五夜

「疲れた……」

 今日は酷く疲れた日だった。休憩時間……お昼休憩も少し削って、仕事をした。無能な私にはそれ位しないと追いつけないのだ。だからコッソリ職員の目を盗んで仕事をした。15分休憩の時は堂々と休憩しているフリをして、仕事に没頭してなんとか今日のノルマを達成した。本来ならノルマは存在しない。しかし【幻聴】が私にノルマを課してきたので、忠実にこなしている。将来はこの倍を出来るようになるのが目標らしい。誰よりも仕事が早く、正確。そして何よりトラブルを職員に持ち込まないようにする。今日も1件トラブルを持ち込んだが、それは私の責任では無かったので【幻聴】に何も言われなかった。もし、私の責任なら、誰が赦そうとも私自身が赦さない。最低でも晩御飯抜き位の極刑は与えないと落ち着かない位だ。

『あれ位で根を上げるの? 屑?』

「ごめんなさい……」

『屑でもお腹は空くんだから不思議よね。屑には食べる権利なんて無いのに』

 溜息を吐きながら【幻聴】は私の晩御飯を見てくる。お惣菜1品に豆乳コップ1杯。十分少ない量だと思うが【幻聴】にしてみれば、多いらしい。豆乳で生活しろと言って来る位だから、私にとって栄養源は豆乳だけしか許可されないのだろう。仕方の無い事だ。だって私は無能だから。

「こんなに食べてごめんなさい。明日、今日残した仕事を全部片づけるから」

『当たり前でしょ? 何偉そうな事言っているの。だからお前は無能だって言っているんだ。普通仕事を残して帰る社会人がいる? いないよね? まぁ、残業の赦されない職場だから仕方の無い事だけど。でも無能な人間らしく、随分と仕事を残して来たね』

 刺々しく言う【幻聴】に何も言い返せない。本来なら、あと1本仕事をやらなければいけない。出来る能力があるから。出来なかったのはトラブルに巻き込まれたせいと、ダラダラと午後の仕事をしていたから。ハキハキと仕事をしていれば、間に合ったはずなのに……やはり私は無能。生きる価値の無い人間。その人間が血税を喰らって生きている。ある日突然殺されてもおかしくない状況下だ。

 それでも少しは良い事があった。体重が減ったのだ。しかも筋肉では無くて脂肪。筋肉は逆に付いた。だから体重自体はそれほど変化は無かったが、内臓脂肪が減って体内が若返ったらしい。喜ばしい事である。だからそれは素直に喜んだ。これで高校時代の友人に堂々と会える。太っていたら、きっと皆デブデブって心の中で合唱するに違い無い。しかも仕事も就いて無いに等しいのだ。人類の底辺にいる生き物と言っても過言では無い。だからせめて痩せていないと私の取柄は何一つ無くなる。もっと痩せなければ。早く痩せて、スリムになって、ガリガリになって、痩せている事が正義と思わせないといけない。私の唯一の武器は痩せている事なのだ。それが無くなったら、ただの無能な屑。死ぬべき屑なのだ。明日は過密スケジュールだが、掃除当番でも無いし問題無いだろう。午後の仕事をきっちり始めればギリギリ間に合う。そしてまた30本貰って仕事に励む。もう20本と言っても、誰も褒めてくれないし、当然だと思われている。当然と思われている事が出来ないとなるとそれは屑の証拠。生きる価値は無い。その日の晩御飯は豆乳コップ1杯で、それ以上の食べ物は口に入れさせない。仕事をしていない人間が食べてはいけないのを明日の仕事に障るから豆乳を飲むのだ。そうでなければ、私に食べ物を口にする権利は無い。人間は食事する権利は万物等しくあると思われがちだが、それは違う。世の中には何も食べてはいけない人間も存在するのだ。例えば私のように、仕事が出来ず、ただ出勤しているという理由で給料を貰っている【給料泥棒】もその中に分類される。私は本当は食べてはいけない人間なのだ。だが、今日は特別頑張ったから、温情として食事が与えられた。ただ、それだけだ。


