三夜

『このデブが‼』

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 私は車の助手席にいる。運転しているのは、長い付き合いの人。恋人と言えるのかどうか分からないが、とりあえず向こうは恋人と思っているらしい……。私はそのつもりなど全く無いのだが……。

 私は車の助手席でドーナツを10個平らげた。デブの道へとまっしぐらだ。【幻聴】が私を怒鳴りつけるのも無理は無い。やっと47キロになったばかりだというのに、これでは元の体重に戻ってしまう。体が甘いモノを求めた事と低血糖になった事が災いした。一口のつもりが止められず、相手の分も全て食べてしまった。相手は何も言わない処か、少しは食べた方が良いと言う。私は痩せすぎている、と。そんな事は無い。私はデブだ。そして無能。誰よりも努力をしなければ、私は認められないのだ。だから相手の言葉は毒。私を殺す猛毒だ。

『また元の体重に戻ったらどうするの⁉ 痩せるのだって簡単じゃないのに……』

「ごめんなさい……」

 私は何度も【幻聴】に謝る。もう取返しの付かない処まで来てしまったのだ。場所は車内。吐く処も、下剤も無い。私の体の中に脂肪が蓄積されるだけである。どうしたものか。家に帰ってすぐに下剤を飲んだとしても、次の日にしか効果が表れない。私は頭を抱えた。ただでさえガス代が予算オーバーして食費を削ったばかりなのに、さらに食費を削らなければならないのか……。一体、私はどこまで食費を削って痩せなければならないのか……。それすら分からなくなってきている。もう私をコントロール出来るのは【幻聴】しかいないのだ。

『家に帰ったら下剤ね。良かったね、多めに貰っておいて』

「うん……」

 ちなみにこの会話は相手に聞こえていない。全て私の脳内で行われている。渋滞に引っ掛かった事が幸いで、相手は渋滞にイライラして私の変化に気づいていない。良かった。そう思いながら空になったドーナツの容器を見つめる。

『ベーグルはカロリーが高いから、晩御飯はアイス一個ね。どうせ止めても食べるでしょう? なら一個だけ食べて下剤はいつもの倍』

「うん……」

『食費は1日600円迄。それ以上食べると生活出来なくなる。分かっている? お前は生活が危うくなる位食べているんだからね?』

 そう溜息交じりに言う【幻聴】に何も反論出来ない。私は無能なデブだ。連休は私の活躍出来る場所が無くなるから嫌い。特に3連休は悪魔の連休だ。1日必ずと言って良い程、暴食をしてしまう。そして吐いて、下剤を飲んで、体重を減らそうと試みる。バカだ。私は何も学習出来ていない。私はいつも後悔しながら食べ物を口にしている。食べる事が罪なのに、食べてしまう。あまつさえおかわりを要求するこのデブを殺してくれる暗殺者がいるなら、お願いしたい位だ。

『あと掃除しなさいよ。掃除でカロリー使えば、少しは脂肪が減るから』

「はい」

『嗚呼、洗濯物も溜まっていたね。あれもやる事。ついでに隣の男とSEXして体力使いなさい』

「はい」

 私は好きでもない男と寝る。それは痩せるためだから仕方の無い事なのだ。他にもセフレがいるが、その前にご飯を食べさせてくれるから厄介だ。いくらSEXをしてもその前にご飯を食べていては何の意味も無い。しかし相手の好意に甘えるフリをしなければカロリー消費は出来ない。他の男と寝るのは平気だ。楽しくないけど、痩せる事を考えると何とも思わない。私は平気な顔で他の男と寝る。【幻聴】もこの意見には賛成らしく、私が男と寝る時は静かにしている。そして事が終われば、体重計に乗る事を命じてくるのだ。

 私は空っぽになったドーナツの容器を見つめる。私はこの後、この男と寝るだろう。好きでもない、この男と。別にカロリーが減るなら、なんだってするつもりの覚悟でいるのだ。万が一子供が出来たら下ろす覚悟は出来ているし、命を軽んじている。私の命を軽んじているのだ。赤ん坊の命を大切にしろという事の尊さなんて全く分からない。

