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上役の局長室はちょうど、アイギーにあてがわれていた研究室から、間取りでいえば対角線上に位置しており、城塞内をぐるっと回って行かねばならず、その上、諸々の安全を考慮して三階にあるものだから、彼からすれば距離だけで億劫で、ただ向うだけでも、骨が折れる。
誰かに見られる前に、と、暗黙の内に二人は足を速め、
現場から離れようとするが、
中庭沿いの通路に出た辺りで、「これ無理っぽいわ」と、アイギーが笑って諦めたので、
「わかりました」とフランも倣って、のんびり、歩んでいく、最中、
少し遠くなった背後から、遅まきながら事態に気が付いたらしい、
誰か、男の、「んーじゃこりゃぁ!」という叫びの木霊が聞こえたので、
また揃って、ちょっと笑ってしまう。
「そりゃなんじゃこりゃですよね」と、口許にゆるく握った手をあてがい、くすくす笑うフラン。「わたしだってもう、なにがなんだか」ちょっと、呆れと苦みをにじませて。
「まあ、そうだよな」当然、居た堪れない、アイギー。フランの肩に手を置いてはいるものの、なるべく体重をかけ過ぎないよう、気にしながら。ひょこりひょこりと、跳ねるように歩く。「いやほんと、申し訳ない」
だれかぁー!と、男の、仲間を呼ぶ悲痛な声が遠く聞こえる。 だれかいないかぁ!と。
繰り返し。
「絶対おもってないですよね?アイギーさん」少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、「謝ればいいと思って」
「あぁ、まぁ、」と、眼が泳ぎ。少しばかり思案にふけった後、「いや思ってるし!あと、思ってないよ!」と返すと、笑われてしまうので、また、釣られて笑う。
会話の接ぎ穂が、霧消しかける。
シーソーみたいな調子で歩く。
「なんだか、いい人なのかこわい人なのか、わからない時があります」
そう、呟かれる。
「ん?」ちらと、フランを見る。
「アイギーさんが思ってるより他人って敏感なんですよ?そういうの」僅かに鋭く、眼を見返され。
いそがしいな、と、内心で呟きながら、「そうか、」と、相槌をうつ。
「今だってたぶん、笑いましたよね?」
「そりゃあさすがに被害妄想だろ?そんなの、」呆れ混じりにくつくつ笑って、「 いや、迷惑かけといてなんだけど、そういうとこ可愛いよね」と、思ったことを口にすると、
不意にフランが足を止めるので、歩んだ分、
「うお、」と、つんのめりながら、なんとかバランスを保ち、ちょっと振り返る。「フラン?」
「ばかにして」と、真っ赤になっている。
「だいたいアイギーさんは―――、」と、急に判然と怒り出して僅かに足を速め歩きだしたフランの肩に手を置いて、なんとか雁行しながら、「前々からそうですけど、」と説教を受けつつ、中庭沿いを進み、再び、城塞内のかげりの中に入る。
階段は、突き当りの奥にある。
遠くで躁狂する、男たちの声が幽かに聴こえる。
「最初に合った時もそうですよ、」と、だんだんエスカレートした挙句の果てに、もう完全に出来上がってしまっている、フラン。
かつこつ、石畳に神経質そうな靴音を反響させる。
「わかってるんですか?!」と目を三角にして教師めいた口調で言い、立てた右手の人差し指を、アイギーの鼻先で振る。「まったくヒトの気も知らないで、」
「だから本当に悪いと思ってるよ、悪かったって、つーか、 あぁ、そういえばさ、」ふと思い出して、話頭を転じて説教をさえぎる。「さっき部屋で、 ほら、手紙が爆発するちょい前に、なんかさぁ、言ってなかったっけ?」
「え?」と、驚いて脚が止まるので、
アイギーも、半歩遅れて。隣に並ぶ。
肩に手を置いたまま、「ほら、いいですよ、とかなんとか。」などと、そらんじれば、
束の間の、沈黙と静寂。
「あ、あああれは―――!」尖った耳の先までまっ赤にしてフランは言うけれど、「その、」とすぐさま言い澱み。泣きそうになりながら、双眸を伏せるものだから。
「その?」何気なく、長いまつげを観察するアイギー。
「いいですもう!」憤然と声を張って、「全部忘れてください!あーもぉ!なかったことにしたい!」と、お構いなしに嘆く。
「難しいな」と、思わず笑って言えば、
「いいですもう!なんなんですか?!」と、癇癪を起されるので、
