貫き流れる母なる故郷の川の夏
ある土曜日の午後一時、芝浦の日の出桟橋、水上バス乗り場に隣接する、当該施設の待合で、スマホを手に、人待ち顔で佇立している省子の姿があった。
言うに及ばず、待ち人は慎一である。動き易いスタイルで、との勧めにより、ブルーデニムに白のポロシャツ、白のスニーカーで纏めている。茶色い革製のバックパックには、一応上着も入れてあった。
約束の時間ちょうどに現れない、慎一を想い、少し口を尖らせたり、辺りを見
「ごめんなさい、遅れちゃって……お待たせしました!」
息を弾ませて、慎一がやって来た。
中目黒の出逢いから十日余り、慎一は、省子のスマホに直電を入れて、このデートを申し込んだ。その際、自身が既婚者である事、行き詰まった夫婦関係の大枠を、
巡り来た機会、その想いを、省子も慎一も盛んに感じていた。待ち遠しかった故の嬉しさを、共に生来の謙虚さがそっと包んで、羞じらいを寄越した。こころ膨らむままに、共同体としての第一歩が、今正に始まろうとしている……。
「ううん、待っている間も楽しかった。今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ。良い一日にしましょう!」
「慎一さん、敬語は止めよう?」
省子は、言葉尻を持ち上げて提案した。
「うん、ラフに行こう!」
笑顔で頷き合った。
十三時二十五分、日の出桟橋発浅草行きの便に乗船するべく、十三時に待ち合わせでいた。
慎一は、夏休み期間中の土曜日の混雑を予想して、水上バス運航を二社で担う内の、この便を運航する、東京都観光汽船に、電話を入れて問い合わせ、春の花見以外の時期は、予約せずとも、直接乗船場の窓口で当日券を買え、満員札止めになる事はない、との案内に安心していた。故に、少々遅参した訳ではないのだが、
実は、まだ学生時分に二回程、この遊覧航行の経験があったが、かなり月日が経っている。しかも、デートである。やはり、万感胸に迫るものがあった。江戸の情緒と今の東京を併せ持つ、故郷の表情に触れて、
〈……何かを感じたい、何かに気付きたい……素直な気持ちを、省子に伝えたい、感じて欲しい。離れがちになる人のこころを、離れてしまうかも知れない想いを、省子を連れて、自身のこころを確かめて置きたい。偽りのないこころを知った時、自ずと、先が見える。拠り所になる。強くなれる。省子と、こころを繋ぎたい。見えない何かを、見る為に……省子のこころが、知りたい……〉
必要であった。
それは省子とて……
「券、買っといた」
省子は、気を利かせて、浅草まで大人二枚の乗船券を、
「ごめんね、ありがとう!」
連係プレーの自然な呼吸に、互いに相性の良さを覚える。慎一は、自らの財布を手にすると、
「いくらだった?」
「後で良いよ」
「じゃあ、後でご馳走する」
「うん!」
まるで子供のように、無邪気に返す省子であった。
先程来、東京港を望む巨大なガラスの一線越しに、青一色に奮然とした空と海、加えて果敢な日射しが、これでもかと一心に寄り立てている。怖ろしいくらいの快晴。手の届かない端っこで、雲が
電話の案内通り、二階建ての《
忽ち、盛夏の昼下がりの熱気と直射が、潮の香りを伴って、岸壁を焼き尽くすように掛かって来る。都心とはいえ、海のそれは強烈である。ここは、紛れもなく海であった。瞼が透ける程の眩しさを知った。風は無風に近く、海上は
港内を航行する数隻の中型船舶は、忠実に水先を守り、その間隔を保ちながら、多くの小型船舶が、
大吊り橋に至る、ループ道の高架橋の偉容に、礼を執るように、一列を作って、足下に注意しながら乗船した。省子が前、慎一は後ろである。その
「二階へ行こう」
「うん!」
階段を昇った。
「デッキベンチが良い」
省子の先導で、最後部の広いスペースへ出、船尾をなぞるように半円を巡らせた形の、長いベンチシートに座った。省子は、屋上デッキに通じる階段を、確認済みで、
「後で行ってみようよ」
その、喜色に満ちた
この二階席の頭上も、全面屋根に覆われているのだが、船の左右両サイドと、このデッキベンチのスペースには、窓ガラスが一切ない。前面及び続きの一部を、一階席からルーフガラスに守られてはいるものの、両サイドと、階下にも備わる同様の船尾小空間は、一階席とてオープンエアである。半ば
……出航の船内アナウンスと共に、ディーゼルのエンジン音が慌ただしく響いて来た。船尾のスクリューが、落ち
全方向に拡がるパノラマは、どこまでも
側方を横切る
水の葛藤は、
「……何とも言えないなぁ……」
想わず本音を吐露した。
「でしょう、わかる。水辺では素になれるもん」
省子とて、本心を発していた。
その、強い風と日射しに、目を
なぜなら、既に、その先のような、何ものかの予感を、互いの横顔に見付けていた。
〈そして、その横顔を、こちらに、正面に、振り向かせたい……振り向いて欲しい……〉
さるにても、眩しい。
とはいえ、水上の疾走感は愉快である。
開け放たれた視界には、澄み渡る光彩の
最下流部の築地大橋の下を
「ほう?!……」
水上からしか見られない、橋脚下部や橋梁の裏側の、鉄骨群の力強い構造に、他の客達と一緒になって、ふたりも小さな歓声を上げた。
「こうなってるんだねぇ、凄いねぇ!……」
と、目を丸くする省子に、慎一は、
「子供の頃、悪戯小僧だったんだけど、うちの両親は決まって、『橋の下に棄てちゃうぞ!』 って叱るんだよねぇ」
「アハハハハ! 」
ふたりして笑って、省子が、
「それ聞いた事ある! 」
輪を掛けて哄笑した。
「慎一さんって、実は……凄く面白い人でしょ? 」
「ええ〜っ?! 」
語尾が昇り詰めてしまった。
互いに目を遊ばせているのだが、極く自然に、相手の面貌が見て取れる。手に取るように、わかる。
過日の、中目黒のカフェのテーブル越しではなく、すぐ隣りの、手首を返せば、体に触れられる程の距離に、肩を並べて座っている。
息
〈大好きなひと……〉
になってゆくのを、真っすぐな体温を感じていた。
〈止められそうに……ない……この船のように……〉
川幅のほぼ中央を走る 《
ひとつ、ふたつ……そして三つ目の波は、水面がやや盛り上がる程度ではあるものの、辛うじて堤防へ往き着き、三つ悉く跳ね戻って、返しの波に変わる。
ひとつ目の寄せ波は、返され、ふたつ目の寄せ波に均され、川面は落ち着きを取り戻す。三つ目は、寄せも返しも終始穏やかである。そして、上り下り問わず、次の船が通り過ぎるまで、暫し、平和な時間が流れる。
