第一話 アイギー・ロウと『 』
「あの、あれは、そのー、」
怯えの名残に声と唇を震わせながら、壁に張り付くモノを見て、フランが言う。
「なん、なんですか?」
「あれは俺が拾ってきたんだ、」
そう、正直に答える。
「そのー、近所でな、 それ以上はちょっと、まぁ、そのー、 言えない。一回覚えたらしばらくは襲わないから大丈夫だ、っていうか、そんなことよりだな、」
とりあえず、とアイギーは、
さっきまで座っていた椅子をあちこちにぶつけながら慌てて引っ張ってきて、
「は、はぁ?ひろってきた?」と、放心の内に戸惑うフランを、
半ば強引に、「ちょっと座ってもらっていいか?」とそこへ腰かけさせると、
目の前に屈みこんで傷の具合のチェックをしたのち、打ち身やら痣には手をかざして軽度の治癒の呪文をかけ、弱毒のあるグレーゴルの付属足が触れたミミズ腫れの部分には、解毒の呪法を唱え用いながら、指で何度かなぞり、
「あの、ちょっと、くすぐったいですってば」と膝を擦りあわせて幼子のように笑うフランを、
「わかったから、ごめん、ちょっとだけ、ちょっとだから頼むよ、ほら、じっとして、はいはい」とあやして、跡が残らないように注意を払いつつ、事を終えると、
念のため、また軽度の治癒の呪文をかけ、ついでだからと古傷の名残らしいシミなども消せるものは消してやり、粘液の飛沫がかかった頬などには、特に問題はなかったのだけれど、
一応、と、
市販の毒消しの中でも強いものを数滴ハンカチに染み込ませて渡し、繰り返し謝罪しながら、清拭するよううながして、メイクが落ちるから、と嫌がられもしたが、そこはどうにか、我慢してもらい。
落ち着くのを待ってから、改めて。
「いやもうほんとすまん」と、立って僅かに項垂れて瞑目し、何度目かの謝罪を口にする。
「なんだか」ふふふ、と、フランは笑って、少し尖った耳を紅くしながら、この部屋に来る前より綺麗になったような気がする脚を見下ろし、ちょっと、ぱたぱた、すり動かして。「手厚いんですね」
「そりゃそうだろ?俺の監督不行き届きだし、」落ち度を思い返し、苦笑する。
本棚脇の壁に移動して張り付いたまま動かないグレーゴルをちらと見やり、
なんせ――――――、
ほっといたら喰い殺されたに決まってんだから、
――――――と内心で呟くものの、口には出さず。
「ほんと申し訳ない」胸に左手を当て、腰を折り、平謝り。
ふふふ、とまたフランは目を細める。「そんなお姫様みたいに扱わなくてもいいのに。」
「いやいや、謝るのは大事だし、いま治したっつっても怪我させたのは事実なんだから。 取り返しつかないし、」ゆっくり頭を起こして、アイギー。「それに、 なんつーかな、いま言う事じゃないけど、『女の人はある程度丁寧にあつかえ』って言われて育ってもきたし、」
「ある程度?」笑いながらも怪訝に。
「あぁ、いや、あんまり丁寧にあつかいすぎるとさ、なんつーのかな、とんでもないわがままに振り回されるんだと」と、冗談めかして、少し、顔色をうかがいながら。
「あはは、なるほど」と、柔和にフラン。
「俺も最初になんである程度なの?ってきいたよ」ははは、と釣られて少し笑ってから、僅かに焦り、「いや、笑いごとじゃないんだよ、ほんとうに。申し訳ない。」と、また、消沈して真顔に戻る。「すみませんでした」
