目黒川

小乃木慶紀

実話に近い……

 筆者は、かつて鎌倉駅の横須賀線ホームで、白く透き通る柔らかな、夏目雅子という、儚い幻を観た。時を経た今、眼前に彷彿とする白い化身は、誰?……




 凜として、真っすぐ一本、咲いて立つ花のようなひとがいた。

 東急東横線、学芸大学駅のホーム。やがて、渋谷方面行きの急行電車が、ホームに滑り込んで来る。

 靴、タイトなワンピース、トートバッグ、全て白一色に統一された彼女は、左手を翳して、真夏の昼下がりの強い日射しを遮りながら、電車の到着を待っていた。

 比較的、乗降客の少ない時間帯。談笑しながら、スマホの画面を覗き込む学生達。大きな紙袋を抱えて、足下を気にしている初老の婦人。西の空を眺めて、明日の天気を確認したかのように頷く紳士。それぞれの、慌ただしくも平穏な日常が、ホーム上のそこかしこに横溢していた。

 左手に巻いた腕時計に、静かに視線を下ろした彼女の口の端が、ふと、綻んだように見えたのは、果たして、偶然、周藤慎一しゅうとうしんいちと目が合った所為せいなのかは、定かではない。

 柔らかな微笑みを湛えていた。

 セミロングに整えられた髪の毛の質感に、上品でありながらも、決して前には出過ぎないような、羞じらいが漂っていた。程良く秀でた鼻梁が、右の頬に希薄な影を作っていた。

 雪崩れ込むように電車が進入して、停まった。ホームドアに続いて、車両のドアがひらいた。疎らに人が降りて来た。周藤と何人かが、同じドアから車両に乗り込むと、座れないまでも、車窓から目黒の街が良く見えるくらい、オープンな雰囲気があった。冬晴れの日などは、雪を冠した富士山の、その雄大な裾野を展げる姿が、実に美しい区間である。

 この路線は、祐天寺付近で大きく揺れるので、油断をしているとバランスを崩し易い。男の周藤でさえ、重心移動に苦戦する事が、一度や二度では済まない時がある。

 右手の吊り革を握り直した周藤は、進行方向に目を走らせた。彼女もまた、肩が左右に振られている。


〈坂の多いこの街の、その高低の多様な褶曲は、人のこころをうねらせるかのように、神が一通りではない造形を、施した産物なのだろうか?……〉


 と、周藤は、無言のモノローグで、所在のなさを繕っていた。

 理由はわからない。

 わからない方が自然だった。抵抗がなかった。

 レールを軋ませて疾駆する電車の振動が、心地良さと共に、周藤の内部で刻み始めた、何かの存在を許してしまっていた。あまつさえ、一抹の躊躇ためらいまでも、そのディテールを変更しようとしていた。

 そして周藤は、長く尾を引く滑らかな曲線が、時として自由を得て、まだ何も知らない、何色でもない、清白の画用紙の全面に、奔放で、かつ精緻なカーブを使って膨らませた、あるひとつのデッサンを空想していた。


〈描いて、消して、また現れて、消えて……〉


 幾度となく、浮いつ沈みつするその想いに、ひたすら、時を委ねていた。

 ただ、ただ彼女に傾いてゆく自身を感じていた。

 その一方で、内面を大きく充たしてゆく想い、こぼれそうな気持ちに、緊張という仮面を俄か作りして、さあらぬ体を装わなければいけなかった。弁えを持った大人の男として、それもわかり過ぎるぐらいわかっていた。

 車外に流れるコンクリートの壁が、中目黒到着の近さを、車内の全ての人に告げ出す。地下鉄日比谷線に乗り換える人が、ほとんどであろう、先を急ぐ足音が、複雑に響いている。その光景を漫然と眺めていた周藤は、彼女がホームに降り立つ姿を、視野の隅に収めつつ、自らも降車して、ゆっくりとした足取りで、遠からぬ後ろを歩いた。

