アイギー・ロウ アイギー・ロウと『      』

おしゃクソどぶネズミ太郎

 おはなしのはじまり


 ―――――――――手入れの行き届いた、緑にあふれる開放的な中庭から、酷くうららかに差す、静謐な午前の陽を眺めながら、その四囲にある、石造りの長い通路を、とても長閑な心持ちで、


 彼女は、歩く。

 

 

 庶務課に支給されている、安いパンプスの立てる音が、こつこつと、高く辺りに反響する。纏っているシャツやタイトスカートの衣擦れまで聞こえそうなほど穏やかな、城塞内でのこの仕事の、この時間。

 

 

 この瞬間が、彼女は、嫌いではない。

 

 

 ときおり、ローブを纏った上級の男性所員とすれ違う際には、後でどこから何を言われるかわかったもんじゃないから。



 あわてずさわがず壁側まで移動して道を譲り、書類書簡、書籍の類を胸の前で抱えたまま、止まって。

瞑目し、うやうやしく、頭を垂れる。



 一連の動作も、二か月も王立の施設にいれば、板についてしまっている。移動して間もない頃は、酷い文句を散々言われたものである。



 遠ざかる足音を聞きながら、ちらと上目に、背を見送ると。



 安堵の息をかすかに漏らしてしまうあたり、まだまだ厚かましさが足りないのかなー、と。

 

 

 内心で僅かに、苦笑してしまう。

 

 

 気を取り直して。また、歩みを進める。

 

 そろそろだな、と、気持ちを引き締め直して。

 

 

 書簡の一つに記されている宛名と――――――、左手に距離をあけて並ぶ、監獄を思わせるほど重厚な木製の扉に付けられた表札とを見比べながら。



 二つ目にして目当てのうちの一つを見つけたので、足を止め。


 小さく息を吐くと、

 

 ドアノッカーを持ち上げ、失礼のない強さで幾度か打ち付け、



「庶務課のフラン・マクレガーです」



 と、声を上げる。



「グレッグ様、郵便をお持ちしました」




 声の残響が消えるだけの間の後。


 


 壁面に設けられたスピーカーがばじばじ電気的な音を立てて、『はいはい、ちょっと待ってね』と、声が返ってくる。ドア越しに、中のあわただしさを感じていると、閂の外される音がして、勿体ぶりながら微かに、扉が開き、不愛想に手が差し出されたので、



「こちらです」と、声をかけながら、届け物を差し出して、人外と思われる毛むくじゃらの指先に触れさせるやいなや荒々しく半ば引っ手繰られる形で持っていかれ。


 呆気にとられて、立ちすくみ。



 確認するだけの時間を置いて、「あぁ、たしかに」と簡潔な返事がしたかと思えば。



 強く扉が閉ざされ、またガチャガチャがたがた、厳重に鍵でもかけているのだろう、音の震動を感じて。


 間もなく。



 静寂が戻ってくる。 



 侘しさを掻き立てる小鳥の長いさえずりだけが、いやに甲高く、辺りに響く。



 毎度毎度で、わかっている事とはいえ。



 慣れない、と、フランは呆れて思う。



 ため息を呑み込んで、虚しさと疲労感に苛まれながら、しかし、つつがなく一件片づけられたことに一先ず、胸を撫で下ろし。


 二件目、三件目、と続けて、雑務をこなしていく。

 四件目。同じ動作も、四回目。



「庶務課のフラン・マクレガーです。  郵便をお持―――」の時点でこちらを遮って勢いよく扉が開け放たれ、不意に左の爪先に一発、がつんと貰ってしまうので、「いっ!ぁう」と情けなく呻いてしまう、自分が憐れ。よろめいて、慌てて後ろに下がれば、



