Chapter.2 Rain

 雨。ざあざあ降りしきる、雨。勢い良く流れていく川は、濁りきってしまっていて何も見えない。その上の橋で、黄色い雨合羽は立っていた。長靴を履いて、ただただじっと立っていた。まるで何かを待つかのように。


 しばらくして向こう際から、人影が近づいてきた。傘をさして、スマフォをいじりながらやってくる。不用心にも程があるだろう。その人はそんなことをお構いなしに、歩きながらスマフォをいじり続ける。退屈そうに、あくびをしながら。

 足が橋に差し掛かる。そのまままっすぐ、目をスマフォから離すことなく、歩き続けようとしたとき。ふいにその足が橋の真ん中で止まる。目の前にじっと動かない黄色の雨合羽が、こちらに穴が開くくらいに目を向けているのだ。じっと、じぃっと。それを避けて通ろうとする。が、その足は再び黄色の雨合羽によって止められる。くぃ、と服の裾をそちらへ引っ張られる。

 苛立たしげにそちらの方を見る。するとその手に握られていたのは、かなり大きめの『スタンガン』。バチバチと音がなっている。電気がバリバリと鳴る。

 それを確認した刹那、痛みと『痺れ』がやってきたと同時に、何も考えられなくなった。


 黄色の雨合羽は、動かなくなった抜け殻を、ただただじっと見つめていた。何をするでもなく、手を出すわけでもなく、その場から立ち去った。


 あとに残っていたのは、ずぶ濡れになった抜け殻だけ。





「いやあ〜…雨だね」

「洗濯物、早めにしまっといて正解だったな」


 いつもの日常、いつもの会話。凪たちの家では、平凡な日常が流れていた。窓の外から見える土砂降りの雨を眺め、廻間はうげえ、と声を上げる。どうにも廻間は雨が好きではないようで、こうした土砂降りの日は、決まって凪か嵜にべったりくっついている。何が理由かはわからないが、いつもこうなのだ。くっつかれている凪や嵜は、あまり良いようにはしていないようだが。今日も今日とて凪の背後にくっついている。嵜がいればそっちに行っていただろうが。


「雨って嫌なんだよねえ」

「散歩できないからか」

「んーん、ちがくて。なんていうか、トラウマ?」

「へぇー……」


 廻間のその言葉を、至極どうでもいいように聞き流す凪。だが、直後に何かに気づき、廻間に問うた。


「トラウマ?」

「そ。多分だけど」

「……」


 ホントいやになっちゃうわあ。廻間は気だる気なトーンでそういう。ため息をつきながら。何でもないように放たれた、トラウマという言葉に、凪はどうにも引っかかるようで、再び廻間に問うた。しかめっ面をしながら。


「お前昔なんかあったのか?」

「え」


 その一言に、廻間はぴたりと動きを止めてしまった。もしかして地雷を踏んでしまったのだろうか、凪は「おい廻間?」と声をかけた。


「……」

「廻間?おい大丈夫か」

「え?っああ!なんの話だっけ?あはは」


 カタカタと震えはじめ、指先が白くなり始めたとき、本気でまずいと思ったのか、凪は少し大きめに廻間の名を呼ぶ。瞬間はっと廻間は戻ってくる。少しごまかすように笑いながら。


「……大丈夫か?」

「なんにもないよ、なぁんにも。あ、僕お菓子作ってくるね!ドーナツ食べたくなっちゃった」

「え、ああ、わかった…」


 若干早口でそうまくし立てると、 廻間はさっさと調理場へと向かっていってしまった。その後ろ姿を、凪は首を傾げて見守るしかなかった。



 その調理場へ向かった廻間は、調理場へつくなりずるずると落ちていく。うずくまるように座りこんでしまった廻間は、長く大きいため息をついて頭を抱える。


「……雨って、ホント嫌」


 廻間の脳内には、『あのときの光景』がぐるぐるとかけめぐっていた。振り払っても振り払っても、その時の光景は廻間にまとわりつく。まるで、『忘れるな』と言わんばかりに。廻間にとってそれは、ただの重たい鎖でしかなく、自らの足と体を縛り付ける鎖でしかなく。ひたすらに目をそらそうと、逃げようと、振り切ろうとする。だけどそれはいつも無駄に終わる。どうやっても、光景は廻間にまとわりついてくるのだ。しつこいほどに。


