第15話

 あの頃は、いつもお腹を空かせていたような気がする。

 

「パパちゃん、お腹空いた」

 そう言いさえすれば、パパちゃんはすぐに何かしら用意をしてくれる。

 だがギターを弾いている時は、遠慮するけれど。そんなことができる三歳児だったことに、自分で驚く。

「そっか。もうお昼だもんな」

 パパちゃんは声を落として言う。

 襖一枚向こうで、清美が寝ているから。

 店が終わった後、客に付き合って食事に行き、早朝に帰宅した。ベロベロに酔っ払って。

 夫婦で少し言い争いをしていたが、酔っ払い相手では埒が明かなかったのか、朱音あやねが布団から出ると、清美はすでにいびきをかいて寝ており、パパちゃんがギターを弾いていた。

 弾き終わって、手を休めたタイミングで、朱音は声をかけた。

 パパちゃんは冷蔵庫を覗いて、玉子と味噌を取り出した。

 そして炊飯器に炊いた白米が入っているのを確認して、小鍋をコンロに置いた。

 そうなると作るのは、アレしかない。

「パパちゃん、あれ? あれ作るの?」

「そう、たま○○を作るよ」

 朱音はうれしくなって、パパちゃんの邪魔にならないように、横に立つ。

 パパちゃんは水道水を少しだけ入れた小鍋に、顆粒のカツオだしをひとさじだけ入れ、コンロに火を点ける。

 そこへ味噌を大匙ですくい、ふた山鍋に入れる。

 わりと強火。

「朱音ちゃん、行くよっ」

「うんっ!」

「サン、ハイッ! 

 玉子とお味噌とカツオだし!」

 パパちゃんが手早く、玉子を鍋に、リズム良く割り入れ始める。同時にふたりが小声で歌い出す。

「玉子とお味噌とカツオだし!」

 玉子は四個。パパちゃんは、大匙で小鍋の中をかき回し始める。

「いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!」


 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!


 だいたいこの辺りから、声が大きくなってくる。


 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこが……


「にゃあ!はどうしたんスか!」


「うるさいっ!」

 思わず叫んで、自分のその声で目が覚めた。


(また夢……)

 深く大きなため息をついた。

(そういえば、どうして“こねこが”で止まっているんだろう?)

 自分で“たまみそ”を作り始めてから、ずっとそうしているから、違和感も、村上の感じるような気持ち悪さもなかった。

 自分ひとりだけでは、解決する話ではない。

 それはわかっているつもり。

 ロイさんに恋をしている。そんな自分が好きだから。このあたたかい感情を、手放したくはない――ここまで朱音は自覚している。


「それでもって言うなら、オレ、朱音サンの恋を応援するっス」


 村上はそう言ってくれた。

 けれど今の自分に、その応援を受ける資格があるのかどうか、わからない。

 確認しなければならない。

“パパちゃん”である“五百蔵優爾”と、“雨の海”の主人である“五百蔵優爾”が別人かどうかをまず調べる。

 もし同一人物なら、“五百蔵優爾”と自分に、血縁関係があるのかどうかを調べる。

 たったツーステップを踏めばいいだけ。

 ただひとつ目がアウトであれば、それ相応の覚悟をしなければならない。

「それでもって言うなら」

 村上の言葉を反芻する。

(あたしに、その覚悟が出来るのかしら?)

