第14話

「オレが言っちゃアレですけど、朱音あやねサンちも複雑なんスね」

 

 自分の母親が、自由奔放であること。

 自分を育てたのは、祖父母であること。

 三歳の頃、自分の父親だという“五百蔵優爾”と一緒に、母親が祖父母宅に現れ、自分を連れ出して、しばらく親子三人で暮らしていたこと。

 その“五百蔵優爾”のことを、“パパちゃん”と呼んでいたこと。

“たまみそ”は、そのパパちゃんの得意料理であったこと。

 やがて母とパパちゃんが大喧嘩をして、パパちゃんが出て行ってしまったこと。


 仕事帰り、村上と同じ電車になった。

 いつもなら避けるが、この日は何となく話を始めてしまった。

 ここ数日間、朱音は“雨の海”に行っていない。

“パパちゃん”である“五百蔵優爾”と、ロイさんである“五百蔵優爾”が別人だという可能性が出て来たというのに、引いている。

 浮かれているでもなく、凹んでいるでもなく、しかし様子がおかしいことを指摘された。

 最寄り駅で降り、何となく駅前のチェーンのコーヒーショップに入った。


「朱音サンち“も”って?」

「オレんちも、似たようなもんです」

「似たようなもんって……」

「親父、五回離婚してるんス」

「五回!」

 それは多い。清美ですら、三回だ。

「だいたい親父の浮気で別れてるんス。似てるでしょ」

「そ、そうね」

 清美がそうであるように、村上の父親もイケメンだったりハンサムだったりするのだろうか。

「オレは最初のヨメの息子っス」

「そうなのね」

 相づちを打ちながら、注文したカフェラテを飲む。まずい。ラテアートとして、クリームでかわいい熊が描かれていたから、朱音はそれを鑑賞するだけにした。

「で、朱音サン、どうなんスか?」

「どうって……」

「“パパちゃん”とロイさんが、同姓同名の別人。なら問題無いんス」

「はい」

 何故かかしこまってしまった。

「問題は、生物学上の父親だった場合」

「でもだから、そうじゃない可能性が出てきたって」

 数え歌の最後が違う。

「確かなもんじゃねえじゃん」

「は、はい」

「“こねこ”だろうが、“おなら”だろうが、半世紀以上生きてるんス。色々混ざってることもあるじゃないっスか」

「そ、そうだけど」

「オレに言わせれば、“五百蔵優爾”なんて名前、一生かかっても会えるかどうかわからないような、珍しい名前なんスよ」

「……そ、そうだけど……」

 朱音だってそう思う。“五百蔵”と言う苗字にも出会えるかどうかわからないのに、名前の漢字に“爾”を使っている人物、ふたりも遭遇するなどと。

「まあいいや。話を戻すっス。生物学上の父親だった場合、まあ、結婚は出来ませんよね」

「そ、そうね」

「子どもだって作れません」

「い、いきなり生々しいわね」

「え。だってやっちゃったら、できるわけっスから。ロイさんと付き合えたら、そりゃやるでしょ」

「そりゃそうだけど」

 しかし朱音は、この時点でロイさんと寝たいという願望が希薄だった。美人でも可愛らしくもない自分が、あんなハンサムと――だなんて、想像が難しい。

 そういうことになれたら、もちろんうれしいが。

「血が近いといろいろ問題あるっスよね。それじゃ、朱音サンの生物学上の父親が、パパちゃんじゃなかった場合」

「え」

「お袋さんがビッチならありえるわけで」

「……」

 事実ではあるが、他人に実母のことをそう表現されるのは複雑だ。

 でもその場合は、何も問題ないわけで――

「その場合は、子どもを生んでも問題ないっス。でも結婚は出来ません」

「え? 何で?」

「民法、直系姻族間の婚姻の禁止!」

 ピシャリ。突然の法律用語に、朱音は思わず居住まいを正した。

「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第七百二十八条又は第八百十七条の九の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする」

「?」

 自分の眉間に皺が寄るがわかった。民法は勉強したつもりだが、そこまで詳しく憶えていない。

「直系姻族……姻族っつのは、結婚によって出来る親族っス。例えば、オレの親父がオレの母親と離婚して、次の嫁さん……Bさんとするっス。Bさんには連れ子がいて、オレがその子にひと目ぼれしたとしても、結婚出来ないんス」

