私ともう一人の私

春陽

一夜

「ねぇ、私」

 私は鏡に向かって言う。

 別に鏡が無くても、目を閉じれば浮かんでくる姿。

 もう何年の付き合いになるだろう?

 18歳の時に発病してから、私はもう一人の私と話せるようになっていた。


 それは私によく似ていた。

 それは私と全く違っていた。


 ハッキリ起きている時よりも、眠る寸前に語りかける方が、よく反応してくれる。

 だから私は寝る前に問う。

『何?』

「今日の私はどうだった……?」

 溜息が聞こえる。

 この溜息は私にしか聞こえない。精神科の先生に言ったら、それは【幻聴】だと言う。薬で抑えつけ、年齢を重ねていけばじきに聞こえなくなると言う。私は毎日白い色んな形の錠剤を飲んで、血液を汚しながら、肝臓に悲鳴を上げさせながらこの【幻聴】とやらと闘っている。

 でも【幻聴】は私に害ばかりを成す訳では無い。こうして毎日の反省に役立っているのだ。出来れば薬は飲みたくない。眠くなるし、動きが鈍くなる。それで社会から爪はじきにされたのだ。だから仲良くしているのだから、無理に抑えつけなくても良いと思う。


 実際、薬は全く効いていない。


 毎日【幻聴】と対話しているのだから、薬はお飾り程度のモノなのだろう。

『またそれ?』

「うん」

『何度も言うけど、無能でチビでデブなお前には、生きる場所なんて無いよ』

 【幻聴】は辛辣だ。

 だけどそうだ。

 私は仕事が出来ない。みんな軽々しくやっている事が出来ない。判断能力も鈍い。だから何度も仕事の内容を聞いてしまう。メモを取れば良いのに、小さなプライドがそれを許さない。みんなメモをしないで出来ているのだから、私も出来るのだ、と。無駄な抵抗をしている。

『私は無能は大嫌い。さっさと死んで』

「それが出来たら苦労しないよ。私は社会に殺されるのを待っているの……」

 そう。

 私は【一般人】【健常者】と呼ばれる人たちから血税を頂き、生活をしている。無論それだけでは生きていけないから、作業所に通い、微々たる給料を得て、ギリギリの生活をしている。最も、生活保護の人よりは贅沢出来ていると思っているが…。

「どうしたら無能が直るかな……?」

『直らないよ、一生。分かり切った事じゃん』

 【幻聴】は冷たく言い放つ。冷たい眼差しを向けてくる。


 これは「私」の目? それとも【幻聴】の目?

 分からない。

 でも分かる事が一つある。それはこの対話は私一人で行われているという事。他には誰もいない。親の反対を押し切って家を飛び出し、安住の地を得た。しかし【幻覚】が私を私だけの城に入れてくれず、やむなく引っ越した経緯がある。最近【幻覚】を見なくなったのは、白い錠剤の中に含まれている精神安定剤が効いているからかも知れない。医者では無いので、推測でしか無いが……。

 でも【幻聴】が消えない理由にはならない。きっと【幻聴】とは相性が良いのだろう。仕方なく、私はもう一人の私に言った。

「前に言ったでしょう? 社会に殺されるのが私の夢だって」

『弱者を虐げる政府に、餓死という形で復讐するんだっけ? 下らない。日本人はいずれ滅びる種族なんだから、餓死して死んでもテレビには映らないよ?』

「やってみなくちゃ分からない。私は私を壊した世界を憎んでいる」

 一般社会に溶け込めず、ずっと一人で生きていく。誰の援助も無く孤独死。それが、いずれ来る私の未来。そう思って毎日生きている。死に際が分かると、人間贅沢はしなくなるものだ。ただ呼吸して生きて、血税を貪り食う。毒でしかない、と一般人は思うだろう。この人間のために血税を払っているのでは無いのだ、と。それは全くその通りだと思う。見ず知らずの他人を養う程、日本は豊かでは無い。ミサイルを飛ばされ、領空を他国に闊歩され、アメリカの言いなりになっている日本に明るい未来は無い。だからこそ、お祭り騒ぎに明け暮れ、短い人生を散らそうとしているのかも知れない。