船舶の往来を許す川の風景には、こんな場面が日常的である。堅固な堤防を控えた、都市の河川の顔でもある。現在の隅田川は、昔と違い、堤防を階段で降りられ、水面と同じぐらいの高さに、親水公園の遊歩道が整備されており、断然、水辺が身近な存在となっている。殊に、浅草界隈の隅田川は、桜の名所として全国にその名が知られ、
慎一は、省子の表情が、時を追うに連れ、
〈……女性らしい優しさが、
悟っていた。
その、瞳に湛えた冴え渡る輝きの中に、
隅田川
〈俺だけに許された、作業である。俺にしか、出来ない。他愛なく主張する、その核に、
省子とて、スポーツマンの慎一の包容力を、その逞しい肉体に守られた温かいこころを、言動の端々から受け取っていた。
〈……なかなかにキュートな性格は、つまり基本的に、楽しい事ばかり考えている人なのだろう。笑顔、優しいこころ
時を忘れ、その代わりに、
〈……大好き!〉
を遺していた。
人に笑顔を与える事の出来る人。
人を笑顔にする人、である。
海鳥の小さな群れが、河口方向へ飛んでゆく。
この季節、この時間帯は干潮である。鳥は、その翼を休めもしようが、また飛び発ち、無尽の蒼空を駆け巡りもするだろう。太陽の恩恵を、小さな羽根一杯に浴し、光点となって飛び去る
もう、幾つ目のどの橋かも、良くわからないが、橋下潜航の刹那の暗闇に説かれ、視線を切ったふたりだったが、今度は急に無口になってしまっている。ふと、目が合うと、眼差しの中に、同じ色の光が宿っている気がした。ただ、ゆらゆらと、彷徨うに任せていた。
鳥は、どこまでも飛んでゆくのだろう。
……しかし、東京も随分変わった。
下町を貫き流れる、この隅田川の両岸の街の趣きに、かつての高度経済成長時の、
この微妙なラインを、新旧の東京の代表的な横顔を併せ持つ、下町の風情を、臆せず展開しながら、ふたりを乗せた《
そして慎一は、郷愁が漂うままに、逆らわない。
どうしようもなく、溢れるばかりで……止められない。
その様子に、省子のこころとて、ただ付き従って、合わせ鏡の如く、互いの
見つめ合う時、自分を見つめていた。
自分の中へ、ただ、逃れてゆくのだろうか?……
ふたりは、見られているときめきの陰にある、本当の自分の存在に、気付いた。相手と目が合う時、自分が見ているものは、自分のこころに他ならない。
〈だから、虚勢を必要とする……〉
省子は、慎一のその目から繋ぐように、こんな想いに満たされていた。愛の欠片、「絆」の、始まりであったろうか……。
〈慎一さんの目の中に、素顔の、ありのままの、本当の私がいる。慎一さんが見ている、私の目の中には、本当の慎一さんがいる。それは、きっと、
この上とも慎一は、懐かしさを膨らませる……
〈……川面は、昔と変わらない顔をしていた。そういえば、川へ行くと、いつも待っていてくれた。語り掛けると、必ず
「屋上へ行こうよ!」
「大丈夫?!」
慎一の心配をよそに、
「全然平気! 楽しい! 」
まるで遊園地に来たかの如く、音吐朗々と答える。
「本当楽しいね! 」
慎一も賛成した。
「本当、今日来て良かったぁ、慎一さんありがとう! 」
「いいえ、喜んでもらえて良かった。また誘っても良い? 」
「勿論! 」
手摺りを掴む両腕を伸ばして、上体をやや仰け反らせながら話す、省子の可愛いさに、慎一は、抱き締めたくなる衝動に駆られていると、更に、
「あっ、高速道路だ! 」
と、小さく叫ぶ歓声に畳み掛けられ、自らを冷ますように、
「両国ジャンクションだね」
「もう両国なんだ。慎一さん、国技館でお相撲観た事ある? 」
「うん、あるよ。両国はそんなにないけど、蔵前は子供の頃しょっちゅう」
「えー凄い! 蔵前にもあったの? 」
「うん。平成改元と同時に、両国国技館が開館したんだよ。国技館の発祥は両国。今の国技館のすぐ南に、《
「流石地元、詳しいね」
「その東隣りのビルが、もうかなり昔だけど、日大講堂だったんだ。そこに、初代の国技館があったって聞いてるよ」
「へぇ〜……」
省子は感心しながら、慎一の往時の東京の話を拝聴した。
俄かに船内アナウンスが響き、間もなく浅草到着を告知した。ふたりは二階へ降り、再びデッキベンチに座ると、省子は、
「あっという間だったね」
満足の
「また来よう! 」
声を合わせて誓い合った。
船は徐々に速度を落とし、川幅の右、墨田区側に寄り進む。前方には《
船が
「へえぇダイナミック! 」
と、掻き回されて渦巻き、青白
船内は、大満足の空気が膨張してざわめき、省子もひと言、
「わぁ着いたぁ! あぁ楽しかったぁ! 」
とにかく、明るい人である。
慎一だって、
十二分に、遊覧航行の旅を満喫したふたりは、体中から発散するその痕跡を、何等憚る事なく、出逢いの喜びを噛み締めつつ、ちょっと、見つめ合った。儚い夢には終わらせたくない想いが、盛夏の眩ませる日射しと、川面の反射に勢い付いて。その瞳の色合いを、尚以て濃厚な黒に仕上げている。黒は、もっと深い黒に、ただ呑み込まれてゆくだけであったろうか。そしてそこには、強い意志があった。
省子も、やはり慎一も。
下船したふたりは、直接川底から鉄骨の基礎を組み、吾妻橋西詰の堤防から跳ね出した格好の、正に川の上に設置された、さほど広くはない、この水上バス発着場の待合で、暫時、腰掛けて休憩を取っていた。
揃って、慎一が買った赤い缶コーラを飲みながら、ほっとする中にも、澄明な余韻が遺り、相半ばしていた。地下鉄銀座線及び、東武スカイツリーラインの起点、終点でもある、浅草駅前交差点のアトモスフィアに、慎一は、いよいよ懐古の情が禁じ得ない。まだ上陸したばかりであるのに、通り
「疲れた? 」
省子に尋ねた。
「うん、少し。でも最高に愉しかった。だからお腹空いちゃった! 」
「じゃあ食事しよう。何が良い? 」
「慎一さんが、昔、良く食べてたものが良い」
「洋食なんかどう? 」
「OK! 」
「そこのデパートの少し先なんだけど、大丈夫? 」
「全く問題ありません! 」
警備員の真似をして、敬礼で答える省子である。相変わらず、元気で無邪気だ。
東武浅草駅は、そのデパートの二階を占めていた。ここから、果ては世界文化遺産の日光や、群馬県の
ベンチから立ち上がったふたりは、出入口から、数段の階段を降りていると、この季節、この時間帯であるにもかかわらず、予想外に心地良い風が、浅草の街にそよぐ。それは、空腹のふたりを
「周藤さん……」
……どこかで聞き覚えのある、中年男性の声に呼び留められた。
ふたりは振り返ると、その声の主に、慎一は一瞬、戸惑いに突つかれた。
……前任の現場の同僚であった、〝
慎一より歳上の、五十少し手前の氏は、いささか白いものが目立つ、ふわりとしたオールバックの髪に、手を
