふたりの間に流れる、風とは違う空気が、時間と申し合わせるべく、立ち止まりつつあった。円やかな、風の匂いがしている。

 慎一の、省子の白いデコルテに、自身を映り込ませたいような、おぼろな欲求に撫でられるままの、ワン・アングルの隅には、いつしか、省子の温感が際立ち、省子とて、慎一の、穏やかな息づかいを計りながら、漸く自らを律していた。それぞれの横顔が、満を持す含羞を隠し切れずに、それでも、なだらかな一景にも頼り切れずに、宙に浮いたまま、何かを黙読するしかなかった。

 そんなふたりだから、愛する人の言葉を待っている。ただ、欲しかった。楽しかった今日一日の、夢の続きを、語って欲しかった。尚以て、聞いていたかった。だから、一緒にいたかった。省子も慎一も、もう離れたくなかった。

 如何にも東京らしい、人工の造形物のプライドを、一息で慰藉するような、比較さえ虚しい悠久の自然の、飽くなき無垢の光被こうひする現実に、ともすれば吹き飛ばされてしまう、都塵とじんの如き一点となって、ふたりは、ただ獅噛しがみ付くしかなかった。

 河畔の返照の第一章に遊び、洗われ、微酔ほろよい、そして、共に倒れようとしていた。優しく突き刺され、最早、互いに自らの手を延ばす事だけが、唯一、釈然としていた。しょうを指す如く、わかっていた。

 そして、許されるのなら、本心を告白したかった。慎一を覚醒させた、最後にもうひとつ遺された想いが、省子のそれと一致した。それは、静かな緊張感を伴って、省子をも目覚めさせていた。正にこの時、柔らかな風がなかだちとなって、慎一という雄蕊ゆうずいから、省子という雌蕊しずいへ、永遠なる愛という名の下に、精神の自立の種子が、授受の瞬間を待っていた。


 颯然さつぜんと風を斬り、矢は放たれた。

「今、話すべき事じゃないのは、良くわかってる。でも、聞いて欲しい……」

 慎一は、せきを切ったように、ゆっくり語り始めた。

 由美子との冷たい関係は、その輪郭を、省子へ伝えてある。省子とて、察するに余りある所で、触れる事など出来るはずもなかった。

 そして、この上とも省子は、覚悟の程に、自然に口元を結んだ。妻に対する責任の所在概念に苦慮する、慎一の真面目さを、誤魔化す事が下手な不器用さと、そのやり切れなさを、今日という、忘れられない一日の中から、拾い集めていた。何れにせよ、来るべき時が来ていた。

「俺は……傷付きたくなかった。女房に、嫌われたくなかった。だから、過剰に優しくして、全てを許した。それが、大人の優しさだと想っていた。何れ、そんな生活を続けていく内に、女房は女房ではなく、ただの同居人、他人という家族にしか想えなくなってしまった。女房も同様に、俺を旦那という存在から消していた。気が付けば、互いを愛せなくなっていたんだ。愛を、忘れてしまった……。辛かった。寂しかった。芯をけて、柔らかい所ばかりをって食べて来た報いが、痛かった。自分で自分の足をすくってしまったんだ。でも、もうどうにもならなかった……そんな時、省子と出逢ったんだ……」

 慎一は、尚も目をすがめた。省子も、こぼさないように、静かに受け取っていた。揃って、虚空を望みながら……。

 更に続ける。

「そして今日、はっきりわかった。だから言える。俺は……省子を愛している、本気で愛している。でも……怖いんだよ……俺は、また、由美子と同じ存在を、作り出してしまうんじゃないかって。また、逃げ出してしまうんじゃないかって。そしてまた、大切なものを、失ってしまうんじゃないかって……自信が持てないんだ……」

 慎一は、自らの胸の痞えを表白した。

 それは、とげのように胸に刺さって、心を圧搾する、いいようのない痛みがあった。こんな痛みは、かつて経験した事がなかった。それが、愛だった。

 省子が、沈黙を辞した。

「……慎一さん。あなたは、逃げ出してなんかいない。だって、あなたの笑顔は、私を幸せにしたんだよ……嘘じゃない。私だって、慎一さんを愛してる。逃げ出すような人が、人を幸せに出来る? 幸せって、真実って事でしょ? ね、そうでしょ? だから……お願い……逃げ出したなんて、言わないで!!」

 省子は、最後に語気に力を込めて、押し強めた。じりのない愛が、そこにあった。

「省子は、強いなあ……真っすぐだ。どこまでも、真っすぐ……羨ましいよ。その強さが、省子のスタンダードなんだ……」

 ふたりはフリーハンドで、文字の一画から、こころのノートに書きつづった想いを、届け合っていた。その全面に渡って、無尽の情念の真赭ますおが雪崩れる直中ただなかへ、取り落とされたような、悲しみの歌を、み合っていたのだろうか。シンプルな想いを、装飾の排除だけでなく、むしろ濃縮という、シンプルを。

 ただ、愛おしく、丸い手触りが、ふたりのこころにうずいている。風の手が、夏の川べりの夕暮れ時の匂いを、あおいでいる。人影を、消すように。悉くを、融かすように。ふたりに、教えるように。

 省子は、ふと、慎一の表情に目を向けた。久し振りに、その瞳を見たような気がした。オレンジ色に光っていたのは、やはり、涙だった……。

 おもむろに、引き寄せられるように、尚も省子は、慎一のその横顔に、息を忍ばせて、自らの顔を近付けた。慎一の、やや甘く、清潔感の漂う男の体臭に触れると、省子の風情を嗅ぎ当てた慎一とて、そして、何れともなく、迷わぬあごの向かう所、待つまでもなく、静かに迎えるように落ち逢い、自然に、唇を重ねた。強く、抱き締めた。涙の、匂いがした。

 金色のハレーションの中に、ふたりだけで逃げ込み、包まれ、その温もりに、ただ融け合った。川面を満たす、千々に煌めく揺らぎが、何かをささやいているのだろうが、もう、何も聞こえなかった。

 共に東京の川でありながら、その趣きを異にする、省子の目黒川と、慎一の隅田川が、今、重なり合った。夕照が、ふたりの深い吐息の中で、霞んで見えていた。オレンジ色の輝きが、待っていてくれた。そして、語ってくれた。決心し、誓い合い、背中を押されたふたりは、自ら輝くべく、既に壮途に就いていた。

 省子は想う。


〈……そして今度は、私達の番。自らの手で、ベテランのベテランたる周到を、愛と感動を、創り上げけゆく……〉


 他人ひとが拵えたそれを、ただ羨むだけの自身を、この夕日に、呑み込んで欲しかった。自身が創らぬ故、他人ひとのそれに触れた時、寂しい感動を覚えよう。どこまでも、自身が先をゆかねばならぬ。それが、絆。その先は、未来。


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