603号室
※1話目のアパートをマンションに変更しました。申し訳ございません。
わたしは顔をしかめた。
それはどう考えたって、マズイでしょ。知らない男の家についていけるわけがないじゃない。
おせちを食べるだけで終わるとは思えないし、ついてく時点で何をされても文句を言えなくなる。
「気にせんでも、変なことはせえへんよ。ゆきずりの女抱くほど、女に困ってへんし」
その言い草にカチンときた。腰に手をあて、偉そうに言い返してしまう。
「あっそう。じゃあ、連れてってもらおうじゃないの」
売り言葉に買い言葉ってやつだ。
わたしだってゆきずりの男なんかとどうこうなりたいわけじゃないけど、女としての価値がないと言われてるようで、むかついた。
そりゃあ、普段はトレーナーにジーンズなどカジュアルな格好で、仕事に行くときはブラウスにカーディガン、パンツなどで、どちらかと言うと手抜きな格好ばかりだけど、今日は違う。
久々のデート、しかも年初めだから、気合いを入れてオシャレしたんだ。
明るめのカラシ色のセーターに、灰色と黒のチェックのスカート、白いコートを着ている。足元は薄手の黒タイツと黒のストレッチブーツ。
髪の毛だって、クリスマスの直前に美容院に駆け込んで、腰まで伸びた髪を切りそろえ、ふんわりとパーマをあてて、赤系の焦げ茶に染めた。
眉も整え、化粧もいつも以上に気合いを入れた。
女として見れないほど、ひどくはないはずだ。
男はふっと笑うと、背を向けて歩き出した。
ついて来いってこと?
重箱はわたしが持ったままだ。受け取らないことで、わたしが逃げ出さないように計算してるように思えて、一層、むかついた。
このまま、男の後を追わずに、自宅に帰ってやろうかしら。
歩いて5分ほどのところにわたしの住んでいるマンションがある。
でも、逃げだしたと思われるのは癪だし、この男について来られても困る。
仕方なく、男の一歩後ろをついて歩いた。
公園を抜けて、右に曲がる。
うちと同じ方向だ。
「ねえ、この辺りに住んでるの?」
「ああ。そうやで」
「ふーん」
ということは、ご近所さん?
公園の前の道には飲み屋さんなどの小さな店が立ち並び、その前を通って、次の信号で左に曲がる。
それもうちと同じ。
歩き慣れた道なのに、今は逆にそれが落ち着きをなくさせ、キョロキョロと周りを見てしまう。
すると、男がいきなり振り返った。
「そういや、おたく、名前なんていうんや」
「わ、わたし?」
「そう。なんていうんや」
名前まで知られるのは嫌だ。着いてきてしまったことを後悔している。
どうしよう。
迷った末、下の名前だけ教えることにした。
「……カスミ」
「カスミ? 可愛い名前やな。俺は
――反則だ。
誠司と名乗った男の顔を見て、思う。そんな顔をされると、嫌だと突き放すことができなくなりそうだ。
彼は目を細めて嬉しそうに笑っていた。
どうしてそんな風に笑えるんだ。苗字も漢字も教えない、ひらがなかカタカナでしか認識できないカスミなのに。本名かどうかもわからないはず。
それでも、わたしはずる賢く、漢字を伝えない。
会ったばかりの男に本名をそのまま教えると、わたしのすべてを知られてしまいそうで怖い。
ぼそっと小さな声で、名前を褒めてもらったお礼を言うと、あとは無言で歩いた。
やがて、わたしの住むマンションが見えた。
茶色の外壁の5階建ての5階に部屋がある。エレベーターのない古くて安いマンションなので、毎日、上り下りが大変だ。運動をする機会があまりないので、ダイエットだと思って頑張ってる。
そのせいもあって、ヒールの高い靴は履かない。今日は5センチだけど、普段はもっと低いローヒールだ。
行きは下りだからいいんだけど、帰りはただでさえ疲れてるのに上りなんだ。くたくたの足で上るのは、わたしには重労働に感じる。
そんなことを考えてるうちに、マンションのすぐ前まで来て、不安になった。
まさか、同じマンションじゃないよね?
