四夜

 今日は【幻聴】の声が聞こえない。薬を飲んだせいか、久しぶりに効いたようだ。だから不安になる。48キロのデブに戻っても罵る相手がいないから、謝る対象がいない。私は不安になる。このままで良いのだろうかと。そうすると出てくるのが【幻覚】だ。トイレに行ったら、ドアから手が生えていた。怖かったけど漏らすのは嫌だったから、ビクビクしながらトイレに入った。手はゆらゆら揺れて、まるで太れと言っているみたいだったから、余計に怖い。何も言わない【幻覚】程怖いものは無いのだ。

「ねぇ、出て来て、もう一人の私」

 鏡に向かって言うも、返答は無い。まるで愛想を尽かしたと言わんばかり。怖くなった。私がいつまでも痩せないから【幻聴】は私を見捨ててしまったのではないのか、と。お願いだから出て来てと懇願するも、出てこない。私は絶望を感じた。このまま死んでしまった方が良いのでは無いのかとさえ思う。私は無能だ。昨日は頑張って無理をして新記録を更新したが、褒めてくれたのは一部の職員。やっぱり私は期待されていない。お邪魔虫なのかも知れない。他の処に転職した方が良いのかも知れない。そう思うと腹が立ってきて、やけ酒をした。血を吐くまで酒を浴びるように飲んで、今日はフラフラだ。明日体調を整えないと、月曜日に影響が出る。それだけは避けたいから、皆勤賞が欲しいから、頑張って仕事に励む。毎日出勤する事に何の意味があるのか分からない。私は何の期待もされていないから、私がいなくても世界は巡る。でも私は文字を打つ事で自分の世界を表現している。私は私の世界を知って欲しいのだ。私の中にはもう一人の私がいて、いつもデブと罵る。そして痩せろと言う。私は命令通り食費を切り詰めて、ダイエットに励む。そうして減った体重に喜びを見出し、もっと痩せたいと思う。生理は来ているから、まだ痩せられるはずだ。あと何キロ痩せられるだろう。目標は46キロ。あと2キロダイエットすれば痩せる。低糖質ダイエットは限界らしく、もう長い事白米を食べていないけど、効果無し。きっと時々麦飯を食べているのが悪いのだろう。だからダイエットのために麦飯も食べるのを止めようかと思う。そうすればダイエットにまた近づく。私は痩せるしか能が無いのだ。無能の私にはそれしか方法が無い。私には痩せると言う目標しか存在しないのだ。私は痩せたい。ガリガリになって、皆を驚かせたい。生理が止まっても構わない。私は痩せたい。骨が脆くならないように野菜だって食べている。だから大丈夫。多少生理が止まっても生きていける。私はそう確信している。そうじゃなきゃ、生きている意味が無い。口約束の人は信用するなという本の言う通り、適当な人は口約束をすぐに忘れてしまう。3歩歩いたら忘れる鶏のような人だと思った。信用出来ないな、と思った。だから無能な私に近づいてくるのだと。

 もっと有能にならなければ。やった分だけの事じゃ無く、それ以上の能力を発揮しないと。そのためには休憩など取っていられない。私は休憩時間を削ってまで仕事に専念する義務がある。だから15分休憩は私にはあって無いようなものだ。犬自慢をする時間があるなら、少しでも会社に貢献しないと。それが私のやるべき事だ。私は無能だから、有能になるためには少しでも能力を発揮しないといけない。頑張ろう。毎日が辛くても毎日出社して、少しでも会社に貢献する。そうして私という価値を高めていく。そのためにもダイエットは必要だし、痩せなければならない。私は太っているから動きが鈍いのだ。もう少しフットワークが軽くなるためには痩せるしか無い。目が痛い? それなら目薬を買えば良い。それをしないで目が痛いから休憩するのは無能のする事だ。死んでも仕事は終わらせる。それがプロというものだろう。

