二夜

 一日が終わり、夜の帳が下りてくる。今日も私は作業所に行った。役に立たない、無能な人間でも出社すれば賃金が貰える。最も『使えない人間』として噂されているのは知っている。知っているが、知らないフリをしている。そうしないと生きていけない世界なのだ。

 本当は朝と夕方と夜に飲む薬がある。だが、私は全てそれを夜に飲んでいる。当然薬としての効果は発揮されない。夜に【幻聴】があるのもこのためだ。朝飲めば眠くなり、仕事処では無くなる。寝る事は赦されているが、毎日毎朝寝ていれば【使えない】というレッテルから【給料泥棒】に変わるだろう。私はそれが嫌で朝薬を飲むのを止めている。前の作業所で【給料泥棒】扱いされ、職員から大目玉を喰らった事がある。私だって寝たくて寝ている訳では無い。しかし私の言葉は全て否定され、言葉の矢となって返って来るのだ。それが嫌で辞めたのもあるが、あの作業所、もうすぐで潰れると踏んだからだ。実際、赤字が続いているらしい。トラブルがあればすぐに警察を呼び、賠償金を虎視眈々と狙っている。上手くいった試しは一度も無いが……。

「今日は頑張ったよね……?」

『見た目だけはな』

 【幻聴】は今日も冷たい。体重が増えてから、特に冷たくなった。原因は毎朝のコーヒーと分かっているのだが止められない。飲まなければ浅い眠りに就く事が出来ない。深く眠ってしまったら、送迎の時間に遅れてしまう。

「今日は一番早く仕事が出来たんだよ……?」

『内容は? 凡ミス多かったでしょ、無能デブ』

「ごめんなさい……」

 今日は金額の確認ミスが多かった。それを言っているのだろう。価格設定のミスは致命的だ。例え他のジャンルに設定してしまっても後で訂正が利く。だが、価格の設定は商品そのものを一度削除しなければならない。そんな大事な事の確認を忘れ、勝手な想像で価格を決めてしまった。それが【幻聴】は赦せないらしい。私もそれは赦せない。殺してやろうかと思った位だ。でも誰よりも早く捌かなければ、私はいつまで経っても【無能なデブ】なのだ。痩せられない以上、仕事で無理をしてでも薬を抜いてでも働くしか無い。それが良くない事だと知っていても【無能】のレッテルは恐ろしいのだ。長く胡坐がかけなくなったのは、体重が増えたからだ。あと2.1キロ痩せなければならないのに、2.1キロ太ってしまったのだ。これは自殺するしか他ならなない位、最悪の事態だ。米を食べたから? ならもう二度と食べない。麺類はずっと口にしていないが、おかずとして弁当に出たら残す。春雨も残す。漬物も本来残すべきものだ。元は根野菜から出来ている。根野菜は糖質が多いため太りやすいのだ。そうなると食べられるおかずも限られてくる。揚げ物は油がネックになって来るから、極力避けたい食べ物だ。しかしそうなると、食べられるのは味噌汁位になる。毎日味噌汁だけ食べていたら、職員が不審に思うだろう。ある程度食べなければならないのだ。だから米、麺、パンは一切口にしない。おかずに出たら残す。口に合わないと言い訳をして。そうすれば太った分は少しは痩せられるかも知れない。わずかな希望だがそれでも賭けられずにはいられないのだ。もう運動の出来ないこの、肉の塊は、食事を断つという方法でしか痩せられないのだから……。

『今日のおかずのジャガイモ残すべきだったね。体重が減らないのはそういった地道な努力をしないからだ。お前は本当に痩せたいのか? ブクブク太って、血税を貪り食う豚になりたいのか? 答えろ。お前の本当の望みを』

「……アイス食べたい……」

『またそれか……』

 糖質を限りなく抜いているせいで、砂糖が恋しい。だから無償にアイスが食べたくなるのだ。豆乳で糖質は摂っているのに、だ。なぜ体が求めるのか分からない。分かっているのは、この後コンビニに走り、一番高いアイスを掴んで無駄遣いするという事だ。嗚呼、また太る……寝る前に下剤を飲まないといけない……。