「いやあ、ようこそ」と、待ち構えてでもいたのだろう、職員であるローブの若い男が一歩踏み出てにこやかに、手を差し出してくる。「よく来たねぇ」



「あ、はい、ピカート様、郵便をお持ちしました」精一杯の微笑で応じるものの、ぶつけた―――もとい、ぶつけられた爪先がじくじく痛む。内心、半ば泣きながら、パンプスの中で指をもじもじしつつ、「こ、こちらですー」と、できる限り愛想よく、大判の茶封筒を差し出して渡す。



「いやあ、ありがとう」どうもどうも、と付け加えながら、男は宛名と差出人を確認し、「フラン君、だっけ?」ちらと、こちらの顔を窺ってくる。



「あ、はい」柔和に答えるが、本音を言えばすみやかに帰りたい。



「長いの?もう」と、封筒からこちらに興味を移して、男が言う。「あんまり見ないけど」



「まあ、それなりに、ですけど」ここに来る前にいた経理の部署も合わせれば二年になるし、恐らくあなたよりもずっと職歴は長いんですけどねえ、新参のピカートさん、という皮肉を呑み込んで。「ははは、」と、ごまかし笑い。



「ふーん、」と、下から上へ、視線で値踏みし、彼女の、耳輪の上部の尖った三角の耳をじっと見つめて。「君、ハーフ?」と、にやつきながら訊ねる。



「あ、はい、そうですけど」と、幾分そっけなく、目を伏せ答える。




「ふーん、あっ、そー。 へー」と嗜虐をにじませ、愉快そうに得心され。


 数拍の間、顔と身体とを、矯めつ眇めつ、された後で。


「人の入れ替わり激しいらしいからねぇ。よかったらお茶でもどう?とっておきのさぁ、いい奴があるんだけど、」と、何事もなかったように、ピカート。



「あ、いえ、そんなお構いなく、」手を振って、同じく何事もなかったように答え、「仕事の途中ですし、 まだちょっと残ってますので」と、片手でまとめて胸もとに抱えている、書籍二冊と、シーリングの施された白い封筒に目をやる。



「ふーん」と、ピカートがにやついて答えながら、薄茶色の前髪を掻き揚げ、スカートの裾から覗く膝がしらを眺めて。「なかなか上物なんだけどねえ」



「またの機会ですみません、お願いします」背筋に走るとてもイヤな寒気をこらえながら、やはり笑顔で、「では失礼しますね」と、律儀に言い置いて、怪訝でない程度の速さで、その場を離れる。



「まってるねー」と、腑抜けた声が背にかかる。



 愛想で会釈を返そうと振り向けば、皮肉にも扉が、冷淡極まりなく強く閉ざされている、ところで。



 釈然としないあまり。ちょっと足を止めてしまう。


 湧いたイライラを奥歯でかみつぶし、むかつくほんとむかつく、なにあれ、と胸懐で毒づいて、結んだ唇をわなわなさせ。はっと我に返り、ずっと我慢していたにもかかわらず溜め息を、小さく一つ吐いて。



 軽く頭を振って、ダメだダメだ頭おかしい人しかいないの解ってるんだからあとちょっとあとちょっと、と自分に言い聞かせ。再び。



 仕事に戻る。




 五件目、六件目、と、立て続けにないがしろにされながらも、片づけて。



 気疲れのあまり少々、なんだかなーと肩を落として通路を進みながら、最後に残った封筒に目をやると、宛名がない代わりに、庶務課の先輩の字で付箋のメモ書きが貼り付けてあり、


 足を止めて眺めてみれば、配達先に、どちらかといえば、この施設内では親しい部類の人の名が書いてあったので、ほのかに安堵して。



 多少、モチベーションを上げながら、目的の扉を目指す。




『要注意: 必ず本人確認したうえで手渡しで!でも渡したらすぐ逃げること!ダッシュ!関わると×!』




 という、メモの隅っこに筆圧強く書かれている警告文が、僅かに引っかかったものの、



 シーリングの意味くらい知ってるのに、大げさだなぁ、と、さらっと流して、付箋を取ってポケットにしまい。



 剪定された庭木の数々を眺めながら、久しぶりに会うなぁー、何週間ぶりだっけ?と少し浮ついて、日曜に散歩でもする気分で進み。通路最奥、突き当り、城塞内の影に入ってすぐ左手にある扉の前に立ち、何気なくノッカーを持ち上げ、来訪を知らせる。



