二十九夜
成りきるために必要な聖書がまだ来ない。遅くても今日来るはずだったのに、雪崩の影響で一週間も先になってしまった。このままだと【私】が壊れる。不本意ではあるが、協会に行って、少女に成りきるしか無い。お祈りの仕方は知らないが、一番後ろの席に座れば良いだろう。協会に行くのは初めてだが、これ以上少女に成りきるためのアイテムが無い状態が続くと【私】が壊れる。人間として機能しなくなる。ただの生きた屍になりかねない。しかし協会は何時まで空いているのだろうか? 開いている時間に行ければ良いのだが、行けないのであれば家事に専念する事にする。……いや、ここは家事に専念すれば良いのか? エスプレッソを買って飲んでエネルギーチャージした方が自分のためになる気がしてきた。協会に行ったら信者にならないかと誘われそうな気がする。下手したらミサの時間にぶち当たる可能性だってある。少女に成りきっているのであればお祈りも良いだろう。でも今の【私】は、紛い物にすらなっていない、ただの屍だ。【私】は死んだ。もう立ち会がある元気も無い。成りきる事でしか生きる術が無い。【私】を助けてくれる【幻聴】は聞こえなくなってしまった。
幸運とは突然やってくるものである。作業を終えて家に帰ると、ポストに郵便物。【聖書】が来た。やっと少女に成れるアイテムがやって来た。嬉しくて思わずガッツポーズ。これで自分を見失う心配が無くなった。あとは少女に成りきるだけ。出来る事なら身長体重が知りたい。体形も成りきりたいのだ。そこまで徹底的にやらないと聖書を買った意味が無い。今は少女の事ばかりである。少女なら何をするか。どんな順番で何をするのか? 犬にはどう接したら良いのか? 全部【自我】をかなぐり捨てての行動である。今日から早速寝る前に聖書を読むし、起床したら真っ先に聖書を読む。クリスチャンとしての活動ではなく、少女が行うであろう行動を全てやってやる。毎朝鬱が酷くても掃除洗濯は欠かさずやるし、作業所も休まない。少女は仕事をしているが、仕事を休んだ事は一度も無い。むしろ自分から仕事を増やしている口だ。素晴らしいと思う。年齢は離れていても、自分が見習うべき処はたくさんある。少女は強い。だから自分も強くなれるチャンスである。成りきるとはまさにこの事を言うのかも知れない。成りきってみせる。【私】はもう少女なのだ。少女ならどんな行動をとるのか、犬をどうやって愛するのか、どうやって仕事をこなすのか……少女なら少女なら。もう【私】の頭の中は少女の行動の予測でいっぱいいっぱいである。聖書はスタートの合図。聖書は届いた。後にはもう引けない。私は少女に成りきる。【私】とは決別する。【私】は今日死んだ。もう二度と戻る事は無い。新しい【私】は今日産まれた。第二の誕生日だ。今日というこの日を大切にしよう。【私】は生まれ変わるきっかけをくれた少女に永劫感謝しなければならない。だからDVDBOXを買おう。もうかなり昔のアニメだから、無いかも知れない。でもアニメ自体は好きな時に見られるから大丈夫だ。少女の身長は何センチで体重は何キロだろう? そこからBMI指数を計測してその数値に近づくよう努力すれば少女に近づける。異常行動かも知れないが、徹底的にやるのであればそれ位の事をするのは当然の事である。むしろやらないなら、それは中途半端な偽物に過ぎない。中途半端になる位なら成りきる必要なんて無い。徹底的にやるからこそ成りきるという自信が付くのだ。半端物は消えてしまえ。【私】はそう思う。だから【私】は半端物にならないために、徹底的に努力する。少女の好物であるエスプレッソは毎日飲んでいるし、時々店に寄っては、エスプレッソを嗜んだりする。無論、砂糖は必ず入れる。ミルクは【私】の好みとして入れる。本来ならミルクは入れないのが少女の好みかも知れないが、それは作中では語られていないので想像でするしかない。でも身長体重位なら調べられるかも知れない。BMI指数が知りたい。少女と同じになりたい。いや、なる。そして少女と同じように働いてみせる。少女と同じ職業には就けないが、少女のように働く事は出来る。バリバリと働いて戦力として認めて貰う。それが今の目標だ。だから無理するなと言われても無理はする。だって少女は弱音を吐いたりしないから。【私】も弱音を吐かない。頼られる存在になるまでは【私】は無理にでも働いて家事をこなす。成りきりたいのだ。だから【私】は成りきるために努力を怠らない。少女になってみせるのだ。限りなく本物に近い存在に。髪の色も染めたいけど就職に不利になるので止めておく。職種は違えど、働く姿勢は同じなので、就職に不利な事はしたくない。それに髪の色を変えたいのであるなら、ウィッグを被れば済む事だ。眉染めもしなければ……。少女に成りたいと願った日から【私】は【幻聴】と決別した。ずっと待っているのに、未だに【幻聴】は……もう一人の私は帰って来ない。薬を止めれば帰って来るかも知れないが【私】は少女に成りきると決めたのだ。今更帰って来て貰っても困るだけである。どうせ【私】の邪魔をしてくるに決まっているのだから。【私】が少女になるためには大きな決断を下さなくてはならない。
それは親兄弟を捨てる事。