 下剤は便秘の副作用を持つ薬のために処方されているものである。しかし私は、乱用して少しでも痩せようと努力している。水分が左右しているのも知っているから水分もあまり摂らないようにしている。私は狂っているのだろうか……? しかし下剤を使わなければ、デブと【幻聴】は言い放つ。

『お前、今何キロあると思っているの? 血税でそれだけデブになれば、親も泣いて喜ぶわ」

 皮肉お言う【幻聴】に、私は抗えない。だから誰よりも早く正確に仕事をこなし、誰よりも昼を食べずに生きている。今日なんて麺類が出たので残した。糖質にとって麺類は悪だ。だから食べなかった。そうしたらほとんど食べるおかずが無かった。漬物も本当はダメだし切干大根なんて根野菜の代表だ。食べたらどうなるか分かっている。それでもエビフライを食べてしまったのは致命的だ。こんにゃくをおかわりしたのは別に悪い事じゃないけど……。

『食後のコーヒー止めたら? トイレに行きたいのは分かるけど……』

「暖かい飲み物を変わりに買えって? コーヒーは食後の楽しみ。糖質も低いから大丈夫だよ」

『普通のコーヒーならばね。お前の選ぶコーヒーはカフェラテだろう? 牛乳は糖質多いぞ?』

 冷たく言い放つ【幻聴】が、私の胸に突き刺さる。コーヒーもダメなのか……。私のやる事全てがデブの道に突き進んでいる。だから痩せないのだ。太ったままの自分を見る度に、溜息が零れる。これは私の溜息。肉の塊が動いている。痩せようと努力しても空回りしている肉塊。デブだデブだと【幻聴】は言うが、全くその通りだと思う。私はデブだ。もっと痩せなければ社会に貢献しているとはいい難い。

 最も、私がダイエットを止めたとしても、社会は私を殺しにかかるが……。早く殺してくれと思う。そうすれば、私はダイエットしなくても自然に痩せていく。社会に殺されたい。そう願いながら、毎日を生きている。

『今だって甘いモノが食べたくて仕方ないのでしょう? 良いよ、食べて。デブの道を突き進むだけだから』

「そんな事出来ない……」

『我慢して暴食するよりはマシ。ほら、行ってきなよ。デブ』

「ごめんなさい……」

 私は財布をひっ掴んで、夜中の街へと繰り出して行く。アイスを食べるために……。ただのアイスでは無い。餅の入ったアイスだ。黒蜜がとても美味しい。私はデブの道に走るためにアイスを買う。朝御飯がアイスなどという甘い考えは無い。この後豆乳を飲んで、さらにケーキを食べる。太って行く体。私はデブだ。米を食べない分、お菓子に走る。46キロまで程遠い。痩せたい。痩せたい。そう思いながら行動は逆の方向へと走っている。デブがよくやる行動だ。ダイエットは明日から。そう言い聞かせて、デブの道をひた走る。正月太りした事も忘れて、甘い誘惑に勝てないのだ。

『デブはいつまで経ってもデブのままだね』

 【幻聴】が溜息を吐く。薬がまだ効いているはずなのに、その声はハッキリと聞こえる。精神科の先生はこれ以上痩せるなと言うが、社会貢献するためには食費を抑えるしか無い。食べない事が社会貢献に繋がるのだ。あとは何を削れば良いだろう? ぼんやりとした意識で考えながら、今日も生きて呼吸している。それだけで罪なのに、精神科の先生は違う事を言って来る。私は生きていてはいけない人間。死ぬしか能が無い人間なのだ。仕事は出来ない、眠気は来る、風邪はよく引いて内科にお世話になる……典型的な無能だ。