 その覚悟を躊躇させるのは、一体何なのか……。


 *


 この日は昼から雨が降っていた。

 仕事を早々に切り上げ、朱音は“雨の海”へと急いだ。

 閉店時間を過ぎていたものの、店の灯かりは点いていた。

 ホッとしたが、同時に緊張が強まった。


「あれ、アヤネちゃん、久しぶりじゃないか?」

 カウンターにいた源三が、まず声を掛けてきた。

「こ、こんばんは」

「アヤネちゃん?」

 源三の言葉が聴こえたのか、店の隅の席を片付けていたロイさんが、慌しく朱音を出迎えに来た。

「ロイさん?」

「ああ、よかった。元気そうだ」

 心底ホッとしたような表情を見せた。その顔を見て、朱音は胸の中にあたたかいものが拡がっていくのを感じた。

「え? 元気そうだって……」

「しばらく姿を見せなかったから、体でも悪くしてるんじゃないかって思って」

「ロイさん、心配してたんだぜ」

 源三がウインクしながら言う。しかし言ってしまえば、その源三の方がよほど具合が悪そうだった。

「源三さん、どうかしたんですか?」

「えっ、オレかい? ああ、ちょっと徹夜仕事が続いてな」

「年寄りの冷や水ってヤツだな」

「うるへー」

 相変わらずの名コンビ。この店は何も変わっていない。朱音はホッとした。

「まあ、座ってな。オレはちょっと……」

 朱音に着席を促しながら、源三は立ち上がって、店の奥の部屋へ向かった。

「飯ができるまで、ちょっと横にならせてくれ」

「おい、大丈夫か?」

「おう」

 そう言って、源三はこちらに背を向けたまま、片手を上げて奥へと消えて行った。

「本当に大丈夫ですかね?」

「まあ、連日付き合いで飲んでもいたからね。アヤネちゃんは本当に最近、どうしてたの?」

「仕事で……でも前に一回寄ろうとしたら、楓ちゃんと何やら話しこんでいたから」

「楓と?」

「何となく、入りづらい感じで……」

 しばらく考え込んでいる様子だったが、すぐに思い出したらしい。

「ああ、先週だろ? 楓のヤツ、ちょっと……聞いてる?」

「結婚、ですか?」

「そうそう、ちょっとしたマリッジブルーってやつで」

 ロイさんが、楓の頭を撫でていたことを思い出す。

 カウンターのこの席で。

 胸がキュッと鳴く。

 すでに他に客はなく、店内はコーヒーの匂いよりも、珍しく炊飯の匂いが勝っていた。見るとカウンターの奥に、炊飯器が置いてある。

「このお店、炊飯器があったんですね」

 確かメニューに、米を使ったものは無い。

「ここで寝泊りすることもあるからね。源三のヤツが、お粥食べさせろってうるさくてさ」

 ロイさんは「さてと」と言いながら、カウンター奥の冷蔵庫を開けた。

 朱音はふと、“食品衛生責任者”が書かれているプレートを見た。

“五百蔵優爾”

(確認しなきゃ……)

 心臓が跳ねる。

 BGMが流れていない店内には、炊飯器からの粥が炊ける音と、外の雨音だけが聞こえていた。そんな中、朱音にだけは自分の鼓動がハッキリと聞こえる。

「あ、あの、ロイさん」

「んー?」

 ロイさんは冷蔵庫を閉めて、振り返って、きちんと朱音の顔を見た。

 笑顔。胸がキュンと鳴いて苦しい。

「いや、あの、いいです」

「なんだよー、どうしたの?」

 勇気が引っ込んだ。

「いいえ、ごめんなさい……あ、お味噌?」

 ロイさんが手にしているのは、市販の味噌パックだった。会社の昼のために買ったものと、偶然同じメーカー。

「あ、ああ。おれ、味噌汁好きなんだよね」

 カウンターの中を覗きこむ。

 玉子と味噌と、小瓶。そして小鍋。

「それは……」

「カツオだし。ほら、粉の」

(まさか……)

 嫌な予感がした。

「な、何を作るんですか?」

「ん? ホラ、源三が粥を食べる時のおかずにと思って。アヤネちゃん、“たまごまぁ”って知ってる?」

 拍子抜け。

「た、たまごま?」

「“たまごまぁ”。やっぱ関東ではそう言わないのかな。おれのお袋の実家が東北でね。よく作ってくれたんだ」

「へえ……」

“たまごまぁ”。初めて聞いた……ような気がする。

 けれど。

(あれ? 本当に初めて……?)

 ロイさんは小鍋に深さ一センチメートルほどの水を入れ、そこにカツオだしと味噌を大匙で二杯ほど、わりと乱暴に入れた。そしてそれらを溶かしながら、コンロに火を点ける。

(え、これ、まさか……)

 強火だから、鍋肌がすぐにチリチリ言い出す。

 そしてロイさんが、玉子を割り入れる。

「サン、ハイッ、 

 玉子とお味噌とカツオだしっ」

(これ……!)

 彼はリズムを取りながら、玉子を割り入れる。

「玉子とお味噌とカツオだしっ」

 玉子を入れた直後は、大匙で中味をかき回す。

 

「いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら おならがブウ!」


(おなら!)