「ねぇ、赤ちゃん出来たらどうしよう……」

『下ろすに決まっているじゃない。太りたいの? 煩い赤ん坊のせいで』

「それは嫌……」

『だっだら親に言って下ろせよ。強姦されたとか嘘付いて』

 私は悪魔の子なのかも知れない。私に授かる命なんて無いだろう。産まれてくる赤ん坊のために体重を増やすつもりなど毛頭無い。だから運転席にいる相手との間に子供が出来ても、相談しないで下ろしに産科に行くだろう。


 男と用事を済ませた後、男と寝た。それで体重計に乗ったら、体重は変わらなかった。問題は明日以降だ。私はもう液体しか口に出来ないのだ。アイスは1個まで。カロリーの高い肉まんも1個まで。私はデブで能無しで貧乏で……とにかく良い処が全く無い。無差別に他の男と寝られるなら、援助交際をしても良いかも知れない。私の年齢なら、援助交際に問われる年じゃ無い。金銭のやり取りがあっても合意の上なら法律上問われる事は無い。

 私は柚子茶を飲みながらそんな事を考えていた。柚子茶も太る。ただし100グラム摂取した場合だ。バターのようにパンに塗って食べる訳では無いので、100グラムを摂取する事自体が難しいだろう。お湯で薄めて飲むのだから……。【幻聴】も何も言わなかったのは寒くて肉まんを貪り食うよりスリムになれると考えたからだろう。実際、体重はお昼を食べる度に太る。そして夜で調整して朝元に戻すという生活を送っている。本来ならお昼を抜けば良い話なのだが、作業所がそれを赦さない。そして最悪な事に便所は和式。和式嫌いの私にとって、洋式のトイレのコンビニは必ず行かなければならない場所。そして何も買わないで帰って来たら、それこそ問われるだろう。だからコーヒーを買ってこれが目的ですってフリをする。余計な出費とカロリーではあるが、致し方ない。和式トイレを使えない私が悪いのだから……。

『おい、デブ』

「はい」

『話し方、聞き方の本は読んどけよ。あとで利用出来るかもしれないから』

 それは男の母親対策について言っているのだろう。結婚を迫ってきたあたり、それが本心なのかもしれない。私はデメリットしかない結婚は嫌いだ。誰とも結婚したくない。好きでも無い男と結婚する事は出来る。痩せるのであれば。ただあの男と結婚したら、間違いなく太る。何せ揚げ物が大の好物で毎日食べないと気が済まないのだ。食生活を合わせたら、太って行く事が目に見えている。だからあの男の母親と上手く距離を取らなければならないのだ。上手く距離を取り、お前の息子とは絶対に結婚しないと公言しなければならないのだ。太りたくない。痩せるためなら援助交際も妊娠も厭わない。それくらい痩せたい。その気持ちを理解してくれるのは【幻聴】位だ。だから私は【幻聴】に付いて行く。周りが間違っている世界の中で正しい選択肢を与えてくれる存在。私にとっては財産のようなもの。私の無能な世界の中で、唯一光輝くモノ。私は今日も無能だった。久しぶりの眠気に襲われて化粧も出来なかった。愚か。醜い。それでもお昼ご飯を食べる元気があったから浅ましい。午後の仕事は全く出来なかったのに、昼寝までして……罰として休み時間を削った。私に午後の休憩時間は要らない。それはちゃんと仕事が出来る人に与えられるものだ。無能な私には与えられないモノ。休む位なら人一倍努力して仕事をしなければならない。それが分かっていてもつい休んでしまう。愚かな生き物だ。死んでしまった方が良い。だから今日は柚子茶しか飲まない。夜はこれだけ。他の食べ物は口にしない。口にしたらその時点で、薬を飲まないでずっと起きていてやる。自分に最もふさわしい罰だ。薬物依存の私にとって、1日薬を抜くというのは相当キツイものである。体を壊してまででも私は痩せたい。ガリガリになりたいのだ。誰も理解してくれないけど。私は痩せて皆に認められたいのだ。今日も私の後ろを通った人が何人か苦しそうに通り抜けていた。それは私が太っている証拠。だから痩せなければならないのだ。通行の邪魔な無能な人間は痩せる事でしか認められないから……。

