七夜
ふと、思った。私は死んだ方が良い。そう【幻聴】が囁いた気がした。朝、飲まなければならない薬を飲まないから、日に日に事態は悪化していく。でも【給料泥棒】と言われたくないから、必死になって囁きに耐える。今日はそれを邪魔され、危うく殺す処だった。誰を? それは誰か私にも分からない。分かるのは、きっとそれは良くない結果を招くだけだという事。我慢したけど我慢しきれなかった。私は辛かった。どうしてこんな事になってしまったのか。私と【幻聴】の関係は良好なはずなのに。時々こうして喧嘩をする。今日は私は一人になりたかった。それなのにさせてくれなかった。お陰で食欲が失せてくれた。液体しか口にしなかったけど、晩御飯の代わりにはなった。私の給料では自分を養っていくのは不可能。本来なら番犬を飼う余裕など無いのだが、成り行き上致し方無い。ただ生き物がいる生活は安心する。心が安らぐ。生き物がいない世界は、もう考えられない。私には犬がいる生活が当たり前なのだ。ずっと飼いたかった。でも生活が苦しくて飼えなかったし、環境がそれを赦さなかった。本当なら最初から欲しかった。でも今こうして2匹と一緒に暮らしてみて、心が穏やかになっていくのが分かる。私はきっと1人が怖かったのだろう。【幻聴】はその頃攻撃的で、私を本気で殺そうと色々な声を聞かせてきた。今は落ち着いてきたと思う。でも時々喧嘩をするのは、私が生きる価値の無い人間だからだろう。今日の【幻聴】は何も命令して来ない。だからお金をどう使ったら良いのか分からなくて、本を買ってしまった。無駄遣いも良い処である。図書館の本もまだ読み切れていないというのに……。私はなんて愚か者だろう。前のように文字が読め無くなれば良いのに。そうすれば読書しようという気力も起きなくて、きっと廃人のように職場と家を往復するだけの人間と化すのに。神様は残酷だ。私に希望を与えておいてそれを平気で奪う。私の希望は【幻聴】で、私を助けてくれる唯一無二の存在なのだ。その希望を薬で奪われ、私ともう一人の私との距離は確実に遠くなりつつある。その代わり【幻覚】が足音を立ててやって来る。何を見せられるのか……それが怖い。私の中の私はそれに立ち向かう勇気が無い。逃げるだけの愚か者だ。私はどうしてこんな人間になってしまったのだろう……。昔はもっと社交的だったのに、今は根暗の引きこもりに近い存在だ。灯油を買うお金が無くて、朝と夜だけ焚いている。日中は番犬に電気毛布を使ってやりたいが、電気代が怖くて出来ない。前はバンバン出来たのに……。全てはガス代が高くなったせいだ。もう顔を洗う事すら水でやるしか無い。そうすると高い金を出して買っている洗顔フォームの効力が無くなるからお湯でやるしか無いのだが……風呂も1週間に1度しか入れない。それ以上入るとガス代が4万5万と膨れ上がる。それ位ガス代が高くなってしまった。この会社は私をガス代で殺す気なのだろうか? きっとそうなのかも知れない。私は生きる価値の無い人間。だから生活の中で殺す動機や切っ掛けを与えて、死へと誘おうとしているのだ。とても簡単な話なのに、犬がいるから死ねない。犬には罪が無い。避妊もしてしまっているので、子犬を生む事が出来ないから、価値が下がる。里親募集しても、貰い手はいないだろう。ましてやトイレも覚えていないのだ。そして何より人間を嫌っている。子供が嫌いだから幼い子供がいる家庭に貰われていく事は不可能だろう。そうなると老人に預けるしか無い。しかし老人の方が先に死ぬ確率が高い。そしたらまた盥回しにされ、ますます人間を拒絶するだろう。可哀想な事をしたくない。だから私は死ねない。今だけは。絶対に。
『少しは出来るようになったじゃない』
「ありがとう」
『でもミスは赦されないね。罰を与えないと』
「そうだね。致命的なミスだから……」
いつもの反省会。私は価格設定のミスという致命的かつ会社に大打撃を与える失態を犯してしまった。商品の登録作業を任されている私に求められるのは【速さ】と【正確さ】の2つ。商品が長く客の目に留まらなければ購買意欲は湧かない。客の目に長く留まらせるには長く登録している必要がある。だからなるべく早く正確に商品を提示し、買わせなければいけない。その作業の始めの部分を担っている以上、休憩はなるべく取ってはいけない。集中力は人間には限界がある。せいぜい1時間だとされる。しかしその1時間を超えても尚集中して取り組まなければならないのが私に課せられた仕事である。その意味の大切さを知らない人は『ゆっくりやれば良いよ。急がないんだし』とのたまっているが、それは違う。一刻も早く登録しなければならないのだ。それが私の仕事。意味を知らない人はマイペースにやれば良い。私は意味を知っているから、今日も24本登録してきた。20本は私にとって最低ラインだ。爆買いする客がいる以上、登録本数も多い方が良い。今日、初めて売上があったという。努力の末、つかみ取った売上。私はこの日を忘れない。そして私の犯したミスも忘れない。50円を11円で販売していた罪は大きい。大赤字である。送料でいくらか黒字が出るとしても本体価格が安すぎる。送料込みで400円にならなければ、黒は取れないように出来ている。だからこの失態は給料を下げられたとしても仕方の無い位失態だ。【給料泥棒】である。今日、私はこの会社でも【給料泥棒】をしてしまった。またか。また同じ事をしてしまったのか。お咎めは無しだったが、私は私を赦せない。今月も何が何でも出勤してやる。皆勤賞が目的では無い。少しでも多く登録して、会社の利益を上げなければならないのだ。その最初の段階なのだから、慎重かつ迅速に行わなければならない。それを怠った罪は大きいのだ。