「お久し振りです。一別以来ですね、お元気そうで何より」
と、氏は一礼を付した。
「お久し振りです。渡辺さんもお元気そうで……」
慎一も返礼を執り、省子も腰を折って黙礼した。氏の屈託のない笑顔が、ふたりの川面を鎮める。渡辺は、
「今日は、家族で来てるんですよ」
桟橋の方に目を移した。ふたりもそれに倣うと、そこには、氏の妻と
「地方へ嫁いだ長女が、旦那を伴って里帰りしてるんですよ」
「じゃあ久し振りでしょう、互いに孝行して下さい」
「いやぁ、わがまま娘でしたから、心配してたんだけど、何とか幸せにやってるみたいですよ」
「良かったですねぇ」
慎一は笑顔で祝福して、ふと、付き添う省子に目を配ると、三人家族へ返すように、何とも優しい面持ちで、そちらへ視線を預けている。その眼差しに、自らも幸せという領域に参加している、自負と安堵が、均衡を保っていた。幸せな、女の顔をしている。
「船ですか? 」
慎一の問いに、
「ええ、お台場まで」
「僕達も今、日の出から来たばかりですよ」
「あっそうですかぁ、じゃあ入れ違いですね」
「ゆっくり楽しんで来て下さい」
「どうもありがとう、おふたりも……」
「ありがとうございます」
慎一が
「ではまた、何れ……」
そう言い遺し、渡辺は
束の間の突然の出来事に、省子と慎一は、小さな喜びを見付けた。この小さな芽が、やがて大きく育って、更なる幸せという、大輪の花を咲かせる事を祈る程に、四人の後ろ姿と重なり、静かに、見送るのであった。
浅草は観光地だけあって、古今東西老若男女、実に色々な人が来るものである。慎一も良く聞かされた、かつての華やかさは、影を潜めてしまったが、街ぐるみの年中行事がとにかく多彩で、それを目当てに訪れる人で、今も賑わいは健在である。初詣に始まり、東京マラソン、桜まつり、
ふたりは、江戸通りを横断し、デパート西側の
「ねえ慎一さん」
「ん? 」
「渡辺さんご一家、私達、夫婦に見えたかなあ? ……」
慎一は想わずドキッとしたが、表情を変えずに、
「んん、『奥様ですか? 』 って聞かなかったからねえ、どうかなあ」
「見えるよねえ……」
省子は、嬉しそうに俯いて、そして、頬を紅らめた。
そんなふたりの会話は、街のノイズに掻き消されそうになって、でも、想いだけは遺って、急拵えの夫婦は、尚も歩道を泳ぎ続ける。並んで歩いているのだが、慎一の歩幅が、そのまま省子の歩幅に
東京の繁華街や観光地は、特に近年、どこへ行っても外国人の姿が多い事に気付かされる。我々日本人はもう慣れっこで、普通に街の風景の一部と化している、と言っても過言ではない。日本の首都に
「洋食屋さんらしい、可愛いいお店……」
省子は、そのままの笑顔で話す。
「老舗なんだけど、下町はざっくばらんだから、俺は落ち着けるなあ」
ふたりでの飲食店への入店は、中目黒のカフェ以来である。何といっても人間は、食事の時間が一番楽しい。ましてや愛する人と一緒なら……尚の事。
そして、店の扉を開ける時……省子は、もう既に、一歩を踏み出している己に、自信めいたものを受け取っていた。それは、痞えのようなネガティヴな性質ではなく、愛する想いに対する優越意識に他ならない。しかし、純粋であるが故の、由美子への気兼ねから、正面切って自信と呼ぶ事を、控える立場を選んだ。愛するこころは、誰にも負けない。強いこころに芽生えた、小さな自信であった。
昨日までの、ひたすら受け身の岡野省子は、卒業したのだ。いつも一歩
美しくも温かい、そして、厳しくも理性的な、愛という名の下の、精神の自立。
それが始まった事を意味する。
愛は、きっと、省子を強くする。
「十七時に予約しました周藤です」
大女将たる年配の女性の優しい案内に、この小さな空間の片隅のテーブル席で、ひと先ず翼を休めたふたりである。
「慎一さん予約してたんだ」
「うん。ここは知る人ぞ知る人気店なんだよ」
「うん。行列だもんね……」
カウンター席が八、テーブル席も八の、合計十六席の店内には、特に慎一にとって、憧憬以外の何ものでもない、家庭の気が
そして、
味の方はというと……
「おじいちゃんと
慎一は、省子と同じオーダーの、ミックスグリルを食べながら、
「
と、喜声を上げた程で、牛、豚、鶏の三種のソテーに加えてハンバーグ、その上にベーコンが乗っかって、黒の丸い鉄板の中で
「この量、食べられるかなあ? ……」
驚き覚め
「大丈夫。みんな最初はそう言うけど、結局ぺろっと食べちゃうから」
大女将が笑顔で頷いている。
「省子ちゃんは健康自慢でしょう、イケるよ! 」
「うん。お腹ペコペコだし」
「いただきまぁす」
声を合わせてから一口食すと、省子曰く
「美味しーい! 」
慎一にとっては、懐かしい故郷、浅草の味がした。過ぎ去りし昭和が、孫娘の手に成る料理に、そして、この店全体に遺っていた。昔と変わらず、あの時代のままで、逞しく生きていた。飾らず、力み過ぎず、省子と慎一を温かく迎えてくれたのである。
何も動かないもの、何も変わらないもの、揺るぎない確かなもの、本物を、本物たらしめる為には、極く当たり前の事を、当たり前の事のように難なく
「ねえ慎一さん。さっきの渡辺さん達、本当に幸せそうだったね」
「うん、そうだね」
「羨ましいなあ」
「……」
慎一は、答えられなかった。美味しい洋食の
……満たされてゆく胃袋に、口へ運ぶ手は止まらなかったが、反面、矢継ぎ
慎一は、前任地時代、都内の某大型商業施設の防災センターに派遣され、勤務していた。今の現場でもそうだが、警備の世界というのは、やはり先輩は新人の教育も、重要な任務のひとつであり、規律に厳格な警備員としての常識、心得、あり方、実務の手順等の必須事項を、行動で示さねばならなかった。いわゆる、縦の序列に統制された集団である。本社は、このような企業風土、業界体質に対する適性を判断した上で、未経験者であっても、広く応募者を採用していた。前職の職種が、大きな判断材料であった。
そしてそこに、警備業未経験の新人として配属されたのが、この渡辺なる中年男性であった。慎一よりも年長ではあるものの、後輩は後輩、しかも初めて警備業に携わるという事で、正に一から教えねばならない。真面目で温厚な人となりの渡辺は、大手化学メーカーの製造部門を早期退社して、そこそこ余裕のある暮らし振りの人間であった。現場の先輩諸氏総掛かりで、一人前の警備員に育てる。建前は、かくの如しであった。
