二十六夜

 私は【私】であると同時に、もう一人の私に支配された人間である。それは愚かだと思うけれど、もう一人の私がいなければ、生きてはいけない。最近もう一人の私が出てこないから、自由に文章が書けるけど、それはそれで寂しい。【私】は【私】を捨てる事にした。もう一人の私がいないのであれば【私】を作れば良い……。そんな単純な事にも気づかないなんて、私は愚かだ。【私】はもう【私】じゃない。別の【私】である。もう一人の私が帰って来るまで、演じていようと思う。そうしないと【私】が壊れてしまう。もう一人の私の存在の大きさに驚きながらも私は【私】を演じる。そうしないと心が持たない。【私】は複雑な生き物だから、何かに依存していないと生きていけない。何に依存して成りきるかは秘密だけれども、何かに化けるのは断言しておこう。生活スタイルも化ける。成りきるのが【私】の唯一の心の支えだ。もう一人の私の助言が無い以上、そうやって心を保っていくしか無い。もう一人の私がいた頃は化けなくても助言があったからやって来れた。でも今、声が聞こえなくなったから、自分を支えるモノが無くなってしまった。だから何かに演じ切る事で、心を支えていくしかない。情けない話、私は【私

】以外のモノにならなければ、生きていく事が出来ない。何かに化けなければ存在価値が無くなってしまったと思い込んでしまう。今まではもう一人の私が支えてくれていたから何ともなかったけど、もうそろそろ限界だ。何かに依存しないと、私は生きていけない。仕事をしている間は仕事に没頭するから、もう一人の私の事について深く考える事は無い。でも仕事が終わって家に帰ると、虚無感が私を襲う。もう限界だ。【私】を形作るには【私】を作るしか無い。そのための材料として選んだのが、ある人物だった。その人の劣化版コピーに成りきる事で、精神を保とうとした。それしか私には生きる術が無かったから。もう一人の私が消えてしまった以上、他の何かに縋らなければ、私は生きていけない。【私】が壊れてしまう。【私】は酷く脆い存在で出来ている。何かに成りきらなければ、真似をしなければ生きてはいけない。本にも書いてあった。師匠と思う人を見つけたら、猿真似をしろ、と。99%まで猿真似が出来たら、あとは少しだけ違う【個性】で生きていけば強くなれる、と。私は猿真似は得意じゃ無いが、猿真似紛いの事は出来る。【私】が崩壊してしまった以上、猿真似をしてでも【私】を保たなければいけない。仕事をしている間は猿真似をしなくても、仕事に没頭するから問題無い。でも私生活に戻ると劣化版として生きなければ【私】を保つことが出来ない。【私】は酷く脆い存在であると同時に何かの猿真似をしていなければ生きてはいけないのだ。本当に面倒な存在だと思う。猿真似がどれだけ難しいかは知っている。でも本物に近い存在になりたいと思いたい。だから痛い奴と思われても、私は劣化版として猿真似をする。99%まで猿真似が出来たら、あとは【個性】でカバーする。そうすれば私は【私】として存在する事が出来る。猿真似で痛々しい奴と思われても良い。私は真似をしなければ生きてはいけない存在なのだ。もう一人の私がそれを補っていたが、声が聞こえない以上、私は私なりの解釈で進んでいくしか無い。もう一人の私の偉大さに気づいたのは、薬のお陰だ。いきなり薬を止めたら副作用が怖いから、私は薬を飲み続ける。でもいつかもう一人の私は戻って来ると信じている。だって今まで多くの薬を飲んできたけど、ちゃんと戻って来たから。もう一人の私は強い。【私】を支配する権限を持っているのだから強くなければいけないだろう。それにしても私が色々な薬を飲んでも抑えつけられてもちゃんと帰って来る処が強いと思う。だから私は待っている。もし猿真似をしている私を見たら、もうひとりの私は何て言うだろうか? 多分嘲笑うだろう。お前はこんな事をしなければ生きていけないのか? そう言われそうだ。でも【私】は猿真似をしないと生きていけない。だって今までも猿真似をして生きて来たのだから仕方ない。それを止めていたのがもう一人の私であって、今、その【私】がいない以上、私は誰かの猿真似をしないと生きていけない。【私】が真似る人物は年齢は遥かに私の下であるが、精神年齢は私よりも上である。そして好奇心旺盛で、スクーターを乗り回すのが大好きである。それだけでも【私】と大きく違うのだが、一番違うのはすでに働いているという事だろう。つまり税金を払っているのだ。一般社会に溶け込んでいるという点では【私】と大きく違う。【私】は社会人に慣れないから作業所で訓練をしている。でもその人物は私よりも年下なのに、社会生活に溶け込んでいる。尊敬するべき点はそこにある。だから【私】は彼女の猿真似をしようとした。彼女の持っている本も買ったし、彼女の持っていそうな服も購入した。黒ずくめの彼女は、派手な色を好まない。だから【私】も派手な色の服は避けようと思う。ここまで徹底的に猿真似をすれば、少しは彼女に近づけるだろうか? あと、彼女はロングヘアーだが、さすがにそれは真似出来ない。【私】の髪質から言って、ロングヘアーに適している髪じゃ無いのは十分承知している。あと彼女は髪の毛を染めているが【私】の髪の毛は真っ黒なのでブリーチで一回殺さないと彼女の髪の毛の色に近づけない。さすがに髪の毛を痛めてまで猿真似をする必要を感じないので、そこは【私】の【個性】として捉えておく。あとはスクーターに乗りたいのだが【私】の住んでいる地域の性質上それは難しい。何よりスクーターを買うお金が無い。