二十三夜

 今日は絶好調だった。【幻聴】が全く聞こえない。無論、もう一人の私も含めてだ。理由は色々あるけど、新しい薬のお陰だろう。夜中もずっと騒いでいた【幻聴】達が一斉に消えたのだ。これは奇跡としか言いようが無い。凄く嬉しい。だから仕事も頑張った。休憩とったのに、18本……根付もしての18本だ。これは単純計算したら40本やったに等しい。凄いスピードだ。新記録。私は胸が高鳴るのを感じた。これが続けばもう一人の私にも振り回されなくて済むし、私は一般の人になれる。そうしたら仕事だって一般の仕事に就ける。夢だった【血税からの脱出】も夢じゃない。

 そう思うと嬉しくて……思わず泣けてきた。ただこの薬の副作用は凄くて……正直、睡眠薬なんて要らない位の眠気を発生させる。初めてこれを飲んだ時、すぐに意識を失った。気が付いたのは夜中。多分日付は超えていたと思う。そして揺り返しのように【幻聴】と【幻覚】と【妄想】が私を襲った。


 私は毒薬を飲まされた。解毒剤を飲まなければ死んでしまう。


 そう思った。そして手あたり次第……家中の薬という薬を全部飲み干した。300錠はあったと思う。何箱も薬箱を開けたから。そしてまた睡魔。呂律が回らなくなり、立っていられなくなった。その後、失神。気が付いたら朝の10時を回っていた。

 それからが大変だった。呂律は回らない、足腰は立たない、体に力が入らない。でも犬の餌をやらなきゃいけない。私は這いつくばって犬に餌をやり、また失神。気づいたら30分位時間が経っていた。吐く事も出来ない私はとりあえず体から薬を出そうと水を飲んではトイレに行って尿を出し、また水を飲んではトイレへ……を1日中繰り返した。お陰で夕方には何とか復活して、また薬を飲んだ。今度は睡眠薬を先に飲んでから【幻聴】を抑える薬を飲んだ。そしたらまた眠気が襲ってきて、私はすぐに眠りに付いた。そして翌日の5時に自然と目が覚めて、体が軽かった。【幻聴】も無い。もう一人の私からの叱責も無い。ナイナイ尽くしで、嬉しかった。だから作業所に行けると判断して、出社した。これが金曜日から今日にかけて起きた事である。要するに。無意識で犬に餌やりとトイレの始末以外は寝ていたのだ。失禁しなかったのが救いである。それを職員に報告したら散々怒られた。特に【妄想】に打ち勝てなかったのが悪いと怒られた。パニックをこれ以上起こしても何も起きないよう、常備薬は置かない様にと言われた。私もそれに賛成だ。でも常に何かしら置いていないと落ち着かないので、私は常備薬をまた買ってしまったが……。今後パニックで飲む事は無いだろう。同じ失態を繰り返せば、信用を失ってしまう事を分かっているから。前の会社でもそうだった。少し眠れば大丈夫が、何度も繰り返された結果、雑巾がけ以外の作業をやらせて貰えなくなったのだから。他の人でも出来る作業以外はやらせるつもりは無い、眠ればすぐに帰って貰う、それが嫌なら罰金だと言われた。その経験とトラウマがあるから、私は今の会社を信じる事が出来ないでいる。過去は過去だが、私を奴隷以下として扱い、文字通り社畜にされたのだ。働いても雑巾がけ、商品のチェック、それをやっても給料は出さない。何故なら一瞬寝たから。そういう事をされ続けたら、誰も信用しなくなる。それでも頑張ったつもりだ。寝ない様に何リットルものコーヒーを飲み、コーヒーの飲みすぎで血を吐いた事もあった。それも会社は知っているのに、コーヒーでも無理なら帰れと言って、心配の言葉も無い。挙句、病院に勝手に電話して眠らない薬を処方して貰わないと困るとクレームまで入れたのだ。病院から聞かされた時、その会社に居続ける自信が無くなった。否、消えた。蝋燭の炎を消すように、ふっと消えたのだ。それからすぐに呼び出された面談で辞めると言った。それから辞表をすぐに出し、受理されるまでの間、欠勤した。そして受理されると別れの挨拶もせずに辞めた。大抵はお菓子等を置いて行くだろうが、そんな気分になれなかった。給料もその時月1万~多くても3万しか貰えていなかった。お菓子を出す余裕等無い。すぐに新しい職場を探さなければ、路頭に迷ってしまう。最悪な事に家賃の支払いが迫っている。私は困り果て、そして何かあれば頼って良いよと言われていた人を頼った。そして今の会社にいる。ギリギリだった。何とか食いつないだ私は不信感を募らせたまま、今の会社にいる。今の会社はまだ信頼していない。前の会社が酷過ぎたせいで【信頼して良いよ】の言葉が【迷惑かけるんじゃないぞ?】という言葉に聞こえるのだ。そして【幻聴】達もお前は【無能】だから同じ事をする。同じ目に遭う。と、囁くのだ。私はそれを信じたくないが、でももしかしたら……という疑念が拭えない。今の会社は好待遇だから、余計に怖いのだ。もしかしたら、密かに【給料泥棒】と囁いている利用者がいるかも知れない。もしかしたら【無能】【出来損ない】と評価している利用者がいるかも知れない。