 ロイさんは小声で歌っている。

 だが――朱音は思い出した。


「い、「いーちにーぃ」」

「!」

「「さんまるしいたけ」」

 朱音が突然一緒に歌いだしたことに驚いたロイさんは、それでも手を止めずに、朱音を見た。そして、小さかった声の音量をもう少し上げた。


 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら ○○○○○○○!


 最後はロイさんが「おならがブウ」、朱音が「こねこがにゃあ」で、重なった。それにロイさんはさらに目を白黒させたが、何かを思いついた表情になった。

 

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 

 今度は、ふたりで「こねこがにゃあ」になった。

 

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!


 ロイさんは、目を輝かせている。

 朱音の記憶の引き出しが、次々と開いていく。

 苦しいが、胸が高鳴る。


 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこが……


「!」


 ふたりの合唱が同時に止まった。

 そして何となく見たのは、奥の部屋の扉。


 しかし何も起こらない。


 ロイさんは鍋を火から下ろした。

「そうだ、思い出した」

 同時に朱音も思い出している。胸が苦しい。

「“おならがブウ”だとイヤだって言っていたから、“こねこがにゃあ”に変えたんだよ」

 そう。“おなら”より“こねこ”の方がかわいい。

「それで最後まで歌わないのは、アイツ……清美が怒鳴り込んで来るからだ」

――ああ、清美の名前が出てしまった。

 朱音はキュッと目を閉じた。

 

 あと少しだというのに、清美が襖を開けて怒鳴る。

「うるさいわねっ! このごく潰し共がっ!」


 それが怖くて、嫌で、だから最後の“こねこがにゃあ”だけ言わない。

 ところが、そのタイミングが一番おいしく作ることができる。

(そして、“たまみそ”は、あたしが言い出した名前だ……)

 大きくなってから、誰に言っても“たまごまぁ”では通じない。玉子と味噌で“たまみそ”。それでようやっと、味のイメージが伝わる。だからそう紹介しているうちに、それが本当の名前のように思えていた。


(ああ……ロイさんは……)


 ロイさんは、戸惑っている様子だった。何から言っていいのか、言葉を探している様子がわかる。

「あ、アヤネちゃん」

「はい」

「アヤネの漢字は、“朱色”の“シュ”に、“オト”?」

「……はい」

 それを聞いて、ロイさんは慌ててカウンターから、外に出て来た。そして朱音の横に立ち、それからどうしていいのかわからない様子で、アワアワしている。

「そ、その名前、おれがつけたんだよ! あの女……あ、ゴメン、清美がばかみたいな漢字をあてるっていうから、おれが慌てて役所に出してさ……ああっ」

 朱音はしばらく俯いていたが、決心をして顔を上げた。目の前に、うれしそうな顔をしたロイさんがいた。しかも、泣いている。

「パ、パパちゃん……?」

「朱音ちゃんか!」

 うれしそうに叫び、ロイさんが朱音をひしっと抱きしめた。

 ずっとずっと願っていた。

 こうしてロイさんに抱きしめられることを、夢見てきた。

 それなのに――。

「ずっと、ずっと、気にしていたんだ。朱音ちゃんがどんな暮らしをしているのか、どんな風に育ったのか……」

 ロイさんの鼻声。体が小刻みに震えているのを、ダイレクトに感じる。

「パパちゃん……」

 逡巡したものの、朱音もロイさんを抱き返した。

 本当なら、恋人として、愛するひとを抱きしめたかったのに。

(でも、でも、もういい……)

 これは“失恋”。

 それでも、もう、他の気持ちで満ち足りてしまった。

(あたしはあの時、“羨ましい”と思っちゃったんだ)

 楓が、ロイさんに頭を撫でられたあの時。

 娘として、父親であるロイさんから頭を撫でられた楓のことが、心の底から羨ましかったのだと。


「あ、あのー……」


 ふたりは抱きしめ合ったまま、声のする方向を見た。

 奥の部屋から、源三が顔を出していた。

「お取り込み中、悪いね。ようやっとふたり、想いが成就したのかな?」

「いやっ! それっ、違っ!」

 朱音とロイさん、同時に離れて、否定した。そしてお互いを見て、大笑いしてしまった。

 そんなふたりを見ながら、源三はわけがわからずにキョトンとするだけだった。

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