「ホント、嫌になる」


 だから雨の日は嫌いだった。どうやってもあの光景が思い浮かばれるから。廻間を『廻間たらしめる記憶』は、廻間という存在をそこへ縛り付ける。どうあがいても、廻間はそれから逃げ切ることなどできないのだ。


「……」


 廻間はその場にうずくまったまま、睡魔に襲われて眠り込んでしまった。





 目の前の少女に、手をひかれる。満面の笑顔を咲かせた少女に。少女は『彼』の手を引いてどんどん走っていく。その間もかんらかんらと笑っている。時折こちらの方に、そのきれいな笑顔を向けて。それが楽しくて、それだけなのに楽しくて。いっしょに走り続けた。

 だけど、次の瞬間には。目の前が赤く染まって、少女はひどい有様になって。赤く、赤く染まって。信じられなくて、喋らなくて、動かなくて、『』になって。土砂降りの雨が降り始めて、少女をつぶした『』はもうすでにいなくなってて。

 少女の親からはひたすらに罵倒され、ひたすらに殴られ、ひたすらに蹴りつけられ。誰も助けるものなどおらず、彼はそれを受け続ける。たとえ骨が折れても意識が薄れようとも、それは続く。何も悪くないのに、悪いのは潰したほうなのに。


 僕は望まれなかった、望まれなかった。始めっから、誰からにも望まれなかった。たとえともだちができたとしても、途中でいなくなる、消える。そのたびに理不尽な目にあい続ける。『僕が僕で有り続ける』限り。どうしたら良かったのか、どうしたら良かったんだろう。つかれた、ああ疲れたな。



『僕』は『僕』を───やめたい。





「廻間!」

「うわああっ!!」


 がばっと身を起こす。そこはあまり見慣れぬ場所だった。でも知っている場所だった。隣を見やれば珍しく焦った表情の凪。今自分は、彼の部屋にいるらしい。


「…ほんとに大丈夫か?」


 そう凪は心配そうに声をかける。体はひんやりとして、それでいて汗でぐっしょりと衣服が汚れて気持ちが悪い。指先の感覚はすでになく、どこか吐き気すらも覚える。なんだか胸が苦しい。


「顔の紙、張り替えようと思ったんだが、流石に顔を見るのは気が引けてな。お前が前に興味本位で買ってきた、夜店のお面で代用してるんだが……」

「へ?あ、ああ、どうりでなんかおかしいなと…」


 目の前の視界が、いつもより『開けている』感覚がしていたのは、気がついていた。けどなぜなのかはわからなかったが、まさか夜店のお面だったとは。これなんのお面だったっけかな。


「……ウルトラマソの面」

「今この状況かなりシュールすぎない?」

「諦めろ」


 はあ、と凪はため息をつく。なんだか今日はため息祭りだなあ。そう廻間は思った。


「つか、調理場でうずくまって寝るやつがいるかっ。寝るなら部屋で寝ろっ」

「ご、ごめんごめん!いつの間にか寝ちゃってたみたい……あはは」

「あははじゃねーよ」


 しかめっ面をして凪は廻間を小突く。そのまま立ち上がり、乱雑にズボンのポケットへ手を入れ、出入り口である扉の前へ向かう。


「おめーは今日一日そうしてろ。どーせいつもの『貧血』だろ。菓子はまた今度作れ。で、今日の飯は鉄分豊富の献立な」

「具体的には?」

「レバニラ炒め」

「レバーかぁ…」


 食わせるからな。そう念押しして凪は、今度こそ部屋をあとにした。残された廻間は、いつまでも扉の方を見続ける。そして大きくため息をついた。


「また、あの夢」


 廻間はくしゃりと髪をかきあげる。彼にとって、あの夢というのは、振り払っても振り払ってもやってくる、一種の『トラウマ』であった。定期的にその夢はやってくるものだから、時期になるとこうやって廻間は貧血を起こし、倒れてしまう。またあるときは気絶するように眠り込んでしまう。今回は後者のパターンだったのが、幸いだったか。先程は凪に嘘をついてしまった。素直に貧血じゃなくて、眠り込んでしまっただけ、といえばよかったか。レバーは苦手なのに。

 廻間は非常用につけられた、ウルトラマソの面を外す。寝るときや、風呂に入るとき以外に素顔を『出す』など、もう随分久しいことになった。スースーして、落ち着かない。白い紙がない視界とは、こんなものだったか。