が、しかし、時に現実は意に任せぬ事が起こるもので、実際、この渡辺に接してみると、その生来の職人気質に由来する、製造部門の人間らしい、ひとつの事を突き詰める、長年の職業体質が災いしてか、臨機応変さに難がある。切り替えの上手い、要領の良いタイプの人間ではなく、その代わり、人としての習熟度が表れる文字などには、抜群の冴えを見せた。少々時間を要し、一通りの業務を単独で執れるようにはなったが、どこの世界にも、口の悪い人間はいるもので、この警備の縦社会に於いてもしかり、口撃の洗礼を浴びた訳である。
かかる状況下、羞ずかしい話ではあるが、残念ながら慎一も、浅草ッ子の気っ
さればこの一件は、慎一の中に、暗く大きな影を落としたのである。それは、渡辺の就業機会を奪ってしまった行為への反省は、勿論の事で、こころから謝罪したい気持ちで一杯であった。そして更に追及すれば、このような態度に走ってしまった、自身をそうさせてしまった根本に、深く想いを致し、これに対して、大きな決断を下さねばならぬ時期が、訪れている事を、知らされたのである。冷え切った夫婦生活の
〈……あれから、もう四年が経っている。不毛状態のまま、四年か……〉
故郷での楽しい食事の最中に、慎一は、省子に対する後ろめたさを押し隠しながら、努めて明るく振る舞っている。確かに、
〈とても愉しい。そして、省子が大好きだ。心の暗部が蘇生してしまった事は、俺の不徳の致す所ではあるが、愛を真ん中に据えて、満ち足りた家庭生活は築けなかったが、それでも、省子への気持ちに、一点の嘘もない。もう、迷いたくない。これからは、ここが全ての根拠になる事を、強く誓う。絶対に忘れない。この想いを、消したくない……〉
もう二度と、「好きだ」というこころを、失いたくなかった。
こころの不在、空虚な毎日は、もうたくさんである。
慎一が想うに、理想的な家庭像とは、先ず以て、社会に於ける最小単位の、相互意識確認の場でなければならない、としていた。
たとえば、どんな子供でも、親に、大人達に、「自分は大切にされている」と自覚する場面が、必ずあるはずである。つまり、「愛されている」と感じ取る経験が、絶対にある。するとその時、子供は、どういう反応を見せるだろうか? 言うまでもなかろう。優しさで返す、優しさで応える。人を愛せば、愛された人は優しくなれる。これが、最小社会たる家庭内の、基本中の基本の姿である。
言い換えるなら、正に、相互意識の確認作業、愛と優しさのやりとり、好循環、正のスパイラルと言い
愛というものは、愛とは、
信じ、認め、許し、待つこころ、
そして、与えるというこころである。
つまり、受容するこころを、給う事、
広く、受け容れるこころを、
与える事である。
愛を与えれば、愛すれば、
優しさの返礼を受ける。
この優しさとて、やはり、
愛である。
この愛の応酬……。
帰する所、人は、愛という名の下に、対等であらねばならない。であるから、家庭とは、フラットになれる、修正出来る場でなければならない。愛を確認する空間たるべきである。下らない冗談で笑い合う事だって、充分に愛の確認行為たり得る訳で、極く自然に、幸福感に目覚め、更には、この幸せが、いつまでも続いて欲しいと祈り、永遠なる概念に辿り着く。いわば、家庭内に於いて、めりはりを利かせるという作業であり、その為には、愛なるエッセンスが必須である。愛は自然に、永遠へと流れてゆく。
〈……ならば、なぜ、由美子への愛が消えてしまったのだろう? どうして、愛を繋げなかったのだろう? 愛せなくなってしまったのだろう? ……〉
慎一は、大事な愉しいデートであるにもかかわらず、由美子への想念に
〈……自業自得の、罪である……〉
そして、この刑罰の恩赦を
だからこそ、生来の慎ましさから、尚一層謙虚になれた。愛は、人を素直にする。省子には、失礼極まりない話ではあるが、更に追及の手を緩めなかった。この問題を乗り越えなければ、
〈前へ進めない、資格がない〉
それは、省子に対する、最高級の敬礼であった。省子に対して、自ら名乗りを上げたからには、男として、当然の精神行為である。
……つまり周藤家とは、慎一にとって、こころを融かすフラットな環境に非ず、正反対の、ひたすら忍従を強いられるだけの空間に過ぎなかったのだ。愛の流通のない閉塞感は、即ち、我慢させられている、受動的な感覚に支配されており、被害妄想を煽動するのだが、自身の優しさが、理性に、歩み寄る。
要するに、由美子へ、責任転嫁しなかった。正確にいえば、
〈……出来なかった……〉
従って、自責の念を抱え、辛抱を重ねて来たのである。決して、由美子の
〈由美子が悪い訳ではない。だから……嫌いになれなかった、嫌いになった訳ではない……嫌いなら、
どこをどう考えても、やはり、コミュニケーションの不在が、致命的である事は明らかである。
新婚時代は、互いに物珍しさからか、それはとても新鮮な蜜月関係にあった。常に一緒に行動し、たとえば、共通の趣味こそなかったが、慎一はサイクリング、由美子は映画鑑賞の余暇活動にも、共に相手の好みに充分に理解を示して、実に良く付き合ったものである。夫婦共同作業を通じて、尚以て新たな発見が嬉しくて、互いを真似る事に、幸せを実感していた。
同じ空気を吸って、同じ水を飲んで、同じものを食べて、同じ事で笑って、同じ事で悲しんで……そして、同じベットで眠って、同じ夢を見た。幸せという夢を見た。それが、夫婦の現実であった。
ただひとつの、夫婦合わせて、ひとつのこころの。
だから人並みに……互いを求め合った。
慎一の、若い肉体の
由美子は、慎一に、女の悦びを教えられた。
それぞれの肉体に、エゴを掲げる異性の肉体を、記憶付けるように、体を交わした。若さ故の、睡眠不足を
その翌朝、ふたりで食事を摂る時の、由美子の面映ゆそうな顔付きに、慎一は、殊の外優しくなれた。由美子も、そんなスーツ姿の慎一のネクタイを、出掛けに玄関で直してあげてから、「行ってらっしゃい」 と送り出す時に、〝女として、主婦としての幸せを、一番感じる瞬間である〟 と、折に触れて、自身の幼馴染み達に
円やかに、人生が流れていた。
そんな、極く一般的な夫婦にも、唯一、気掛かりがあった。子供が出来ないのである。由美子は、一向に妊娠の兆しを見せない。
その機会は、他の夫婦に比べて、むしろ多いと想えるのに、心配の余り通い始めた、地元でも評判の、産婦人科専門クリニックの、医師の言葉に、〝おめでとう〟 のひと言が聞かれない。無論、セカンドオピニオンの観点から、高名な産婦人科を有する、幾つかの病院の門も叩いた。そして、何れの病院の精密検査に於いても、夫婦共々、生殖機能を初めとする健康状態に、器質的な異常は、露程も見受けられず、全くの健常者であるという結果であった。
