滴る夜
夕方、帰宅した省子は、まだ
父、
一頻り休んだ
省子は、窓際に配されたアンティークの机の椅子を引き、やんわり腰を落として、机上のパソコンのメールチェックを試みた。着信はなく、再び立ち上がって着替え始めた。
そして、汗が染みた白いワンピースの、タイト故に伴う、脱ぎ
露わになった白い肌が醸す自らの体臭、真夏の一日の疲れを
充分な張りを蓄えた流線型の、なかんずく湾曲の深い腰の部分の骨が、部屋の柔らかな明かりに
されば、ふと我れに帰った省子の意識の
日の出橋辺りの佇まい、街の香り、風の触感、日射しの眩しさ、そして、影……ふたりの
疑いもなく、今日の涙は、尚以て目黒川は、まだ見ぬ恋への憧憬、そして焦燥なのであった。この小さな川そのものが、恋ごころと重なっていたのだ。川の流れに、自らの恋を見ていた。省子は、恋がしたかった……故の涙なのであった。女ごころであった。
脱いだワンピースが、白い
……
ふと、壁掛け時計を見
俄かに、玄関ドアを解錠する音が、邸内に響いた。
「ただいまぁ!……」
両親の声が重なり合った。真澄が明るく、
「遅くなっちゃった、もう八時よ」
と誰にとはなく話し掛けながら、リビングに入って来た。忍も続いた。
「お帰りなさい! 遅かったねぇ」
省子の出迎えが、尚も家中に活気を召喚した。
「ごめんね省子、遅くなっちゃって。さっき学大の駅前で、偶然お父さんに
母は、緑色の包装紙に包まれた寿司折を、ダイニングテーブルに置いた。
「デートしてたんだぁ」
優しく返す省子であったか、内心、
「わぁ
両親は笑顔で応えた。
「幾つになってもラヴラヴですねぇ……」
と、頬張りながら、ふたりを
「お前も早く家庭を持てよ」
なる、口癖を浴びせるのだが、今夜の省子は全く意に介さなかった。
実は……省子と慎一のふたりは、カフェにて、互いのスマホの電話番号を交換していた。その十一桁の数字が登録された、自身のスマホの画面を、省子はもう何回見た事だろう。幸せの確認、そして連絡を待つ女ごころが、今はまだ生まれたてであった。
〈その
泣いたり笑ったり、煩慮の
恋とは、曇りのち晴れの空模様。太陽は、正に慎一であった。省子は、確実に、恋に、落ちた。
……夏の夜の相応しさが、いよいよ過剰に展がるようである。そして、目黒川を想えば、川面とて
慎一は、漸く地元学大駅に帰って来た。夜九時を回っていた。駅前商店街の狭い道を、家路を急ぐ人達に紛れて、のんびり歩いた。脇へ入る小径に折れ、ある小さな二階建て一軒家の前で、歩を止めた。通りに面した出入口の、茄子紺の
「いらっしゃい、お帰り」
経営者でもある店のママ、
気さくな、人情の機微に通じたみはるママの人柄に、居心地の良さを覚え、この定食屋「みはる」 に通い始めて
入ってすぐのテーブル席に座ると、カウンター席の一番奥から、同じ常連の
「こんばんは」
と挨拶した。その答礼の、
「あっ、こんばんは」
の
「カレイの西京焼きがラスト一尾!」
なる勧めにより、慎一は、今夜の夕食を決定した。ニッコリ頷きながら、
「ママ、ライスは大盛りで……」
大好物である。
この店は、みはるが常連達の体調を気
オーダーを済ませ、やはり勝手知ったる店でも、何となく流覧していると、星野が、
そういえば昼間のカフェで、省子も慎一の顔を見て、含み笑いをしていた事を、ゆくりなくも想い出す。
〈あれは……俺の真顔に対して? それとも、顔に何か付いてた?〉
などと、〝笑い〟 の元を当てずっぽうで遊びながら、配膳を待っていた。結局、疲れという壁が邪魔をして、答えが曖昧になっている
「はい、お待たせ……」
「うん、どうもありがとう」
慎一は、目の前で
「いただきまぁす」
と、目尻を下げながら謝意を
〈省子の面差しが……彷彿とする、優しく、慰める……〉
ゆっくり味わうそばから、今日の出逢いを想い返す。
話し易そうな柔らかな風合いと、それでいて、凜として、芯の強そうな風合いが手を結んで、省子らしさを織り成し、その省子色のヴェールが、慎一を掴まえてしまったのだが、料理が