「え、血が繋がっていないのに?」

 村上は、乱暴にコクンと頷いた。

「え? そ、それじゃ、村上クンのお父さんとBさんが離婚したら、そしたら結婚出来るんじゃない?」

 村上はひとつ大きなため息をついた。

「朱音サン、ちゃんと聞いていてくださいよ。“姻族関係が終了した後も、同様とする”って、民法にはそう書いてあるんス」

「婚姻関係が終了した後もって」

「離婚したり、死別して婚姻関係終了届けを出したりしても、っス」

 つまり、村上はBさんの連れ子とも入籍出来ないし、もちろん一度父の妻になったBさんとも、一生、入籍出来ない。

 すなわち、“五百蔵優爾”であるパパちゃんが朱音の母親である清美と一回婚姻関係を結んでしまった以上、パパちゃんと朱音は入籍出来ない。

「え……そんな、でも」

「こっそり出したって、結局はバレますからね。でも方法があるっス」

「え?」

 村上は声を小さくした。

「“事実婚”にすればいいんス」

「じ、事実婚……」

「いわゆる“内縁の妻”になるってことっス。まあ最近じゃわざと事実婚を選んでいるひともいるらしいんスけどね」

 朱音は視線をラテアートに落とした。熊は潰れてしまって、よくわからない生き物になっている。

「いろいろ不都合があるんス。子どもができても、夫婦どちらかしか親権を持てないとか、ダンナさんが手術する場合、奥さんが同意書にサイン出来ないとか、配偶者控除が受けられないとか」

 村上の言葉が、頭に入ってこなくなった。

 普通の結婚が出来ると思っていた。

 確かに母親はおかしいし、家庭も普通ではなかったが、自分だけは普通の男性と恋をし、結婚式を挙げ、子どもを生み育てる――そんなことは当たり前に出来ると、頭のどこかで思っていた。

 なのに。

「それでもって言うなら、オレ、朱音サンの恋を応援するっス」

「え……」

 思わす村上の目をみたが、それ以上の返事が出来なかった。視線をまた落として、そのままおかしな生き物になったラテアートを見つめた。

「同姓同名の別人、ならいいんスけどね」

 静かにそう言った村上が、どんな表情でそれを言ったのか。

 朱音は顔を上げて見ることができなかった。


 結局カフェラテにはほとんど口をつけることなく、ふたりは店を出た。

 駅から流れて出てくる家路に向かうひとたちの波に紛れ、朱音たちは無言で歩いた。

「あらっ。歌音クン」

 聞き覚えのある明るい声が聞こえた。

 見ると途中にある酒屋から、定食屋“棗”の主人、ナツメが出て来たところだった。

「あと先日いらっしゃった、田中さん」

「こんばんは……あっ」

 ナツメは、小さな子どもを抱いていた。新生児ではないが、“赤ん坊”と呼べるくらいの、幼い男の子。

「こんばんは。うちの子なんです」

 愛想のいい子どもらしく、朱音の顔を見ると、とろけるような笑顔になった。

「まあ、かわいい! ねえ、歌音クン……」

 しかし、見ると村上は視線を子どもから外していた。

 そしてそんな村上に気づいたナツメも、微妙な笑顔になっている。

「主人の使いで、こちらに買い物に来ていて」

「そうなんですね」

 何となく気まずい。

「ねえ、歌音クン」

 ナツメは遠慮がちに、村上に声をかけた。

 彼は初めて彼女を見た。村上は平静を装っていたが、かくれんぼで鬼に見つかった子どものような顔だと、朱音はなんとはなしに感じた。

「お父さん、元気?」

 村上は乱暴にガクンと頷いた。

「そう。お酒、飲みすぎてない?」

 再度、頷いた。

「歌音クン、またお店に来てね。またお魚煮るから」

 三度、頷く。

「それじゃ、失礼します」

「あ、はい」

 朱音には屈託のない笑顔を見せ、ナツメは駅へ向かった。

「村上クン?」

 見ると村上は朱音に背中を向けていた。


「親父の三番目のヨメさんなんス」

「えっ」

「親父とダメんなって、一昨年、再婚したんス」

「そ、そう……」


 朱音は思い出していた。

 先日“棗”を訪れた際と、今の村上の態度。

 そして、民法の一部をあんなにスラスラ言えたこと。

 実の父親かもしれない男に恋をした朱音に、「応援する」などと言えること。


(村上クン、ひょっとしてナツメさんに……)


 それは考えてはいけないことっス。

 彼の背中がそう語っているような気がして、朱音はそれ以上考えるのをやめた。

 途中で通り過ぎた“雨の海”は、すでに閉まっていて、店内は暗くなっていた。


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