ドキドキしながら誠司さんの動向を見守っていると、彼の足はマンションの玄関口を素通りし、わたしはホッと小さく息をついた。
さすがに、そこまで偶然は重ならない。
さらに、信号を3つ渡ってすぐ、グレーのマンションの前で誠司さんは立ち止まった。
「ここやから」
ポケットから手を出して、マンションを指さす。わたしはそれを見て頷いた。
わたしのマンションより少し高く、7、8階はありそうだ。マンションの横手から後ろにかけて広い駐車場がある。
大きな玄関口は道に面してあり、中に入るととても綺麗だった。外観も綺麗で、おそらく新しい建物なんだろう。
駅からは少し離れているけど、わたしのマンションよりいいマンションな気がする。
郵便ポストを横目に見ながら、玄関ホールを抜けると、その奥にエレベーターホールがある。
エレベーターは一機。
1階に下りていたので、すぐに乗り込むと、ボタンは7階まであり、誠司さんは6階を押した。
浮遊感をわずかに感じ、しばらくしてから6階に着く。
エレベーター自体は古いタイプなのか、すぐに目的階につく最新のエレベーターに比べると、ひとつ上るのに時間がかかる。
そういうところにちょっと安心した。
オートロックでもないし、綺麗に見えても安めの部屋なのかもしれない。
比べても仕方ないことだけど、住んでる部屋にあまりにお給料の差を感じると少し悔しくなってしまう。
6階に降りると、廊下は左右に伸びていて、誠司さんは右の道を行く。
ついて行こうとすると、彼はすぐに止まった。
「ここや」
指し示された扉を見る。603号室、そこが彼の部屋だった。
表札に名前は書かれてないので、苗字はわからないままだ。
誠司さんは扉を開けて、先にわたしを促した。
「どうぞ」
「おじゃまします」
わたしは中を観察しながら上がりこんだ。
入ってすぐ、右側に扉があり、そのまま進むと左側にキッチンがある。
まな板の上には、カップ麺の空カップやコンビニ弁当の入れ物が置いたままになっていて、彼の食生活がうかがえた。
キッチンの反対側、右側には洗面所が見え、キッチンの前には小さなローテーブルが置かれている。
わたしはテーブルの上におせちを置いた。
「そこ、座ってや」
「あ、はい」
座布団も椅子もなく、床に直に座る。
奥にはガラス張りの引き戸で仕切られた部屋が一部屋あり、わたしはついついそちらも眺めてしまった。
1DKの部屋ってところだろうか。
この部屋には窓がないが、奥の部屋の壁一面が窓になっていて、明るさはある。
とそこで、奥の部屋の左奥にあるベッドに気付いた。
なんとなく、気まずい。間に仕切りがあって良かったと思いながら、目をそらした。
奥の部屋の右側には本棚とクローゼットがあり、本が多い。読書が好きなのかな。
誠司さんは音を立てて靴を脱ぎ、キッチンで何かごそごそしていた。
何してるんだろう、と思って見ると、湯呑とマグカップ、割り箸を持った誠司さんがこっちにやって来るところだった。
「悪いな、小さいテーブルしかなくて」
そう言いながら、湯呑を自分の前に、マグカップをわたしの前に置くと、テーブルの上の灰皿やティッシュ箱を床に置いた。
お礼を言いながら、マグカップの中身をひと口飲む。日本茶だ。冷えた体が温まり、ホッとする。
「おせち、広げられるか?」
「たぶん大丈夫です」
二人で食べるつもりだったので、お重と言っても二段しかなく、小さめのものだ。
二人では二段でも多いかと思って、本当は一段でおさめたかったんだけど、ちょっと作りすぎたんだよね。
男性の肩幅くらいの直径の丸いローテーブルは確かに狭いけど、なんとかなるだろう。
早速、風呂敷をほどいて、赤い重箱を取り出した。
わたしが風呂敷を畳んでる間に、待ちきれないとばかりに誠司さんが重箱のふたを開けた。
「うわ、すげえ! うまそう、見た目もきれいやん」
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