幸せであった……
こんな、余す所があるとは、信じられないような充実感に浸るのも、かつて経験しただろうか? 無抵抗のまま、無条件で省子に降伏してしまったのだ。それが、本当に、心地良くて……
「何か良い事あったんでしょう?……」
みはるが、追及の口火を切った。
「周ちゃん、わかり易いからねぇ〜」
いつに変わらず
「いや、何もないよ」
慎一は、即座に否定の意思表示で対抗した。傍らの星野は、自ら頬張り続けるその陰に隠れるような、無言の微笑みを横顔に漂わせて、目線も抑えて
〈ママは、言わぬが花と……きっと、勘付いている!〉
大人の礼儀とて、この店では臨機応変に、そして温情たっぷりに通用する。狭い店をひとりで切り盛りする、そんな女丈夫のみはるが、みんな大好きだった。
食事を済ませ、店を出た慎一は、再び商店街通りに戻り、満腹の安堵をぶら下げて、時間を掛けて自宅へ向かった。普段なら、十五分程で到着する距離を、今夜はだいぶ違った。やはり、日中の出来事の、希望的観測が込められた、ストレートな余韻が、歩を鈍らせる。午後十時を過ぎていた。
〈ビール、飲みたかったなぁ……〉
のろのろと歩く。
と……かくの如き安らぎの時間も、この道の先に見える、あの、角まで、そこまでであった。あの角を左に曲がった先は、また……疲れた顔をした、無言の仮面を被らねばならない。あの角を左に曲がると、右手に自宅がある。外出時のものとはまた別の、自宅用の
三階建ての、自宅マンション前に着いた。各階四戸総戸数十二の、この小規模低層階マンションの、三○二が自宅である。
都心にある、小さな建築関連企業に、OLとして勤める
九年前に、築十年3LDKの間取りの、この中古物件を、夫婦ローンで購入し、来年完済の予定であった。子供のいない、落ち着いたふたり暮らしには、このぐらいの広さが、ちょうど使い勝手が良く、老後を見据えて、何でも楽に手が届く環境を求め、整えた。全て、自分達ふたりで為さねばならない。
慎一は、威儀を正してエントランスへ入った。三○二の郵便受けの中空を確認し、一階に停止中のエレベーターに乗り込む。革製の靴音が、硬質の残響音を奏で、
ズボンの右前ポケットから鍵を取り出し、静かに解錠した。
「……ただいま……」
小声で、自らに言い聞かせるように、帰宅を告げた。いつも通り、返事はない。照明は点いてはいるものの、今夜も、周藤家はひっそりとしている。
慎一は、先ずトイレに直行し、そして洗面所で
「……お帰り……」
声だけの出迎えとてまた、妻のルーティンであった。その調子からして、良くある事だが、ソファーで
「……おやすみ……」
由美子は、テレビのスイッチを切って、自室に入った。ソファーの足下に置かれたマガジンラックに、上下の向きが
……
ソファー身を投げ預けると、深い溜め息が
……夕方前、中目黒の正面改札で別れた時……別の用事がある慎一は、渋谷方面の一番線、省子は、学大方面の四番線と、反対方向、島式二面四線の駅構造の、ホームの共に外側、つまり別のホーム、違うエスカレーターに向かったのだが、人波に押されたふたりは、振り返る暇もなく、流れ込んだのであった。
視野が展け、エスカレーターを降りた慎一は、駅周辺のビルの林立に
白いトートバッグを、両手で体の前に提げ、ワンピースや靴とも揃い合わせた、白光の反射が、真夏の夕暮れ間近の斜光を、その一身に招集したかのように照り映え、雑然としたホーム上の、
……夜十一時を既に回っていた。慎一は、約三十分で入浴を終え、半乾きの髪のまま自室に入った。六畳の洋室の窓辺のシングルベッドが、由美子の温もりを忘れてから、もう何年経っただろうか? 隣室は、水を打ったようにしんとしている。
互いの無関心を、リビングの風鈴が嘲笑していた。
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