「まさかこれが、役に立つなんてなあ」


 廻間はなんとも思ってないような声で、ウルトラマソの面をするりと撫でる。この面も、随分前に手に入れたものだ。その時の記憶はおぼろげけれど、確か『女の子』がくれた気がする。あれは何という名前の子だったか。今となっては遠い記憶の彼方。思い出そうとしても、もう思い出せないのだろう。かぽっとまた面をつける。誰かが急に来ない、なんてことはないから。


「いるんでしょ、あけぼの

「バレてた?」


 曙、と呼ばれて出てきたその男は、姿を現すなり、てへへと笑ってごまかす。それが気に入らないのか、廻間は少し不機嫌な態度を取る。

 彼───曙は、凪と嵜の従兄弟に当たる存在である。彼らが復讐の道に進んだとき、それを止めるでも諭すでもなく、ただ、そっか、とだけつぶやき、彼らの支援をわずかながらだがしている。また廻間とは前から面識があったらしく、軽口を叩きあう仲であるようだ。もっとも、何がきっかけで出会い、何がきっかけでそこまでの仲になったのかは、全く謎である。本人たちも「いつの間にか?」としか言わないので、本気で覚えていないのか、わかってないのか。

 ただこの人物、実は数多の拷問を網羅してきており、そしてそれらの拷問を無差別に繰り返してきた、拷問マニア。凪と嵜が殺人鬼をいつものように殺してしまうことに対し、仕方ないとは思いつつも、なんで殺してしまうのかと不満も募らせている。せめて拷問させてから殺してくれ。常々そう思っている。だがあえて言わない。これは彼らの復讐なのだから。


「で、なんのようかな?変態」

「酷いな、見舞いに来てあげたのにさ」

「見舞いごときでお前が来るとは思えないんでね」

「はは、バレてら」


 察しがいいなあ、と笑って頭をポリポリかきながら、曙は廻間に近づく。そういえばどこから出てきたのだろうか。きっと聞いても「そこから」と、答にならないのだろう。


「あ、ウルトラマソ。あったんだ」

「まあ。凪が見つけてきたらしいけど」

「どこにあったんだろ」

「さあ?というか、早く用があるならさっさと言えって」

「ああごめんごめん。えぇっと、廻間って『雨合羽の殺人鬼』って知ってる?」

「……いや、初耳だけど」

「んーん、流石にまだ仕入れてなかったか。この間から、雨の日だけに現れるのがいるらしくて」


 ただただ雨が降る中、黄色の雨合羽を着てぽつんと立つそれは、自分の視界の近くに他者がやってくると、手にするスタンガンで殺害。その後は何をするでもなく、放置してそこから立ち去る。次に人が通るときには、スタンガンによって殺されたその遺体は、いつの間にやら何処かへと消えている…らしい。何が目的なのかも、対象物ですらも定まっていないその殺人鬼を、曙は『雨合羽の殺人鬼』と呼ぶことにした。ありきたりなネームだが、とてもわかりやすいのでいいだろう。


「で、そいつがどうしたって?」

「この前そいつに会った」

「……詳しく」

「実際会ったと言っても、会話したわけじゃないけどね。2、3日前のことさ」


 本降りの雨が降っている日だった。その日の午前中はひどく晴れていたのに、それが嘘のように本降りの雨。曙はそんな日に限って出歩いていた。どこへ行くでもなく、ふらふらと。そんなときのことだった。

 ふと気がつけば、少し離れたところに、ぽつんと佇むだけの、がいた。何をするわけでもなく、ただただぽつんと、そこに茫洋と在った。曙はなんとなく近づかないほうがいい気がして、あえてそちらには行かずに、物陰に隠れてそちらを見ていた。ほんの数分もしないうちに、別方向から別の人間がそちらへ向かっていったが。

 その人間が黄色の雨合羽の目の前に行ったとき、状況は一変した。突如黄色の雨合羽はゆらりと動き出し、懐から何かを取り出す仕草をすれば、取り出したそれを歩いていたその人間に押し付けた。押し付けられた人間は、何かをしたその後、地面に倒れ動かなくなった。黄色の雨合羽はその後何をするでもなく、そこから立ち去った。