 反対側のホームで、発車を控える日比谷線を横に見ながら、彼女が階段方向を目指している事に、気付き始めた周藤は、不即不離の間隔を嗅ぎ当てて、確かめるようなその歩調をも踏襲して、続いて行った。

 そして、階段を降りて地上に至り、正面改札を出て、山手通りを跨ぐ、高架下の横断歩道の信号待ちで、初めて、彼女と爪先を揃えるに及んだのであった。

 ややもすれば、日頃から妻に鈍感だと言われている周藤にとり、女性が露わす感情のサインは、正直、見逃してしまいがちである事は否めなかった。しかしながら、こうして並んで立っていると、彼女のすがめるような眼差し、甘く、清潔感のある香りは。学芸大学から、頑なに守り通して来た第三者の仮面を、音もなく、絶え間なく、尚以て匂い立たんばかりの笑顔を添えて、正に問答無用の態度で、案の定、周藤の内側を融かしに掛かった。

 さればこそ、自分勝手な期待には、まだ手離しでは賛成し兼ねている、自身のプライドを、周藤は改めて自覚した。

 そんな周藤の風情を、彼女は察したのか?……どんなものか?……一瞥をくれた。

 急上昇する心拍数を制するのに、苦心しているうちに、青に変わった信号で、歩行を再開した彼女に、若干の気後れを覚える周藤ではあったが、生まれた距離の絶妙さに、何とか落ち着きを回復して、今度は悦にったような顔をして、周囲の風景を愉しむ余裕を見付けていた。

 夏の盛りの目黒川界隈には、吹き抜けるような風はない。川面にわだかまる微風が、夏の情緒を担う主役であり、衆目をそそる。お洒落な店が軒を連ね、流行を語れば枚挙にいとまがない。

 線路沿いを抜け、中目黒アリーナ横を経て、漸く、お目当ての場所に来たかのような、一点の安堵の面持ちを呈した彼女は、歩を緩めて、橋の上で立ち止まった。《日の出橋》という名の橋である。手入れの行き届いているであろう、髪を撫でながら、不規則に形を変化させる川面の、小さな流れの一点を凝視している。何かを見付けた訳でもない。ただ……一点を見つめていた。

 そして……その横顔を、近からぬ路傍に佇み、静観していた周藤は……人知れず、彼女の目のふちに宿った、透き通る煌めきが……おもむろに粒を成し、やがて玉を結び、終いには耐え切れなくなるや否や、はたと……川面に滴る身を投げ、潰えてしまうさまを……息を潜めながら目撃した。

 泉の如く涌きでた、ひとりの女の情念、その不意打ちに、接近遭遇してしまったのだ。

 冷たい水中に消えゆく運命を辿った涙。

 無数の人が流したかも知れない同じ涙。


〈……そんな涙が流れている、そんな涙の雫を集めて、ひと条の流れを編んだ川が、目黒川という川なのだ……きっと彼女は、涙の匂いに誘われるままに、なぜかこの川に足が向いてしまうのだろう……〉


 周藤は、そう想わずにはいられなかった。

 真近に迫る代官山の山肌と、その西側一帯を塞ぐ諏訪山に囲まれた、盆地のような中目黒の、底辺に臨んでいるふたりであった。深淵に沈めるかのような想いを、垣間見てしまった周藤は、彼女へこの上なく募ってゆく、それでも尚、彼女を果てしなく慕ってゆくこころを、もう誤魔化す事が出来ないと感じていた。無理もなかった。そっと、包んであげたかった。流れる川の水を、このふたつの掌で掬い取って、自身の熱ばんだ喉の奥に、注ぎ込んでしまいたい欲求……最早蔑ろにする事は考えたくなかった。彼女のこころに、さり気なく、触れてみたいと……。

