第4話 誘惑

 ユゴージンとハンスが揉めてから、数日が経ち、ハンスは依然として脱獄計画を練るが、一人では限界があり、なかなか実行に移せないことに苛立ちを感じていた。他の脱獄したい理由のある囚人に暗示的に脱獄することを仄めかし、協力を仰いだが成功はしなかった。ナンバー9はハンスの苛立ちに気づいていたが、彼はハンスを刺激することなく、むしろ落ち着かせることに専念していた。

 習慣的になって来た労働の時間がやって来た。その日、日差しは強く、またハンスは最近、脱獄のことを考え、夜は寝ていなかったせいか、少し動いただけでも、疲労を感じるほどだった。看守はハンスの身のこなしの遅さに気づき、目を付けられるようになっていた。ナンバー9はそれを危険だと感じていた。そんな状況は周りの囚人たちも気付いており、無関心を装っている者が大半であった。


 労働後、ハンスはすぐさま便所へ行った。ハンスはどんな計画を立てても、脱獄することが難しいと感じていて、そのせいか焦りが募り、ストレスも溜まっており、吐き気を催していた。ハンスは脱獄することを一人だと限界だと感じていた。一番身近なナンバー9は誰よりも脱獄する気がなく、またユゴージンとは相容れないと思っていた。だからハンスは誰か脱獄仲間が欲しかったが、なかなか脱獄しようとする者はいなかった。ハンスの顔つきは生きる気力を徐々に無くしているように思われた。だた、拳を握りしめて壁にぶつけた。

 便所を出ると、誰かが目の前に立っていた。それはハンスにとって初めて話す人物だった。その人物はハンスが横を通り過ぎようとした瞬間に、言った。


「ねぇ。あなたちょっといいかしら?」


 その人物は女で、髪は肩くらいまで伸びており、赤毛だった。顔立ちはよく、目が大きく丸かったが、瞳は力強く、そこからは彼女の気の強さが垣間見れた気がした。その人物の胸の囚人番号を見ると44だった。彼女は彼の腕を掴み、彼の体を離さないようにした。

 ハンスは素っ気なく、苛立って言った。


「なんだよ。離せ」


 その苛立った表情を見ても、彼女は怯まなかった。


「あなた、体調悪そうじゃない。大丈夫なの?」


「関係ないだろ。放っておいてくれ」


「そんなに言わなくてもいいじゃない」


「俺は……考えごとをしているんだ。どこか行ってくれ」


「……実はあなたに——」


「ナンバー84。こんなところにいたのか」


 するとその時、少し遠くからナンバー9がハンスに声を掛けてきた。その女囚人は嫌な顔をして、話そうとそていたことをやめて、そのままどこかへ消えて行った。ナンバー9がハンスの元へ来てから言った。


「彼女……ナンバー44だな……君はモテモテだねぇ」


「は?」


「彼女のこと、知らないのかい?まぁ君はそういうものは気にしないからね」


「どういうことだ?」


「僕はもう随分と長いことここにいるが、彼女が人と話している姿は、ほぼ見たことがない。しかも自分から話しかけるところなんて尚更さ」


「え?そうなのか?でも、偶々お前が見たことがないってだけかもしれないじゃないか」


「あはは!君は僕と違って人を惹きつけるんだよ」


「そんなことより……」


 ハンスはその後、黙って、下を向いていた。その表情は暗く、苛立っている様子だった。その姿ナンバー9も気が付いており、彼はハンスに言った。


「脱獄計画が上手くいきそうにないのか?」


「あぁ……」


 ハンスは脱獄の計画を練っていたが、一人で実行するという状況だと、どうしてもなかなか良い作戦が思いつかないでいた。彼は一年間監獄にいて、監獄のことを観察してきていたが、一人で成功しそうな作戦は思いつかないままだった。しかし、黒騎士の話を聞いてからのハンスはいよいよ焦りが出て来ていたのだった。

 最近になって更に黒騎士がこの国を支配しようとしている情報は囚人達にも漏れる程、多くのものがあった。それを知った者達はさまざまだった。多くのものは変わらずに、牢獄での生活をいつも通りに送っていたが、時々脱獄する者も増えて来ていた。ハンスはその者達を見て来ていた。だから、作戦もなしにむやみやたらに脱獄をするのは避けていた。


 —―どうすればここから出られるのだろうか?しかし、以前脱獄を試みた在監 者は拷問にせしめられてから、戻って来たところを見たことがない。相当、酷い拷問をされたのだろう。


 ハンスはナンバー9と休憩所へ行き、そこで座ってそんなことを考えていた。ナンバー9は話を聞いてくれるものの、彼の脱獄しないというスタンスは変わらず、ただハンスの観察にもうひとつ別の観点を与えるだけだった。

