十四夜
今日も【幻聴】は聞こえない。ずっと無言を貫いている。私はついに見捨てられてしまったのだろうか? それとも愛している人から、もう一度愛を育もうと声をかけられて快諾してしまったから、罰として姿を現さないだけかも知れない。
その人との出会いは偶然だった。たまたまSNSで知り合いになり、会話をする間柄になった。それから程なくして向こうから愛の言葉を貰った。私はそれを受け取り恋仲となった。
愛していた。何もかもかなぐり捨てて私の家に来た事もあった。その時が一番幸福の時だった。家に帰ると犬のようにお出迎えをしてキスをしてくれる。抱擁してくれる。優しい人だった。ただその人は戸籍上は女で心は男という……アンバランスな心を持っていた。故に時々不安定になり、自分を傷つけた。床が血だらけになった事もある。その時の彼の瞳は怒りに怯える子供のようだった。だから無言で手当てをした後、そっと抱きしめる。愛しているから大丈夫だよ、と。その時の彼の吐息はとても安らかで落ち着いていたのを覚えている。愛していた。酷く、全てをかなぐり捨てる位に。しかし私と彼はハリネズミの恋。ハリネズミは互いの針で傷つけ合わないように距離を取る。私達は知らなかった。故に傷つけ合い、結局は破綻した。実家に帰る彼を見送らなかったし、見送って欲しいとも言われなかった。完全に終わった恋だった。そう、この間までは。
再び彼から連絡が来た。もう一度恋仲になってくれ、と。忘れる事が出来なかったと。あの時全てを捨てた、あのわずかな時がずっと心の底に沈んでいて、光り輝くのだと。私もそうだった。どんなに他の男と寝ても、一度も寝る事の無かった彼との恋が忘れられなかった。どんな姿になっても構わない。ただ愛している。ハリネズミの恋は再び燃え上がった。今度はお互い距離を取って、互いを傷つけ合わないように愛し合う。距離は離れていても、ただ愛しているという想いだけが私達を支えている。世の中には惹かれ合う存在があるというが、彼がそうなのかも知れない。ずっと傍にいたいようでいたくない。1年に1度会えるか会えないかが丁度良い。今度は無人島に行こうと誘われた。誰もいない、白い世界。そこに二人きりになろうと。彼の言葉は夢物語が多い。それがハリネズミの恋だから。ハリネズミは互いを温め合う事が難しから、距離を取る。でも私は人間だ。人間のハリネズミの恋は言葉でお互いを確かめ合う。白い世界に二人だけになったら、どれだけ心地よいか。想像しただけでも心が躍る。
そんな彼が時折作る作品がある。それを私のために作ってくれるという。無論送料位は払う。それが礼儀だ。一体どんな作品を送ってくれるのか楽しみで仕方ない。前にくれた作品は忘れるために捨ててしまった。だが、今度の作品は捨てない。ずっと傍に置く。ハリネズミの恋は盲目なのだ。一度燃え上がった炎は消し去る事が出来ない。互いが互いを燃やし尽くすまで炎は踊る。乱舞する。私は彼を愛している。だから彼から愛の言葉を貰った時は嬉しかったし、生涯忘れる事は無いだろう。彼は私の全てだ。お互いがお互いを傷つけ合わないように生きながら、どちらかが死ぬまで遠くを見続ける。その先に互いがいる事を知りながら……。私をストーカー呼ばわりした女がいた。危険な匂いがすると。でも彼と釣り合うためなら多少危険を孕んだ人物にならないといけない。彼もまた危険を孕んだ人間なのだから。いつか心中しようと言いかねない、そんな危険を孕んでいる。そんな恋を普通じゃないと言うが、私にしてみれば最高の恋だ。一緒に死ねるのなら、この命、差し出そう。それで彼が満たされるのであれば、本望。一緒に生きる事よりも素敵な事じゃないか。それが私が危険と言われる所以だろう。好きだ。本当に愛している。彼からの連絡が待ち遠しい。