「わたし、根に持ちますからね?」変わらず柔和に、フランが言う。
「罪悪感半端ねえから、頼むわ、ちょっと、ごめん。いじめんなよ」と、哀願してしまう。
フランが、足下から順にこちらを見あげて、「今度、責任とってくださいね?」と釘を刺してくる。
「あぁ、もう、何でもするよ」と、安請け合いする、アイギー。
「じゃあ、きついの考えときますね」ふふ、と満足げに眼を細め笑うフラン。
悄然と溜息を吐く、アイギー。その様を、クスクス笑われるので、ならって少し、笑った後で。
多少は、そろそろ空気がほぐれたかな、と確信できてから、「あのー、そういえばさ、郵便、あったんだろ?」と本題に入る。
「ぇあ、はい、そうなんです、シーリングしてあるので、」と、生真面目さを取り戻し、「えーっと、あれ? あれ?」気づいて半ばあわてふためいて、身体やスカートのポケットの辺りをまさぐるが、
結局、
「す、 すみません、 なくしました大事な奴ですよね? あれ?」
青くなりながら落胆して、椅子に腰かけたまま、恐縮し、小さくなってしまう。
「さっきまで、その、 部屋に入るまであったんですけど、」
「仕方ないよ」と笑って、辺りを見回し、封蝋か、と、頭を巡らせ、「えーっと、」あそこで襲われてたから、と、あたりをつけて。足下を調べて回る。
「すみません、わたしも手伝います!」と、すぐさまフランも加わって。
「あーごめん、ありがとう、 なんだけど、 なるべく離れすぎないように。俺の回りだったらうろついててもキホン大丈夫だから」と断りを入れ、グレーゴルとフランの距離を気にしながら、
二人して這いつくばって、そこまで広い訳でもない部屋の中を這い回り、郵便物がどんな飛び方をしたのかわからなかったが結局、室内右手に並んでいる書架の下の、床と棚の隙間の奥の奥にあるのを、
「あった。かも。」匍匐していたアイギーが見つけ、
窓に盛大にケツを向け、左手を伸ばしに伸ばして、何とか、引っ張り出し。
抽象的な四足獣めいた封蝋の紋を、ほんの数秒、見つめて。
綿ぼこり塗れのソレを摘みあげて示して、「これ?」と、日光浴する爬虫類のような膝立ちの姿勢で訊ねると、
「あ、それ!だと思います!」淑女にあるまじき四つん這いの姿勢で、デスク周りを探していたフランが首だけ向けてそう答えるので、ちょっと安堵して、
そろって間抜けな恰好のまま、すこし笑いあってしまう。
アイギーは立ち上がって手紙と自分の埃を払うと、フランのもとへ行き、同じく立ち上がって膝をはたいていた彼女に、「ありがとう、ちゃんと受け取ったから」などと、改めて礼を述べて、
「いえいえそんな」という照れ混じりの謙遜を聞きながら、脇を通って。
机の天板の上にとっ散らかっている物をざっくりとであるが、片づけ始める。
「どうしたんですか?」と、はてな顔のフラン。
「いや、これ、家から―――、あのー、実家からなんだけどさ、」
「はい」と、興味深げに。
そうか、フランは知らないのか、と、思い至り。「まあ、別に、 わざわざ隠すようなもんでもないんだけど。 うちのはちょっと変わってるっていうか、特殊でね、」
「はあ、」と、腑に落ちず、フラン。
テキパキ書類を纏めて引き出しに収め、いま使っているらしい魔導書の類を数冊、開いているものには付箋をはさみ、積み重ねて、天板隅に押しやる、
アイギーの姿を、眺めながら、