『私が1日いなかった位でピーピー泣くなよ、デブ』

 懐かしい声がした。男と乗っている車の中。チーズバーガーとポテトを貪り食っていた時だった。【幻聴】が帰ってきてくれた。

『ジャンクフードなんてデブの元でしょう。何喰ってんの? バカ?』

「捨てられたと思ったから……」

『だからやけ食い? どうせ後悔するくせに。今日の晩御飯は豆乳コップ一杯だけだからね』

「うん、分かった」

 男は具合が悪い。だが、私にした借金の利子として働かせているので、懺悔する余地は無い。返さない男が悪いのだ。月1万ずつ返すとして、一体何年かかる事やら。そんな途方も無い時間を待つのだから、多少利子を取っても問題無いだろう。この男の母親に借金の額を教えたらどうなるだろう? 時々悪魔が囁く。手っ取り早く親に言って、闇金でもサラ金にでも良いから手を出して返して貰おう、と。しかし男には極秘で返したいという意志があるらしい。これを口にすれば返さないと駄々をこねるかも知れない。それだけは避けたい。少しずつでも帰って来ているのだからそれで良しとしなければ。強欲になり過ぎると崩壊するのは、よく知っている。

『デブ。明日体重測れよ。朝一だ』

「うん」

『それで昼の方針を決める。無論、白米は一口も食べるな』

「分かった……」

『私が一瞬消えただけでデブの道を走るから、私が消えたらどうなるんだろうね。また元の体重に戻るのかしら?』

 皮肉たっぷりに【幻聴】は言うと、溜息を付いた。多分今食べている食料のカロリーをどこで使おうか悩んでいるに違いない。掃除をする気力は無く、辛うじて洗濯が出来る程度。その状態で私が出来る事と言ったら、明日の食事量を減らすしか無い。それも限りなく空腹に近く。明後日の算段も考えているのだろう。私の計り知れない世界で、もう一人の私は考えている。どうやったら痩せられるか? あと2キロの道のりが遠い。2キロ痩せれば、多分、胸の骨が見えるだろう。骸骨になるかも知れない。そんな危険を孕んでいるから、簡単に私は痩せないのだろう。それこそ毎日こんにゃくを食べていないと痩せない。もしかすると【幻聴】は、おでんのこんにゃくと白滝だけで生活するように命令するかも知れない。私はそれに従う。私の望みは痩せる事。ガリガリになって皆に一目置かれる存在になる事。仕事が出来ないのだから、せめてダイエットで見返すしか無い。太って服が入らなくなったら私は死のうと思う。だってもう太った服は棄ててしまったのだから。一応、残っているものもあるが、大分着古したせいで穴が開いている。これ以上痩せられないのか? 私は不安になる。本当は今の体重がベストなのだろう。だから体が自然とこの体重維持を務めようと必死になる。でも私は赦さない。もっと痩せなければ。そのための努力は厭わない。筋トレを疎かにしているからデブなのなら、私は筋トレを始めよう。そして痩せてやるのだ。でも運動をしないで食事制限だけで痩せた人もいたから、運動しなくても痩せれるのかも知れない。筋トレが嫌いな私にとっては僥倖だ。毎日低糖質の豆乳で朝御飯を済ませ、昼は白米を一口も食べないで、野菜から順番におかずだけを食べていく。麺類がおかずに含まれていた場合は残している。当然腹は満たされない。だから洋式トイレを使う目的のため、コンビニでコーヒーを買う。コーヒーは意外と腹持ちするから不思議だ。私は毎日ほぼ液体で過ごしているので、歯が脆くなっているかも知れない。それは仕方の無い事だ。私は痩せるために全てを犠牲にすると誓ったのだから。そのためなら、歯が1本や2本無くなっても構わない。今の時代、インプラントというものがある。ただしあれは片頭痛をもたらすと言われているが……。

『明日から仕事だけど、目標は?』

「とりあえず一人で黙々とやる。将来は30本捌けるようになりたい。そうすればきっと認めて貰えるだろうから」

『才能の無い仕事をやらされると、こうも愚図になるとはね。ホント愚かだよ。上の采配が間違っている。やればやるだけの事。追い詰めている事も知らないで、楽しんでいるんだから』