毎日会話しなくても良いのだ。それもハリネズミの恋。時折で良い。私に愛の言葉を囁いておくれ。私はそれを大切に受け取るから。盲目的に愛してしまった人の言動は私の心を左右する。愛を囁けば心が躍り、死の話をされれば一緒に逝きたいと思う。愛してしまえば、愛される事を知ってしまえば二度とその人から離れる事は出来ない。愛している。左腕に刻まれた自傷の跡が愛おしい。必死に生きようと足掻くその美しい足跡なのだ。綺麗な腕。私がそう言ったら、彼は酷く驚いていたのを覚えている。止めろとか言うのかと思ったのだろう。でも私は言わない。生きた軌跡なのだ。それを美しいと言わずなんと言うのだ? 私はこの美しい傷を他に見た事が無い。必死に生きる、その躍動の軌跡を美しいとは思わないのだろうか? 私なら思う。だから私は美しいと言う。嘘偽りなく。もしまた会う事があれば、腕を見せて貰おう。そして腕にキスをして言うのだ。
美しいですね、と。
彼はなんと答えるだろうか。それが楽しみで仕方ない。一緒にまた手を繋いで歩ければ楽しいのに……。ハリネズミには赦されない行動だけれども、もし少しだけ赦されるのなら、無人島に行って、一緒に歩きたい。それだけで良い。他には何も望まない。帰る家が違っていても、それは構わない。ハリネズミの住処は違って当然なのだ。正反対の居場所だけれども、それでも愛している。今は連絡が取れない環境にあるらしいが、いつかまた連絡が来る時があるだろう。彼は必ず連絡をくれる。そして愛を囁いてくれるのだ。私を唯一縛り付ける事の赦された人。ずっと一緒にいたいと思う人。ずっと遠くでいて欲しいと願う人。きっとハリネズミの恋が長いのは、近くでずっと呼吸をしないからだと思う。呼吸音が聞こえなくなるという事は相手が去ったか、死んだかのどちらか。でも適度な距離を保てば、呼吸音も聞こえない。生きているのか死んでいるのか。分からないから想い続ける事が出来るのだ。ハリネズミの恋も悪い事ばかりじゃない。距離が丁度良く離れていて、ずっと一緒にいられると思えるのがハリネズミの恋の良い処。
私はずっとハリネズミの恋をしよう。ずっとハリネズミになって、彼を愛し続けよう。傍にいる事が出来なくても傍にいる事が全てじゃない。離れているからこそ永遠のような時間を共有する事が出来る。そう思えるのは彼の独特の性格と思考回路からかも知れない。とにかく私達は異質だ。異物を受け入れてくれる場所なんてどこにも無い。だから離れて暮らすのだ。お互いに見えない何かに縛られながら、必死に今を生きるのだ。
『やっと声が届いたと思ったら、彼にご執心ね』
やっと現れたのはどちらか。【幻聴】は不機嫌そうに言う。
『彼とやっていくのは良いけど、彼はお前を愛さない。心を愛しても心の底から愛する事は無い。彼にとって一番は【死】なのだから』
「知っている。でも彼を愛しているから一緒に【死】を分かち合いたいと思えるんだ」
『狂った子』
「知っている。彼を愛してしまった瞬間から。あれほど近づいてはいけないと自分に言い聞かせておきながら、あっさり陥落してしまったもの」
彼の口説き文句は熱烈だ。だから警戒していたのに、あっさり堕ちた。それはまさしくイカロスの翼が太陽の熱で溶けるような感覚に似ている。じりじりと溶かされ、地獄に叩き落されたのだ。そして恋という想いで縛り付けて動けなくしている。
悪魔のような人。けれど最愛の人。
『まあ、また前みたいに同棲するつもりは無いみたいだから、安心はしているけどね。前みたいなイザコザは嫌だよ。危うく殺し合いになりそうになったし』
「うん。彼が愛の証を送ってくれるって。それだけで十分。私を愛してくれるのはその程度で良い。深く愛し過ぎたら、また二人で堕ちちゃう」
そう。またあの時のように。