「特殊、なんですか?」
「なんかあったら、まぁ、送ってくるように、とは言ってあるんだけど、」言いながらアイギーは、仕事上の重要な書類と、今度の税金の控除に関する書類を纏めてとんとん揃えて、天板下の引き出しの一番上に仕舞う。「二か月か、三か月に一回は送ってくるし、中身なんてだいたい、こっちが驚くくらいどうでもいいものなんだけどね、」
「はぁ、」と相槌を打ちながら、ちょっと笑う。
「でもってね、」と、粗方を片付け終え、あたりを眺めて、邪魔なものがないことをあらためて確認すると、天板の中央に手紙を置いて、封をペーパーナイフで解き。
中から、折り畳まれた紙片を、がさがさ、注意しながら、引き出して、開くと。
書かれている文字列の波が冒頭より紅黒く、順々に、発光し、
唐突に、ぼんやり仄かに、紙の全体が輝きながら、滑らかな風に弄ばれるように宙に浮いて、アイギーの目線より少し低いくらいの高さで、ぴたりと静止する。
「おぉー、」と、少し目を丸くして、感嘆するフランをよそに、
腰に手をあてがい、溜息とも苦笑とも取れる呼気を漏らす、アイギー。「まあこんな感じなんだけど、」
「これも、そのー、研究されてる魔法か何かなんですか?」と、興味津々で、少し顔を紙片に近づける。
「ん、あぁ、まあ、」答えて、フランの様子をちらと見やり、ほんの少し、ほっとして。「魔法っつうか、紙自体は普通なんだけど、」そういう術がかけてある、と続けようとした矢先、
『ああああアイギィィィィいいいいいいいいいィィぃいいイィぃぃやああフうううううううううううううううううううううううううううううあああああああああ!もおおおああ!』
ぱーぱらぱー、ぱぱぱぱぱぱぱっぱらぱぱぱ、と、ファンファーレ付きで唐突に。
拡声器を通したようなひび割れた大音声で。
紙片がしゃべる、もとい、叫び始めるものだから。
二人はそろって身を竦め反射的に耳を塞いでしまう。
しまった、親父殿だったか、と少々顔を顰め、俄かに後悔し始める、アイギー。
長いファンファーレを聞きながら、半笑いで絶句する、フラン。
オーケストラに強調され出した管楽器の嘶き、その旋律がまだ収まりそうもなかったので、
「あのー! これ、なんですか?!」と、フランは、声を張って、訊ねている。
「うちの家族!」アイギーはフランを見て答え、ちらと紙片に眼をやった後、「特に親父殿! あの、父なんだけどー! 派手ずきだからー! こんな感じで、アホみたいにでかい音で声おくってくるんだよ!」
「すごいですね!」と、半ば投げやりに、フラン。
「なにー?!」聞こえなかったので訊き返す。
「すごいですねー!」と、音量を上げ、笑ってしまう、フラン。
「俺もそう思うー!」と、当人のくせに他人事めいたことを言ってしまい、
最後の盛り上がりを見せているのか、まだ鳴り響く音楽の中で、
二人して、揃ってへらへら、笑ってしまう。
フィニッシュのシンバルの残響と、中段を支えるオルガンの伸びが消えるのを待ってから、示し合わせたわけでは無かったけれど、塞いでいた耳からおもむろに、
どちらからともなく、倣って、手を離し。
『親愛なる我が子、アイギーよ』という、手紙から発せられた厳かで暖かみのある深遠な声を聴いて。
そちらに顔を、向けている。
『しばらくぶりになるが、そちらに変わりはないか?