 もしかしたら、もしかしたら。

 負のスパイラルから抜け出せない。ずっとグルグルと思考回路が最悪な方向へと導いていく。

 怖い。酷く怖い。

 地獄を見てきたせいで、今の会社が天国のようだ。前の会社は労災1つ発生しただけでも【面倒な事をさせやがって】と体罰を与えていたが、今の会社の備品は中古だが破損は無い。破損したのに使っていた会社が悪いのに、使っていた人間が悪い風に扱われていたのが前の会社だ。本来なら精神病が悪化したと法的措置を取りたい処だが、社長が危険を察知したのか、さっさと会社を畳んで、事務所は他の会社に売ってしまった。つまり倒産である。残された利用者は新しい社長の元、新しい事業を始める……らしい。私もそこまで詳しく無いが、元々ハローワークから【求人を載せられない】と断られていた位だ。やはりブラック企業だったのだろう。その元社長は新しい事業でも興しているのでは無いだろうか? 何せ関連会社はまだ残っている。支店名が付いている辺り、親会社がいるという事だ。そこに元社長がまた社長の椅子に座っている可能性は高い。でももう私には関係無い事だ。冷たい言い方をするつもりは無いが、あれは屑だ。私よりも屑。最低。地獄に堕ちろ。利益ばかりを求めて、利用者の薬の副作用で苦しんでいる姿を見ても、単なる【居眠り】としか捉えて無かったのだから。生産性の無い人間には1円も与えないという考えの仕方しか出来ない社長だったのだ。もう考える必要もなかろう。

 さて今日の私だが、これが本来の【私】だ。毒舌で、冷酷で、誰よりも小心者で

……だからこそパシリにされても文句は言わない。実際、パシリにされているうちが花だと思う。視界から消されるようになってはオシマイだ。職員としか話せなくなったら、もう終わりである。だからパシリに積極的になって、恩を売っておくのだ。そうすれば養護される事はあっても、敵視される事は無い。処世術という奴だ。自分も随分賢くなったものだと自嘲したくなるが、これが【私】という人間。もう一人の私に【命令】されなければ生きていく【私】の姿。へらへらと嗤って、心の底では下らない人間達を評価している。例えば面倒見の良い姉さん肌だけど噂大好きな人間等。本来の私は【下種】なのだ。しかし恩を売られたら恩返しをきちんとする。何故なら【恩返し】をいつ発動させられるか分からないからだ。普段から細かい恩を売っておけば、大きな難問が降りかかって来ても【小さな恩】が護ってくれる事をよく知っている。逆に【小さな恩】を甘く見ていると痛い目を見る。それが世界の常識。世の理。世の中を甘く見てはいけない。些細な事の積み重なりが爆発して【給料泥棒】扱いされた今なら分かる。私の【小さな恩】を売らなさ過ぎたのだ。だから不満が爆発して【小さな恩】に護って貰える処か牙を剥いて来た。処世術が成って無かったのだ。もっと【小さな恩】を売っておけば【給料泥棒】と私に不満を漏らす輩は現れなかっただろう。職員にも【小さな恩】を売らなさすぎた。些細な恩でも必ず売る事。それが最も生きていく上で重要なのだ。

 例えば小説家は【娯楽】という【小さな恩】を売る事で【印税】を手にする。または【評判】を得て【利益】という恩恵を貰う。この恩こそが全てなのだ。恩を忘れた者、蔑ろにした者、嘲笑う者……全てが恩の牙の餌食になる。例外無く恩に牙を剥かれて、喉元を食い破られるのだ。そして瀕死の状態になって知るのだ。恩の怖さを。その恐ろしさを。だから私は毎日【小さな恩】を売る。それが時々【小さな恩返し】となって返って来る事もあるが、大部分は【大きな災い】から身を護るための盾として【小さな恩】を売っているのだ。恩は売った分だけ得をする。恩を売らないケチは、人も金も離れていく。恩を売った奴が成功するのだ。だから私は【小さな恩】を売る。どんな事でも良い。コーヒーを買いにコンビニまでパシリに行くのもそうだし、あれとってと言われてモノを取るのでも良いし、お昼に食べる人数分の割り箸を取りに行くのでも良い。その【小さな恩】こそが【良い人】という【評価】が下り、困った時が起きたら大きな力となって護ってくれるのだ。これは他の作業所でも通用するテクニックだと思うし、社会人……一般の人にでも通用する事だと思っている。だからもし私が社会……税金を払う側になった時にでもこの技を使ってみようと思う。世の中は【評価】が全てだ。出来る人間は先の事を考えるが、その先の事の災いまで予測するのは難しい。先に起きるとされる災いは大抵複数存在する。一度に捌ける数じゃない。だから【小さな恩】を売って、その災いの可能性を潰していくのだ。例えば仕事を頼んでいる人に缶コーヒーを1つ位奢ってありがとうと【小さな恩】を売る、上司には率先して怒られて、周りから出来ない奴と【評価】されても、上司からすれば率先して話を聞いてくれるのだから、これは上司に【小さな恩】と【小さな恩返し】を売った事になる。


 恩は偉大だ。


 無限の可能性を秘めている。例え【小さな恩】だったとしてもその数が多ければ烏合の衆となり、大きな力となる。例え最初はパシリでもされる側からする側へ変化する事がある。その時は恩を売られているので、ちゃんと買い取る事を忘れてはならない。もし忘れれば【小さな恩】が牙を剥くだろう。恩は買った人間にしか恩恵を与えない。売られっぱなしだといつか牙を剥いて【悪評】となる。あいつはあれをしたのに、恩を返してくれない……となるのだ。

 不思議な事に【恩】はそういう性質を持っている。だから【幻聴】の言う事が正しいのは分かる。だけど私にもやり方があるのだ。【幻聴】の言う事ばかり聞いていたら、私らしい【恩返し】が出来なくなる。それは非常に困る。私らしさが無ければ、偽りだと周囲は敏感に気づく。【恩】はデリケートな生き物なのだ。ちょっとした偽りで【恩】は牙を剥く。それも取返しの付かない事態となって。最悪、作業所を去らなければいけないという事態になってくる。それはいけない。避けなければならない道だ。

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