仲裁役がいなかったら、二人は最悪の形で引き裂かれた。それが無かったのは、仲裁役が上手くまとめてくれたからだ。だから彼は私を最高の思い出として想い続けてくれたし、私も愛している。
『なら良いんだけど。また会うとか言わないでよ? 面倒だから』
「言うかも知れないし、言わないかも知れない。それはその時による」
『お前バカ? 痛い目見たのに、また会うの?』
「私は彼を愛している。世界で誰よりも。彼がいてくれたから、私は創作の世界に足を踏み入れようとしたし、実際した。全ては彼の影響。影響の無い出会いなど無いのだよ」
そう。
彼が全てを教えてくれた。
己の手で何かを『産み出す』という事。その苦しみ。痛み。喜び。
彼が私の世界を作った創造主。私はその創造主を永遠に愛し続ける。彼は私にとって世界の全て。彼は私を大切だと言ってくれたのが何よりの喜びであり、哀しみであり、奇跡である。
「彼を永遠に愛するのは私の役目。貴女がいるのは、もしかしたら彼のお陰かも知れないでしょう?」
『それは無い。私は無能なお前を殺すために存在している。お前が死ぬまで付きまとい、苦しみを味わって貰う。そして絶望したその顔を写真に収めるの』
「やれるものならやってご覧。私は彼を愛し続ける」
愛は不滅と言うけれど、私と彼の間には永遠は存在しない。恐らく彼の死によってそれは終わりを告げるだろう。彼が今生きている事自体が奇跡であり、私にコンタクトを取ったのも奇跡だ。
『今日は貧血が酷かったみたいだね。栄養不足がそろそろ出てきたね』
「仕方ないよ、金が無いんだから」
『今日の結果だとお前は無能を通り越して屑だな。屑は屑らしく死ね』
「嫌だ、断る」
『だったらもっと有能になりなよ。今日、社会貢献した? 借金の話をしただけで終わったじゃないか。そんなに金を返して欲しければ、早く弁護士を雇って、裁判でも起こせば良いじゃないか』
確かにそうだ。男から搾取された金は多額。それを貯金に回そうとしたら、男が返すのを渋る。これが生活費に回るのなら、いつでも返すと言う。でも貯金に回すのならいつでも返済は良いじゃないかと言う。借金を踏み倒す気満々なのが感じ取れる。元々貯金を切り崩して貸した金だ。貯金に回すのが筋だろう。金銭感覚の違いは諍いを引き起こす。それを知ってか知らずか、男は借金返済を渋るし、踏み倒そうとする。明後日会うのが憂鬱だ。会いたくないけど、会うしか無い。全く、能無しは私なのか男の方なのか? ……いや、どちらも能無しだろう。無理して過去の職場に舞い戻った男は愚かだ。それで年金と同額しか貰えないのだから、車の維持費で全てが消える。家に仕送りもしていないみたいだし、私に借金を返す余裕はあると思うのだが……。どうせDVDBOXを買って喜んでいるのだろう。そういう処があの男の一番嫌いな所だ。どうせ見ないくせに。コレクションするだけで満足してしまう。そして金が無くなると売る。それなら最初から買わない方が良かったのでは無いのだろうか? あと犬もそうだ。ブリーダーから直接買い付けたのに散歩もさせずサークルに入れっぱなしでパチンコに行っている。理解の範疇を超える。奴の脳みそを一度解剖してみたい。本当に1キロ以上あるのだろうか……?
「男に会いたくない」
『風呂は?』
「近くの銭湯で済ます」
『借金は?』
「送金して貰う」
『犬の餌は?』
「……それは困る」
犬の餌とおやつ。これが男に対して要求した利子。最初は嫌がったが、少し脅して許可を取った。これでしばらくは犬は大丈夫だ。あとは男が金を返してくれるまで犬が健康でいてくれる事を祈ろう。今、病気になられたら救えない。
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