「疲れた……」

『新記録だったのは認める。努力したのも認める』

 バタッと布団の上に倒れ込み、意識が持って行かれそうになる。今日、30本の商品登録をしてきた。このスピードは尋常じゃない速さだ。私の先輩とついに並んだレベルになる。先輩は正確さが売りなので、私より登録本数は多少減る。だが下手な鉄砲数打てば当たる作戦で数だけをこなしている私とは品質が違う。今度目指すべき場所は正確さだ。正確で早く。誰よりも多く登録を。それをしなければ、私は【給料泥棒】になってしまう。今日はいつも選曲を愚図愚図選んでいるのだが、今日は予め決めていた。そうしたらとんとん拍子に仕事が進んで、午前中の登録本数がいつもより多かった。これを踏まえ、午後も同じ事をしたら、合計本数が30本という、先輩が驚く数字を叩き出したのだ。さすがのこの結果には職員も納得してくれたらしい。今、登録しているのは2人だけだから、この2人の作業効率が早いととても助かるそうだ。だから私の仕事は認められ、また数を増やされた。それで良いのだ。仕事で押しつぶされそうになったら何か策を講じれば良い。今の処体が追い付いているので心配はしていないが。

「早く休んでいる先輩復活しないかな。2人だけであの量を捌くのは限界がある」

『愚か者。【給料泥棒】と言われないのはその先輩が休んでいるからだ。だから重宝される。それを理解出来ないのなら、一生【給料泥棒】として生きろ』

「ごめんなさい……」

 私は土下座して謝る。布団の上だから痛くない。傍から見れば何もない空間に向かって土下座している姿など滑稽だろう。しかし私には見えているのだ。もう一人の私の姿が。もう一人の私は仁王立ちで、私を軽蔑している。努力しても努力しても決して認めてくれない私がそこにいる。今日は褒められたけど、それは今日だから。明日同じ結果を出したとしても、もう褒める事はしないだろう。それがもう一人の私の特徴なのだ。……いや、性格なのかも知れない……。

『文句でもあるの?』

「ありません。赦して下さい」

『赦さない。お前が人生の脱落者になった瞬間から、私はお前を赦さない。一生赦さない。ずっと苦しめて苦しめて追い詰めて、幸せを奪ってやる』

 冷酷な言葉に背筋に冷たいモノが走る。もう一人の私は心底私を憎んでいる。私が両親の期待を裏切り、精神を崩壊させた時、一生赦さないと誓った存在。それがもう一人の私であり【幻聴】と【幻覚】の両方を併せ持つ存在なのだ。恐らくもう一人の私は私の潜在意識の中に潜んでいるプライドだろう。一般社会に憧れるもう一人の私。税金を払って、毎月給料を貰って、社会貢献しているのが夢だった。時々ボランティアをしたり、小説を自費出版して地道に売る事も夢だった。しかしそれは二度と叶わない夢。私が薬という毒を飲み続けている限り、私の夢は夢のままなのだ。それを知っているから私はもう一人の私の辛辣な言葉を飲み込む。痛くて苦しい毒だが、薬に比べたら痛くない。薬は私の臓器を蝕んでいく。あと10年もすれば肝臓が悲鳴を上げ、人工透析をするかも知れない。それでも私は薬を手放す事が出来ないのだ。だからせめて痩せていたい。46キロという、難易度の高い体重目標にしているのは、私が毎日厳しく律していないと到達出来ないから。もう太りたくないのだ。太っていた時は着られる服が限られており、毎回探すのに苦労した。けれど今はどうだろう? 逆に痩せすぎて着られる服の幅が広がった。ガリガリまでなっていないが、クビレだって出来ている。水着になっても完璧なプロポーションといえよう。それが嬉しくて体重維持を務める。……いや、もっと痩せたい。もっと痩せれば着られる服の幅が更に広がるかも知れないのだ。これは嬉しい事ではないだろうか?