どこも悪くないにもかかわらず、付いた病名に対して、当初由美子は、やはり釈然とせぬものを否めず、少々、こころが鬱した。そして、つらつら
そして……「妊活」 なる夫婦共同作業が、本格的に始まった。
どうしても、自然妊娠にこだわりたい由美子の為に、採用された手段とは、先ずタイミング法。排卵日の二日前の行為が、実は最も成功率が高く、妊娠のチャンスは六日間ある。当然、基礎体温のチェックは、重要な日課となり、慎一は、泊まり勤務明けの朝帰り直後であろうが、その日が土日祝祭日の由美子の休日ならば、願いを込めて、由美子の身もこころも愛した。
医師の指導に従い、妊娠し易い
そして、ストレスフリーを目指して始めた、ヒーリング・ミュージック鑑賞の、映像の世界に魅了された由美子は、
そんな生活振りの由美子に対し、勿論慎一とて、最大限に協力して来た訳で、共に、一意専心の絆で固く結ばれていた。しかしながら成果は上がらず、妊娠には至らない。出口の見えないトンネルを走るが如き、この作業に、次第に
〈日常の不満が、つい口を
そこで、環境の刷新が、いつしか、夫婦の話題の中心に取って代わるようになり、現在の学大のマンションを購入したのである。自ら望んだ環境の変化に、下町育ちの慎一は、少々戸惑いを覚えはしたが、これも妻の為と想えば、気分も新たに再スタートを切れた。
この辺りの人達は、みんな親切で、優しくて、大人しくて、山の手らしく上品で、そしてお洒落である。下町のサンダル履きのような、気軽さこそ希薄なものの、一歩
そして、この街の優しい空気、静かな住宅街の落ち着いた趣きが、果たして、ささくれ立った夫婦の間に流れ込んで、表面上、平らかな日々が訪れ、
〈息を継ぐ。数え続ける〉
共に三十代半ば、働き盛りの人生のピークを迎えている。年齢的にも、人としてのクオリティに、一段と磨きを掛けねばならぬ時期、それを問われる世代である。若いばかりではない。従って仕事に於いても、質の高い業務、成果を要求され、当然、役職も給与も上がる。責任感、使命感が否応なく高揚する。
〈……非常に疲れる。とにかく、心身共に消耗する。それでも、ひたすら仕事に打ち込むしかない〉
慎一も、由美子にしても。
であるから、この頃、寝室を別にした。
勤務形態が不規則な慎一は、由美子の健康を慮って、提案したものである。ゆっくりと日頃の疲れを癒し、充分な睡眠時間を保証する環境の確保という願いは、子育てのない周藤家にとって、極く自然な流れであるように感じていた。由美子も同意し、これを機に、それぞれ想いのままに、趣味に入り込んでゆく。
互いに、必要以上の干渉を
会話も減り、子供が欲しかった想いは、
〈知らぬ間に、ぼやけて、しまった……〉
そして、この曖昧さが、回答を保留するが如き生活態度が、夫婦の優しさ、そのスタイル、更に差し当たりの〝幸せ〟 なのであった。〝自由〟 であった。当面このままでという、暗黙のコンセンサスが、底流に横たわっている。面倒臭さを、排除したつもりでいた。
……慎一は、有給休暇を利用して、泊まり掛けで遠出のサイクリングに、ひとりで良く出掛けたものである。
箱根や富士山、富士五湖方面、更に脚を延ばして、伊豆地方を旅して巡るのが好きで、嵌まってしまった。箱根などは、本当に風景が美しい所で、いつも東横線の車窓から望む、富士山の壮麗な容姿の足下に展がる、箱庭然とした佇まいの、正に日本を象徴する自然の造形美に、郷愁を禁じ得なかった。
〈……ひとりでに涙が溢れて、我慢出来ずに、
すると、不思議と気分が晴れたように想えた。一服の清涼感が、温かく自身を後押しする事に、こころからの感謝の念を贈りながら、帰路に就いたものである。やっぱり、自然は良い。
そして、存分にストレスを発散して、帰宅すれば、由美子へ手土産を渡しつつ、旅の話をした。余りしつこくならぬ程度に、さらりと語った。そんな慎一に、いつも由美子は、さほど主観を交えずに、ただ、「良かったね」 と返した。
それぞれ勝手に、といえば言い過ぎかも知れぬが、好きな事をして生活していた。もうこの頃には、結婚当初から一括して由美子が預かっていた、一家の財源、いわゆる財布も、自己管理に戻って、慎一は、小遣い制から解放されていた。住宅ローンも、月の期日までに振り込み、税金や公共料金の、銀行口座自動引き落とし明細の、通知を元に、ここでは話し合って、細かくはないものの、相互に補っていた。食費も、慎一は由美子に月三万円を渡し、由美子がキッチンに立って料理を作っていた。買い物も献立も任せていた。夫婦として、ありきたりの事ではあるが。
しかるに、由美子の手に成った料理を、妻の手料理を、一緒に食べるという事、こんな至極当然の行為が、周藤家の場合、少々変わっている。慎一は、日勤時を除く、二十四時間の泊まり勤務の時、帰宅は翌朝の午前十時前後で、由美子は
しかしながら、時の移ろいは、次第に、夫婦のかたちにさえ変化を及ぼした。
互いの忙しさ故の理解、深い想いやりが、自制という仮面を装い、
〈料理を作らせたくない……〉
それに対して、
〈料理を作る手間を、心配させたくない……〉
という双方の想いを、まるで狙い撃つかのように引き出し……
「頑張って、作らなくても良いよ」
「うん。じゃあこれからそうする」
と、
交渉を容易に結び付けてしまった。
〈……なぜ? あんな事を言ってしまったのだろう。どうして? あの発言に至った自身を、疑わなかったのだろう……〉
ふたり共、一抹の
〈が、でも、訂正すれば、気を悪くして……〉
それを考えると、ただ、怖かった。
夫婦なのに、本心が言えない。
〈不用意なひと言がきっかけで、大切な何かを、壊してしまうかも知れない。今のこの幸せを、失ってしまうかも知れない。考えたくない。頓挫してしまう……〉
慎一も、由美子も。
そして例によって、曖昧な方向へ流れてゆく。
非情ともいうべきか、不運にも、ここからふたりの
その壁は、段々と高さや厚みを増し、恋愛関係から妊活の同志が、今となっては、もう同居人という家族に格を下げ、最早、
〈恋愛の対象に非ず、異性に非ず〉
といった想念が、ふたりの精神の主流を成すまでに及んでしまった。
一緒に食卓を囲む事、洗濯する事、リビングでテレビを観ながら寛ぐ事などなど、ふたり一緒なら一度で済むような事でさえ、別行動を執り、その矛盾があえてソフトランディングした地点が、「無関心」 なる、
〈身もこころも、愛せなくなってしまった〉
それぞれの優しさが、謙譲という仮面を拵えたものの、夫婦の愛まで覆い隠した挙句、一体何を遺したというのか?
