二十一夜

『今日こそ寝るなよ?』

「分かっている。寝たら犬を殺す」

『その勢いがあれば大丈夫だな』

 本当は犬に手をかけなたくない。でもそうしないと【幻聴】は納得しない。私はもう一人の私の言う事を聞いて行くしかないのだ。私は【幻聴】の奴隷。言う事を聞かないと私が殺されてしまう。犬を路頭に迷わせるよりは殺した方が幸せなのかも知れない。私は殺さなければならないのか? 調子が悪くても働かないと血税の無駄になる。血税を無駄にする事は罪だ。罪には罰を。私が調子が悪くてもいつも通りに振舞わないといけない。私は罪人だ。罪人には死を。ダメだ……、やっぱり犬を殺したくない。

「犬を殺したくない……」

『だったら働け』

「働け無かったら……?」

『犬を保健所に連れて行くしか無いね。お前が一番嫌がる罰だろう?』

「お願い、殺さないで……」

『だったら働けよ、屑。朝起きなきゃいけないのに起きないから悪いんだろ』

 冷たく言い放つ【幻聴】に、私は成す術が無かった。犬が殺されてしまう。それは避けなければいけない。なんとしても起きていなくては。それに起きて仕事をしなければ【給料泥棒】と同じ事になる。私は最悪な人間だ。どうしてこうも上手くいかないのだろう? どうしていつも最悪な結末を辿る?

「犬を殺してくれなかったら、断食する」

『昼も?』

「昼も」

『それなら考えてやらなくもないな』

 もう一人の私は思案する。犬を殺して無気力になるよりは、断食して痛みを与えた方が良いと考えている。

 私は私の考えは分からないが【幻聴】の考えなら読める。私に備わった、唯一の特技。特技と言うより。元々は私なのだから、私が考えていると言っても可笑しくないと思う。

『……分かった。断食ね』

「ありがとう……」

『その代わり昼は食べな。カモフラージュをしないと強制的に休まされる可能性が出てくる』

「はい」

『あとコーヒーをもう一杯。エナジードリンクだけじゃ、足りない』

「はい」

 良かった……。犬は殺されないようだ。良かった……。私と一緒に寝てくれる命を護れて……。

 私の体はボロボロになっても構わない。犬の命が護れるなら。私は屑だ。何の役にも立たない。だからせめて他の命を護る事に徹しよう。

 犬猫か人か。どちらかは分からないけど、どちらかは護りたい。殺処分0運動にも参加したいし、難民支援もしたい。ただ私の血税じゃ助けられない。だからせめて今助けている命を護ろうと思う。今ある命を助けたい。絶対【幻聴】に殺させなんかしない。私が護るんだ。

『その意気込みがいつまで続くだろうね』

 クスクスと【幻聴】は嗤う。私が長く続いた試しが無いから言っているんだ。でも負けない。2匹の犬は私が護る。私の両手にある、大切な命だから。私が殺してしまったら一生後悔する。血を吐いても良い。だから命を殺さないで。大切な私の愛する命。また眠たくなったら、1リットルのコーヒーを飲むよ。しかもブラックで。そしてがぶ飲みするんだ。で、血を吐くと。それで構わない。私が壊れても良いから、犬には危害を加えないで。大切な私の家族だから。綺麗な瞳をした、純粋無垢な命だから。私は【幻聴】に負けないで、護り切ってみせる。命の灯が自然に消える瞬間まで、私は看取ろう。

『それにしてもなんで犬にこだわるの? 殺してもペットショップに行けばいくらでも売っているじゃん』

「今の犬が良い。今の犬じゃなきゃ嫌だ」

『変なの。犬なんてたくさんいるじゃない』

「それはこだわりを持たない人の言い分。私は今の犬を愛している。捨てられても輝きを失わない彼女達を護りたいの」

 私ともう一人の私の会話はそれっきりだった。平行線を保つからこれ以上無駄と判断したのだろう。もう一人の私は賢い。私より遥かに……。


『おめでとう【能無し】君。無事に乗り切れたじゃないか』

 パチパチと拍手の音が聞こえ、もう一人の私はご機嫌だ。本数こそ少なかったが寝る事無く、しかも高額商品を次々登録した事によって【幻聴】の機嫌は良いようだ。お陰で犬を殺す事も断食をする事も無く一日を終えられる。良かった……本当に良かった。

