狂気の沙汰

@patton

第1話

 50前の男が犬を連れて散歩している。50前、初老と言っていい。後ろから73歳の老女が足音もなく近づき、不意に声を掛ける。「まあ、可愛い、何歳?」実の母親との15年ぶりの同居、壮絶な憎しみあい、争いの結果、大切な飼い犬を病死させ悲嘆にくれていた男は、思わず応対してしまった。


悪意を持って獲物を探しているこの国の餓鬼魂は必ずと言っていいほど背後からイキナリ声を掛けてくる。まして相手が肩を落として歩いているとあっては格好の餌食である。暫く世間話をして別れたが、その後、異変が起こる。


 いつ、どこに行っても偶然を装った、その老女に会うのである。

「あなたはスタイルが良くて素敵」「他人と思えない、息子のよう」。初老の男に歯の浮くような台詞を連発する。にぶい男も考えた。

「なぜ、毎日会うんだろう?・・・」「偶然なんだろうか」

簡単である。片方が自由に歩き回っていても、相手は立ち回りそうな所に狙いを付けてじっと待っているのである。世に言うストーカーである。


 程なくして、その女の連れ合いが死んだ。北海道から出て来て、印刷関係の仕事に就き、随分苦労したそうだが、売却出来ずに放置してある旧宅の空気の入れ替え作業中に突然、死亡したらしい。件の女はいつものようにスーパーで男を張っていると案の定、男はやってきた。老女は見つけるなり男に走り寄り、捧げていたスーパーのカゴをバシャっと床に叩き置き、とにかく夫の死を嘆いてみせる。周囲の客ががっと振り返る。まるで男が老女をいじめているかの如くみえる。

「こんなところでお聞きするお話じゃありませんので」男は買い出しを中止し、そそくさと店を出る。


 老女のつきまといは益々激しくなり、その後、一年近く続く事になる。口では夫の死を悼んでいる様なそぶりだが、そのくせ全身からは得も言われぬ喜びのオーラをばんばん出している。実際は余程、険悪な関係だったようだ。


 元旦の朝、男が飼い犬と散歩していると、40歳を過ぎて未だ独身、大手ゼネコンに務め地方の赴任先から亡き父を悼む思いで帰省している実の息子を放り投げて、又もや獲物に襲い掛かる。「オハヨー、オハヨー」男は恐怖を感じ無視する。しつこく声掛けをする。居合わせて路上で立ち話をしていたておばはんたちが応ずる。「違うの、あなた達に言ってるんじゃないの」元旦の朝からの壊滅的な不幸から何とか離脱したい男は犬とともに足早にその場を去ろうとする。無視されようと何だろうと老女は追う。自転車に乗っていて機械化されているので早い。男は一年続いたこの付きまといに辟易していた。「もう話しかけないでください!」意を決して叫んだ男に老女は「以前と違う~!」と大絶叫しながら勝手な怒りを込めて追ってくる。男は久しぶりに恐怖で心臓をバクバクさせながら愛犬ととに回避する。


家族から相手にされない餓鬼魂のような女。この国には、もうおばあさんやお母さんはいなくなった。40年近く前の日本酒のCМの如く「おじさんも男、おばさんも女」男は少年の頃、倍賞美津子のこのセリフになんとなく嫌悪感を覚えたものだが、今まさにその時代がやってきた。この国に明日はない。

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