 ハンスは脱獄するための仲間が欲しかったが、信頼できるナンバー9が脱獄しないと言うこともあって、閉口していた。

 そんな姿を見て、ナンバー9は黒パンを渡してから、ハンスに話しかけていた。


「ほら。お腹が空いてちゃ、考え事も進まないでしょ」


「ああ、ありがとう」


「そういえば、ここ数日、ナンバー77見ないね」


「ユゴージンか?たしかに、最近、見ないな。まぁどっかで悪いことでもコソコソと企んでるんだろ」


「あはは!確かにそうかもしれない。それが彼らしい」


「そんなことよりも、一人で実行する良い脱獄の計画が思いつかない。塔の中に人がいるか確認したいが、一人じゃ限界がある。だから仲間が必要だと思っているんだが……」


「そうだね……実は僕は君の仲間にするのにひとり——」


 ナンバー9とハンスが話していると、話しかけてくる人物がいた。


「ねぇ、やっぱりちょっといいかしら?」


「ん?」


 その人物を見ると、ナンバー44だった。


「ねぇ、あなたたち。今の話、脱獄の話?」


「聞いてたのか?」


「ええ」


「黙っててくれないか?ってこんな頼みしても告発すれば、パンがもらえる。だから黙ってなんかくれないよな……そうだよな」


「ええ。いいわよ」


「そうだよな。無理だよな。仕方ない取引といこう……って、え?」


「だから、黙っててあげる」


「本当か!?」


「ええ、でも、その代わりに頼みがあるの」


「え?頼み?」


「私もその脱獄に参加させてくれないかしら?」


「え?なんだ?お前も脱獄したいのか?」


「ええ。したいわ。実はあなたが色んな囚人達脱獄の話を暗示的に持ち掛けていたことを知っていたのよ。だから私はあなたに近づいたの」


「どうしてだ?どうしてここから出たい?多くの奴は出たいとは思っているようだが、ミスを恐れているみたいだ」


「それは……」


 彼女はその後の言葉が出なかった。どこか彼女はナンバー9を警戒していたようで、チラチラと彼のことを見て、言うことを憚っていた。ハンスはそれに気が付いて、


「まぁそれはいい。話を戻そう。本当に協力してくれるのか?」


「ええ。明日、またここで話さない?二人きりで」


 彼女はナンバー9を見て言った。ナンバー9は彼女に警戒されていることに気が付いて、苦笑いして、言った。


「あはは。僕はお断りってことだね」


 ナンバー44は彼の言ったことを無視して、どこかへ去って行った。ナンバー9は、ハンスの顔を観察してから言った。


「君、明日、行くのかい?」


 ハンスは何やら考えているようだった。ここの監獄で信頼できる人物は早々にはいなかった。ましてや脱獄するとなると、より信頼できる人物は少ない。いつ自分を裏切る者が現れてもおかしくはないのだ。ここの監獄で、暗黙の了解とされていたのは【全ての人間を信じてはいけない】ということだった。

 しかし、ハンスは今、早急に仲間が欲しかった。そして塔の中に看守がいるのかどうか、確認するためには少なくとも、二人は必要だった。だから、ハンスは彼女の誘いに乗ろうとしていたのだった。


「俺は行く」


 ハンスはどうしても焦りを捨て去ることが出来なかった。だから彼女と一刻も早く手を組むことで何か糸口が見つかるのではないかと思っていることは確かだった。

 ナンバー9は焦ったハンスを宥めるようにして言った。


「そうかい。でも僕はお勧めはできないな。なぜなら——」


 しかし、ハンスは彼の言うことを遮った。そして彼のいつもの冷静な口調に苛立って、言った。


「でもこのままじゃ何も変わらないんだ!俺は早くここから出なくちゃいけない!それに仲間だって必要だ!一人じゃここから出ることは難しいんだよ」


「それなら焦らず、確実な方法をとった方がいい。君の命を粗末に使ってはいけない」


「それじゃ遅いんだよ!仲間が必要なんだ!」


「気持ちは分かるが、それだと……」


 ハンスは脱獄には協力してくれない姿勢であるのに、「気持ちが分かる」なんて無責任な言葉にさらに怒りを感じた。


「気持ちが分かるだと?何言ってんだ?お前はさらさら出る気なんてないじゃないか!知ったような口を聞かないでくれ」


「……すまなかったよ。でも、僕はそんなつもりで——」


 ハンスは苛立って彼の言葉を聞くことなしに、一人で戻ってしまった。

とりのこされたナンバー9は静かに、下を向いて、悲しそうに溜息をついた。それから昼の労働の時間がやって来て、足を動かした。

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