「ごめんごめん、いや、ほんとに悪かったって、本当に、今度埋め合わせるから、」と応じて、先を促すため、右足を前へ、ひょこりと動かすと、
自身の有り様に気づいたらしいフランが、「もう!」と怒りながらも意を酌んでくれ、また歩き出すので、再び雁行する。
「そもそもわたしの方がずっとお姉さんなんですよ?わかってますか?」それをアイギーさんは、と、説教が再開されるので。
フランより長命な奴なんてこの辺じゃそうそういないだろ?と、湧いた突っ込みを呑みこみ、こんな時にそんなことを考えるおろかしさ半分、咽喉の奥でくつくつ、解りやすく笑ってしまう。
ばれると申し訳ないのでフードで表情が隠れるよう、面を伏せたものの、
「聴こえてますからね!」と、すぐ反応されてしまうので、結局、
「ごめんごめん」と、謝る羽目になる。「いや、申し訳ない。フランと話してるのうれしくて、」
ふん、と鼻を鳴らされるうちに、階段前に到着したので、手摺り側に替わってもらい、一段一段を跳ねて上り、踊り場で少し休んで、二階へ到着すると、さすがに息が、弾んでいる。
運動不足だな、と、少し自己嫌悪に陥っていると、
「大丈夫ですか?」と、後からついてきていたフランに声をかけられる。
「ん? あぁ、まあね」と、強がるものの、やはり、情けなく荒い。「前は、もうちょっと余裕、あったん、だけどね。最近、机が多かったから。だめだ、走り込みでもしないと」
「無茶しないでくださいよ?」と、どことなく呆れた様子で笑う。「いまでもただでさえ足わるいんですし、それに人だとそろそろ、 アイギーさん、トシじゃなかったですか?」
「それも、 あるかもなー」と、呼吸を整えながら吐き出し、自嘲気味に笑っていると、
「おや?これはこれは!」と不意に。
廊下の右手側から声を掛けられ、二人そろってそちらに顔を向ければ。
ウェーブのかかった赤毛の精悍な紳士が、脱帽したらしく、前を合わせた細身のフロックコートの胸元にハットを持ち、こちらに笑みを向けている。
「あぁ、どうも、」えぇーっと、と、アイギーは、知己かどうか、該当する人物を頭の中で検索し、特徴的な、燃え盛るような赤毛から、あぁ、そういえば、と思い至って、「ケリーさん?ですよね?確かモーガンさんの、」
「嫡男でございます」と、眼を細めたまま、うやうやしく、会釈される。
「いやー、どうも、」ちょっとフランを置いてきぼりに、足を引きずりながら、近づいて、「早いうちにご挨拶はしなきゃと思っていたんです、」
「いえいえ、私の方こそ、」声に柔和さをにじませてはいるものの、どうも気になったらしく、「足をどうかされたのですか?」
「あぁ、ちょっと、今日は義足の調子が悪くて、」苦笑しながら前まで行き、少々、傾きながら、相対して。「アイギー・ロウです。お父様には生前、えらく懇意にしていただいて。グリモアの件などでも、大変お世話になりました」
「何をおっしゃいます、私どもの方こそ。あなたやあなたのような方々の研究、 我々に必要な書籍の解読などが、商いに与えた影響は非常に大きい、感謝しかありません」
言いながら、右手を差し出されるので、
一瞬。
ちょっと困惑したうえで、申し訳なくなってしまう。「あのー、すみません、右手も、 調子が悪いというか、 そのー、今日は無くって」
「は?」と、眼を丸くされ。肘から先を、順々に、視線で、追われ。「おやまあ、」と、驚かせたせいで、二の句を潰してしまう。
沈黙が場を支配しかけ。
バツが悪くなり、「なに、今朝まではあったんですけどね」と、調子にのって肩をすくめて冗談めかして言えば、
双眸が見開かれ。
半瞬後、
「あっはっはっはっはっは!」とウケにウケ。
笑ってもらえたので、事なきを得られた気になり、釣られて、ちょっと笑ってしまう。
「いや、想像以上に、 ウワサよりも面白いお方だ、 失礼しました」と、目元をぬぐってから、あらためて、左手が差し出されるので、
おもむろに。その手を取って、握り返す。「そいつはどうも。ケリーさんもお父様に似て、いや、お父様以上にあなたも磊落な方だ」
「いえいえ、わたくし等はまだまだ、若輩で。」僅かに首を振り、「何事も、父の足許にも及びませんよ
」と、少し遠い目をする。
「何かと大変な時でしょうが、わたしで良ければ是非、お力添えさせてください。
「ありがとうございます」