 クスクスと【幻聴】は笑う。彼女は楽しいのだ。私が追い詰められて、仕事をしている事に……。


『この愚図‼ 鈍間‼ 恥晒し‼』

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 私は失態を犯した。いつもならこなせるはずの量をこなせず、休み時間を削ってようやく仕事を完成させたのだ。最悪過ぎる。いくら眠いからと言って、こんなに仕事が出来なかった日は無かった。ホントに最悪だ。職員に見放されたかも知れない。いや、見放された。私は愚図で使えないって。今まで積んできたモノが一瞬にして崩れた。それは全て私のせい。私が判断能力に欠けていたのと集中力が無かったのとが災いした。お昼を食べないで仕事しようとしたら、職員に止められた。きっと私が使えない事を悟ったから、休ませないともっと使えなくなると踏んだのだろう。私は使えない。最悪だ。どうしてこんな事になったのか? 原因は分かっている。朝早く起きすぎるのだ。時には日付変更線を跨ぐ前に起きてしまう。だからもう少し遅くに寝ないといけないのに……それでも朝早くに起きてしまう。全く使えない奴だ。融通が利かないのが一番悪い。どうしてちゃんと眠れないのか? 理解に苦しむ。私でさえ分からないのだから【幻聴】ももっと分からないだろう。だから私を怒鳴りつける。せっかく痩せたのに、やけ食いをしてしまった……。これでは元の木阿弥だ。47キロの壁が見えて来たのに、また48キロの壁に阻まれてしまう。私はどうしてこんな人間なのだろう。積み上げてきたものを簡単に壊してしまう。努力したのに……。使えない人間と思われないように、必死になってやってきたのに……。それを今日、白紙に戻してしまった。なんという罪。どうやって償えば良いのだろう? 私は泣きたい。泣きたいけど、その資格は存在しない。だって私に泣いて懇願する権利など無いのだから。あるとするなら、今から絞首台に上って首を吊る位だ。私の認められてきた実力が全て白紙になった。それは当たりが悪かったというのもある。しかし大部分が眠気という根本的な敵との闘いにある。私はまた眠り姫に戻ろうとしている。またか。もう戻れる場所など存在しないというのに……。今の場所を失ったら、私に働く場所は無くなる。【給料泥棒】という烙印はもう押されたくない。それなのに体は眠ってしまう。赦されない事だ。私は私を赦さない。啓蒙の本に自分を赦そうとあったけど、私は賛同しない。赦されない事をしたのなら、絶対に赦してはいけない。永劫呪いをかける勢いで監視の目を自分自身に光らせて、眠らないようにしなければならない。対処法が無い以上、私は夜中に起きて活動するしか無い。寒さに凍え、犬の鳴き声で目を覚まし、餌をやって二度寝が出来なくなったら本を読む。一人の時間を大切にするのは大事な事だ。それが私の場合夜中から早朝にかけてというだけだ。朝起きられないよりはマシだと思う。私は誰の迷惑もかけていない。ただ電気代がかかるというデメリットがあるが……。恐らく5千円は超えているだろう。ガス代を節約して誤魔化していくしか無い。電気代はどう頑張っても5千円以上は出せない。出すとするなら、食費を節約するしか無い。これ以上どう節約すれば良いと言うのだ? 1日600円と少しで生活しているのに……最終手段として1日500円生活をするか……? コーヒー代は別にしているから、コーヒー代が無くなる心配は無い。本来なら食費と一緒にすべきだが、そうすると夜は何も食べられなくなってしまう。それで痩せられたら本望だが、周りが煩く言うので、これ以上痩せられないのも本音だ。本当なら46キロになってモデル体型になっている予定なのだ。それを簡単にさせてくれないのが今の私の体であって、本当に忌々しい。啓蒙の本には自信を付けようとあったが、自信を付けるためには46キロになるしか無い。そうじゃないと心身が納得しないのだ。

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