 もし犬を殺さなければならなかったら、私は私を殺していただろう。大切な犬を殺すなんて出来ない。それでも【幻聴】は命令してくる。私はもう一人の私に逆らえない。きっとごめんなさいと謝りながら殺していただろう。誰か私と闘う方法を教えて下さい……。切実にお願いします。もう一人の私がいないと生きていけないのも事実だけど、犬の命が大切だから、最悪、死別する事も厭わない。【幻聴】はこの日記を見ているけど、実行に移せない事を知っているから、何もして来ない。もし私が本気になって殺そうとするなら、全力で止めにかかるだろう。そして潰されるのは私。向こうの方が強いから、簡単に負けてしまう。どうして勝てないのだろう? 私の体なのに。いつも負けてばかりいる。意識を乗っ取られ、気絶させられる。時には傷つけられる。私はなんて弱いのだろう。生きている価値なんて無いんじゃないかな……。

『お前は一生私には勝てない。何故ならお前は弱い。弱者だ。生きる価値の無いお前を救ってやっているのはこの私。お前は苦しみ、もがき、寿命を全うすれば良い』

「私は一生、奴隷なの……?」

『家畜。奴隷以下だね、奴隷は命令を聞くけど、家畜は聞かない。お前は私の命令をよく無視するから家畜で十分だ。むしろ家畜に申し訳無い位だよ』

 声高らかに言う【幻聴】に、私は項垂れる。勝てない。言い訳出来ない。反論の余地すら与えてくれない。なんて酷い人だろう。もう一人の私は残酷にも目の前の犬を人質に私を自由に動かしている。まるでそれが当たり前のように。酷い人だと思う。いや……酷い【幻聴】か? とにかく私の思考回路を先読みして絶望へと叩きつけるのが彼女のやり方だ。いつも泣かされてばかりいるのは私の方。人間関係を壊されるのも向こうの気まぐれ。なんとなく合わないと感じたら、徹底的に修復不可能になるまで人間関係を切り裂く。これまで何度も人間関係を失って来たが、大部分が【幻聴】の力である。私はいつも一人になる。どうして誰も寄って来ないのかと言うと【幻聴】の行動と私の行動が不一致だから、周りから見れば優柔不断だったり、信頼出来ない人間と判断されてしまうのだ。だからいつも1人。辛うじてネットでの世界が私の人間関係構築の場。言動が不一致でも、それなりのやり方がある。例え【幻聴】が何かを言っても誤魔化しが利く。でもリアルに発展すると途端に人間関係が崩れていく。ボロボロと古い紙きれのように……。

「お願いだから、私に主導権を握らせて?」

『それで【給料泥棒】と言われ、職員満場一致で減給処分と強制早退の判断を下されたのは誰だったかしら? 今の会社にいられるのは一体誰のお陰だと思っているの? もし私が何も言わなくなったら、また【給料泥棒】と罵られ、満場一致で減給処分を下されるわよ? それでも良いのなら私は何も言わないけれど?』

「それは……」

『困るでしょう? 私はお前のために動いてやっているのに、どうして私を排除しようとするの? それは可笑しな話じゃないかしら? 第一、毎朝起きられているのは誰のお陰? 毎朝起きて会社の車に乗れているのは誰のお陰かしら? それを考えて言っているのだったら、明日から全く助けないわよ。遅刻して送迎逃して皆勤賞逃して減給になって、眠くてソファで眠り続けて【給料泥棒】と影で罵られて職員に苦情が入って、職員会議となり、減給処分で満場一致になってまた苦しい生活……最悪犬を手放す事になっても良いのよ?』