 周藤は、意を決して、声を掛けた。

「どうかしましたか?……」

 返事はなかった。ある程度、予想はしていたのだが、殊の外、彼女の濡れた長い睫毛の奥の瞳が、まだ美しく潤んでいた。

 白昼に萎れ掛かっている、凜々しくもしっとりとした花のおもてに、仄かに薄明かりが灯った。

「……ええ……うん。少し、考え事があって……」

 彼女は、自らを納得させるように、努めて声の抑揚も、フラットに均した話し方で、こう言った。その上周藤は、成りゆきを閉ざしてはいない感がある、その言葉の隙間に、些少の安心を挿み込んだ。

 彼女が、白いハンカチで、額に滲んだ汗や口元を、軽くはたく仕種は、見る見るうちに、警戒心がかれてゆく道筋を、俯瞰しているかのような錯覚に、周藤を陥れていたのかも知れず、既にこころ持ちにゆとりを覚えていた周藤は、じかに頭上から奇襲を企てる日光を、サーチライトさながら、自身を強力に援護する味方に付けていた。高架下の横断歩道から、攻守が入れ替わっていたのだ。

 周藤は、会話を繋いだ。

「この川は、なかなか風情があるから……そぞろ歩くには良いですもんね、暑いけど……」

〝風情があるから〟 として、刹那の沈黙を置いた。しかし、真剣に彼女に魅せられてしまった周藤にしてみれば、狡猾な遣り口など、議論を待つまでもなかった。この場の空気を、更には想いまでも、共有したいその一念のみである。その明々白々な心胆が、言葉の空白、間合いという、濃厚な感情表現を喚起した。

 まだ僅かながら、まなじりに紅みをのこした彼女の面差しは、曇りが消え去り、一応の句点が打たれた気韻を纏っていた。学芸大学から引き摺って来た、靄を蹴散らし、周藤の背中を後押しするような、強い日射しにも似た、八面六臂の真ごころが、事ここに至り、今まで以上に、彼女に何かを与えたがっていた。このままではいや、寡黙はもっといやだった。

 さりとて、策士、策に溺れ、才子、才に倒れるの故事に倣うかのように、ボキャブラリーが決して脆弱ではないはずの、周藤の自負が、二の句を継げずにいる場面を、迎えてしまっていたのも、また事実であった。先刻の束の間の沈黙が、そのかさで圧倒し始めるかも知れないと、気を揉んだ。

 だが、その時、

「フッ……」

 と、小さな笑い?を漏らし、乳白色に居並ぶ前歯を穏見させつつ、相好を崩した彼女は、

「今日は、日傘を忘れて来ちゃったんです」

 子供が反省の色を示すような、行儀を召し連れて、周藤に語り掛けた。

 そう言われれば、確かにその通りである。この真夏の日盛りの中、女性が日傘も差さずに、川沿いを逍遥する格好など、如何にも、違和感を覚えざるを得ないではないか?……


〈俺は、どうして気付かなかったものか?……それだけ本気なのか?……〉


 またしても自問自答スパイラルの入口が、見え隠れして来た周藤は、ふたりの成り行きのイニシアティヴの、所在概念が、一過性の機能不全状態に、低下してしまうのであった。

 川面の乱反射が、ふたりのこころを見透かしたように、そして、未来を暗示するかのように、揺蕩たゆたい、燦爛としている。時間と運命の明滅の狭間はざまで、正に必然の傘のもとで、用意され、出逢うべくして出逢ったのかも知れない。一致する予感は、それぞれに続きを命じるしかなく、日傘を持たず、さほど紫外線を心配するでもない素振りで立つ、この健気な花を彩る笑顔、十重二十重とえはたえに輪を展げる、その破顔を想像する周藤は、なるほど、純粋無垢な一笑しか考えられなかった。