少女には家族はいない。両親が他界しているというのが正確な情報のようだが。家族のいる【私】とは違って孤独なのだ。だから【私】も孤独になる。必要最低限の時以外は両親兄弟には会わない。話さない。孤独も演じてみせる。独り暮らしをしているのだから、それ位は出来るだろう。犬が居るのは仕方の無い事だ。犬がいなければ、ドッグセラピーになってくれないのだから。少女は神を信仰する事によって精神を保っている節がある。だからお互い信じているモノの違いだろう。これは【個性】だから仕方ない。師匠とほんの少し違うのが成りきるという事なのだから。でも【私】は神に仕えなくても、聖書を読む。それは遊び半分では無く真剣に向き合ってみたいと思う。娯楽の本も残っているが、まずは聖書を読破する事だ。それには何年という月日がかかるだろう。それ位分厚い。【私】が読んできた本の中で、ぶっちぎりに厚い本だ。さすが世界一売れている本だけあってその厚さは、半端では無い。鈍器になりそうなくらい重たいし、厚い。せめてもの救いは文庫本クラスの本の仕様になっているという事だ。もしこれがハードカバークラスだったら【私】には扱えない。読む事すら躊躇うだろう。世の中の需要と供給のバランスを上手くとっていると思う。少女に成りきるために買った本が【私】を破壊する大きなアイテムになるとは思っても見なかった。もう【私】は一人だ。頼れる人はいない。そう思って生きていこう。【私】はもう昔の【私】じゃない。もう【給料泥棒】と言われる事が無いように生きて行かなければならないのだ。もしそんな言葉を言われた日は【私】は少女らしくなれる努力が足りないと思って、更なる罰則を儲けようと思う。罰を与えなければ、少女らしく成りきれないのが、悲しい。【私】は少女のように自分を律する心を持った人間になりたい。そうすれば少なくとも、ミサに行かなければならない日は来ない。協会に行く用事も無いだろう。少女に成りきれ。それが【私】に課した【命令】だ。【私】は少しでも少女に近づくためならなんだって犠牲に出来る。犬は犠牲に出来ないが、それでも他の事なら多少出来ると思う。もうすぐ春がやって来る。春は始まりの季節。少女に成りきるために始めるには、持ってこいの季節だ。少女も春が好きだと思う。だってイースターがあるから。本当は協会に行ってイースターに参加するべきだろう。本当に成りきりたいと思うのであれば。でも近くの教会がイースターをやらない方向になっているので、仕方なく参加は諦める。イースターの代わりに特別な神父様を招待して説教をするらしい。聞きたい気もするが、もし入信者じゃ無かったらダメという決まりがあるなら参加出来ない。多分そうだろう。でも特別な神父様を見てみたいという気持ちはある。野次馬根性ではなく、どれだけ神を信仰しているのかその考え方を知りたい。福音を信じていればカトリックだろうがプロテスタントだろうが、関係無いらしい。たまたま少女はカトリックなので、カトリックについて調べているけれども、もし少女がプロテスタントであったのなら、プロテスタントの教会に行っていただろう。プロテスタントの方が上下関係が無いので、割と行事に参加しやすいが、カトリックは上下関係があるので、行事に参加したかったら、入信しなければならないという条件が付いてくる可能性がある。少女に成りきりたいから入信するのは間違っていると思うので、それは謹んでお断りしたい。少女に完璧に成りきれない【個性】はまたここから出てくる。【個性】が多すぎ無いか不安になって来る。ある書物では師匠との差は10度か20度位が丁度良いと書いてあった。【私】の場合、架空の人物に成りきるために頑張っているから、どうしてもそれ以上の差が出てしまうのかも知れない。しかしそれでも多すぎやしないだろうか……? 心配になって来た。私は少女に成りきりたい。何故なら少女が【私】の憧れの存在であるから。過去のナリキリをすべて捨ててまで、少女に執着したのは間違いでは無いと確信している。【私】は少女に近い存在になるのだ。成りきってみせたい。それが今の願いである。少女に成りきる事にこだわりを持つようになったから、生活態度が一変した。まず4時に起きるようになった。そうしなければトイレと台所の掃除が出来ない。水が冷たいけれどお湯でやったらガス代が高くなるから、水で我慢している。若いからと言われたが、水で顔を洗うのは運気を上げるためである。正直、私の運は悪い。だからこそ運気を上げる努力をしなければならない。ついでに言うと、目覚めが良くなる。お代わりでエスプレッソを買いに行きたいが、そうなると犬のご褒美をあげなければいけないという義務が生じる。どうしようか……。買うべきか、買わざるべきか……。少女ならこんな時どうするだろう? 考えてみる。多分……買わない。夜遅いし、今日は寝坊したから、早めに就寝するだろう。だからエスプレッソは我慢すると思う。その代わり、明日はたくさん飲むと思う。そんな気がするから今日は一杯で止めておく。【私】はお代わりをしたいが、もし寝坊したらという恐怖を考えると、このまま寝てしまった方が得策な気がしてきた。仕事は少女と同じであるので、遅刻寝坊しない事が大前提だ。少女は朝早く起きて、掃除をする。音をあまり立てない、風呂掃除やトイレ掃除をする。非番の時にはリビングの掃除もしていた。【私】は勤務時間が短いので毎日掃除をする事にしている。今日は特別な用事があったため出来なかったが、それ以外は散歩もするし掃除もする。少女に成りきるのだ。そのために【私】は生まれ変わった。もう昔の【私】はどこにもいない。新しい【私】が存在するだけだ。
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