滴る夜

 夕方、帰宅した省子は、まだ人気ひとけのない留守宅の静寂に、両親の不在を知った。

 父、しのぶは、当然、自らが代表取締役を務める会社に、在社であろうが、母、真澄ますみは、卒然と遠出の買い物にでも、足が向いたのだろうと想像した。いつもの風景と、何等変わりはない家の匂いが、省子の目鼻から、穏やかに浸入して、心身の弛緩を諭した。洗面所で盥漱かんそうし、二十畳程のリビングの中央で、薄緑のヴェルヴェットが翼を展げたような、ソファー体を託して寛いだ。多少の虚脱感があった。

 一頻り休んだあと、階段を二階へ上がり、自室に入ってカーテンを閉じた。そのおよそ八畳の洋室は、家の東南の角に位置し、同階には他に二部屋、トイレ洗面所もあった。一階には居間の隣りに、両親が寝室として使う、八畳の和室があり、ダイニングルームと併せて、日当たりの良さは申し分なかった。そして北側にキッチン、その奥をバスルームが構成し、トイレ洗面所を控えていた。更に納戸の小部屋も備え、特にこだわった普請のない、街並みに良く馴染んだ、和順な印象の二階家であった。

 省子は、窓際に配されたアンティークの机の椅子を引き、やんわり腰を落として、机上のパソコンのメールチェックを試みた。着信はなく、再び立ち上がって着替え始めた。

 そして、汗が染みた白いワンピースの、タイト故に伴う、脱ぎづらさの感触を愛おしむように、昼間の出逢いを回想している自身を、いぶかるまでもなかった。周藤の同情心がきっかけという想念が、胸裡を封じたのだが、この時、既に、「周藤さん」 ではなく、「慎一さん」 に置き換わっていた。

 露わになった白い肌が醸す自らの体臭、真夏の一日の疲れをしまった女の匂いが、いやでも人恋しさを煽る。三十半ばの、女盛りの色香が絡む、やや華奢きゃしゃな肢体が、傍らに置かれている、姿見の全身鏡に映り、着替えで乱れた髪の空隙くうげきから赴く目が、自身の肉体を追う。

 充分な張りを蓄えた流線型の、なかんずく湾曲の深い腰の部分の骨が、部屋の柔らかな明かりになまめかしく照り映えて、視線はその上デコルテを掃き、半びらきの唇の濡れた光輝を撫で上げ、無表情の、想いの外まばたきを失くした、目に迫る。

 かすかな息づかいが、部屋のノイズを占有していた。物音ひとつ、耳に届いては来ない。レースと二重のカーテンが、空間を抱擁するかのように、省子の潔白の主張を保証し、傍観していた。

 されば、ふと我れに帰った省子の意識のうちには、慎一の笑顔と、「好き……」 という気持ちの、ふたつだけが切り取られ、強調されて、彷徨い、浮遊していた。

 日の出橋辺りの佇まい、街の香り、風の触感、日射しの眩しさ、そして、影……ふたりのあずかり知らない所で、何ものかに操作され、この川べりに嵌め込まれるように、手引きされたのだろうか?……そして、その全てを、川面が見ていた。悉くを掬い上げるように、吸い上げるように見ていた。あらゆる舞台装置を、手練手管てれんてくだで展開してみせたのだ。一歩退しりぞいた漠たるこころさえも、全ては、この川が企んだ仕業なのか?

 疑いもなく、今日の涙は、尚以て目黒川は、まだ見ぬ恋への憧憬、そして焦燥なのであった。この小さな川そのものが、恋ごころと重なっていたのだ。川の流れに、自らの恋を見ていた。省子は、恋がしたかった……故の涙なのであった。女ごころであった。

 脱いだワンピースが、白いひだが連なる小さな山脈のように、床にうずくまっていた。まだ体に、火照りが遺っていた。


 ……幾許いくばくの時が経ったであろうか、くに入浴を済ませた省子は、リビングのソファーに体を沈めて、テレビの取り留めのない内容の、トーク番組を観ていた。早々に一階のカーテンも全て引き。玄関灯も点けた。在宅時に限って活躍する、黒いセルフレームの眼鏡の奥の目元が、仄かに、今日の幸せを物語っている。顔全体に、っすら喜色化粧をこしらえていた。

 ふと、壁掛け時計を見ると、午後八時少し前であった。両親の未帰宅を、さして気にも留めずに、ひとり帰りを待っていた。不意に欠伸あくびが持ち上がった。東横線の電車の走行音が、遠くへ逃れてゆく。

