二十七夜

 こうして【私】は新しい【私】へと生まれ変わった。【幻聴】は少しずつではあるが戻っては来ている。ただ、意味のある【幻聴】が無い。例えば、死ね、とか殺すぞ、とかの脅し系やもう一人の私の声等。意味の無い、昔のテレビのノイズ音とかは聞こえるようになってきた。可笑しい……薬が効きすぎている? とにかく【私】を保つためには演じる事をするしか無いので、色々と準備を始めた。

 まず【私】が演じる少女は、洗礼を受けたクリスチャン。さすがに洗礼を受ける気にはならないので、カトリック教徒が良く読まれるという聖書を買った。正直、ピンからキリまである聖書の中でどれが良いのか分からなかったが、一番お財布に優しい聖書を買った。大事なのは成りきる事である。生活苦になる位、高い聖書を買う必要は無いのだ。最低限の事が書かれた聖書なら良い。そして持ち歩けるように単行本サイズにした。作業所まで持って行く気は無いが、散歩のときに持ち歩けるようにした。【私】の成りきる少女は協会にお祈りに行った後、散歩をする習慣がある。さすがに成りきるために協会に行くのはクリスチャンに失礼なのでお祈りにはいかないが、散歩位はするつもりだ。天気が良ければ公園のベンチで聖書を開いて、それをお祈り代わりにしようと思っている。祈る場所は何も協会じゃなくても良いと言うのが、私の見解だ。雨の日は家の中で聖書を開けば良い。成りきるために1日に1度は聖書を読むという作業をすると決めた。クリスチャンじゃ無いが、これ位すれば大分成りきれていると思うだろう。出来れば聖書を読むのは朝と寝る前の2回にしたいと思っている。クリスチャンはそうするらしいので、猿真似をするならこれ位成りきる必要があるだろう。あと、晴れていて気温が高い日は散歩を欠かさず行う事にする。気温が高すぎる日は、夜か夕方に散歩に行こうと思う。今日は比較的暖かかったので、散歩に行って来て、ついでに晩御飯を買って来た。あと成りきる相手はクリスチャンの上修道院にいたので、毎日掃除洗濯をしている。だから【私】も同様に、毎日掃除洗濯は欠かさないようにする。出来れば家中を毎日掃除したいが、少女の家にはいない犬を飼っているためその世話がある。その時間ロスのために家中を掃除出来ない。そんな事をしていたら日が暮れてしまう。だからリビングと寝室は毎日掃除する事にした。トイレとお風呂場は少女の家の構造と異なるため、どうしても毎日する事が出来ない。だから時間があり、尚且つ空気が乾燥している時にしようと思う。でもとリビングと寝室とトイレは毎日掃除したい。リビングと寝室は少女に成りきるためだが、トイレは毎日掃除すると金運が上がるらしいのでゲン担ぎでやりたい。お風呂場は乾燥して来たら掃除しようと思う。湿った状態で掃除をするとカビの原因になるので、綺麗にする処か、汚れてしまう。だから掃除をしてから自然乾燥して、乾いてきたらまた掃除をするという戦法でいこうと考えた。家の廊下も、乾燥した頃を見計らっては掃除をしようと思っている。今日は乾燥しているように見えたが、四隅が微かに湿っているように見えたので、掃除は止めた。今日はリビングと寝室、そして徹底的にトイレ掃除をやった。犬がいるせいか、ホコリよりも毛が多い。掃除機が満杯になって吸引力が弱くなり、リビングと寝室、合わせて2回掃除機で吸い込んだゴミを捨てた。少女のナリキリをしようと考えなければ、こんな空間にいた事すら気づかなかっただろう。偶然だがラッキーだった。そして少女に成りきるために必要なのが服装である。少女は地味な色……特に黒を好む。犬がいる環境で黒い服を着るのは自殺行為なので、地味な色の服を選ぶ事にした。今日靴下を買いに行ったが、派手ながらよりも黒に近い……藍色やアイビーを選んだ。キャラクターものは可愛かったが、少女の好みに合わないので我慢。その代わり本当の【私】らしさを表現するコーナーを家の一角に設けた。これで我慢する事にする。少女に成りきるという事は、己の大部分を捨てるという事なので、多少の犠牲はつきものだ。だが、本物にはなれないので、どこかで自分らしさを表現出来る場所を作らないといけない。今日は掃除と洗濯をやりメールで聖書が発送され2・3日の間には届くらしい。聖書が届いたら中身をチェック。そのあと起床後と就寝前に読む事にする。一体聖書がどれだけの厚さを誇っているのか想像出来ないので、届いてみないと分からない。出来れば散歩に持ち運べる程度の厚さであって欲しい。持ち運びに不便なら散歩に支障が出る。少女に成りきる事が出来ない。

 そして最も大きな問題が1つ。【私】の男関係である。成りきる少女には彼氏処か好きな異性もいない。セフレがいる時点で大きな違いとなるこの問題については仕方ない、セフレとはSEXを止めて友達になろう。成りきる事に関してはセフレはある程度の知識があるので、理解してくれる可能性が高い。というか、理解してくれるだろう。セフレにはほかにもセフレが何人か存在するので、女に困る事は無い。しかしよく今まで性病を移されなかったと、自分で感心してしまう。今まで危険な行為をしていた事について反省する。少女に成りきる事で良い結果が次々と舞い込んでいるので、結果オーライなのかも知れない。男関係は整理しなければいけないとして、だ。借金王である男との関係は切れない。切ったら困るのはこっちである。だからその辺は少女と違う点になるだろう。少女みたいに、お金の貸し借りをしない人間になりたかった。まぁ、それは当分の反省点だろう。男関係を整理したらあとは少女に成りきるだけ。なるべく無地の服を着て……色はもちろん地味な色だ。そして毎朝毎夜聖書を読んで過ごす。天気の良い日は散歩に出かけて、公園のベンチで聖書を読む。掃除洗濯は毎日して、空気の入れ替えも毎日行う。ただし少女の家とは違って湿度の高い家に住んでいるので、除湿器はフル活動になると思う。それでも洗濯は怠らない。