「罰は何が良いかな?」
『睡眠時間を削る。最近寝すぎなんだよ。だから失態するし、無駄にコーヒーを飲まないと覚醒出来ない。今日だってギリギリまで寝ていたでしょう? 早寝しすぎて』
痛い処を付いてくる。確かに最近の私は寝すぎている。人間6時間も眠れば良いのに、私は寝たり起きたりを繰り返して10時間は寝ている。健康的な睡眠時間とは言えない。睡眠時間を削って勉強すれば、頭は良くなるし、一石二鳥。本来なら朝勉強するのが一番良いけど、夜に勉強するのが悪いのであるなら、サラリーマンが資格取得などの努力が無意味という事になる。つまりは言い訳。朝は朝になれば、眠いの一点張りになるし、何より貴重な集中力を持って行かれる。それだけは避けたい。登録ミスに支障が出れば罰では無くなってしまう。勉強する事が楽しいのだから、楽しい罰を受けていると思えば良い。何事も厳しくするよりは少し甘やかした刑罰の方が効果が出る。何せ、私の失態は取返しが付くのだから。誰かが気づけばの話だが……。他人のミスは赦す。私の給料に関係あるけど、その人がどう罰するかは自ら決める事である。私は嗤って違うよと言えば良い。その代わり私は私を赦さない。会社の利益に損害を与える事をしてしまった罰は思い。罪だ。罰する必要がある。だから眠らない。6時間眠るようにする。そうすれば途中で目が覚めたり犬に左右される生活を送る事は無いだろう。今日だって4時に起きたのだ。それまで何度か目を覚ましている。早く寝すぎなのだ。それがその証拠。日付を変わる前に起きるなど異常でしか無い。せめて明け方に起きるように努力したい。本を読むのは知識を蓄える事で必要だ。人間は私を裏切るが、知識は私を裏切らない。自分の血肉となり、必ず役に立つ。
『この、愚か者‼ また同じ過ちを繰り返した挙句、食費を浪費して‼ これから先どうやって生きていくの⁉』
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は【幻聴】に謝る。それしか方法が無い。何せ一日500円も使えない食費を1000円も使い果たし、今月は1日200円で生活しなければならなくなったのだ。一体、どうやって生活しろと? 禁断の白米に手を付けるしかあるまい。また白米を貰って正解かも知れないと思ったのは、これが初めてだ。あとはセフレの処に行って飯を食わせて貰ってSEXして運動する。そうしないと体重が増えていく一方である。野菜をメインに食べているからマシと思いたいが、葉野菜ばかり食べている訳では無い。玉ねぎも食べたし、ニンジンも食べた。太る要因の野菜だ。それを食べてしまったから、私は確実に太る。吐きたくても、消化されてしまった後なので、下剤せ体重を落としていくしか無い。全く最悪だ。仕事でミスをしたから、自分で自分を戒めて食事を摂らないつもりがデザート付きで食べてしまった。最悪な1日。どうして私はセーブ出来ないのだろう? また太りたいのかも知れない。それだけは避けたいのに、体が太る方向へと向かう。46キロになるまで、ダイエットは止めないし白米を食べない生活を続けるつもりだ。パンは諦めた。パンは安いし、1日1回だけ口にするだけだから、体重に変化は無い。いや、太ってきている。内臓脂肪が増えた。それはパンを食べているからだろう。1.5に戻すためには豆乳だけの生活が望ましい。明日から実践する。どうせもう食料が買えないのだ。冷蔵庫にある豆乳だけが唯一の食料。それを飲んで生きていくしかない。昼は弁当が出るから大丈夫。白米を食べなければ、かなり低カロリーな食事になれる事が分かった。原因は白米にあり。白米に油を使っているらしく、それが太る原因になっているのだろう。皆は平気で口にするが、私は怖くて食べる事が出来ない。もっと痩せたい。48キロはデブだ。46キロが最高に痩せている体だ。素敵な理想の体を手にする事が出来る。運動して基礎代謝を上げる事が出来ないから、サウナで基礎代謝を上げている。これは結構効くもので、かなり基礎代謝が上がった。今では20代の体を維持している。前は40代だったのに。痩せたお陰もあるだろう。内臓脂肪が減ってくれて本当に嬉しい。このまま痩せたい。そのためには悪魔に魂を売るだろう。死んでも構わない。餓死しても良い。46キロになるためなら、なんだってやる。無差別に男とSEXして運動カロリーを増やそうが、なんだろうがやってやる。性病にはなりたくないけど……。でも処女じゃないんだし、他の男と寝ても良いと思う。失敗した。前に援助交際を求めてきた男を無碍に扱ったが、関係を持てば良かった。そうすれば金もカロリー減少も手に入る。それなにの……嗚呼、なんて愚かな事をしてしまったのだろう。もう穴があったら入りたい。失敗だ。援助交際すれば良かった。無差別に男と寝れば良かった。そうすれば体は痩せて行ったというのに……。ガリガリになれたのに……。勿体ない事をしてしまった。今思えば人生の選択肢を間違えたのだとようやく気付けた。嗚呼、悲しい……。
『明日からご飯抜きね』
「はい……」
『体重が50キロになったら、昼以外は食べちゃダメだから』
「はい……」
『何が何でも46キロになる事』
「分かりました」
痩せなくちゃ。痩せて痩せて、皆が羨ましがる体になってやる。もう妊婦とは言わせない。今でも妊婦と言われそうな体つきをしているのに、これ以上太ったら妊婦として地下鉄の席を譲られる可能性が出てくる。それではダメだ。痩せなければいけない……。
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