それは、人生の、生きるという事の本質、その煩雑さに対して、正面から向き合わず、逃げ出してしまった罪である。そして、その罰として、打ち消しても打ち消しても、また現れて
辛くなるばかりであった。
もう、やり直す事は出来ない。
そこまで、押し詰まってしまった。
そんな内面は、男の慎一の場合、一際顔に刻まれている。人の内面は、余す所なく、表面に現れる。特に男の顔という奴は、そうして出来ている。人生を、そのまま映している。喜びも悲しみも、全て顔が物語っている。慎一の眼差しの深奥には、孤独な光が宿っていた。何を、どう話せば良かったのだろう、という。
先刻の渡辺にも、その、影からの叫びの如き、先鋭的な直言にて、幾度か畳み掛けてしまったのであった。自らの精神の均衡、安定を図らんとする深層が、半ば無意識の内に外へ向けて、一般社会を利して、本能的に自己保身に走ってしまったのである。家庭での我慢百パーセントは、会社で発散せねば、トータルでフラットになれず、精神が持たない。しかしこれは、攻撃性を
それでも渡辺は、文句ひとつ
確かに、慎一は明るい人間である。いつも笑顔を絶やさず、誰とでも分け隔てなく話す事が出来、冗談も良く言う、典型的な下町人である。しかし、その笑顔の内訳とは……実際、コンプレックスからの笑い、自己防衛の笑いであった。停滞した家庭の現状、望めそうもない将来に対し、こころは正直に反応して、その受け容れ難さ、嫌悪感から、自身の精神を守る為に、過剰に笑ってしまうという、精神行動に出た性質のものであった。渡辺に対する、まるでこころの平和を奪うが如き傷付ける、言葉の暴力とて、ここに、周藤慎一なる問題の根源がある。そして更には、虚言なる行動を示す可能性をも秘め、嘘に嘘を上塗りして固めた世界へ逃げ込み、自身さえ欺くという、
「ごちそうさまでした! 」
揃って挨拶を納め、店のスタッフの笑顔に見送られて、再び潜り込んだ浅草の
「桜橋に行ってみたいなあ……」
省子とて、佗びし気に呟く。
「うん……」
真夏の長い日中、日没まではまだ時間がある。
隅田川沿いに寝そべったように縦長の、隅田公園内にある、リバーサイドスポーツセンターを志して、ただ、街を遊泳する。そんなふたりを充たすものは、満腹感だけではなく、その隣り半分のこころは、ひたすら輪郭を滲ませて、空っぽの手触りを、実存たるそれぞれに授け合っている。
慎一は、久し振りの懐かしい故郷の、この空、この街の匂い、そしてこの風に
目には見えない何かを見る為に、
今ここにいる。
そして、今日……
見た。真実を見た。
ありありと気付いた。
省子の強さと、
それに対照的な、
自身の弱さを。
……慎一の
〈全ては、俺の
言うに及ばず、由美子とて同罪、共犯行為である。
夫妻は、根拠のない、脆弱な基盤の上に、砂上の楼閣を築いていたのである。よって、決然たる姿勢が欠落した曖昧さに、殊更意義を与え、正当化した為に、僅かばかりの優しさや、遠慮深さを
間違ったプライド。それは、他を容れないという、排他的な、盲目的なもの。換言すれば、閉ざされたプライドである。本来プライドとは、開かれた性質のものであるはずで、当然、他を受容する。人間とは、エゴを内包する生き物である。虚勢なる概念もまた、含んでいる。時に、そのような精神行為を見せたりもする。それもやはり、自身の弱さ、臆病さに起因する、現状の不満、自業自得のやり切れなさとして、表出される事がほとんどである。自らを信じて疑わない、プライドなる精神、それが、他を容れない、閉ざされたものであった場合、これは間違いなく、不幸である。プライドであるが故、間違った状態が長く続くこの
それでも人間は、年齢を重ね、その年代に達しないとわからない事というものがある。四十路五十路の人生の道程に、その間違いに、はたと、ひとりでに気付く。併せて、大切な事にも。しかし、宴のあと、
……真実は、省子と慎一それぞれの芯を射抜き、最短距離で、そのバックグラウンドを表白し得る、ラインぎりぎりの地点まで、
ふたりは、手を繋いだままで、省子は、堤防の
そして、川面へ目を移せば、風に
ふたりは、揺々たる光束の奔流の中、漸く辿り着いた《桜橋》 の真ん中で、ただ、立ち尽くすだけであった。
視界の焦点を引き絞る
だから、それでも、
〈……このままで良い、このままで……ずっと、このままでいたい、ふたりだけで……〉
互いに、愛していた。
ただ、愛していた。どうしようもなく。
それが、嘘偽りのない真実であった。
こころの芯には、愛が、
愛しているというこころが、
揺るぎなく存在していた。
本心であった。
この、限りなくポジティヴな感情、〝好きである〟 という想念は、無尽のパワーを生む。その対象は、人や物事全て、
シンプルにいえば、「好き」 なる想いは、神が与えた至高の武器である。これ以上、素晴らしいものはない。だから、〝大切なもの〟 なのである。
さりとて、事実、神はこれと対極を成す、正に試練ともいうべき課題を、人類に用意している。それは、「忘れる」 という事……忘却こそ、最大の敵である。〝好きである〟 というこころは、大きく育まねばならないが、その尊い想いまで、忘れてしまう、消してしまう。
時に、人は、忘れてしまいたい、いやな事に出逢う。そんな時は、忘れてしまいたいと念じるより、その対象から、一切の感情を排除する事、つまり、考えない事である。忘れたいとする感情は、ややもすると邪魔をして、その想いばかりを過度に膨らませがちで、結局、忘れたい対象を覚えたまま、心象に変化を
されば人は、忘れたくない、忘れてはいけない、大切な事は忘れ、忘れたい、忘れなくてはいけない、たとえば無意味な事、役に立たない、根拠のないプライド等は、忘れられないものである。そもそも、忘れたいという否定の感情は、大きなストレス反応を伴い、エネルギーを浪費する。それを回避するべく、人は、忘れられないのかも知れない。それも人の