言いながら、束の間、二人でにこやかにシェイクハンドを続け。
「近々、仕事の件でまた直接お伺いするかと思います」
手を離して、ケリーが言う。
「内密ですが、長期的な計画として我々は、公共の施設向けに、ではなく、各家庭用に使える魔術・魔導の触媒をより品質高く、安価に大量に、精練生産供給したいと考えております。
現状――――――、まあ舌の根乾かぬうちで申し訳ないのですが、計画などと謳ってもいまだ腹案の域を出ないようなものでしかないのですがね」
と断りを入れながら、苦笑する。
「いや、しかし。 そりゃすごい」素直に感嘆する、アイギー。「実現できれば市民生活そのもの、 それ自体がガラッと変わるでしょうね」
「無論です。誰もが指先ひとつで、乳飲み子ですら釜戸に火を入れられようになる、いや、大きな釜戸なんてモノは、そもそも世に必要なくなるかもしれません。 いずれにせよ、 社会基盤の大きな転換向上につながることでしょう」 くつくつ、愉しげに眼を細める。 「つきましては代理品の選定基準を定めるためにも、二~三、紐解きたいものがありますので、」
「えぇ、また是非」と柔らかに応じて、左手を差し出せば、
「期待させていただきますよ」友好的な笑みとともに握り返される。
「あ、ただ、」と、アイギー。
「はい?」小首を傾がれる。
「二、三か月、こちらを少し空けることになると思います。」
「ほう、」と、思案を巡らせ、「ご旅行ですか?」
「いえ、フィールドワーク、のようなものなのですが、」少々、へつらい気味に笑いながら、手を離す。「急な野暮用でして。ちょっと、外せないもので、」
「なるほど、 わかりました」と、呟かれながら、一思案され、「あなたのことです、きっと獅子の頭をした巨大な蛇でも狩りに行くのでしょう?」笑みを浮かべてちらと、腹の底を窺われる。「聞きましたよ?このあいだの、ほら、下水の件も」
「まあ、そんなところです」と、人差し指で頬を掻きながら、訂正しだすとキリがないため、「お恥ずかしい」と、お茶を濁して笑う。
「お帰りになられたら是非、ご一報ください。土産の話も聞かせて頂きたいですし、」と好奇に満ちた微笑が向けられる。
「わかりました」と、軽くうなずき。「では、その件で局長室に向かう途中ですので、」
「おぉ、これは失礼、お引止めしてしまいましたね」大仰に廊下の脇に退かれる。
「いえいえ」と苦笑して、「では、ケリーさん、また」会釈を送れば、
「はい、それではまた」と、会釈を返される。
足を引きずりながら、歩き出し、そういえば、と思い至って、振り返り、「フラン、すまない」と、声をかけると、案の定、
身の置き場がなかったらしく、不安げに肘を抱いて手摺りにもたれており、
視線と仕草でいいのかと訊ねてくるので、
軽くうなずき返すと、足早に、横目にケリーを見ながら傍を通り過ぎて、近づいてくる。
「もうよろしいんですか?」よそ行きの声を潜め、アイギーとケリーを、交互に見て訊ねる、フラン。
「あぁ、」と、アイギーは答えて、「では失礼」笑顔を浮かべて佇むケリーに言い置き、改めて、踵を返し、「すまない、フラン」断りを入れてから肩に手を置かせてもらい、
先をうながして、廊下を進む。
———―――束の間、二人の背を見送っていたケリー・モーガン・デュポンは、それらの姿が、上階に続く階段口の方へと消えるのを待ってから、相貌に張り付けた笑みを諌める事もなく、ふん、と小さく鼻を鳴らし、左手をぬぐってからハットを被り直すと、自身もまた、下りの階段へと足を向け、進み始める。
幾段か、降りながら。
「片輪め」
と、小さくつぶやき、噛み締めれば。虚空に溶ける自身の発したその芸の無い蔑みが、腹の底から面白おかしくてクスクス、笑ってしまっている。
己の嘲笑が微かに響く中。となりにいたあの女はそれなりに買い手がつきそうだな、と、柔軟に思考を、巡らせる。
「わたし、あのヒトきらいです」
三階に到着して、また呼吸を乱しているアイギーに、ぼそりとフランが言う。
「あー?」と、先ほどよりも荒い吐息のついでに訊ねる、アイギー。
「見てましたけど、あまり信用しない方がいいですよ?」肘を抱いて、淡々と口を開く。
彼女の耳は、酷く良い。
無意識でも相当で、意識的に研ぎ澄ませれば、尚の事である。
「あのたぐいは、昔さんざん見てきましたから」