 一瞬日本規模にまで浮かんだ私の頭を軽く振り、現実に戻る。【幻聴】は言葉を続けた。

『ミステリーとホラーを間違える人間が、どうやって社会に生きていけるの? さっさと死んで土の肥やしになった方が、世界平和のためになる』

 それは今日の失態を言っているのだろう。私はDVDをジャンルごとに分けていた。しかしミステリーの分野に入れなければいけないDVDをホラーに放り込んで、先輩の手を煩わしてしまった。私には見分けるスピードがほぼ無い。周りは凄いと言ってくれるが、それはただのお世辞だとよく知っている。だからそれが虚しくなり、悲しくなり、自分の無能さを痛感させられるのだ。だが、それを知ってか知らずか、周りは私を高評価する。それがますます私の胸に突き刺さり、血の雨を降らせている事なんて知らないのだ。私は無言のまま、仕分けを続ける。それしかやる事が無いから……。

『無能のデブもここまで来ると笑えるね。死なないデブ。さっさと死ねよ』

「死んだら迷惑がかかる……」

『部屋で死ななきゃ良いんだよ。どっかの森で首を吊れば良い』

 【幻聴】はケラケラと嗤う。私の体重は平均なのだが、【幻聴】から言わせれば血税で出来た肉の塊だと言う。だから少しでも痩せて、血税を無駄に使わない努力をしなければいけないらしい。私はこの意見に賛成なので、毎日食費を削り、身なりだけは清潔に保たなければならないので、血税を使って洗濯機で洗えない衣類はクリーニングに出している。家もなるべく安い物件を……一階は女性は危険だと言うが、安いので一階に住んでいる。そして水道代が込みの所を選んでいる。水道代がタダなら、少しは血税を使わなくて済む。私なりの配慮だが【世間一般】は私の行動をどう思うのだろう。家に居場所が無く、仕方なく家を飛び出し、血税を喰らいながら生きている私を。家に居場所が無いと思っているのは、私の【妄想】なのかも知れない。【妄想】も私の頭の中に巣くう悪魔だ。デブという単語に最初に敏感になったのも【妄想】が原因だった。だが【幻聴】が丁寧に私の肉は血税で出来ているからデブなのだと教えてくれたから、納得がいった。私は痩せなければならない。ガリガリになって、不健康だとか将来骨粗しょう症になるとか言われても、血税を少しでも使わない方向に持って行くにはそれしか無い。骨粗しょう症になって骨折してしまったら、血税を無駄に使う羽目になるが、予防をしておけば、問題無いだろう。骨を形成する物質は低カロリーだ。少々値が高いが、将来の骨折費用に比べたら優しい。血税を使わなくて済む。私が最も恐れている事は血税を無駄に使ってしまう事だ。私は芸術の面で生きていきたいと思っている。しかし私の天敵がいるので、芸術の道は閉ざされた。何が合わないだ。それを本人に言って、勝手にLINEを削除して、それで何が合わないだ。女好きなだけだろう。それが芸術の面で活躍しているのが赦せない。だから会いたくないし、声も聴きたく無い。だから芸術に触れられる機会が思いっきり狭いのだ。それは私があいつに会った運命が皮肉な事に最悪の結末を迎えたという事だろう。味方に付ければ絶大な効果をもたらしたが、利用しきれなかった。いや、利用する価値も無いだろう。あいつも血税を貪り食いながら芸術作品を作っているのだ。少しでも血税を使わないという選択肢も無いし、何より足がある。どこにでも行けるだろう。非常識な部分もある。言い出したらキリが無いが、とにかく非常識な人間だった事だけは事実だ。要らない、合わない人間は切り捨てる、残酷な人間。最も人間らしい人間だろう。

 そうして憎しみだけを募らせて芸術から遠ざかっているのは分かっている。しかし赦せないのだ。私を傷つけた言葉のナイフは、反動として返って行く。いつかあいつも言葉のナイフで心をえぐられれば良いのだ。その時、私の心はファンファーレを鳴らすだろう。