「アイギーさん、郵便をお持ちしましたー。 庶務課のフランです」



 一呼吸置いて。



 ばじばじばじ、と、扉の脇の上部に備えられたスピーカーが音を発し、



『あぁ、フランか。悪い、ドア、 あ、鍵あけっぱだわ、ごめん、あいてるから』

 と、声が続く。



「わかりましたー」と何気なく答えてドアの取っ手に触れようとして。そういえば、と躊躇する。スピーカーを見上げて。どうしたものか、と、一瞬間。固まって。「っていうか、あの、わたし、勝手に入っちゃっても、 そのー、いいんですか?」困惑し、訊ねている。




 間をあけて。またスピーカーが電気的な音を発し。




『いいよ別に。オレんとこは他人に見られて困るようなもん特にないし、  あぁでも下手にその辺漁ったりしないでくれる?なんか、あのー、出てきても困るから』



 なんか出てくる?と、悪い緊張で指がそわそわしてしまう。



 一思案したのち。


「あのー、入りますよー?」


 と、改めて声をかけ。



 返答を待たず、ドアの取っ手に手をかけ。



 恐る恐る、金具が軋む音を聞きながら、開き。「アイギーさん?」と、部屋の内に声をかけながら、さっと周囲に眼を走らせ誰かに見られていないか警戒しつつ、おもむろに、忍び込むように、中へ入り。ばたん、と、確かに、扉を閉める。



 ぎち、ぎち、という何かの音を聴きながら、室内に振り返ると、間取りは思ったより広く。

 右手の書棚の列の向こう、整然と並んだ瀟洒な窓々から燦と陽光が降り注ぎ、

 空気中の塵をきらきら、輝かせている。



 部屋の中央には実験台が置かれ、紫色の粉が入った乳鉢と乳棒、清潔なフラスコや実験器具の類、小型のギロチンに似た背の高い木製の品、何かの骨らしきものや、生薬らしき歪な乾燥植物の瓶詰等々が、雑然と幅をきかせ広がっているものの、整理整頓されていない、という訳でもないらしく、ひどい汚れなどは見当たらない。


 辺りにほのかにただよっている、消毒薬とシナモンと古紙がまざったような香りをかぎながら、左手、通路側の本棚の列から順々に、さっと眼を走らせると、向って左奥の窓辺に、重々しい机が設けられてあり、この明るいのにわざわざローブのだぼついたフードを被って天板に噛り付いて、何かぶ厚い本を広げて小さくなって書き物をしている、

 陰気な誰かの姿を。

 


 一瞬、見落としそうになったものの、発見して。



 少し安堵しながら一歩を踏み出し、アイギーさん、と、声をかけようとした刹那、何かにけつまずいて「ぁわ」と、情けない声を発して蹈鞴を踏もうとして、軸足が払われ。

 


 ほんのつかの間、宙に浮く。


 

 あれ?と。


 

 間抜けに思案するだけの時間、床を正面に見て。

 


 間もなく。



 びたーんがっしゃーんと強かに顔と身体と膝をしたたかに打ちつける。受け身も何もあったものでなく、軽くつまむ程度に持っていた封書が手からこぼれ落ち床を滑る。

 


 現実的な硬さと冷たさとが、痛みに交じって、骨身に沁みる。



 なに、これ?という、自身の当惑の向こう側から、




「フラン?」と、事態を訝しむ男の声がする。「あれ?」




「いますよ」と床から答えて、いったぁー、と小さく独りごちながら、衝撃の抜けきらない身体を起こそうとして腕で上半身を持ち上げ、両脚が動かない。ことに気づき。



 え?と、見やれば。



 黒い帯のような何かが掻痒感をともなって素早く蠢き絡み付いている。


「え?」と再び、今度は声に出して。



 実験台の足元の影のなか。上半身を捻って、ちゃんと足下を確認すれば、幅十二~三センチほどの黒い、油で微かにぬらついた甲羅のようなものが幾つも連なって自分の脚全体を纏めている。