 俄かに、玄関ドアを解錠する音が、邸内に響いた。

「ただいまぁ!……」

 両親の声が重なり合った。真澄が明るく、

「遅くなっちゃった、もう八時よ」

 と誰にとはなく話し掛けながら、リビングに入って来た。忍も続いた。

「お帰りなさい! 遅かったねぇ」

 省子の出迎えが、尚も家中に活気を召喚した。

「ごめんね省子、遅くなっちゃって。さっき学大の駅前で、偶然お父さんにってね、ふたりでお寿司屋さんで食べて来たのよ。はい、これお土産みやげ

 母は、緑色の包装紙に包まれた寿司折を、ダイニングテーブルに置いた。

「デートしてたんだぁ」

 優しく返す省子であったか、内心、北叟笑ほくそえんでいた。食器棚から紫猪口むらちょこを出して醤油を差し、包みをけると、特上の握りが一人前、端座して省子の箸を期待していた。

「わぁ美味おいしそう! いただきまぁす」

 両親は笑顔で応えた。

「幾つになってもラヴラヴですねぇ……」

 と、頬張りながら、ふたりを揶揄やゆす娘に、忍は、

「お前も早く家庭を持てよ」

 なる、口癖を浴びせるのだが、今夜の省子は全く意に介さなかった。咀嚼そしゃくしつつ、日中の秘密の出来事に、微酔ほろようひとり娘を、とがめる様子もない、我が家の大らかさが、いつにもまして嬉しかった。省子にとって、両親こそ理想の夫婦像であり、「幸せとは、かくある」 との想いをいつにして、自身のアイデンティティたらんと、揺るぎなく屹立きつりつしていた。仕事一筋の勤勉な夫と、如何にも家庭的で、良妻賢母たる母……いつしか象嵌された、〝確固たる正しさのイメージ〟 であった。

 実は……省子と慎一のふたりは、カフェにて、互いのスマホの電話番号を交換していた。その十一桁の数字が登録された、自身のスマホの画面を、省子はもう何回見た事だろう。幸せの確認、そして連絡を待つ女ごころが、今はまだ生まれたてであった。


〈その所為せいかして……急に不安が襲う。泣きたい気持ちになる。でも、すぐに晴れる。何気ないひと言や出来事に、こころは風のように移ろい、笑顔とてび、躊躇ためらいとて招きもしよう。ただ、待ち遠しさと、自分からは言えない羞じらいと……そんな想いに、気付いて欲しくて……〉


 泣いたり笑ったり、煩慮のとりこと化していた。今日という、一点に過ぎないタームの中で、交互に感情の双極を見せられ、自身の体内時計の大きな振り子の存在を、否が応でも知らされたのである。


 恋とは、曇りのち晴れの空模様。太陽は、正に慎一であった。省子は、確実に、恋に、落ちた。


 ……夏の夜の相応しさが、いよいよ過剰に展がるようである。そして、目黒川を想えば、川面とていで、静まり返っているだろう。深部の拍動を、知る由もなさそうな、振りをして。




 慎一は、漸く地元学大駅に帰って来た。夜九時を回っていた。駅前商店街の狭い道を、家路を急ぐ人達に紛れて、のんびり歩いた。脇へ入る小径に折れ、ある小さな二階建て一軒家の前で、歩を止めた。通りに面した出入口の、茄子紺の暖簾のれんくぐり、木製の引き戸をずらすと、

「いらっしゃい、お帰り」

 経営者でもある店のママ、小坂こさかみはるが、いつもの調子で迎えた。奥に、先客がひとりいた。

 気さくな、人情の機微に通じたみはるママの人柄に、居心地の良さを覚え、この定食屋「みはる」 に通い始めてや六年、大常連であった。

 入ってすぐのテーブル席に座ると、カウンター席の一番奥から、同じ常連の星野ほしのという、同年代のサラリーマンの男が、屈託のない笑顔で、

「こんばんは」

 と挨拶した。その答礼の、

「あっ、こんばんは」

 の尻尾しっぽつかまえるような、みはるの、

「カレイの西京焼きがラスト一尾!」

 なる勧めにより、慎一は、今夜の夕食を決定した。ニッコリ頷きながら、

「ママ、ライスは大盛りで……」

 大好物である。

 この店は、みはるが常連達の体調を気づかって、オーダーを決めてくれたりもし、旬の食材を活かした、和の家庭料理が評判の、下町的な香り漂う、地元では貴重なありがたい存在であった。単身赴任のサラリーマンや、親元を離れてひとり暮らしのOL、学生達が、男女を問わず足繁く通い、まるで我が家のように賑わっていた。ランチは十一時から十四時、ディナーは十七時から二十ニ時の営業で、帰宅の遅い人は非常に助かっていた。アルコール類はビール大瓶のみ。定休は日曜祝祭日。みな、還暦の坂を越えた優しいみはるに、故郷の母の面影を重ねて、アットホームな感傷を労い合っていた。