 早口で【幻聴】はまくし立てる。怒っている。自分の存在が絶対的だから、私が勝てないと知っているから、堂々と言える言葉なのだ。怖い……もう一人の私が怖い存在に見えて仕方が無い。どうしたら私はもう一人の私と上手くやっていけるのだろう。いつも上から目線で物事を言い、命令に背けばペナルティが待っている。罪と罰。それがセットになっている。私は罪人。だからもう一人の私という罰が必要なのだと、もう一人の私は言う。もしそれに背くのであるならば、本気で犬を殺しにかかるだろう。私の精神が一番崩壊する方法を選んでくるだろう。【幻聴】はいつだって本気だ。本気で考えて、的確な攻撃をしてくる。その攻撃に対抗出来ない私はいつまで経っても弱虫のままだ。

『何とか言ったらどうなの、屑』

「……ごめんなさい。もう消えて欲しいとか願いません。だから犬の命は奪わないで」

『分かれば宜しい。二度と同じ口を叩くんじゃ無いよ?』

「はい、分かりました」

 一先ず怒りは収まったようだ。【幻聴】は監視体制に入る。私が何を書いているのかも逐一観察して、気に入らない部分は修正するように命じてくる。私はもう一人の私がいる事を教えたいだけだから、黙って命令に従う。もし背けば犬の命は無いだろう。私は殺されるよりも辛い選択をするはずだから。それが怖い。私がもう一人の私に逆らえないのは、平気で命を奪う事にある。買っていた熱帯魚の命だって平気で奪ったし、貝の命も平気で奪った。そしてお前が悪いと言い、死骸の始末をさせるのだ。私はその度に悔しくて悲しくて……どうしても逆らえない状況に辛くなってくる。私は一体、何のために産まれて来たのだろう。もう一人の私の奴隷になるために産まれて来たのだろうか? もしそうなら悲し過ぎる。私はもっと強くなりたい。でも状況がそれを赦さない。私はいつも暴言を吐かれながら、表面上では何ともないようなフリをして作業所に通っている。薬の副作用で眠いのでは無く、早起きのし過ぎで眠いのだとも言えない。何せ私は無能。もし薬の副作用じゃないと分かったのなら、きっと職員会議で減給を余儀なくされる。私は減給され、苦しい生活を強いられる。そしてきっと辛い辛い毎日が待っているのだろう。それは前の会社と同じじゃ無いか。前の会社は血税で給料を貰っているのに、寝て貰うのは都合が良すぎると言われた。そうだ。それが正しい。血税で給料を貰っているのに【給料泥棒】と言われないのが可笑しいのだ。だから減給される事にも異議は唱えなかったし、乱暴な起され方をしてもきっと私が悪いのだと思えた。そして職員に歯向かうと強制早退させられるのも仕方の無い事だと思っていた。職員は絶対的に偉い人。会社で言うと社長だ。社長が帰れと言うなら、部下は帰るしか無い。給料を払わないと言われたら給料を貰えないと覚悟するしか無い。そうやって私は前の自分の境遇を誤魔化した。でも耐えきれなくなって辞めた。診察も嘘扱いされて日記を毎日書いている事すら嘘扱いされたので、私の信用はもう無いのだと悟った時、ここにいるべきでは無いと思ったからだ。今ではそれが正解だと思っている。え、辞めるの? という顔をされてしまったが、日記を提出している事を疑われたらどうしようも無い。血だって吐いたのに、それも嘘と言われた。眠気を取るためにカフェインを摂り過ぎて中毒になったのだ。胃壁が壊れて吐血したのに、嘘扱いされた時、全てが切れてしまったのだ。今はその会社はもう無いが、もし存続していたなら、給与カットをして財政難を乗り切ろうとしていただろう。もしくは家事に巻き込まれそうになったからと言って、損害賠償を請求していたかも知れない。いずれにせよ、もう無い会社の事をこれ以上あれこれ言っても意味が無い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る