先日、こちらでは庭のスピノザの樹が花を付けたり、まあ、知ってるだろうがよい香りだ、
あと、キャロルのバカたれが―――、あのー、あれだぞ?バカたれと言いはしたが大事だぞ?あいつも―――あのー、キャロルのバカたれが面白がって羽根つきどもと小鬼どもの抗争に首を突っ込んでだな、
あいっっかわらずの無茶苦茶をやらかしてくれたものだから後始末に追われてまあそれは大変だったのだが、それはそれで、枷をつける理由にもなったし、悪くはなかった。
あとハンスの奴がまた素っ頓狂なレシピを考案して近所中にふるまって四~五六人失神者を出したり、ギルバートとアンナが我が家に逃げ込んできた何がしかを捕まえるのに躍起になってだな、
あーもーまったく、家じゅう引っ繰り返してまわったりもしていたが、まあ、相変わらず、あれだ、あのー、まあ落ち着いている。』
まったくあいつらときたら四六時中な、と、続く、とても愉しげなどうでもいい愚痴を聞きながら、
「あの、これ、ご実家、 お、落ち着いてるんですか?」と、困惑して訊ねてくるフランに、
「あー、まあ、うん。いつも通りだな」と、呆れて笑って応じる、アイギー。
『―――なもんだから、わしも骨が折れるのだ』と、手紙の中の親父殿が一しきりを零し終えると、『ん? え?あぁ、え? もう? そうか、』と、 誰かとの話し声が幽かにし、 うおっほん、と、咳払いが、一つ。 『それであらためて、だ。アイギーよ。変わりないか? 大事はないか? 問題が無ければ、だな。 言い出しにくいのだが、聞いてもらわねばならんことがある。』
躊躇いがちな、沈黙。
「あの、わたし、 居ても?」と、フラン。
「あぁ、俺は気にしないよ。言うだけでたぶん、大した用じゃないし。」親父殿の勿体ぶり癖を、アイギーは知っている。「いつもこんなんだから」と、少し笑い返していると、
『アイギーよ。』と、改めて名を呼ばれるので、
二人して手紙に、顔を向ける。
『今日連絡をしたのは、 これを送ったのは他でもない。そのー、なんだ、 言い出しにくいのだが、 一度、戻ってこい。』
言葉の余韻に浸りながら、「え」と、己の耳を疑い、声を発している、アイギー。
都に出てからのこの十七~八年、 戻ってこい、 などと、言われたことなど、終ぞない。
ついさっき。 今の今までは。
ちらとフランが、こちらの顔をうかがってくるので、
「今のきいた?」と訊ねてみれば、
「はい。帰ってこい、ってことですよね?」と、返事がある。
『アイギー。 親愛なる我が子よ』
朗々と、声が響く。呼ばれてまた、今度は弾かれたように、顔を向ける。
『一度、もどってきてくれはしないか。 わしは今、 ヤマイに犯されている。 どうも、 いや、どうやら。 死期が近いのだ。』
バカな、と。ほぼ声ならぬ声で、アイギーは呟いている。
『 持てるものを持てる範囲で動員しもしたが、どうにもこうにも。 おそらく、不治の類だ。これを聴いている頃には、さらに進行しているだろう。
―――我が子にこのような事を頼む日が来るなど、思いもしなかったが。 アイギー、わしはな。
物珍しい自身の死というものに瀕して、今一度、 わしは、 わしはな、』
繰り返し、手紙の中で愚図って、言い澱み。
『お前の顔が、見たいと思うたのだ』
アイギーよ。
と、そこで、ふわりと。声が途切れ。
窓辺に降り注ぐ、穏やかな昼の陽の中で。
じりじりじりという、手紙から発せられる光に伴う音だけが、辺りに、充満する。
言葉を失って神妙な顔つきのまま立ち尽くしてしまう、アイギー。
「大丈夫、ですか?」と、フランは戸惑いながら声をかける。
「あぁ、」と答えはするものの、俄かには信じがたい。
あの親父殿が死ぬ?