 オーダーを済ませ、やはり勝手知ったる店でも、何となく流覧していると、星野が、美味うまそうにチキン南蛮定食を食べている。客ふたりのホールで、本気になって掻き込む箸の、その口の周りに付いた、微量のタルタルソースに、慎一は想わず笑ってしまった。

 そういえば昼間のカフェで、省子も慎一の顔を見て、含み笑いをしていた事を、ゆくりなくも想い出す。


〈あれは……俺の真顔に対して? それとも、顔に何か付いてた?〉


 などと、〝笑い〟 の元を当てずっぽうで遊びながら、配膳を待っていた。結局、疲れという壁が邪魔をして、答えが曖昧になっているあいだに、みはるが定食を運んで来た。

「はい、お待たせ……」

「うん、どうもありがとう」

 慎一は、目の前で美味おいしそうな顔をして、出来たての優しさで待ち設ける料理達に、

「いただきまぁす」

 と、目尻を下げながら謝意をひょうした。その様子を、カウンターの中から眺めていたみはるもまた、笑顔に包まれていた。食欲をそそる、温かく香る湯気の向こうに……


〈省子の面差しが……彷彿とする、優しく、慰める……〉

 

 ゆっくり味わうそばから、今日の出逢いを想い返す。

 話し易そうな柔らかな風合いと、それでいて、凜として、芯の強そうな風合いが手を結んで、省子らしさを織り成し、その省子色のヴェールが、慎一を掴まえてしまったのだが、料理がかもす、温かい香りが充溢した湯気が、まるで、省子が展げた魔法の織地のように、自身の全身にまとい付く。

 幸せであった……

 こんな、余す所があるとは、信じられないような充実感に浸るのも、かつて経験しただろうか? 無抵抗のまま、無条件で省子に降伏してしまったのだ。それが、本当に、心地良くて……

「何か良い事あったんでしょう?……」

 みはるが、追及の口火を切った。

「周ちゃん、わかり易いからねぇ〜」

 いつに変わらず 渾名あだなで呼び、軽く鎌を掛けて誘導する女店主に、

「いや、何もないよ」

 慎一は、即座に否定の意思表示で対抗した。傍らの星野は、自ら頬張り続けるその陰に隠れるような、無言の微笑みを横顔に漂わせて、目線も抑えて寄越よこさない。とはいうものの、いも甘いも噛み分けたみはるに掛かっては、息子程の歳の差の慎一など、手も足も出ない事は、自明のことわりである。ママは、ただ控えめにニヤリとするだけで、それ以上突っ込まない。慎一は、そんな店ぐるみの優しさが、堪らなく嬉しかった。伝わるものを、素直に受け取った。流石さすがはベテラン、こころている。


〈ママは、言わぬが花と……きっと、勘付いている!〉


 大人の礼儀とて、この店では臨機応変に、そして温情たっぷりに通用する。狭い店をひとりで切り盛りする、そんな女丈夫のみはるが、みんな大好きだった。

 食事を済ませ、店を出た慎一は、再び商店街通りに戻り、満腹の安堵をぶら下げて、時間を掛けて自宅へ向かった。普段なら、十五分程で到着する距離を、今夜はだいぶ違った。やはり、日中の出来事の、希望的観測が込められた、ストレートな余韻が、歩を鈍らせる。午後十時を過ぎていた。


〈ビール、飲みたかったなぁ……〉


 のろのろと歩く。

 と……かくの如き安らぎの時間も、この道の先に見える、あの、角まで、そこまでであった。あの角を左に曲がった先は、また……疲れた顔をした、無言の仮面を被らねばならない。あの角を左に曲がると、右手に自宅がある。外出時のものとはまた別の、自宅用のおもてが必要である。それが慎一の、ほぼ毎日のルーティンだった。