『この、愚か者‼』

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

『何が出来るだ‼ ちっとも出来ていないじゃないかっ‼』

 怒鳴られた。無理も無い。同じ制限時間内で、仕事量が半分しかこなせなかったのだ。午前中は16本登録出来たのに、午後はたったの9本。休憩をしていないのにも関わらず、この量の違いは何か? 私にすら答える事が出来ない。だから【幻聴】に怒鳴られても仕方の無い事なのだ。

『愚図。鈍間。死ね、デブが』

 やっと47キロの壁に到達したと思ったのに、余計なモノを食べようとしている。それは恵方巻。食べなくても死なないのに、私はおまけのストラップが欲しくて恵方巻を買おうとしている。無論、食べずに捨てる事も可能だ。千円のストラップを買ったと思えば良い。これ以上太れば、またデブの道に逆戻りだ。それを【幻聴】は危惧している。だから止めろと言っているのだ。私は食べたい。でもそれは赦されない事なのだ。だって炭水化物だ。太る。間違いなく太る。そしてまた48キロに戻ってダイエットの日々が始まるのだ。体が痩せていく事に快感を見出しながらもどうしてこうも時々食べたくなるのだろう。食べるのは悪の根源だ。いや、仕事が出来る人間が食べる事を赦される。愚図で鈍間な私には、息する事さえやっと赦されている状況なのに、恵方巻など言語道断である。それを食べて良いのは、仕事が出来る人間と税金を納めている人間だ。つまりは一般人。私は赦されない。望む事すら罪なのだ。それを分かっているのか、分からないのか。体が食べたいと欲している。赦されるもんか。どうして私が食べる事を赦される? 仕事の出来ない、すぐに疲れてしまう人間に、食べる権利など与えてはならない。与えるとするなら、昨日のように30本の登録が出来て、初めてご飯を赦されるのだ。今食べさせて貰っているのは、体力が無くなって動けなくなるのを恐れているから。それが無ければ私は食べる事は赦されない。赦してはならないのだ。私には生きる権利すら与えられていない。本来なら死んで世の中の人間に詫びなければならないのだ。それをこうして1日3食キッチリ食べさせて貰っているのだからワガママは赦されない。食べてはならないのだ。私は食べてはいけない人間。働く事が出来ない人間にとって、それは死ねと同じ事。それをこうして生かして貰っているのだから、一般人と同じ生活は赦されない。私みたいな人間は早々に死ぬべきである。それをしないのは、私にも多少なりとも仕事が出来る時があるから、すぐ死ぬ事を命令されないのだ。もし、働く事が出来なくなったのなら、私は潔く死のう。自殺は罪と言うが、生きる事が罪な私にとってどっちも同じ地獄なのである。

「ごめんなさい……。せめて10本登録出来れば……」

『過去の自慢話をしているからロスタイムが出た。これは赦しがたい事実。罰として明日は倍のスピードで仕事をしなさい。午後のコーヒータイムは無し。和式便所でトイレをしたくないのなら、倍の仕事をする事だ』

 溜息と呆れている気配が伝わって来る。怒っているのだ。午前出来た事が、何故午後も出来ないのか。周りが赦しても、私は赦さない。厳しく接しなければ私はすぐに甘えてしまう。自分を律するというのは、自分に厳しくするという事だと思う。つまりご飯を抜く行為をしてまででも仕事優先で生きなければならない。仕事が命なのだ。食べる事が命じゃない。食べる事は仕事が出来てから食べるのだ。私の場合は少なくともそういう仕組みで生きなければならない。血税を喰っている身分として当然の事である。私には他人様よりも劣っているのだから、せめて食べる事位は律しなければならない。自分に厳しくしなければ、いつまでも血税に甘えている愚か者になる。血税でしか生きられないのなら、せめて食べないで周りに迷惑をかけないようにひっそりと生きていくしか無い。それが出来ないというのであれば、今すぐ死ぬべきだ。それが私の生きる道。

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