「まあ、そういうなよ」言い置いて、大きく一つ、息を吐き、身体を起こして、「若いってのもあるんだろうしさ。アレ、そうとう仕事できるタイプだぞ? あの人のお父さんも、めちゃくちゃやり手で、大概だったしな」
「なんにしたって、私は関わりたくないですけど、」どこか悄然としながら、アイギーの隣に立ち、また肩を貸して、歩き出す。「アイギーさんがいいなら、もうなにも言いませんよ」
「ありがとう。」ちょっと、笑って。「肝に銘じとくよ」
「どういたしまして」何かに怒っているのか、投げやりな、フラン。
会話が打ち切られ。二人は並んで、ほの暗い通路を進む。旧い石材の香りが漂う中、密やかに、足音だけが響く。等間隔で並ぶ覗き窓から、光が差し落ちている。
右手に、局長室の両開きの大きな扉が見えたあたりで、
「この辺でいいよ、ありがとう、ごめんね」
アイギーが口を開く。
フランが足を止め、こちらを見やる。
「会いたくないだろ?局長と」
そう、苦笑して訊ねれば。
「あー、」と困惑、煩悶され、「黙秘権は、その、 使えますか?」窺い見られるので。
「認めましょう」と返せば、くすっと笑ってくれるので、アイギーも少し、笑って。
肩から手を離し、改めてフランに向き直り、「助かったよ」左手を差し出す。
「いえいえ」と、僅かに首が振られ、微笑を返され、手を握り返される。
束の間、いろいろあった割に、穏やかに眼を見交わし。
「あ。」と、思いつく、アイギー。手を繋いだまま右手を持ち上げ――――――ようとして、義手が無かったことに気づき、「わりい、」と断りを入れてから手を離して、ローブの胸元に手を突っ込み、
ごそごそ探って、細い革紐で首からぶら下げていた銀の鍵を、顎を仰け反らせて、ちゃらりと微かに音を鳴らして、取り出し。
小首をかしげてこちらを見るフランの前で、指先で金具を外し、
「はい」と、差し出す。「ほら、手。」
「はぁ、」と両手で作ったお椀が恐ず恐ず差し出されるのを待って、そこに、落とす。
「あの、 」掌の鍵を見つめ、フランが言う。「これ、なんですか?」
「俺の墓の鍵なんだけどね、」
「墓?」怪訝さを隠さず遮るフラン。「アイギーさんの?」
「そうそう。」笑って、アイギーは言う。「貧民街の外れの方にさ、救世教会が管理してる寺院があるだろ?廃れて、けっこうさびれてるやつ、」
「はぁ、」と相槌を打ちながら頭を動かすものの、今一、地図が思い浮かばない。
「そこにさ。墓買って、工房代わりにしようと思って、地下に石室つくってあんだけど、」
「はい。」
「金目のモノをね、いれてあるんだ」
「はぁ、金目の―――、は?」彷徨わせていた視線を、アイギーに向け。突拍子の無さに、ちょっと笑ってしまう。「なんで、そんな?金目って、」
「いや、今日の詫びも兼ねてるから」悼むように微笑って続ける。「預かっといてくれない?」
「できませんよそんなの!」僅かに声のトーンを上げて、けれどすぐさま、はっとして。両手のお椀をそのままアイギーに突き返す。「あずかれません!」と、今度は音量を下げ。
「いやいいから」苦笑しながら手を伸ばし、そのお椀を握らせる。小さくなったそれを掴んだまま、続ける。「なんかあった時の保険も兼ねてるし、フランなら信用できるから」
「でも、困ります」不安げに、瞳を揺らす。
「大丈夫だって、」かまわず、のんきに。「もし、万に一つ、俺が―――、まあ、ダメだったら、中身ごとやるから」
「いや、だって、 そんな、」半ば焦って、自分より大きなアイギーの手のひらに、指を開こうとしながら、お椀を押し付け返す。「困りますってば、そんなの、急に言われても不相応っていうか、その、」
「捨て値で売ったり買い叩かれたりしてもたぶん、」すこし考えて、「当座はしのげるくらいにはなるだろうし、売り方によっちゃたぶん、 城下で一年くらいは遊んで暮らせる額くらいには、 まぁ、なると思うから」
「えぇ?」と、困惑しきって、顔を顰めてしまう。「なら余計ダメじゃないですか!そんなの、」
「いいからいいから」ぐっと強く手を握り、若干の抵抗を感じながらも、フランの胸元へと、持っていき。離す。「押し付けて悪いけどね」
祈るような姿勢のまま、フランは眼を伏せ沈思黙考し、視線を右往左往させ。「・・・・・・こんなの、わたしになんか預けて、後悔しないんですか?」
「するもなにも、」と、そこで言葉を切って、今日の事を思い起こし、
