愛と自由への助走
翌朝六時、省子は、目覚まし時計に喚び起こされた。朝日を
トイレ、
「おはよう!」
花のような笑顔を添えた、自身の挨拶に、我れながら漲るものを認めた。
「おはよう。今朝はやけに元気が良いなぁ!」
忍は瞠目して、再び新聞に目を移した。
「女性の元気は社会のやる気だもんね! おはよう、省子」
朝食の仕度をする真澄から、名言が飛び出した。それを賜る事もまた、省子の不定期的な朝のルーティンであり、精神安定剤の効能を
〈親とは、かくもありがたいもの……〉
三十代半ばの省子は、自身の年齢にも紡がれた、この感謝の念を、大切に、懐中時計のように
地元の幼稚園、区立の小学校から、私立女子一貫教育の中学、高等学校、大学へと進み、良妻賢母たる女性の創造を理念に掲げる、学園の教育方針の下で、学生時代を謳歌した。いわゆる、箱入り娘のお嬢様であった。家庭とは、太陽の如き母親の笑顔を中心に回る、小宇宙空間であり、これこそが「幸せ」 であると考えていた。強くこだわっていた省子であった。
朝食を済ませ、二階の自室に戻った省子は、Tシャツを脱ぎ、前合わせの半袖シャツを羽織って、ドレッサーに向かった。鏡の中に、既に、幸せ色の化粧に仕上がった、自身がいた。今度は、建前上の化粧を拵える番である。素顔とて美しい省子は、この何等造作のない、技巧を要しない作業に、大して力点を置いてはおらず、自身のナチュラリズムに従って、生活全方向において、シンプルな志向を持っていた。ファッションしかり、メイクもまたしかりである。人間のコア、いわゆる芯の部分が、しっかりと強いものであれば、そこには、虚勢なる概念は存在しない。省子のベースには、この意識が綿々と流れており、とかく鼻に付くようなプライドを、その柔らかな当たりが中和して、個性的な処世を可能にしていた。
手早く化粧、着替えをし了せ、かくして、五反田、池田山に勤めるOL、岡野省子が完成した。その、父、忍が経営する、繊維関係の小規模ながら商社へは、電動アシスト自転車で通勤している。であるから、パンツスタイルが通勤着であった。今日はカーキのガウチョパンツである。革製の黒いバックパックに、社内着用の、今日はブルーのワンピースを持った。準備は滞りなく整った。
部屋を後にし、小走りにテンポ良く、廊下、階段から玄関へ向かう。早くも父は出発していた。白い革製のスニーカーを履き、玄関にも常置してある、姿見の全身鏡を覗いた。白い歯を見せるように笑う顔を作り、基準こそ不明な、
「良し!」
と一撃で頷き、
「行ってきまぁす!」
元気な一声。
「行ってらっしゃい!」
穏やかな中にも、朝の生気が岡野家を包んで
表に出ると、小ぢんまりとした庭の道路際に、一列に整列している、数本の
区民の生活道路である、
交差点の向こう岸の角には、実直な信号機の動作を見守る、交番が設置されていた。併せてNTTも、この十字路を包囲せんとばかりに建っており、地域のライフラインを支える拠点群の、公務員的な、一般市民に安心を与えるアトモスフィアが漂うエリアである。
青に転じた。人の波濤を
「おはようございます!」
と一緒に、省子は軽い会釈を添えると、黙礼で応えてくれた。こんな何気ない、自然なやりとりの中に、この上ない平和と、限りない幸せの嬉しさが込み上げて、踏み締めるペダルも軽やかに、いよいよ二十六号通りを、目黒本町五丁目方向へ直進するのであった。片側一車線対面通行の都道である。
日の角度の上昇に合わせるように、速度も乗って来た。額の汗の乾きも知った。坂の多い目黒では、やはり電動アシスト自転車が大活躍する。道の先に、朝日影に映え
一転して、民家の軒先が迫る、細い道が出現したのだが、こことていつも来る道、ルートである。忽ち突き当たってしまうのは、何も視線だけに
この辺りは、もう品川区ではあるまいか? 区境に至っていた。やや幅員も拡がり、左手に、《林試の森公園》 の、グリーンベルトの展開が始まる。車の往来も疎らなこの区間は、路程のほぼ中間点、束の間の息抜きを容易にする。葉陰に憩うが如く、弾むまでもない呼吸のまま、滑り巡る。
前方を見
折しも赤信号で小休止する、省子の眼前には、まるで緑炎の城門が、むしろ手招きをして超然と座していた。良く知る道とはいえ、ここへ来ればいつも、こころが
そして青を告げた。省子は、満を辞して走り出す……
およそ百三十本が坂の両脇二列を成す、桜並木が奏でる、叙情的なトンネルを
