虎の徘徊、彼女の死体

阿波野治

第1話 虎

 開け放した窓から吹き込んでくる微風を頬に感じながら、ミチルは廊下で友人二人と話をしている。休み時間の只中の現在、教室や廊下では多数の生徒たちが談笑に耽っている。彼らはみな、肩に漆黒のマントを羽織っている。


「芥川が審査員から総スカンを食らったのは痛快だったな」


 友人Aが言う。ミチルと友人Bは頷いて同意を示す。彼らが話題にしているのは、昨夜テレビで放送されたお笑いグランプリ。


「あいつ、面白くないくせに持ち上げられすぎなんだよ。酷評されたのを笑いに変えようとしてたけど、それも滑ってたし」


 芥川ことドラゴン芥川は、最近メディアへの露出が増えている若手のお笑い芸人だが、ミチルたち三人の間では評価が低かった。


「芥川って、つまらないから滑ったくせに、わざと滑るようなことを言ったんだ、みたいなことをよく言うよな」

「そうだよな。例えばこの前も――」


 友人AとBはドラゴン芥川をこき下ろし始めた。

 ミチルは最初、首の動きで賛意を表明していたが、ほどなく無反応になった。友人AとBの非難の矛先が、ドラゴン芥川のありとあらゆる言動に向けられていることが明らかになったからだ。

 ミチルは、二人の友人が頻繁に見せる、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な発言に共感を持てなかった。大抵の物事には良い点も悪い点もある。褒めてばかり、批判ばかりなんて、そんなのは不自然だろうに。


 趣味嗜好が合致する部分は多少なりともあるものの、それ以上に不愉快に感じる言動が多いため、日常的に付き合いたいとは思わない。それが友人A・Bに対するミチルの評価だった。

 それでいて、ミチルが友人A・Bとの付き合いを継続しているのは、学校という社会において、孤独に甘んじることは望ましくないと考えているからに他ならない。もっとも、孤独に甘んじることで具体的にどのような不利益が自らに発生するかは、腰を据えて考えてみたことが一度もないので、問われたとすれば返答に窮しただろう。


 早く終わらないかな、休み時間。


 心の声に呼応するかのように、廊下の果てから叫び声が聞こえてきた。


「虎だ! 虎が来たぞ! 二階に上がってくるぞぉ!」


 生徒たちは一斉にマントを頭に被り、その場に蹲った。半歩遅れてミチルもそれに倣った。

 男子生徒の声がやんだのを機に、緊張感が急速に高まっていく。


 肉球がサイレンサーの役割を果たしているため、虎がリノリウム張りの廊下を進む時、足音は一切発生しない。だが、ミチルは鮮明に脳裏に描くことができた。体長二メートルに達する細身の虎が、皇帝のように堂々たる足取りで廊下を闊歩する姿を。


 一定の距離まで近づくと、獣臭さが感じられるようになる。どう表現すればいいのだろう。日向で惰眠を貪る猫の体毛の匂いに、禍々しさとおぞましさが付加された臭い。武器を使うことを知らず、肉食獣に怯え、逃げ惑うばかりだった猿の時代のトラウマを思い起こさせる臭い、とでも言えばいいのか。


 臭いは刻一刻と強まる。息を殺したミチルは、マントに穿たれた覗き穴越しに、一頭の虎が目の前を通過していくのを目で追った。入学当初と比べて、腹回りが相当痩せたように見受けられる。確か、もう一か月近く、獲物にありついていなかったはずだ。


 虎は階段の方へ向かった。三階に上がったのか、一階に下りたのか。覗き穴の視野は狭く、ミチルがいる場所からは状況を把握できないが、臭いが感じられなくなったことから判断して、遠くまで行ってしまったのは確かだ。


 休み時間の終わりを、授業時間の始まりを告げるチャイムが鳴ったが、生徒たちは一人の例外もなく、マントの内側で石のように身を縮め、息を殺している。


「お前たち、教室に戻れ。虎は中庭に引っ込んだぞ」


 やがて聞こえてきた足音と、それに続く男性教師の声に、生徒たちは一斉にマントを取り去った。虎が中庭に引っ込んだ。それは即ち、狩りを終え、眠りに就く態勢に入ったことを意味する。こうなれば、虎は一時間程度は徘徊を行わない。


「こら、早く入れ! 授業はもう始まっているんだぞ。だらだらするんじゃない!」


 緊張から解放され、束の間の身の安全を確約されたことに起因する心身の弛緩を考慮せずに、男性教師は声を荒らげて生徒たちを急かす。


「あーあ、休み時間が潰れちゃったな」

「まあ、いいじゃん。授業時間もちょっとだけ潰れたし」


 友人A・Bの後に続き、ミチルは自らの教室に入った。真っ先に窓際最後列の席に目を向ける。自席に端然と座している高坂こうさかコウの姿を認め、安堵の息をつく。虎は教室には入らなかったのだから、彼女が無事なのは明らかなのに。

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