〈……笑っていて欲しい……ずっと、彼女の笑顔に触れていたい……〉


 専心する周藤であった。

 しかるに、今頃想い出したように、口渇感が蘇った周藤は、これ幸いとばかりに、早々に会話の矛先ほこさきを決定していた。当然、立ち話では疲労がかさむだけであり、ましてや真夏の日中である。この辺で水分補給を兼ねて、涼を取るのが妥当であろう、とした。先ず、ふたつの独立生命体の生理現象を、満足させる道を、最優先に考えた。トイレにも行きたい、人間とて動物、水を命として感情を併せ持つ生き物である。妄想と理念の中間点を彷徨い、常に均衡を計り、可及的速やかに多くを確保せんとして、際限なく比較し、取捨選択を繰り返してゆく、さがを携えた生き物である。尚も、熱中症予防の実行は言うまでもない。

 まことしやかに、哲学的な思考に迂回したのも、さてこそ真摯であるが故の、男ならではの弁明であり、含羞のニュアンスの露見を、怖れはしたものの、一度動き出した歯車を止める、全ての手段の放棄まで、そう遠くない地点に到達していると、確認した周藤であった。

 そして、周藤は緒に就いた。

「……私、昨日はシフト明けで、今日は休みなんです。家は学大(学芸大学、通称)ですけど、フラッと、来てしまいました……」

 大の男が、平日の昼間から物見遊山に興じていると、取られたくなかった己の保身が、上手い具合に転がる事を、願っていた訳だが、それにしても存外の饒舌さに、新たな自身の発見がひらめいた。

「あら、偶然。私も学大なんですよ……」

 呼応する彼女の、ここまでの経路は、周藤は先刻承知の上である。言わずもがなの事……であるから、周藤はここにいる。ここまで追い駆けて来てしまった。学大駅で、出逢ってしまった……もし、出逢わなければ、周藤の中に彼女の存在はない。温雅な髪も、玲瓏たる声も、清淑な香りも、感覚だけでなく、想い馳せるこころの中身が、皆無なのだ。されど、存在を知ってしまった以上、こころの赴く以上、ただ一心に……それ以上の手立てはないと、信じた。

 周藤は、警備員という職業柄、必要以上の発言は慎しみ、〝見せる警備〟なる概念はさて置き、ただ黙して語らないスタンスに、徹して来たつもりであった。にもかかわらず、これである。


〈妻の由美子ゆみこが、この対応を見たら、何と言うであろうか?……〉


 あらぬ想像を巡らせたりして、今日一日のこの、何ものにも代え難い自由に、一途に埋没入滅するのであった。

「暑いでしょう?日傘も差さずに。良かったら、近くのカフェで涼みません?……」

「えっ⁈……」

 と、またたくような一驚が翻るも、なだらかに含羞はにかむ相に呑まれてゆくのを、周藤は、自らの胎動を秘しながら見守った。彼女の両の耳朶、加えて頬には、再び紅みが兆している。白いトートバッグを、両手で握り締めていた。

 こころしか、風が立ち上がり、ふたりに向かってそよいでいる。全身に受ける生暖かい、いや、むしろ熱を孕んだ、見えない壁の感触に浸った。自然のままに、ありていに任せて、誘いの言葉を供したつもりの周藤であったが、内心、先程来の鼓動の攻勢に手を焼いていた。今度は、打って変わって静謐の気の中、彼女の反応に注視する他なかった。寸陰を惜しむ自身が、そこにいた。

「……ええ……少しの時間なら……」

 遠慮がちな花は、羞恥の相形をめて俯き、呟いた。その可愛いらしさに、周藤は波のように押し寄せられ、否応なく、引き波に攫われた。如何せん、自らの主体性を、自主的に放逐してしまったのかも知れない。白日に現れた健気な幻に、為す術もなく、あらがかたもなく、忘れるが如く奪われた。たおやかな微睡まどろみを伴い、うやうやしく捧げるかのようにはべり、そして気が付く間もなく、余す所なく、占領してしまう……。

