第2話 高坂コウ
連休前は気の緩みから、虎の犠牲になる者が増加するというデータがあるらしいが、ミチルは危うくその一人になるところだった。
ゴールデンウィークが始まる前日。別の教室で行われる次の授業に備えるべく、友人A・Bと三人で渡り廊下を歩いていた時のことだ。
「虎だぁ! 虎が来たぁ!」
絶叫と形容するべき、緊迫感に満ち満ちた男子生徒の声に、休み時間の和やか雰囲気は一変した。友人A・Bはすぐさま頭からマントを被り、その場に屈んだ。ミチルもそれに続こうとして、気がついた。――マントを持参するのを忘れている。
逃げる? 虎の脚力に人間が敵うはずがない。隠れる? 虎はその優れた嗅覚で必ずや獲物を探し当てるだろう。助かる唯一の方法は、教室に戻ってマントを被ることだが、時間的に間に合うかは微妙だ。
「福本くん!」
聞き覚えがあるような、ないような声に名前を呼ばれ、ミチルは我に返った。振り向くと、こちらに走ってくる高坂コウの姿が視界に映った。彼女はマントを手にしていたが、肩に羽織ってもいた。
高坂コウ。同じクラスに所属する、口数が少ない、大人しい女子生徒。当時のミチルは、高坂コウという人物に対して、それ以上のイメージは持っていなかった。席が隣同士という関係もあり、彼女の顔を目の当たりにする機会は多かったが、言葉を交わしたことは殆どなかった。
「これ、福本くんのマント。はい、どうぞ」
手にしていたものをミチルに渡すと、高坂コウは自らのマントを頭に被ってその場に小さくなった。ミチルもそれに倣う。
高坂さんはなぜ、僕を助けたのだろう? 僕が犠牲になって虎の空腹が解消されれば、少なくともその日は確実に死なずに済むのに。
脅威が中庭に退いた事実が誰かの声により報告され、生徒たちは続々とマントから出る。助かってよかったね、とでも言うかのような微笑をミチルに向け、高坂コウは移動先の教室へ向かった。ミチルは礼を言いそびれてしまった。
その日からだ。ミチルが高坂コウに関心を寄せるようになったのは。
*
「やっぱり、うちのクラスの佐伯さんだろ。彼女しか有り得ない」
学年一の美人は誰か? 友人Bが投げかけた疑問に、友人Aは即答した。
屋上で昼食をとる生徒は少ないため、友人A・Bは周囲に憚ることなく大声で喋っている。夏は日差しがきつく、冬は風が冷たいという環境、そして逃げ場がないことが嫌忌されているのだ。マントさえあれば、たとえ虎が訪れたとしても、命の心配はしなくてもいいのに。
佐伯の魅力について、思春期の男子らしいはにかみに邪魔されながらも、二人は熱く語っている。話題にさほど興味がないミチルは、適当に相槌を打ちながら、黙ってサンドウィッチを食べる。
「別のクラスだったら、二組の前口さんも――」
友人Bが言う。佐伯も前口も、派手好きで、年齢の割にメイクが上手く、男子生徒にも気安く話しかけ、男子からの人気が高いが、女子の中には彼女に対して圧迫感を抱いている者も少なくない、というタイプの女子生徒だ。
佐伯さんや前口さんの対極に位置する女子として、高坂さんの名前を上げるだろうか。ミチルはその一点に注意して二人の話に耳を傾けていたが、その気配は一向にない。好きの反対は嫌いではなく無関心だとよく言われるが……。
空腹が緩和されるに従って、二人と共に過ごすことが苦痛になってくる。
高坂さんと昼食を共にできたら、どんなに楽しいだろう。
心中で呟き、ミチルは紅茶のストローに口をつける。愛想が悪いと思われないよう、二人の言葉に相槌を打つことも忘れてはいけない。高坂コウのことを想った後では、酷く馬鹿げた心がけに思えた。
*
高坂さんは口数が少ない、大人しい生徒だ。こちらから話しかけなければ、目的を遂げられる可能性は限りなく低い。
ミチルはそう認識していたが故に、同年代の異性に自ら話しかけた経験に乏しいにもかかわらず、彼女に話しかけることに躊躇いを覚えなかった。
お昼を一緒に食べよう。余計な言葉を付け加えてもまどろっこしくなるだけだから、シンプルにそう言えばいい。宿題を持ち帰りたくないから、今日中に言ってしまおう。善は急げ。決行するなら次の休み時間だ。もし理由を問われたら、何と答えよう?
思案を巡らせながら、友人A・Bの後に続いて教室に入ると、高坂コウが自席の後方の床に大の字に倒れていた。見開かれた双眸は瞬き一つせず、口角から一筋の血が滴っている。左胸を抉られていたので、一目で死んでいると分かった。
「でさー、市村のやつが――」
「ほら、この前四人でカラオケ行った時――」
「いや、そうじゃないって。俺が言いたいのは――」
息絶えた高坂コウの周りでは、クラスメイトたちが普段と同じ調子で、仲がいい者同士で昼食をとったり、無駄話に興じたり、午睡に耽ったりしている。
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