バカな、 と。
自問自答の輪に捕われ。 しばし、抜け出せそうもない。
間を空けた後。
『いかんな、 感傷的になりすぎる』と、悠然とした自嘲の声が響く。『気まで弱っては話にならん。』あっはっはっはっは、と哄笑が続いて。『できればで構わん!都合をつけて戻ってこい、アイギー!心待ちにしているぞ!』
——————うぉーうぉー、うぉーうぉー!と、唐突に自作のバラッドをアカペラで歌い始める、手紙の中の、親父殿。呆気にとられていると、転調して、急に唄の激しさが増す。
アイギーは自失して、フランは困惑して、その場に立ち尽くし。
ただ調子っぱずれでピーキーな歌を聴き。
親父殿の歌が、サビらしい所で派手な盛り上がりを見せ始めたので、フランは、失礼ながらくすりと笑ってしまい、
アイギーもつられて、バカだなー、と内心で突っ込みながら、小さく、笑ってしまう。
「でも思ったよりなんか、お元気そうですけど、」とフラン。
「あぁ、そう、 そうだよな」と、傷をなめてもらえて、少し落ち着きを取り戻して笑ったのも、
束の間。
『アイギー様』と、
また改めて手紙から、親父殿のものでない、低く渋い歪な男の声が、二番に突入したらしい歌声より大きく、近くからするので、
呼ばれた本人はできるだけ泰然としながら、ちらと、そちらに眼を、向けている。
『お時間も差し迫っておりますゆえ、わたくしの紹介は割愛せていただきます、が、こたびの手紙の内容は、すべて、 真実、 でございます。把握している限り、ではございますが、お館様は、嘘偽りを申されておりません。よろしいですか?』
手紙からは、
我知らぬとばかりに間奏に突入したらしい、
親父殿の上げ上げなスキャットが流れてくる。
『すべて、 真実、 で、ございます。どうにもお館様は、自身の胸の内を明かされることをたいへん照れていらっしゃるようで、幾分、伝わり辛かったことかと思われます。 で、す、の、で、』
とても、嫌な予感がし。
『こちらの内容の信憑性を高めるため、また、わたくしのこの、従僕ごときにあるまじき差し出がましい
浅はかな願いを斟酌して頂くため、さらには、お館様の私事を、万に一つでも外部に漏らさぬためにも、
手紙の内容はこのちょっとした手品が終わり次第、手紙ごと消去させていただきます、ええ、もちろん、わたくしの自負と偏見からくる独断によるものでございます、アイギー様。
我らがアイギー様でございましたら、このような仕掛けごときに、わたくしの仕掛けたこの児戯に等しい戯れに、巻き込まれることなど、恐らく、万に一つもございませんでしょう?えぇ、そうですとも!
もし何かございましたら、わたくしを存分にお恨みください。なお、 あぁ、これは失礼、失礼いたしました、言い忘れておりましたが、』
まずい、と焦燥し、フランに眼をやると、親父殿の全力のスキャットがよほどツボに入っているらしく、口許に手をあてがい、くすくす、忍び笑っている。
『わたくしの声は、アイギー様のお耳にしか入らぬよう、指向性のある細工が施してあります。
お館様の起こされる奇跡にくらぶればまったく陳腐なものではございますが、ウワサ好きの下男や端女どもには―――――おそらく、そちらにもそのようなモノが数多いらっしゃるのでしょう?
それらには効果的でしょうし、又よもや輸送の道中で開封されるようなことがあっては、えぇ、お館様の面前で代わって封蝋を施させていただいたわたくしの恥でございます。
このような極めて簡易な約束事すら満足に守れぬ俗世の者には、わたくしの思いの籠った、この驚きや痛みが、さぞ、よい薬となることでしょう。えぇそうです、そうですとも!ありがとう!いーい薬です!
調子に乗って開けてはならぬモノを開けて、卑しくも底の底まで
だいたいからしてそういった浅ましい連中というものは―――・・・・・・失礼しました、わたくしとしましたことが。
あぁどうか、不出来をお許しくださいませ。 長くなりましたが、それでは、後日。ご健勝な姿をどうか、私どもにもお見せください。