 これだけやれば少女に限りなく近い、まがい物に成れるだろう。聖書の状態だけが不安だが仕方ない。少女は高給取りだが【私】は血税で生きている人間なのだ。違いが出ても仕方が無い。あとはスクーターがあれば、より完璧に近づけるのだが、それを買う余裕は無い。免許を持っているだけで良しとしよう。偶然にも免許を持っていた事は、奇跡に近い事である。やはり少女に成りきると決めて色々整理したりしてやってきた事に間違いは無かったのだと、思った。聖書は早ければ明日届く。聖書が届いた時点から【私】は別の【私】になる。そのうちにより完璧を求めるあまり、教会に通い出すかも知れない。それはそれで協会に行くきっかけになるだろう。洗礼を受けだしたりしたらどうしようかと不安になる。でもそれは無いと思っているが、何が起こるか分からない。少女の生きている時代は今より遠い未来の話なので、スマホの話やテレビの話をしても問題無い。成りきる人の中には未来になり過ぎて何も語れないと言う人もいる。そういう人は過去にあったと仮定して過去話のように話したりしたりしている。その点、私は同じ日本が舞台だし、文明はそんなに大きな違いは無い。だから安心して聖書の話が出来る。協会の話も出来るだろう。

 私の行動にドン引きしている人もいるが、肯定的な意見を述べてくる人もいる。【私】に『愛している』と言った人も極力成りきりたい願望がある部類らしく、私の行動に賛同している。応援してくれる人がいるのは嬉しい限りだ。ただ少女と自分の共通する点がある。それは料理が出来ない事。少女は全くと言って良い程、料理が出来ない。掃除洗濯に力を入れるのはそのためだ。少女の食事はもっぱら外食である。さすがに【私】がやったら破産してしまうが、料理に凝らなくて良いという点については気楽で良い。適当な料理を作っても、少女に成りきっていると言っても過言では無いのだから。少女が私生活に力を入れているのは、お祈りと仕事。仕事は【私】も頑張っているのでその点は真似する意識を持たなくて良いが、お祈りは猿真似をしなければならない。どういう風にお祈りをしたら良いのか分からないから、ひたすら聖書を読む事に集中しようと思う。協会には行けたら行く。最初は行かないつもりだったが、気が変わった。少女に成りきるためにはどうしても協会に行く必要がある。協会は毎日空いているので……日曜日に行かなければ、冠婚葬祭にぶち当たらなければ、行く事は可能だ。だから協会に行って協会の空気を味わってみるのも一つの成りきりの方法かも知れない。ここまで徹底的にやれば【私】は【私】を捨てる事が出来るだろう。もしもう一人の私が戻って来てもこの成りきりは続けて行こうと思う。元に戻るのも面倒という事もあるが、一度少女に成りきった事を味わってしまったら、元に戻れなくなってしまった。職場では素の【私】に戻るが、家に帰れば少女に成りきる。というか少女に成りたい。そのために聖書を買ったのだから。中途半端で良いのであれば、聖書なんて必要無かった。だけど少女に成りきりたかったから、聖書を高い金を出して買ったのだ。もう元には戻らない。【私】を捨てる。元々【幻聴】に左右された人生を送って来たのだ。今更別の人生を歩んだ処で、何も変わらないだろう。【私】は少女のようになるため、教会に通うかも知れない。それは神に対する冒涜だという人もいるだろう。確かにそうだ。でも【私】を捨て去るためには神に呪われても仕方が無いと思っている。地獄に堕ちる事も覚悟の上だ。赤ん坊の頃は皆一緒。それが周りの環境などで人格が形成されて【個性】が出来る。【私】の【個性】は成りきる事。少女に成りたい。その一心で整理整頓をした。これから毎日【私】は変わる。少女のナリキリをしている【私】と周りの環境が作り上げた【私】と。どちらが本当の【私】か分からなくなる位まで、変わりたいと思う。そのため、明日はとても重要な日になる。いつ聖書が届くか分からないけど、もう英国貴族のナリキリは止めだ。ここまで本格的に成りきろうと踏ん切りをつかせてくれた【少女】の存在に感謝している。そしてその作品にも。【私】は生まれ変わる。似非クリスチャンとして聖書を読みながら、掃除洗濯に明け暮れ、本当の【私】だけが飼っている犬達を養い、慈しみ、少女の好みであるエスプレッソを飲む。それが新しい【私】なのだ。例え周りから狂っていると言われても、この生き方に賭けようと決めた。別に何かに成りきらなくても、人は生きていけるだろう。だけど【私】は支配されている時間が長すぎた。だから成りきる。【個性】はほとんど薄れてしまって、周りの影響ですぐに変化してしまう。それならばいっその事、誰かに成りきってしまえばいいのでは無いのだろうか? そう思ったのだ。それが今、動き出そうとしている。……いや、もう既に動き出している。【私】はもうやれるだけの事はやって、成りきる準備は整っている。スタートの合図は、聖書が手元に届いてから始まる。成りきってみせる。【私】という【個性】をどこまで殺せるか。楽しみで仕方の無い【私】がここにいる。

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