 三階建ての、自宅マンション前に着いた。各階四戸総戸数十二の、この小規模低層階マンションの、三○二が自宅である。

 都心にある、小さな建築関連企業に、OLとして勤める由美子ゆみこと結婚して、十六年目、子供はなく、共に淡々と中年期を迎えでいた。

 九年前に、築十年3LDKの間取りの、この中古物件を、夫婦ローンで購入し、来年完済の予定であった。子供のいない、落ち着いたふたり暮らしには、このぐらいの広さが、ちょうど使い勝手が良く、老後を見据えて、何でも楽に手が届く環境を求め、整えた。全て、自分達ふたりで為さねばならない。

 慎一は、威儀を正してエントランスへ入った。三○二の郵便受けの中空を確認し、一階に停止中のエレベーターに乗り込む。革製の靴音が、硬質の残響音を奏で、漸次ぜんじ、自身を帰宅モードに創り上げてゆく。自身の鼻息が、この小箱のような空間で、唯一の実存を示唆して、慎ましやかに証言している。三階のボタンを、押し損ねそうになりながらも押し、扉が閉まった。忽ち三階に着き、開扉と同時に、昂然こうぜんと両眉を吊り上げた相形に、変貌しているその胸裡に、一縷の後ろめたさが生まれる。既に由美子は夕方には帰宅し、ひとり食事も済ませているだろう。靴音さえ息づかいの陰に紛れたい歩みは、廊下の静寂の公共性を約束するものである。三○二号室の前で、立ち止まった。

 ズボンの右前ポケットから鍵を取り出し、静かに解錠した。ばいふくんだ。

「……ただいま……」

 小声で、自らに言い聞かせるように、帰宅を告げた。いつも通り、返事はない。照明は点いてはいるものの、今夜も、周藤家はひっそりとしている。

 慎一は、先ずトイレに直行し、そして洗面所で盥漱かんそうを済ませた。その物音に漸く気付いたのか、由美子が、

「……お帰り……」

 声だけの出迎えとてまた、妻のルーティンであった。その調子からして、良くある事だが、ソファーで転寝うたたねていたのだろう、慎一がリビングに入ると、寝惚ねぼまなこの由美子の、無気力な顔があった。

「……おやすみ……」

 由美子は、テレビのスイッチを切って、自室に入った。ソファーの足下に置かれたマガジンラックに、上下の向きが逆様さかさまの雑誌が、二冊挿し入れてあった。ベランダに通じるサッシの大窓の、脇に吊り下げられた青銅の風鈴が、堅く戸締まりして風を失ったにもかかわらず、頼りなくかすかに音を発して項垂うなだれている。エアコンのルーバーから流れる、弱い冷房の空気が、じかに慎一の肌に触れて、凝り固まり火照る心身を、ささやくようにほぐしていった。

 ……おもてを、脱いだ。

 ソファー身を投げ預けると、深い溜め息がえぐった。両脚を伸ばし、両掌を頭の後ろで組んで、天井を仰いだ。そして、脳裡をぎるものを、噛み締めた。


 ……夕方前、中目黒の正面改札で別れた時……別の用事がある慎一は、渋谷方面の一番線、省子は、学大方面の四番線と、反対方向、島式二面四線の駅構造の、ホームの共に外側、つまり別のホーム、違うエスカレーターに向かったのだが、人波に押されたふたりは、振り返る暇もなく、流れ込んだのであった。

 視野が展け、エスカレーターを降りた慎一は、駅周辺のビルの林立にかされるように、ホームを歩いていると、向こう側のホームで、真っすぐ背筋せすじを伸ばした姿勢で、にこやかに笑いながら佇立して、こちらを見ている省子に、はたと、気付いた。

 白いトートバッグを、両手で体の前に提げ、ワンピースや靴とも揃い合わせた、白光の反射が、真夏の夕暮れ間近の斜光を、その一身に招集したかのように照り映え、雑然としたホーム上の、数多あまたの意思を浄化していた。快然たる眩暈めまいを教えられた男は、何も慎一だけではないかも知れない。学大駅のホームで、初めて省子を見た時の羽搏はばたきが止まぬはしから、尚も幸甚の波状に畳み掛けられている慎一に、一礼を贈ってから電車に乗り込んだ、省子の律儀さが、彼女の決意の程を顕現した証左たる、白き化身であったろうか……。


 ……夜十一時を既に回っていた。慎一は、約三十分で入浴を終え、半乾きの髪のまま自室に入った。六畳の洋室の窓辺のシングルベッドが、由美子の温もりを忘れてから、もう何年経っただろうか? 隣室は、水を打ったようにしんとしている。

 互いの無関心を、リビングの風鈴が嘲笑していた。

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