『でもお前は絶望的な無能じゃないよ。あの謝らない女。今日もヒステリー起こしていたけど、いつ辞めるんだろうね?』

「嗚呼……あの人」

『他人のせいにして怒鳴り散らすから喧嘩になったじゃん? あれはあれで無能だよねぇ』

 性格がキツイ人と衝突していた先輩。元々他人のせいにしたがる傾向があったけど、今の職場になって悪化したらしい。怒られたと同僚をなじっていたら噛みつかれた。なじられた人はひたすらごめんなさいを言っていた。それを赦さなかったのが、喧嘩の原因。出荷の人に叩かれたのだろう。八つ当たりも良い処だ。自分も責任があるのに、それを棚にあげてキーキー猿みたいに騒いでいた。私は途中から耐えられなくなってイヤホンしたけど、イヤホン無い人は辛かったろうな……。私はまた逃げたのだ。でも私が加わったら余計に事態は悪化する。何せキツイ性格の人が口を挟んだのだ。喧嘩は一対一が良い。それ以上だとイジメになる。だから私は中立の立場でいる事にした。それが正解だったと知ったのは職員が仲裁に入ったからだった。キツイ人は理論的な人の意見はよく聞く。相手が正しいと判断したら、それ以上追求はしない。頭の良い人だ。だから職員に噛みつきつつも、納得した処はうんと言う。偉い。自分の意見を通す人は多いけれど、自分の意見を訂正出来る人は中々いない。だから少し尊敬しているのは内緒だ。口が悪いのは少し頂けないけど……。でも正論を言っているから、カッコいい。あんな人に憧れるのは、私が能無しのデブだからだろう。スリムで美しくて、障害を受け入れ、異論には真っ向から立ち向かい、矛盾は突く。蜂のような人だ。私が密かに憧れるのは仕方の無い事だと思う。チビでデブで矛盾を見つけても異論を唱えられなくて、ただ嵐を過ぎ去るのを震えて待っているだけの自分とは真逆だ。だからこそ眩しい。目が眩む。

『おい、デブ。満足したか?』

 ふいに【幻聴】が言う。左手にはアイス。あと一口で全てを胃袋に収めてしまう。

「うん……ごめんなさい」

『セフレいるんだから、連絡とってSEXしたら? ご飯は断って、SEXだけするの。どうせ相手なんていないんだし。問題無いでしょ?』

「酷い言い様だね……」

『当たり前じゃない。それにSEXはダイエットに効果的なんだから、体の一つや二つ売る位簡単な事でしょ』

 デブから脱出するためならなんだってする。それが私。そう決めたのは去年の事だった。だから【幻聴】の言い分は分かる。セフレがいるのも事実。ただゲーマーなのが欠点だけど……。薬が手に入るから凄く助かっている。しかもタダでくれるから優しい。入手ルートは極秘みたいだけど。私には関係無い。眠くならない薬が手に入るなら、そのためなら悪魔にだって魂を売る。もう【給料泥棒】とは言わせない。今の会社で長く働くんだ。今の会社は福利厚生がしっかりしているから、休日出勤すれば手当が付く。今の処休日出勤出来るだけの体力は無いけど、いつか休みの日に出勤してみたい。頑張れば8万は貰えるのだ。月16万あれば贅沢出来る。その金額に目が眩む。欲しい。体が追い付けば働くのに……。どうしてこんなに体力が無いのだろう? ダイエットにもなるし、一石二鳥だというのに。私は怠けているからこのようにデブな体をしているのだ。46キロになるまで液体しか口にしないと公言しておきながら、アイスを貪り食っているその姿はまさに豚。家畜にすら劣る。家畜は太る事によって誰かの血肉になるけど、私は誰の血肉にもならない。ただの生命体。生きた豚。下等生物。死んだ方が世のためになる生き物。

「私は死んだ方が良いね……」

『そうね。お前は豚より劣るもの。ホントに有言実行が出来ない生命体』

 最後のアイスの一口を頬張って、咀嚼し、飲み込む。また贅肉が増えた。今晩こそは液体で我慢しないと……。今ようやく48キロを切ろうとしている処だ。目標まであと2キロ。遠い道のりだけど、頑張って痩せてやる。体力が無くなると言われているけど、そんなの気にしない。多少筋肉を付ければ良いのだ。筋肉は重たい。だからその分皮下脂肪を燃やさないといけないけど、頑張れる。私がガリガリに痩せたら、周りは何というだろう? おめでとう? 頑張ったね? きっと賛辞の言葉が待っているに違いない。そう思いながら、今日もダイエットメニューを考えている。今日は青汁だけにしよう。ストーブの前で温まりながら冷たい青汁を飲む様はとても無様だが、体が冷える豆乳を飲むための苦肉の策だ。あとは布団に潜りこんで眠れば良い。それが一番。私にとって、それが一番痩せるための近道なのだ。

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