 下半身の掻痒感は、その一つ一つから何本も生えている黄みがかったオレンジの、グラデショーンのかかった、長めの棘からきている。


 なに、これ。と。声帯が震えて。辺りに微かに、自身の声が漂うより速く。



 ぎち、ぎち、と。硬い何かの擦れる音が、側頭部の近くから響いて。



 音のした方へと。肩や背にかかる謎の重みに慄然としつつ、首を巡らせれば。



 見覚えのない、悄然とした、視線の定まらない、淡い朱色の、成人男性の鬱然とした顔があり。



 愕然としてただ、双眸を見開いたものの、何かに助けを求める、余裕すらなく。



 がご、と微かに、けれどはっきりと。その男の顔から、顎の外れる音がして、口が、通常ならばありえないほど、女性の肩口程度ならば噛み付いて覆えそうなほど、縦に長く開き。

 

 うろのような昏い穴が、

 自然に湧いていた涙で歪む視界、いっぱいに、広がって。




 助けて、と、




 微かに。

 嗄れ果てた老人のような声を聴いたのも、つかの間。

 開かれた口の中から、身体に巻きついているものと同じ棘が幾本も幾本も幾本も這うように現れ出で、男の頭についている太い触角が欣然と、震え、ぎち、ぎち、と前後に揺れて音がし、



「グレーゴル」

 上方から声がする。



 ぴたり。と。その何かが動きを止める。



「 やめろ 」と、冷たい怒気を孕んだ男の低い声音が命令すると。



 巻き戻しを見ているかのように何かの口から出ていた付属足が素早く引っ込んでいく、

 その際、

 ちょっと顔に粘液が飛び散って咽喉の奥で悲鳴が上がり、息が止まる。



 おぞましくも、ゆっくりと、渋々、といった調子で、脚の拘束が、緩まり。

 じわじわ、甲羅のような甲殻が、くすぐったさを伴って移動し、間もなく、解かれ。

 グレーゴルと呼ばれた何かがその身を委縮させ、通路側の壁の近くで丸くなるまで、


 フランは、動けずにいる。



「あれほど無差別に襲うなっていっただろ?」 まったく、 というボヤキが、ため息交じりに付け加えられ、「さんざん教えただろグレーゴル!聞いてんのか!」少し強く、注意が飛ぶと、


 凄まじい速度で胴体がひるがえされ、がさがさと尾の棘を引きずりながらソレが移動し、


 手を貸してもらって助け起こされるころには、グレーゴルは、奥の本棚の下部に張り付いて、悪趣味なオブジェのようになり、身じろぎひとつ、しなくなっている。



「あの、」と、ようやく、口を開く、フラン。「えっと、 助けていただいて、ありがとうございます、」



 アイギーさん、



 と、続けて言って、男に向き直り。



 無機物で出来た左眼を中心に長い呪詛の入れ墨の入った、加齢のせいでどこかくたびれて擦れた彫の深い顔を、僅かに見上げる。



「いや、こっちの方こそごめん」と男――――――、



 アイギー・ロウは眼を伏せ、申し訳なさそうに、言い、



「あぁ、悪い、」とそこでようやく、繋いだままでいた左手に気づいて、離し。



 頬を掻きながら、「そのー、怪我、 あのー、  ない?訳ないよな」と、グレーゴルの付属足が触れていた部分にできている薄いミミズ腫れや転んだ拍子の膝の打ち身などを見て——————、



 申し訳なさのあまり視線をさまよわせながら、



「ほんとごめん」と、 何とも言えない、 表情で。 「いや、もう、ほんと」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る