 それでも周藤は、欣喜雀躍たる気持ちに、辛うじて蓋をして、

「じゃあ、行きましょう」

 と、口角を持ち上げながら、夏の楚々とした花を、宥めるように導く。数メートル先に見える、川べりのオープンカフェを視線で示して、

「ここにしましょう。良ろしいですか?」

 なる言を預ける傍ら、彼女の面様おもようを窺った。

 小さく首を縦に下ろした、彼女の瞳の中に、揺ららかに映る、周藤の笑顔があった。

「いらっしゃいませ」

 店のスタッフに招かれるままに、奥の仄暗い、渋い木目調が空間全体を引き締める、落ち着いた席に案内された。椅子に腰掛け、目立たぬように、辺りを流覧していたふたりだったが、揃ってオーダーした、ラージ・アイスラテが運ばれて来た頃には、互いに、人心地が付いた顔色を見定め合って、目線の調和も取れていた。自然に目を合わせて、少しずつ会話が成立していた。

 冷房の効いた店内は、それ程混んではいなかった。マホガニーの調度品類が放つ光沢が、ビターで瀟洒しょうしゃな色彩を演出し、スタッフの接遇もスマート、ラテの甘さも万人向きで、何と言っても音楽、周藤が大好きな、幅広いジャンルにカテゴライズされた、フランスのギタリスト、ピエール・ベンスーザンのアルバム曲が、しなやかに流れていた。ふたりして、実に良い店を選択した幸運を喜んだ。

「日陰が嬉しい……」

 懐かしむように、彼女は表白した。

 なぜかしら、言いようのない余韻を希釈したかったのか、自らのタンブラーの氷を、ストローでゆっくり撹拌しながら、時折物憂げな眼差しで、関係のない方を見たりしていた。それらしい構えに、こころの向こう側にある、憧憬物への立ち入りを、今はまだ拒む意が仄見えていた。

「疲れました?……」

 周藤の問い掛けに、

「大丈夫、平気」

 と即答するのだが、気の利いた台詞を望んでいるふうでもなかった。周藤は、半ば徒らに時を費やしているような気分に、ブレーキを掛けていた。

 アコースティックギターの奏でる、インストゥルメンタルの調べが、ふたりの間合いを埋めていた。

 それは時に、リズミカルに、そして時に、動と静のコントラストを発現して……ふたりの遠慮深さが、手持ち無沙汰の先触れとなり、淡い思惑とぜに、図らずも、虚ろな時間を喚び込んでいたのだろうか?

 しかして、汗を収めた彼女の趣きの奥に、一片のつかえがとどまっているのを、目敏く見付けてしまっていた周藤であった。単に、ひと時の休息の余裕だけではない、その裏に眠る、濃密な感情の気配を、彼女の目の色から、そして今、その言葉から、推し量れる。

 実はそれは、何も今更のように知った訳ではなかった。東横線の車内でもそう、中目黒のホームでもそう、横断歩道の信号待ちでもそう、つい今し方の奇跡たればこそ、始まりからずっと、強く、焼き付けて来た。忘れるひまなどない……そんな、悲しみに移ろうこころの断片を、千々に乱れるこころの種子を、ひとつずつ拾い集めて来た道ゆきであった。

 そして、日の出橋で出会でくわした落涙は、正に愛痛の極みから溢れ出でた、彼女の消し難い感情表現であり、悲しみを融かして限界を超越した、エビデンスと言ってまがう方ないのである。

 やや停滞したムードの刷新を期して、周藤は口をひらいた。

「……私、周藤慎一と申します。警備員をしております。四十三歳です。どうぞよろしく……」

 堅苦しさを排して、こころ持ち砕けたイメージを描いて、話したつもりであった。が、どうしたものか、丸テーブルの、周藤からは左側に座っている彼女は、軽く握った右手のこぶしで、口元を隠して、