いささか、傾斜角度が増して、惰性もそれに準じよう、最早、ペダル操作は必要ない。俄かに、薫る風を感じていた。耳元で何かを言い聞かせて、想い
……限りなく、目には見えない風圧の壁に挑み続ける、省子のその疾走する生身の肉体の後方には、省子の素顔の、ありのままの、等身大の姿に型抜かれた、透明のフォルムが、幻の如く、
桐ヶ谷通りとの小さな交差点の、幸運な青信号を、適宜ブレーキを使いながら、減速して通り越す。ここは、右折すれば斎場、左折なら、目黒不動
再び、蒼天を覆い尽くす、万緑の回廊に突っ込んだ。天井からは、緑色に煌めく粒子が、その間隙からは、光色に輝く粒子が、共に強かな雨脚で省子の全身を濡らし、体に当たるや否や、艶やかな
右手に、区立第四日野小学校の、茶色い校舎が見えている。省子は、緩やかな左カーブが描く、小さな遠心力に働く、認められそうもない、反作用の力を利するかのように、歩道寄りを走った。すると、どうであろう、今度は、センターラインに
私は
今を生きている
ありのままの
自然な姿形で生きている
素顔のままで
充分に通用する能力を持っている
だからこそ
虚勢など必要ない
ありのままの
素直なこころさえあれば
それでいい
きっと
大切な事に気付く
排他的な 盲目的なプライドなど
全く役に立たない
根拠がない
プライドは
諸刃の剣
ひとつ
その扱い方を誤れば
中途半端な結果に終わる
それを
自惚れという
間違いに気付かせてくれるのは
他者である
省子は、かつて自らが書き
〈……夢のままに、したくない……〉
かむろ坂下、山手通りまで、一気に下って来た。今朝も、あっという間の走破であった。一変して、夏の盛りの日射しの掃射に、目に触れるもの全て、
青信号を受け、やおら走行を再開した。かむろ坂に別れを告げ、ここの突き当たりの交番の警察官にも、黙礼を供して、もうひとつの楽しみ、目黒川方向へ急ぐ。《市場橋》を渡って、池田山に至るのが常であり、今朝も同所を目指す。昨日の中目黒の出逢いからは、更に下流域の、川幅も拡がり、高層ビル群に見下ろされる、河口部の港湾的な佇まいが、中目黒のそれとは異を唱えていた。
そして、五反田の川面の、同じ目黒川の水先にも、さればこそ、慎一の面影を映すだろう。正に、慎一の胸に飛び込まんばかりに、かむろ坂の、愛と自由への助走を引き連れ、馳せ参じたのだ。水先案内人を探して……そのこころを、待っていたかのように、復活の手掛かりを、かむろ坂は語った。
周藤家でも、夫婦それぞれが、出勤の時間を迎えていた。慎一は、全ての仕度を終え、自室を出ると、由美子が、トーストとサラダの朝食を摂っていた。まだパジャマ姿のままの妻の様子に、引っ掛かっている慎一の面相から、
「具合いが悪いから、今日は、会社休む……」
「ゆっくり、休んでて……」
夏バテ気味なのは、慎一とて同じである。四十代に入り、体力には自信がある慎一にしても、やはり、年齢なりの衰えは否めなかった。夫婦共々、悲しい
かくの如く、由美子の月に一回程度の、体調不良による欠勤を、別段
「あの話、どうする?」
と、由美子に問い掛けた。
「うん……」
答えを出せずにいるのは、わかってはいたが、結論を先回りして慎一は、
「上手く、断わって置くよ……」
この件の落着を宣した。由美子は、黙って俯いた。
低いボリュームのテレビの天気予報が、夕方の通り雨を知らせていた。窓と一緒に締め切られた、レースのカーテンが、虚ろに揺れていた。慎一は自宅を出た。
学大駅まで歩く道すがら、ひとりの男は、胸に去来するものの性質上、拡大を許してしまった、ある〝問題〟 の解答を思案した。
……最早ベテランの域に達し、会社でも責任のあるポジションに就く、その男は、一目置かれる存在であった。幼少時より野球を愛し、地元のリトルからシニアリーグに所属して、スポーツ名門校である高等学校の野球部で、心身共に鍛え上げられた。卒業後は、大学へは行かず、家業である小さな印刷会社を、家族で営んでいたが、折からの不景気の煽りを受け、累積赤字の膨張を見越した、代表取締役社長の父、
そして、警備員の仕事にも慣れた、二十代半ば、派遣されていた都心のオフィスビルに、
……しかして、デリケートな問題提起である。