カウントを取らせていただきます。』
三、という、一秒よりも長い、緩慢でありながら容赦のない言葉に励起して、一度、手紙が強く震動し。
小さな白色の電光が紙面に幾筋も走り、あちらこちらから、ぶくりぶくりぶくりと。出来の悪い小粒の葡萄に似た黒い球体が盛り上がりだすので、
アイギーは反射的に。
取り返しのつかないレベルで何かまずいことが起きて、すでに逃げられないことを感覚で悟り。歯噛みし、眼を瞠って。
ついにフィナーレの大サビに入った親父殿の歌を聴いて思いっきり笑ってしまっているフランをかたわらから強引に胸元へと引き寄せると、愕然として挙がる小さな悲鳴や、
「ちょっ、アイギーさん?」という声を無視して、
彼女を抱き締めながら手紙に肩を向け、その変様を注視しながら、
いくらかの文を省いた自作の硬化の魔術を高速で唱え、主に生身の部分と身体を覆う面積の多いローブへと重点的にかけるその最中、
『二』と数字が進み、
早くも零れんばかりの、無機質な悪い葡萄の粒々々を見て焦燥感に苛まれるうち、耳鳴りに似た硬質の音色が幽かに自身の鼓膜を震わせ唱えていた術が発動する、
果たして、後に起こる事態に耐えうるものなのかと疑念が拭えない、
立ってその場に居続けるためにメモ書きなどを壁に貼っておくときに使う吸着の魔術も唱える、
フランがローブの胸元をゆるくつかみ、微かに吐息で笑ったあとで、
「あの」と訊ねてくる、
ちらと見やる、 こちらを見上げている、
自身を盾にするため、同体になんてなれやしないのに今だけでもどうかそうなればいいと願って強く抱き締め、彼女を覆う、
「えっと、 わたし、 あの、仕方ないから、いいですよ?前から、その、ちょっと思ってましたし、」などと、不意に顎の下で目を見ず言われても何がいいのか知らねえんだよてめえバカか、
親父殿のハイテンションなアカペッラが後奏に突入している、首を捩って手紙を見やれば今や元の紙の断片すら窺えない、黒い粒の数々がはち切れんばかりに膨れ上がり蜂球めいた球体を成している、
どう考えても、いや言うまい、フランを庇うためそれに背を向け項垂れる、
普段から帷子の一つや二つでも着ておけば、と今更ながら後悔し始めている、後の祭り、唱えていた術が発動し足の裏がひたりと床へ固定される、
不幸中の幸いは彼女が自分より幾らか小さいことくらいで。
『い―――』ち、と、渋い男の声が、まともに全て響き終わらない、その内に。
何かが燃え上がるような、とても地味な炸裂音と共に死を予感させる無数の羽音、
その音速の擦過が室内に溢れ空気を焦がすと同時に。
秒間、千とも万とも思われる数多の衝撃が、総身を貫き、辺りを一分の容赦もなく徹底的に、破壊し尽くし、春先の野鳥の大群の囀りに似た鋭い音ともに、天地を含めた全方位を、薙ぎ払う。
千秋とも思われるあいだ続く、鉄片の暴風の中に身を置き。いくらか蹈鞴を踏みふみ、
無防備なフランの頭を胸元に押し付け、耐え忍ぶ最中、粒のいくつかが、垂れ下げていた右手の先に当たり―――、
肘から下を根こそぎ持っていく衝撃で身体が揺れる、あまかったか、と、内心で苦虫を噛み潰す、
左足のふくらはぎの部分にも早々にデスク周りを砕き終わったらしい一発が命中し、ダルマ落しにバランスを崩しそうになりかけるが、小さな猿みたいにしがみつくフランに一瞬だけ頼って、
何とか膝を折らずにすみ。
間もなく。
静けさが、戻り。
耳鳴りがするほどの、寂寥寂寞の中。
おもむろに、面を上げ。
ざっと視界に映る範囲を眺めれば。
何もかもが、原型を留めていない。
生々しくも色濃い、破壊の爪痕。
壁という壁に罅が、正確にいうなら小さな穴が開き、見ているそばから、一部が崩れ落ち、内部の基礎に使われているらしい対大規模魔術の印と消音の印が複合的に刻まれた鋼板が、ちらと現れる。
察するに。振り返るのが億劫で仕方がなく、
「あああ、あ、あの、」と、不意に胸元から声がする。
気づいて見下ろすと、ローブを掴んだまま、涙目でこちらを見上げるフランが、そこに。憐れにも、可哀そうに、震えているので。