「で、調べたら同じような目撃情報がいくつか。それで確信した」

「一体なんのために、だろうね」

「さあて。そいつと知り合いじゃないし、話したこともないから、なんとも」

「……何をするわけでもなく、ただ殺すだけ。遺体の処理は誰がしてんだか」

「君のほうで調べる?」

「体調が元に戻り次第、かな。流石に今のままじゃ部屋を出ることすら危うい」

「君ほんとよく倒れるなあ。輸血してもらったほうがいいんじゃ?」

「だから今日のご飯はレバニラなんだよ」


 レバー苦手なんだよなあ。廻間はため息を漏らし、ほおづえをつく。ウルトラマソの面が、ほおづえのせいで少しばかりずれる。顕になる口元(といっても、それほどでもないが)。


「廻間、ウルトラマソ」

「え?あ、ああ。よっと」


 曙にトントンと示され、廻間は面をもとに直す。その後はほおづえをつくのをやめ、ゴロンと寝転がり両手を頭の下にしく。そんなに明るくしてないはずなのに、部屋の明かりが、面のせいだろうか、眩しく思える。いつもの白い紙ならば、この明かりくらい遮ってしまうのだが。ああ、あとで代わりを持ってこなきゃあ。


「今日はレバニラかあ。僕は普通って感じだけどね」

「僕は嫌だ。小松菜ならまだ良かったんだけど」

「レバーのほうがよっぽどいいよ。肉だし」

「あの食感嫌いなんだよ……」

「そお?いいと思うんだけど」


 とりあえずゆっくり体休めなよ、僕は色々とやることあるからもう行くけど。曙はそう言って部屋を去っていった。今度こそ、部屋に残されたのは廻間だけだ。彼は、ウルトラマソの面を取り、素顔を顕にする。その口元はどうにもひん曲がっており、お世辞にも機嫌が良さそう、とは言えなかった。むしろますます悪くなったとさえ言える。

 廻間はこの時間があまり好きではなかった。が。なぜだか無性に、叫びたくなる。泣きたくなる。。その衝動が何からくるものなのかは、廻間ですらわからない。だから、廻間はこの空白の時間が嫌いだった。できれば、近くにだれかいてくれればいいのだが。


「そんなこと言えない、し」


 吐き出そうとしても、どうしても飲み込んでしまう。『つっかえ』があるような気がして。あまり言い出せない。それと別に、凪や嵜の前ではそんなことは絶対に言えない。どうしても、言えない。絶対に、言えない。


「…いちるー」

「はい、ここに」


 廻間はなんとなくその名前を呼んでみた。するとすぐに廻間のそばに姿を現す。心なしかその表情は和らいでいた。ただもちろん、呼ばれた一縷の方は、廻間の顔を見ようともせず、むしろ代わりの、白い紙を廻間のその素顔にかぶせた。何も知らぬ者がみたら、縁起が悪いとその白い紙を取り上げるだろう。まさに現状、そんな感じだ。


「…紙、持ってきてくれたんだ」

「言われずとも、わかっております」

「ありがと」

「いつでも、廻間さんのお側に」

「……ありがと」


 廻間は自らの顔面に載せられた白い紙を、ぴらりとつまむ。その際また素顔が顕になるが、それもすぐに隠される。ああこれだ。これが一番落ち着く。否、のだが。兎にも角にも、これでようやく落ち着ける。廻間はがばっと体を起こし、いつものように顔をその白い紙で覆い隠す。いつもの廻間が戻ってきた。


「あー、これだこれ。これじゃなきゃね」

「いつもどおりになられたようで、何よりです」


 廻間は背伸びをする。ぴんと体が伸びる。一縷はその隣で廻間の代わりの服を用意し、すぐ近くに置いた。ちなみにその服は俗に『ジャージ』と呼ばれているものである。

 多少なりとも体を動かすと、廻間は一縷に話しかける。どうやらひと仕事あるらしい。


「一縷。頼みたいことがあるんだけど、いい?」

「はい、廻間さんの頼みごとならば」

「ありがと。じゃあ、黄色い雨合羽の殺人鬼を調べてきてくれる?」

「承りました。その殺人鬼に関しての詳細は調べますので、問題ありません」

「話が早くて助かるよ。あとその殺人鬼は、2人には話さないでおいて」

「承りました。ですがなぜ」


 その問いに、廻間はにししとわらうと


「たまには僕も運動しなきゃね」


と、意味有りげに言うのだった。





 同時刻。調理場。


「……レバー、無くなってやがる」


 突如として消えたレバーの行方を知るものは、ひとりしかいない。




「廻間さんのためにレバー隠しておきました」

「グッジョブ一縷!」




続く



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