いうまでもなく……省子には、既婚者である事は告げてはいない。数年前から、結婚指環も嵌めていない。言い出せなかった……カフェのひと時が愉しくて、幸せで、温かいこの流れに、由美子の存在が引っ掛かりもせず、流れも淀みさえ成さずに、一途に走ってしまったのだ。女性の感性、そして勘は先鋭である。たとえば、「わからないけど、そうじゃない……」 というような。その固定概念に、畏怖の念が微妙に絡まり、杞憂に終わる事、つまり、自らに都合良く、我田引水的な思考に偏りそうになる。身も蓋もない状況だけは、招いてはいけない。
朝一番から、様々な想念が慎一の中を駆け巡っていた。昨晩、なかなか寝付けずに、何度も寝返りを打って考え
〈……やはり、社会的な体裁を損なわず、維持しつつ、要するに、夫としての義務と責任を履行する一方で、水面下にて……〉
という暫定案が堂々巡りするばかりで、その先に進めない事は、最初からわかっているだけに、良い歳をして、大の男が切なさをを知ったのである。
なぜなら、慎一は、この成立への前提条件を、十二分に充たしている意識に目覚めていた。「省子が好き」 と、判然たる自覚を持ったのだ。今朝、目覚めた時、既に泰然とこの想いに支配されている自身がいた。しかしそれは、核に据える事で、同時に表出した暫定案の実行なる、言わば自家撞着を抱える事を意味する。社会人として、夫として、
釈然たる想いが、今はまだ痞えの形をして、慎一に多様な何ものかを投げ掛けているのである。ただ切なく、弱気の虫が
〈……由美子に対する、背信の
そこまで考えざるを得なかった。何からクリアすべきであろうか?……
〈そして……省子に対しても、既婚者という、裏切り……それを如何にして、嘘から出た
……全てを失う、タイトロープの危険が、その男を
学大駅に着き、自動改札をタッチして通り抜け、エスカレーターでホームへ昇る。朝の雑踏に埋め尽くされていた。今朝は、何とも時間が長く感じる。そう言えば、昨日、ここで……
〈省子を初めて見たのだ……もう、かれこれ十年、この学大に住んでいるのに、こんなに大勢の人達が、駅を利用しているのに、なぜ今まで出逢わなかったのだろう?……〉
感慨が湧く。生涯忘れまじとして、急いで懐中に
「渋谷方面行き各駅停車、間もなく到着……」 の構内アナウンスに、警備員、周藤慎一の顔が出来上がった。派遣現場である、都心の某一流企業の本社ビルに向かう。一号施設警備員として、同ビル内の防災センターに勤務して四年、そろそろ副隊長昇格の噂も、仄かに慎一の耳にも届いていた。中堅
定刻より五分遅れて、電車が入って来た。降車の人は極めて少なく、押し込まれるように乗車する。冷房が効いた車内は、満員電車に我慢を強いられる都会人の、モラリズムに満ちた顔が
……省子とて、今頃、この緑燃える河畔の辿る筋道の先、五反田にて、等しく呼吸し、目を輝かせ、この緑のように、盛んに
〈……今を生きている人は、みな両親の愛を受け継いでいる。過去そのものを、歴史を引き継いでいる。愛され、大切にされた、楽しい、美しい記憶がある。子供ごころに、この幸せがいつまでも続いて欲しいと、願った経験がある。今は、忘れてしまっているかも知れない。でも、想い出して、忘れずに覚えて置く事。たとえ同じ事でも、いつでも、何度でも想い出せば、それは新しい記憶のように、生まれ変わる。人はみな、愛の遺伝子を持っているのだから。ここからスタートして来たのだから。きっと、何かに気付く。道端のそこかしこに、幾らでも落ちている、幸せの芽に気付く。幸せとは……冬の日溜まり。仄かに灯る、暖かい希望の光……その小さな光、ひとつさえあれば、人は生きられる。幸せを感じられる。幸せの芽を拾って育む事。それが愛……愛とは、過去の熟成、そして、最大の自由である。それを実現する為に、手の届く、身近な、小さな自由を辛抱し、時に諦める事も必要である。大きな自由の為に、小さな自由を犠牲に供する事。それが自由である。大きな自由、つまり目標、あるいは理想。幸せになるという目的意識を設定する事……それ以外に、何もない。人生は、複数回ある訳ではない。人生は、一度切りである〉
慎一は、
代官山を経て、もうじき渋谷である。地下鉄半蔵門線に乗り換え、更に都心を目指す。浅草
まだ、朝食を受け容れていない胃袋が、
慎一は、午前の勤務を終え、休憩室に入った。今日は日勤のシフト、夕方までの勤務である。