「すまん」と、痛ましく思いながら瞑目し、「ほんとごめん」本日何度目かの、平謝り。
「あの、はい、え?えっと、」と、混乱しきっているらしく、泡を食っている。
「うちの奴のせいで、怪我はないか?」
「あの、私は、大丈夫ですけどその、アイギーさんは、」そこで何かに気づいたらしく、身体からふらふらと離れ、有り様を認めたらしく両手で口許を覆って、瞠目絶句する。
注がれる視線をたどってズタボロになったローブの上を進んでみれば、
「あぁ、これか」右腕がない。
「義手なんだよ、もともとないんだ。だからそんなに―――」気にしなくても、と、なるべく柔和に続けようとしてフランを見やれば、わかりやすく青ざめて涙目になっており。
「そんな、」と、めのまえでつぶやくあまりにも同情的なその姿を見て、
いくらか冷静さを取り戻したアイギーは、小さく息を吐くと、「気にしなくても、まあ、そのー、大丈夫だから。左足と一緒だよ」 と、腿で義足を持ち上げ、とんとん鳴らし、笑って見せ、 「なんにせよさ、二人とも怪我がなくてよかった、いや、よくはねえんだけど、とりあえず、」と無い右腕を軽く振り、室内――――――、出来立ての廃墟に振り返り。
あらゆる物が木端微塵になり瓦礫で埋まった様を見ながら、
「まったく。」
と、吐き捨てる。
ギルバートの奴め。 あの阿保が。帰ったら粉にしてやる。
「フラン、重ねがさねすまないんだが、」ちらと、彼女に振り返り、「ちょっと肩を貸してもらえるか?今のやっぱちょっとミスってたわ、足の調子が悪くて、ほんと、何回もごめん
「え?あ、あぁ。はい」と、椅子の残骸にちょっとけつまずきながら、隣まで来る。
「局長の部屋の手前くらいまで頼みたいんだけどさ、いいかな?杖も、 あぁ、 消えちまったし」と、申し訳なさげに。「左側たのむ」
「わかりました」と、苦笑して、素直に迅速に言われた通り動いてくれるあたり、
本当に根の良いやつなのだろう、とアイギーは思う。
「ここにいると厄介そうだし。なるべく早めにバックレて居なかったことにしよう」と、先を促して。「宗教関係の人らから恨まれてテロルにあったって言いはっとけば、俺だけなら、まあなんとかなるから」
「あはは、なんかもう、めちゃくちゃですね、 なんですか? これ、」と、フランが素直に笑うので、
「あはは、確かに」と、アイギーも笑ってしまう。
二人三脚の要領で残骸の海を横切り、傾いた扉の前まで来て、ふと、そう言えばグレーゴルは?と、アイギーは疑問に思い、ちらと部屋だった場所を振り返り、ざっと眺めまわすと、
「あ、」書棚があった場所に、
大きな抜け殻のきれっぱしが落ちているところを見るに、
先ほど驚いて急に脱皮をしたらしく、中身はきっと無事で、しかもどうやら、
衝撃で歪んで開いた換気口の穴を見るに、
なかなか悪い事態らしく、
「どうしたん、ですか?」と、立てつけの悪くなったドアを開けようとしている、フランが言う。力を籠めても、開けられないらしく、「あれっ? っかしー、なっ、」と、悪戦苦闘中。
「あぁ、いや、ちょっと代わって」と、退いてもらい。扉の表面を軽く撫でて破壊を意味するルーンを描きながら、「あのさ、もし、だよ?」
「はい」と、こちらの横顔を僅かに見上げて、フラン。
「あのー、もしね? これから、この近所で猫とか犬とか鳩とか消えたり、ネズミとか、そういうのの姿をまったく、 見なくなったりしたら、」
「はい」相槌を打ちながら、描き終えたらしい印の上に置かれる手を見る。
「そんときゃぁ、なるべく暗がりには、 絶対に一人で近づかないように」ちらと、フランを見る。
「はぁ、」疑問符を頭に浮かべ、小首を傾げる。
「まあ、じゅうぶん気をつけて」どん、と、強く押せば。
頑強な扉が外側へ弾け飛び、石造りの中に轟音を響かせて転がり、廊下の翳りが、目の前に現れる。
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