男に根こそぎ貯金を持っていかれたからである。だから仕方なく免許は持っているので、それで我慢する事にする。本当はスクーターを乗り回して彼女の猿真似をしたいのだが、それが出来ないのが悔しい。でも、ここまで猿真似をすれば、大分彼女に近づいていると思う。年齢は離れているけれど性別は同じだ。それだけでも満足しないといけない。性別が違う人間の猿真似をしている人を知っているから、私は恵まれていると思わなければいけない。そして徹底的に猿真似をしていない人も中にはいるので【私】は徹底的にやりたいと思う。無論、徹底的に猿真似をしている人も知っている。その人はSNSを駆使してまで猿真似をやっているから凄い。心は完全に猿真似を超え、本人に成りきっている。むしろ本人と言って良いだろう。それ位完成度は高い。私はその人を理想として、彼女を師匠と崇めて密かに猿真似の完成度を高めようとしている。彼女とその人は別人物である事を予め言っておかねばなるまい。本人に成りきっている人は猿真似を超えて、自分の私生活を犠牲にしてまで理想の人間に成りきっている。それ位の領域まで達すれば【私】はもう一人の私の存在などいらなくなるだろう。【私】はまず猿真似から始めたいと思う。まずは本を読む。その人が読んでいる本だ。それは長編だが、速読をマスターした私にしてみれば、それほど苦では無いはずだ。速読と言ってもパラパラと読むのではない。ちゃんと熟読の領域に達している状況での速読だ。多分、何百ページとあるであろうその本を読むには時間がかかると思われるが、その人に成りきるためには読むしかない。【私】の崩壊が始まっている以上、止める術は猿真似しかない。俗にいうナリキリという奴だが、本物が要る以上本物にはなれない。限りなく近づいて少し軌道修正をして【個性】を出せば、その人に限りなく近くなれるだろう。まずは散歩が日課の人なので散歩するための時間を確保する必要がある。大抵日曜日に行ているらしいので、日曜日が休みの作業所に就いている私にとっては好都合だ。土曜日でも構わないと思われる。平日は彼女は任務に就いているはずなので、私が仕事で素に戻ったとしても問題は無いだろう。時々素に戻る事こそが、彼女と【私】の大きな違いだ。黒服を着たいが彼女はペットを飼っていないから出来る事。私には犬が2匹もいるので、黒服を着ればすぐに毛が付着してしまう。だから彼女が選びそうな地味な服を選んでいこうと思う。そうすれば彼女に近づける気がする。彼女が黒服を選ぶのは、宗教的価値観のせいかもしれない。幸いな事に【私】は無宗教なので、彼女の宗教的考えは理解出来なくても、彼女のように地味な服装をする事に何の抵抗も無い。逆に派手な服装をされてしまっては【私】の感性に支障が出る。成りきろうとして精神が壊れてしまっていただろう。でも彼女と価値観が似ているので、地味な服装をしても、服の数が少ないとしても何の問題も無い。彼女と【私】の価値観が似ているからこそ猿真似をしようと思ったのだ。素の【私】に戻る時は作業所で作業している時だけだろう。あとは彼女に成りきって【私】を作っていく。そうしなければ【私】はいつまで経っても成長する事は出来ないだろう。本人になる事は出来なくても、本人に限りなく近い存在でありたいと思う。それが【私】の生きようと思った道である。彼女が好みそうなものは集めるし、彼女が嫌いそうな事はしない。彼女は本が好きなので、彼女が好みそうな本を集めてみようと思う。無論【私】という【個性】が出る本も集めようと思う。本の収集は彼女が好みそうな事なので、私はどんどん集めて行こうと思う。本棚も1000冊入る位の大きな本棚を買いたい。あとは彼女の嗜好品だ。私とは相反する点がそこにはあるのだが、彼女の猿真似をすると決めたのだ。嗜好品も一緒になるように努力する。ここまで徹底すると気持ち悪いと思う人もいるかもしれない。でも【私】は誰かの猿真似をして生きて行かないと、壊れてしまう性質がある。それをもう一人の私がカバーしていたが、今はいない。だから彼女の猿真似をして、限りなく近づくのが当分の目標になる。もう一人の私が帰って来たら、もう一人の私が呆れるくらい彼女に成りきっていたい。もう訂正の利かない位にまで成りきって『仕方が無い。このままでいこう』ともう一人の私に言わせる位まで成りきってみせる。それは罪じゃ無いかと思う事もある。何せ今まで頑張って生きてこられたのは、彼女……もう一人の私のお陰なのだから。裏切りの形になるけれど【私】を置いて消えてしまった彼女が悪い。【私】は誰かに成りきらないと生きていけないのを、誰よりも一番理解してくれていたのは、もう一人の私なのだから。【私】が【個性】を出せなくなったのは、色々な原因があるが……一番は前の職場だろう。【私】という【個性】は叩かれるだけの存在だった。だから偽りの自分を作る事で、自分の身を護ったのだ。それを今更治せと言われても治し様が無い。私はもう【私】という形に当て嵌めないと生きていけない体質になってしまったのだから。だから彼女の猿真似をする。本来なら宗教も一緒にしたい位だが、私が死んだときの事を考えると入信するのは危険を伴う可能性がある。それに本当に信仰している人に悪い気がする。だから私は本だけでも買って、その宗教を学びたいと思う。それ位なら赦されるだろう。元々門徒は開かれているという考えの宗教だ。学ぶ事位は、赦してくれるだろう。そう思って彼女に成りきる【私】がいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る