「クスッ……」

 と窃笑するのだ。

「あ、すみません。私、岡野省子おかのしょうこと言います。今日はどうもありがとうございました……」

 はなはだ遅れ馳せながら、つつがなく、自己紹介の交換なる、社交辞令を済ませたふたりは、一気に和んだ、出逢い模様の初々しさに、折節顔を紅らめ、あるいは目を伏せて、大人同士のウィットに富んだ、中庸を踏まえた明るい会話に、花を咲かせるに及んだのであった。

 嬉々として敷衍ふえんする顔、悩ましく傾聴する顔……周藤がの当たりにしているこの花には、様々なよそおいがあった。そのどれもが、最近疲れ気味の中年男を癒し、明日の活力を与え、生命の讃仰さんぎょうをもいだかせる程に、麗しく、情を以て、胸襟をひらかせた。周藤は、迷いを見失いつつある。嬉しい過ちの予感が、途切れない。それは繋がろうとする、知る由もないそのひと、ひとりは妻、もうひとりは省子への、いずれ背信になろう糸……

 ほぐれたのは、省子とて同じであった。自らが語るに連れ、渙然氷釈かんぜんひょうしゃくたる想いが膨らむ。初対面の人であれ、不思議と許せるものを、波長のシンクロを感受していた。


〈もっと話したい、もっと聞いていたい、そして……もっと、聞いて欲しい……〉


「周藤さんて、真面目な方……」

 意表をく省子の発言には、例によって、忍び笑いが付け加えられていた。その顔ばせが何とも愛くるしく、いよいよ以て増幅する親近感から、周藤はその〝笑い〟 の意味を尋ねてみると、

「だって、真面目な方が、頑張って砕けようと……それが、ごめんなさい、可笑おかしくって……」

 一本取られた感が、周藤の内省の波紋を展げた。その面映おもはゆさが、省子にも平明に伝播して、言い知れない温かさに、ふたりは包まれたのであった。

「失礼ですが、省子さん……と呼ばせて頂きますね。仕事は何を、なさってるんですか?」

 周藤が投げ掛けた、紋切り型の質問に、

「ええ」

 と一語、一拍付して、

「父の会社を、少々手伝ってます」

 とした省子のオーラに、初めから、有閑令嬢風の色合いを捉えていた周藤は、自らの得心に上書きするように、

「じゃあ、お姫様ですね。歳はお幾つ?」

 と容喙ようかいするのだが、省子とて大人のリプライで応じた。

「全然そんな事ないんですよ。三十四になりました」

 店頭を巨大に覆う、シェードオーニングの下には、パキラの鉢植えや、人の背丈程に剪定された、姫沙羅ヒメシャラの樹の植え込みがあり、スタッフがふんだんに、シャワーの水をやる光景は、地元の夏の風物詩で、ふたりは店内から賞翫しょうがんして、小緩こゆるりと涼を取っていた。省子の両の爪先が、白い双葉のように、周藤に向かって真っすぐ伸びている。

 そして、その水の条の束の箒目越しに、淡く小さな虹が出現していた。暫時、生まれていたのだが、儚く、消えてしまった。さっき……省子は川面に、何を見ていたのだろう?……

 今ふたりは、ときめきという、同じ時間軸のもとで生きている。

 この極めて短い、ほんの僅かな時間、瞬間を共有している。

 最短のタームの中で、ふたりはときめく想いを認知し、シンパシーを覚え、いつの間にか意義を与えていたのだ。尚もこの想念は、エゴを持つふたつの生命体が、自然摂理に従って、実現という結論を求めて、悠然と船出したに違いなかろう。新しい世界を創造する為に、実現化への航路を、帰結に向かって……。

 店先の観葉植物の葉の影が、ばらけたように路面に散乱して、揺らめいている。川面へ移ろうその影は、時の流れの如く、悲しみと共に、いずれ遥かわたはらへ辿り着こうか……さるにても、夏の盛りのこの日の太陽は、どうしようもなく眩しく、どこまでも、赫い。ただ、暑い。それは風さえも、立ち止まらせる。無言のまま、佇む。そして深く、もっと奥へ。何もない、空へ。

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