 少しでも痩せなければ。1グラムでも良い。痩せたい。痩せて細くなって、皆から認められたいのだ。

『肉まんに目が眩んで、肉まん買ったお前には一生無理かも知れないけどね』

「ごめんなさい……」

『ま、アイスよりはカロリーが低いし、便になりやすいから良いけど? 小麦で出来ている事を忘れないでよね? 小麦は太るんだから』

「はい……」

 ぶよぶよの肉を忌々しく見つめながら、今日食べたピザまんを思い出す。アレさえ食べなければ、48キロに戻らなかったのに……。今日のお昼に出た肉を拒絶すれば、それだけでも痩せれたのに……。内臓脂肪が増えちゃったのは肉のせいだ。肉さえ口にしなければ良かった。私は愚か者だ。目の前の食事に目が眩んで、食べる事が止められなかった。なんて愚かな生き物だろう。死ぬべき人間は私という存在かも知れない。


 今日も食べる事を止められなかった。お腹が空いてピザまん食べちゃった……。それも2個。私は罪の子だ。アイスも食べたというのに……まだ体が欲している。いっその事ご飯を食べちゃおうか? そうしたらまた下剤だよね……。堂々巡りなのに【幻聴】は助けてくれない。私の事を見捨てたのかな? お願いだから見捨てないで。私はアナタがいないと生きていけないの。デブに戻っちゃうの。新年会だって太るから断ったのに、これじゃあ元の木阿弥だよ……。お願いだから返事して。私を孤独にさせないで。寂しいのは嫌なの。

『キャンキャン煩い。駄犬か、お前は』

 ようやく【幻聴】が応えてくれる。良かった、まだ見捨てられていない。

「お腹が空いて死にそうなの。どうしたら良いかな……?」

『アイス買えば? どうせ暖かい飲み物を飲んでも体は冷えたままでしょ?』

 最もな意見だ。私はもう今日の食費を超えて食べている。だから今更何かが増えようと変わらないのだ。だからアイスって……出費を抑える方法は他に無いのかな……?

『あるよ。超高カロリーのカップラーメン』

「謹んで辞退致します」

 太りたくない。これ以上太ったら、生きていけない。私は痩せたいのだ。ガリガリになって、皆に認められたいのだ。だからそのためなら、我慢も厭わない。でも今の時間なら柚子湯飲んで誤魔化せば何とかなりそうな気もするけど……柚子湯の高カロリーさは身をもって体験済みである。だから【幻聴】はアイスを提案するのだろう。信玄餅を食べさせなくなったのは、餅を食べると太るからだと思う。そこまで私は追い詰めないといけないのだ。なんという醜い生き物だろう。自堕落に食べて太って絶望して、結局何がしたいの? 私は痩せたいだけなのに。それを赦してくれない環境にイライラする。どうしてどうしてどうして……?

 自問自答しながらアイスを食べるために支度をしている自分に腹が立つ。結局食べたいのか。柚子湯で我慢出来ないのか? ……いや、出来るはずだ。私だって痩せたいと口先で言っている訳じゃない。本気なのだ。だから本気を出せば液体だけで痩せられるはず。……でも朝が怖い。アイスを何度も買いに走って腹を満たすのが目に見えている。最悪おにぎりやパンを買うかも知れない。考えただけで恐ろしい。朝は食べ過ぎている。朝の食べ過ぎが減れば、私は痩せられる。そう、絶対に痩せられるのだ。

「私、頑張るね。明日から豆乳だけで頑張る」

『その意気込み、忘れるなよ?』

 うん、もちろん。私は痩せるために産まれてきたのだ。そうと思う位私は痩せた。だからこれからももっと痩せていくつもりだ。

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