……斜陽とて、
ほんの、たった一日の名残りを、惜別の涙が潤み
夕景のグラデーションの
夕日の
彼方に仰ぐ、紅い雪景の山脈の如きその偶像は、所々跳ね出した絶壁の啓示が、神聖の
悠々たる横長の、雲の
雲の
狂おしいまでの生への執着、
人は、この夕日の営為とこころに、どれ程気付く事が出来るだろうか? 苦悩の果ての汗と涙に対し、誰が
一途な赤は、世の栄枯盛衰の習い通り、静かにその役目を終える。終末のこの時、今のこの時だけ、
さればこの境には、疑い、憂い、迷い、寂しさ、痛み、悲しみ、苦しみ、悩み、惜しみ、憎しみ、羨み、妬み、
さてこそ、そこには無為の世界が花咲き、言葉さえ、
無限の旅路が、正にここから始動する……
〈……今日という一日は、もう二度と来ない。今日のこの一日に、逢えて良かった……そして、また、逢いたい……〉
……慎一は、内省に陶然としていたのだろうか、隅田川遡行の旅は、この上時間を巻き戻したのかも知れない。今日という一日、自身の心胆は、光の波濤に浄化され、最早一糸纏わぬ、生まれたままの姿を
〈きっと、洗心のシンプルに、自身の存在がある〉
そしてそこには、ふたつの想念が、たったふたつだけの想いが、自身を覚醒させていた。
その内のひとつ、それは、
〈なぜ、大切な物事を、忘れてしまうのか? 失ってしまうのか? その結果、大切なものがないのか? ……結局、築けなかったのか? 〉
これに対する回答であった。
人間ひとりの存在は、実に弱く、脆く、そして小さい。その器の大きさなど
とかく、このいわばネガティヴな
考えるに、もっと、もっと大きな自由がある。人生トータルで幸せに生きるという目標、理想がある。それを誰もが善しとして、大切なものとする。神が与えたテーゼである。
されば、
〝幸せとは何か? 如何にすれば、幸せになれるのか? ……〟
これは飽くまで、慎一の私感の一端であるが、幸せとは、愛と金である。間違いなく。
先ず、愛が核にある。そして金とは、愛を保持建設する為の手段である。人を愛し、大切にし、人に尽くすこころ、つまり優しい人柄、いい換えるなら謙虚さ、加えて間違ったプライドを持たない精神は、得てして、大切な事に気付くものである。それは、堅実な分相応の生き方、平たくいえば、賢い金の使い方、無駄のない効率的な使い道と、そのタイミングを指す。故に、謙虚で堅実な生き方によって、幸せは実現する。愛は金を生み、金は愛を輝かせる。
愛という花を咲かせる樹は、我慢次第で金という実を付ける。この実の種が、再び樹に育ち、また花が開く。絆が生まれる。この樹とて人の子、こころがある。花も咲かせたけりゃ実も欲しがる。しかし、その花を食って生きてはゆけぬ。従って実を結ぶ事こそが、絆を守り、深める唯一の手立てとなる。花も実もある、それが幸せ。そして、愛する
いやらしい話ではあるが、金とは、稼ぐ、貯める、使う、の三つの顔を持っている。増やすという概念は、稼ぐというカテゴリーに含まれる。時に世間では、金は怖い、なる言葉を良く耳にする。この怖さとは、卑下する訳でも見下す訳でもないが、収入が豊かとはいい難い、生活にゆとりを持てない、一義的な怖さだけの事ではない。たとえ経済的に潤沢であっても、的を得た使い道やタイミングを逸した結果、形として、何も遺らない事態に陥ってしまう場合がある。この時、〝金は、あってもなくても怖い〟 という感覚が遺るもので、大切なものを失う怖さを知るに至る。と同時に、最終的に一義的な、無い怖さと目線が揃う事になる。これが、増減の止まない生き物、金の正体である。
金に限らず、それを知る事が、人生に於いて、どれだけ大きな意味を持つ事だろう……真に、大切な事である。人生とは、成長とは、そういうものであろうか。人間の深み、味、つまり器量、そして顔を創る。この怖さを知った時、ベテランはベテランたり得る。本物になる。であるから、更には、失うもののない、それもまた、怖さ……ここに深く想いを致す事こそ、真の優しさであると、
……高卒の慎一は、学歴や職業がダイレクトに影響する、稼ぐ、なる概念よりも、むしろ、使う、という分野に力点を置いていた。
短大卒の由美子も、これに賛同し、勿論しっかり貯蓄も並行して、子供の教育資金確保の概念がない周藤家にとり、当然、住宅、老後の二点の問題が遺る。
そこで、比較的若い内に家を持ち、ローンの満期後は、老後一本に備えるべく、夫婦共々、堅く無駄遣いもせず、新婚当初に立案した生涯設計に
やっぱり第一に、早くに家を求めた事が大正解で、慎一は、鳥越の両親がそのような人であった為、
人生には、目標設定と、それに基づく生涯計画が大前提で、ただ目的もなく頑張るだけでは、大抵、道に迷う。確かに、大切な事は、自然にわかって来るものだが……。それに、無難に時が流れていても、様々な経緯、
結果、自身とて、道に迷ってしまった……
〈……由美子の、何を見ていたのだろう? 何をわかっていたのだろう? 俺は、何をやっていたのだろう? ……〉
失った寂しさと、築けなかった
増長した影が、跳ね返って来たのだ。
善かれ悪しかれ、やって来た事は必ず返って来る。カルマである。男こそ簡単に、人に頭を下げるべきである。
そして、悲しい
自らの不手際が、さも充実たらんとして虚勢に走り、威張る。尚も嘘なる
自らを不幸であると想うのなら、それは親の
社会に於いて、〝男は簡単に頭を下げるべきではない〟 とする意見が散見する。この姿勢、正しく間違ったプライドそのもの、こうした傾きは、正直、危なっかしい。威張る偉振る利口振る態度は、所詮、虚勢。大したものは遺らない事が多いのではないか? 馬鹿げた話である。いわば、利口馬鹿であろう。
そうではなく、間違ったプライドを持たぬ証しともいうべき、馬鹿になれる、という精神こそ尊い。商売の王道、〝損して得取れ〟 の