日勤者は一日二名。警備業界では、時間表示の慣習が二十四時制であり、十三時から十四時の一時間が、日勤者の昼休憩として当てられていた。警備員総勢男性ばかり十八名で、シフトを回すこの現場は、中規模であると言え、日勤者を除く五名全員が、二十四時間、当日の朝から翌日の朝までの、泊まりの勤務である。
業務内容は、この本社ビル内と、その辺縁部の、速やかな安全確保の為の、管理体制の維持である。主に、消防、防災用設備に係る、監視、操作を、防災センター内に設置されている、総合制御盤を睨みながら、集中的に行うもので、非常用エレベーターや、排煙、空調、照明設備等の遠隔操作を担っていた。監視というからには、カメラが送信する画像を受信する、モニター画面を目視する業務。《
慎一は、冷蔵庫に保管して置いた、朝、出勤
「ねえ蒔田君、ちょっと電話して良いかな?」
と、まだ食事中の同僚に求めた。
「あ、どうぞ」
快い返事を受け、早速、実家の固定電話に直電を入れた。数回の呼び出し音の後……
「はい、周藤でございます」
十日振りの、いつもの電話越しの、母、
「あ、俺……」
慎一は、何となく気羞ずかしい。
「あら、こんにちは、現場?」
「うん」
「それはどうもお疲れ様」
「この間は、心配掛けちゃって、ごめんね、お母さん」
「いえいえ。で、由美子さん、何だって?……」
「うん。あのね……時間の都合が付かないから……遠慮したいって……」
「あ、そう……」
母の残念そうな顔が、慎一の目に浮かんだ。ただ、申し訳ない気持ちで一杯であった。そばに、父、吾郎がいるのであろう、受話器の向こうの空気が伝わって来た。
「ただね、由美子さんの笑顔が見たいだけなの、それだけ……」
親子で、もう続く言葉が見付からなかった。
……来年揃って喜寿を迎える、年金暮らしの両親とて、次男夫婦の潤いのない関係が、最大懸案事項であった。義理人情に厚い、浅草ッ子のふたりにしてみれば、息子である慎一は勿論だが、由美子が不憫でならなかった。子宝に恵まれず、慎一は、むしろ母親にしてあげられない自身を責めた。夫婦の絆をより深めたいと、由美子の実家、横浜へ同じ東横線で一本の、学大にマンションも買った。しかし、三十五歳を過ぎ、そろそろ四十の坂が見えて来た。三十七歳辺りから、ほとんど会話も消え、元々料理は得意ではなかったが、先ず、慎一の分は作らなくなってしまった。泊まりの多い慎一の勤務形態が、そうさせたのかも知れなかったが、拘束時間が二十四時間と、極めて長いだけに、女房の温かい手料理程、癒されるものはない訳で、こころの御馳走を頂けないのには、正直、相当応えていた。もう、お互い、完全にこころの扉を締め切って、必要な事以外は話さず、故にセックスレスであった。
双方の両親は、お陰様で健在であり、関係修復の手立てを、陰に陽に示してくれるのだが、如何とも埋められない。今回の鳥越の提案は、慎一のこころの故郷、隅田川の水上バスデートであった。下町の人間にとり、正しく、〝母なる川〟 としての、その存在の大きさは計り知れない。慎一が子供の頃は、水質汚染が
ふたり切りの水上デートの後、鳥越の家でみんなと一緒に食事を、との誘いであった。慎一個人的には、別段、拒否の理由などない。が、実家の二世帯住宅に同居している、長兄、
〈……あんなにも仲が良かったのに……親は、いつまでもいる訳ではない。それを考えると、鳥越の一家や親戚達にも申し訳なく、ただ、ふた親の心中如何ばかりかと……〉
胸を痛める慎一であった。
〈……ごめんね、そして、ありがとう……〉
もう幾度、こころで詫びた事だろう……
父の口癖である、「辛くても笑ってろ、自分が悪くなくても、頭を下げろ」 の言葉が、この年齢になった慎一の胸に、深く沁み込んでいた。
……虚しく、電話を切った。朝の青雲の志は、どこへ行ってしまったのだろうか?……
沈んだまま、無為に時を補って、今日の勤務を終えた。休憩室で蒔田と着替えながら、由美子の反応を想像もしたが、例によって、無言で俯くだけであろうと断じた。自宅の空間識を、止まったまま切り離されたように感じていた。慎一と由美子にしか、見えない空間の。
帰途に就き、電車を乗り継ぎ、学大駅に降り立つ慎一であった。
〝みはる〟で夕食を摂り、自宅に戻ったのが午後八時であった。由美子は自室にいるらしかった。ゆっくり浴槽に浸かって、思索に
今夜の目黒は、予報通り
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