『ねぇ、聞いてるデブ』

「ごめんなさい……」

『また体重が増えたんだって? いい加減痩せる努力をしろよ』

「足を粉砕骨折したからもう走れない……」

『なら喰うな。何も、一切。それしか方法が無いじゃん』

 私の足が疲労骨折してから、運動を止めた。その時はたまたま作業所の備品の欠陥で骨折したが、元を辿れば過度な運動にある。偶然労災が利いたから血税を払わなくて済んだが、二度目は無い。だから私は食べる事を止め、液体で生きる事にした。そうすれば痩せる。便秘と称して下剤を貰えば、定期的に痩せられる。体の水分すら私にとっては敵なのだ。血液がドロドロになる寸前まで水分補給を我慢し、結果としてトイレに行く回数が減った。ただ犬の糞を片付けるためにトイレットペーパーは物凄いスピードで減っていくが……生き物のする事なので仕方ない。しかも犬は私から【幻覚】という恐怖から守ってくれる。家に生き物がいるだけで、【幻覚】は私に対して無害になった。時々変わったモノが飛んでいる程度だが、それでも怖い時があった。それも無くなったのは大変喜ばしい事である。

 ただ【幻聴】は消えてくれない。毎日私を罵り、デブ扱いし、痩せろと命令してくる。しかしこの【幻聴】の言う事は最もなので、私は抵抗しない。せめて46キロにならなければ、これから先身長が縮んでいく私にとって、痩せるのは当然の義務に思えた。痩せなければ。肉の塊で血税を啜っていたら、それこそ豚である。家畜として利用出来ない豚。何とも醜い、浅ましい生き物だろう。私は死ぬしか道が無いのだ。密かに50キロを超えたら自殺しようと考えている。そうしなければ本気にならない。命を賭けてダイエットに励まなければ、私は生きていく価値すら無いのだ。【幻聴】は誰よりも理解してくれているから、私をデブと毎日罵る。本当は40キロになりたい位だが、そうなると作業所に行かせて貰えなくなる可能性が出てくるので、諦めている。【幻聴】もそこまで痩せると判断能力がさらに低下する恐れがあると判断しているのだろう。私が40キロまで痩せないと言っても、反論して来なかった。やっぱり私は【幻聴】と共に生きていくしか無いのだろう。私の世界は狭い。だからこそ助言者が必要なのだ。

『デブ、お昼おかわりするのやめな。太る』

「こんにゃくでも?」

『それは赦す。あまり首を締めたら、爆発するからね。前みたいに12個もアイスを買ってきてバクバク食べていたら見苦しいからね』

「ごめんなさい……」

『分かっているなら、おかわりするな。がんもどきとこんにゃくと漬物以外は禁止だからね』

「はい……」

 はぁ、と溜息が聞こえる。これは私にしか聞こえない溜息。揚げ物は食べるなと言いたいのだろう。私の好きな白身魚のフライが出て来た時は暴走して食べてしまう。それが【幻聴】には赦せないのだ。油は太る。白米は毎回食べないようにしていてもフライを食べたら意味が無い。分かっている。でも食べたいのだ。血税で作られたフライだからこそ残さず食べたい。いや、せめておかずだけは食べさせて欲しい。何度もご飯の誘惑に駆られたけど、我慢して来たのだ。麦飯は体に優しいしカロリーも白米よりは低いので【幻聴】は怒らない。ただおかわりすると後でデブの嵐が来るし、吐けと命令してくるので、おかわりはしない。私は【幻聴】の命令には逆らえない。私は【幻聴】の奴隷なのだ。

 でも【幻聴】が唯一赦してくれている事がある。

 執筆だ。

 私が文字を綴るのは、制限されると思っていた。電気代も血税で払っているから怒られる、と。しかし【幻聴】曰く、唯一の趣味さえ取り上げてしまうと暴食に走るから危険だとの事。【幻聴】は何でも知っている。私は【幻聴】と共に生きていたい。

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