更に、これまでの諸々を鑑みれば、
「まだ、 ちょっと足りない、 くらい?じゃないのか? 出るとこ出て訴えられたら思いっきり負けるぞ?おれ、」我ながら呆れて、小さく鼻を鳴らすしかない。「社会的にもたぶん、っつーか、確実にアウトだろうしな」
フランが顔を上げ、呆れたような、泣き笑いのような顔で、こちらを見つめるので、思わず、苦笑してしまう。「そんな顔すんなよ、フランには受け取る権利があるよ」と、笑って、言葉で背中を押しながら頷いてみせると、
大事そうに鍵を持つ手を改めて胸に押し当て、何か、考え込まれてしまう。
数十秒から数分の、決して軽くない沈黙。
困って、居た堪れなくなり、指先で頬を掻いて自身を誤魔化し、ついでに、どうしたものか、と思案していると、ようやく。
「わかりました」
ぽつりと、声が返ってくる。
「この鍵は、 アイギーさんが帰ってくるまで預かっておきますので。」顔を上げて、「いいですか?帰ってくるまでですよ? 帰ってきたら、わかってますよね? ちゃんと、」
「ありがとう」と、礼で話を遮り、面喰っているフランの頭に不意に手を伸ばすと、急に怯えたように目を瞑り身を竦ませるので。
一瞬、躊躇し、
結局、やめにする。
「アイギー、さん?」と、生易しく震えた声で、薄ら目を開けながら、フランが言う。
「あぁ、いや、ごめん」と、言うに事欠いて謝って、「忘れてくれ」
「いろいろ、その、言いたいことありますけど、 とりあえず。 わたしはハーフです」と、眉根を寄せて、「純血じゃないですけど、それでももう七十近いんですよ? わかってますか?」
「んー、でもその辺の奴より若いしずっと綺麗だろ?」素直に笑って口走る。「トシだトシだ自分で言う割に中身も擦れてないしな。それに、 たぶんだけど、優しいってのがどういうことでなんなのか、わかってるし、まぁ、ほっとかねえだろ?そんな奴、」
「い、いま言うことじゃないでしょ?! バカなんですか?」
「どうだろう?よく言われるけどね」
「もぉ!」と、怒るものの、何かしら、あるらしく。何事か、反駁したげに口を開こうとして、やっぱりやめて、どこか消沈し、肩を落として公然と溜息を吐く。「ほんとうに、」と、諦めたように零して、
「さっきから自分でなに言ってるかわかってるんですか? もうちょっと、 その、考えてください?」
憐憫と慰撫に満ちた眼を、アイギーに向ける。
束の間、まなざしを受け止め。
「ありがとう」アイギーは、改めて礼を口にする。
「ちゃんと返しますからね?」と、泣き笑いのような顔をする、フラン。
「よろしく頼むよ」と、拘泥なく笑って。「じゃあ、行くから。ありがとう。またな」
壁を伝って、局長室に足を向け出して、一歩、二歩と進み、不意に、「アイギーさん」と呼び止められたので。振り返るため、どうしても大仰になりながら、方向転換せざるをえなくなる。「なに?」
「帰ってくるんですよね?」鍵を胸元で握りしめたまま、フランが言う。
ほんの数秒、不安げに立ち尽くす、彼女を見つめ。
「もちろん」と返す。「そのつもりだけど、今んところ居場所らしい居場所なんてここしかないし、」と言い訳を吐き出しながら、余りにも、所在無く憂い佇むフランが、小さく見えたから。「仕事も残ってるし、まあフランもいるからな」と、おどけてみせると、
「もお!」と、また怒り出すので、胸中に湧いた悦に任せてへらへら笑ってしまう。「帰りは局長に杖かなんか借りるから、待たなくていいよ」
「待ちません!」と、険のある語調で反駁される。「ほんとバカにして!帰ってきたら預かり賃の代わりにごはんかなにか連れてってもらいますからね!」
「じゃあ、なんか、店しらべといてくれ」くつくつ笑って、アイギーは言う。
ああ言えばこういう、と言いたげに、フランが唇を結んでうう!と呻く。
「またそのうちに」と踵を返す。
「せいぜい気を付けてくださいね!」と、背に声が掛るので、軽く手を挙げて応じて。
間もなく。
気配が離れ、階段を下って行くパンプスの音が、苛立たしげにかつこつと、遠のいて行く。
悪いことしちゃったなぁ、と、内心で煩悶しながら、足を引きずって、進み。
局長室の両開きの扉の前に立って、深呼吸を、一つ。
ノッカーを持ち上げ、幾度か鳴らす。
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