この両者の間には、大きな隔たりがある。それもまた、現実である。しかるに、この前者とて、こころを持った人である。人の人たる
動かし難い現実がある。人は弱く、怠惰な生き物である。さりとて、当然現実はたったひとつ、
このプロセスに於いて、好都合への
初めは、全体の力に
無論、虚偽など足下にも及ばぬ、その力は強く、曲解や曖昧とて、面前に
本心を偽れば、必然的に現実との解離が生まれる。噛み合わない
嘘という認識の有無に関係なく、現実逃避行動に
であるならば、たとえば、堅固な意思の力、つまり、たったひとつだけの本心を生み出して、かけがえのない、尊い現実とて、きっと創造し得る。一直線に繋がる。現実とは、気持ち次第で、こころひとつで、
真に、人間は素晴らしい。無限の可能性を
たから……人間が好き、人間を愛している。これ以上、大切な事があろうか? もしあるのなら、今すぐ教えて欲しい。この想いを決して忘れない為には、やっぱり一も二もなく、ただひたすら、「好きになる」 、「愛する」 と、強く望む。理由など、そんなものは要らない。
愛されている認識、その経験は、極く自然に、「ありがとう」 そして「ごめんなさい」 のこころを紡ぎ出す。〝私の為にありがとう、こんな私の為に、ごめんなさい……〟 されど、愛の受容体たる人のこころは、実に移ろい易い。必要以上に求め、わがままにもなれば、供給不足の
〈俺は……愛と感動の求め方を、誤った……〉
……如何せんネガティヴの専横を許し、瓦全たる巡り合わせに、甘んじざるを得なかった慎一であったが、
そして、自由が利かなかった
省子という
〈だって、こんなにも可愛いい。だから……ずっと、そばにいて……〉
省子とて、
ずっと……
の想いは、
一緒。
ただ、愛し合っていた。
それから、慎一の、遺るもうひとつの想いとは……
慎一は、俯きながら小さな溜め息を
その胸元、真珠を集めて出来ているような、白く滑らかなデコルテが引き留めているのは、何も残映だけではなく、慎一は、そんな温感さえ、自身の横顔で
慎一の、省子の白いデコルテに、自身を映り込ませたいような、
そんなふたりだから、愛する人の言葉を待っている。ただ、欲しかった。楽しかった今日一日の、夢の続きを、語って欲しかった。尚以て、聞いていたかった。だから、一緒にいたかった。省子も慎一も、もう離れたくなかった。
如何にも東京らしい、人工の造形物のプライドを、一息で慰藉するような、比較さえ虚しい悠久の自然の、飽くなき無垢の
河畔の返照の第一章に遊び、洗われ、
そして、許されるのなら、本心を告白したかった。慎一を覚醒させた、最後にもうひとつ遺された想いが、省子のそれと一致した。それは、静かな緊張感を伴って、省子をも目覚めさせていた。正にこの時、柔らかな風が
「今、話すべき事じゃないのは、良くわかってる。でも、聞いて欲しい……」
慎一は、
由美子との冷たい関係は、その輪郭を、省子へ伝えてある。省子とて、察するに余りある所で、触れる事など出来るはずもなかった。
そして、この上とも省子は、覚悟の程に、自然に口元を結んだ。妻に対する責任の所在概念に苦慮する、慎一の真面目さを、誤魔化す事が下手な不器用さと、そのやり切れなさを、今日という、忘れられない一日の中から、拾い集めていた。何れにせよ、来るべき時が来ていた。
「俺は……傷付きたくなかった。女房に、嫌われたくなかった。だから、過剰に優しくして、全てを許した。それが、大人の優しさだと想っていた。何れ、そんな生活を続けていく内に、女房は女房ではなく、ただの同居人、他人という家族にしか想えなくなってしまった。女房も同様に、俺を旦那という存在から消していた。気が付けば、互いを愛せなくなっていたんだ。愛を、忘れてしまった……。辛かった。寂しかった。芯を
慎一は、尚も目を
更に続ける。
「そして今日、はっきりわかった。だから言える。俺は……省子を愛している、本気で愛している。でも……怖いんだよ……俺は、また、由美子と同じ存在を、作り出してしまうんじゃないかって。また、逃げ出してしまうんじゃないかって。そしてまた、大切なものを、失ってしまうんじゃないかって……自信が持てないんだ……」
慎一は、自らの胸の痞えを表白した。
それは、
省子が、沈黙を辞した。
「……慎一さん。あなたは、逃げ出してなんかいない。だって、あなたの笑顔は、私を幸せにしたんだよ……嘘じゃない。私だって、慎一さんを愛してる。逃げ出すような人が、人を幸せに出来る? 幸せって、真実って事でしょ? ね、そうでしょ? だから……お願い……逃げ出したなんて、言わないで!!」
省子は、最後に語気に力を込めて、押し強めた。
「省子は、強いなあ……真っすぐだ。どこまでも、真っすぐ……羨ましいよ。その強さが、省子のスタンダードなんだ……」
ふたりはフリーハンドで、文字の一画から、こころのノートに書き
ただ、愛おしく、丸い手触りが、ふたりのこころに
省子は、ふと、慎一の表情に目を向けた。久し振りに、その瞳を見たような気がした。オレンジ色に光っていたのは、やはり、涙だった……。
金色のハレーションの中に、ふたりだけで逃げ込み、包まれ、その温もりに、ただ融け合った。川面を満たす、千々に煌めく揺らぎが、何かを
共に東京の川でありながら、その趣きを異にする、省子の目黒川と、慎一の隅田川が、今、重なり合った。夕照が、ふたりの深い吐息の中で、霞んで見えていた。オレンジ色の輝きが、待っていてくれた。そして、語ってくれた。決心し、誓い合い、背中を押されたふたりは、自ら輝くべく、既に壮途に就いていた。
省子は想う。
〈……そして今度は、私達の番。自らの手で、ベテランのベテランたる周到を、愛と感動を、創り上げけゆく……〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます