二十二夜
私は【幻聴】には勝てない。どうしても勝てない。圧倒的な強さを誇る彼女は、もう一人の私だ。もう一人の私というと弊害があるかも知れない。私の中にある負の部分と言った処か。私のマイナス要素を全て取り込んで、悪魔のような女になっている。平気で生き物を殺すし、その死骸は平然とした顔で私にやらせる。私が疲労が睡魔へと変わった辺りから頭角を現して、今では【幻聴】のボスである。どんな【幻聴】ももう一人の私が関わると、一瞬にして消える。ノイズとか意味の無い音に対してはあまり効力を発揮しないが、言葉……意味のある声は一瞬にして消える。彼女が『消えろ。邪魔だ』と言うだけで、あっという間に消えてしまう。それは魔法のような現象だが、もう一人の私はそうやってボスを務めている。
彼女の仕事はそれだけでは無い。【無能】な私の監視を行い、毎日評価を下す。それによって私の罰が決まるのだ。罰の無い日もあるが、大抵は罰がある。昨日はささみとめかぶしか口にしてはいけないと言われ、それ以外の食料を口にする事を禁じられた。飲み物は辛うじて自由だが、たまにコーヒーを飲めと命令される。つまりカフェインを摂れと言う事だ。私がカフェインに弱い事を知っているのにも関わらず、起きていられるという理由だけでカフェインを摂らされる。前に血を吐いた事もあったのに、カフェインを摂れと言う。つまり私の体の心配はしていない。度外視しているのだ。あとは爪を剥げとかも言われる。爪の形が大分変形してきたが、それでも彼女は命令を止めない。ネイルをやれば爪を噛む癖も爪を剥げとも言われなくなると思うが、それをやるお金が無い。犬に費用がかかる。犬は登録制だし、何よりワクチン接種が必要だ。狂犬病予防は国で定められているし、混合ワクチンは任意だが、死の回避率を上げるためには最低7種は打たないといけない。2匹いるから費用は倍。ネイルをやっているお金などどこにも無い。毎日の食費でさえ、1日600円が限界だと言うのに、何万もするネイルなど出来ない。お洒落も出来なくて、安さが売りのチェーン店で買っていくしか無い。ただし靴だけはお金をかける。靴が安物だと痛い目を見る事を学んだからだ。だから靴だけは値札を見ないで買っている。予算は1~2万の間。今回は6000円とかなり私の中では安い設定になっている。来年も履けたら良いが、その前に靴の修理に出さないといけない感じがしてならない。良い靴は修理すれば長持ちする。防水機能がつま先から消えてきているので改めて防水出来ないか交渉してみるつもりだ。出来るなら靴磨きもやって貰いたい。そうすれば来年も立派に履けるだろう。1年で履き潰すのも良いかも知れない。完全防水の靴を1度は買ってみたいから。2万はするだろうが、1度は買ってみたいと憧れる一品である。
『おい、屑』
「はい……」
『今日の仕事は何? トロ過ぎ。速さが売りじゃなくても、正確性が欠けているお前からスピードを取り上げたら何も残らないじゃん』
「でも正確さが売りだから……」
『早く、正確に。それが仕事の基本だ。それを怠っているお前は【能無し】って言われるんだよ。屑が』
「ごめんなさい……」
彼女の機嫌は悪い。最近睡魔が酷く、午前中寝ている事が多いからだ。ソファで寝たのは1度きりだが【幻聴】にしてみれば【給料泥棒】と同じ事。だから罰を与えたくて仕方ないのだ。下手に刺激をしたら、犬の命が危ない。だから私に罰が行くように仕向ける。そのために頭をフル回転させて、彼女の言動を伺う。
『罰としてささみ以外口にしない事。あ、卵が危ないから卵も消費する事』
「はい……」
『最近また太ってきたから、運動しなよ? デブに戻るのは勘弁だからね?』
彼女はそう言うと、溜息を深く吐いた。痩せている自分に誰よりも自信を持っているのは彼女だ。だから痩せるためなら命を削るのも厭わない。危険な思想だ。
そして彼女は酷く短気だ。ちょっとした事でもすぐクレームを付ける。店の自動ドアが故障したらカスタマーサービスに電話をかけて、文句を言う。あや良くば慰謝料を取ろうとしたが、私が止めた。もう一人の私はすぐ上を出せとか、謝れとか散々な事を言う。無茶ぶりで慰謝料を取ったのは1度や2度では無い。土下座まがいの事をさせた事もある。ブラックリストに載っているだろうと思われる店もある。彼女は気に入らないとすぐに怒って、制裁を加える。噛みつく。でも良い対応をしてくれるなら、喜んで金を出す辺り、悪い人間とは言い難いのかも知れない。でもクレームはダメだ。いつも思う。恥ずかしいし、何より無差別過ぎる。私は過去、何度も彼女を止めたが、止められなかった時もある。その時は酷い目を見たが、対応に追われた人に対しては酷く謝りたいと思う。申し訳ありません……。
『それにしても今日は珍しく、人に絡んでいたね。人間好きになったの?』
「処世術だよ。噂好きの人間が多いから、上手く立ち回らないと……」
私の答えに【幻聴】はあまり興味が無いらしい。何故処世術が必要なのか理解出来ていないようだ。いや……、彼女には必要無いだろう。例え1人になっても、問題無く生きていけると思うから。
『それよりもコーヒー飲みたい。買って来い』
「なんで……?」
『口の中が可笑しいの。コーヒーで眠気を飛ばしたいし、今日は起きていたいの』
確かにもう寝る時間だ。でも今日は金曜日。土日は作業所は休みだから、起きていたいのだろう。その気持ちは分かるから私も眠らない。眠るのが勿体ない。でも睡魔は着実にやって来ている。全ては明日にしよう。もう眠い。疲れた……。おやすみなさい。
朝になった。今日も憂鬱な1日が始まる。血税で借りている家の中で、血税で買った電気ストーブで暖を取り、血税で賄っている電気を使って日記を書いている。止めれば良いのにと思うが、これは【記録】だ。こんな人間がいる事を少しでも多く知って貰いたいのだ。私は今日も4時に起きて、コーヒーと桜餅買って、コーヒーが朝ごはんで桜餅が夜ご飯。昼は食べない。食費の予算オーバーしちゃうし、何より桜餅という贅沢品を買ってしまったから、罰として食べないを選択した。ひな祭りに便乗したかったという理由で買った桜餅……全く、どうして季節行事に弱いのか泣けてくる。私は贅沢する身分じゃ無いのに……。泣きたくなって、薬を飲んだ。精神が不安定だから、多分マイナスの思考回路に堕ちる。そうなるとやけ食いに走るから危険だ。だから薬でクールダウンする。それが一番良い。犬が心配して張り付いている日は特に危険だ。大抵出前を取ったり、ファミレスでやけ食いしたりする。それがあるから、犬は私を護ろうとする。私は多くの人に護られてばかりだ。少しでも恩を返せたら良いのだが、どうやっても返す方法が思い浮かばない。せめて消費税を払う事位か? あとは定期的に行っている店がある。一口おやきの店だ。いつも一番安い奴を買って売上貢献しているが、それ位の贅沢は赦されるだろうか? いつも疑問に思いながら買うが、心の中でごめんなさいと言いながら買う。そして店主には『いつもありがとうございます』とお礼を言って、おやきを買っている。そして挨拶は忘れない、挨拶をしないと店主に失礼な気がするのだ。 もう一人の私が言うには客だから挨拶は要らないと言うのだが、親しき中にも礼儀あり。挨拶は万国共通で大切な言葉だと思う。だから店主にはいつも挨拶をしている。そのせいかいつもオマケを貰っているのは申し訳無い。ほとんどが商品にならない失敗作なのだが、稀に好きなのあげるよと言われた日には、ホントこの店は潰れないだろうかと心配になる。そのため、毎日通って売上に貢献している。
あと私は優しい人らしい。周りからそう評価を受けた時、後ろからゴルゴに撃たれた並のショックを受けた。私は逃げ回るのが上手いだけで、前にあった困った事や失敗を記憶しており、二の舞にならないようにしているだけだ。それを優しいと評価されてしまっては身も蓋も無い。恥ずかしくて、穴があったら入りたい位だ。男に金を貸した時も返ってくるだろうと信じて貸したのに、貯金を根こそぎ持って行かれるとは思わなかった。血税も一部混ざっているから、悲しい。私は男とはもう無関係だと思っているが、男は付き合っていると思っているらしい。別に寝る事に関しては問題無いが、早く金を返して欲しい。付き合っていると思い込ませていれば、しばらくは金を返してくれるだろう。別れたら金を返してくれなくなると思うが……。そうなったら、出る処に出るしか無い。念書はあるから、大丈夫。弁護士は金の無い人のためにいる国際弁護士を雇う。私のお金は全額返して貰う。あげるなんて事はしない。血税も含まれているのだ。絶対に返して貰う。逃げ得は赦さない。
『男に錯覚させれば良いんだよ。付き合っているって。そうすれば打ち出の小槌みたいに金を使ってくれるから』
「そうだね。それが一番良い」
『男に錯覚させるのが一番得をする。それが女の特権』
「時々寝てやれば、尚錯覚するしね」
『そうそう。男なんて子宮目当てなんだよ』
珍しく【幻聴】と意見が一致する。男が借金を返さないから冷遇するのであって、男が真面目に借金を返しているのであれば、話は別だ。毎月1万しか返さない男に優しくする義理は無い。むしろ冷たくされないのが不思議と思え。……と、私は思うのだが……。私は男に甘かった。給料の日に返すという甘言に惑わされ、やれ水道代だの電気代だのDVD代だのと払っているうちに借金の額が膨大になった。返してと言っても返せないの一点張りになった時、私は後悔した。男を信用し過ぎたと。でももう遅い。お金は貸したまま、男はやれSEXだのキスだのを求めてくる。求めてくるばかりで返さない。最悪だ。私はダメな男と知り合ってしまった。後悔だけが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
明日、男が1万を返しに来る。しかしガソリン代を請求してくるから。5000円しか手元に戻って来ない。最悪だ。一体何十年かけて返すつもりだろう? 私はいよいよになったら、男の親に言うつもりだ。金返せ、と。サラ金でも闇金でも良いから、金作って返せ、と。それ位の権利はあるハズだ。私だってやる時はやる。男のオモチャになんてなりたくない。優しいと評価される位、私は偽りの人間になれるのだ。助けを求めれば、取り立ての手伝いをしてくれるはずだ。利息もキッチリ貰う。もう優しい私では無い。
『明日の男の顔は見たくないけど、男の金は欲しいわね』
「うん」
もう一人の私も呆れている男。少しは利用出来るようにしておかないと……。利用価値があるうちは月1万の返済でも赦そう。でも利用価値が無くなったら、取り立てを厳しくするつもりだ。それを明日言おうと思う。そうじゃないといつまで経っても月1万しか返って来ないだろう。
『明日の男の顔が楽しみ。家計簿を付けて無い奴が悪いのよ』
「そうだね。楽しみ」
ニヤリと【幻聴】は嗤う。私はニコニコと男が来るのを待つ。男はなんて言い訳をするだろう? 車の維持費がかかる? 借金がある? 他にはなんて理由を付けて月1万の取り立てが厳しいと言うだろうか?
『最悪、男と別れて良い。親に電話すれば良いだけの話だから』
冷たく言い放つ【幻聴】に、私は頷いた。
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