第13話
仕事帰り、朱音は不機嫌な顔をして、待ち合わせのコーヒーショップに入った。
いつもの、清美からの呼び出し。
(お土産なんていらないのに)
コーヒーショップの中は、ガラガラに空いていた。
ここのコーヒーは、あまり好きではない。
(ロイさんのコーヒー、飲みたいな)
そう思いながら、ロイヤルミルクティーを買う。
見ると、前と同じテーブルに清美がいた。そして立ち止まって、清美の話に付き合っている、若い男性店員も、前と同じ。
(この間見た夢に似てる……)
だが若い店員は、いつも通りの苦笑い。うん、夢ではない。朱音は安心してしまった。
清美の席に近づくと、店員はホッとしたような表情を浮かべた。
「い、いらっしゃいませ」
すると清美がムッとする。
確かに彼女は若く見えるし、美人ではあるが、夢の中ほどではなかった。
「まったく。気が効かないわね」
夢の中の清美は余裕綽々だったが、現実はギラギラしている。まるで飢えている獣のよう。獲物――若い男を捕らえるのに必死。
呆れながら朱音が清美の対面に座ると、清美は朱音を真正面からジッと見た。
「……な、何?」
「アンタ、本当にアタシのお古でいいの?」
「はあ?」
思わず大声が出てしまった。
夢の中と同じ台詞。
(お古?)
それは一体何のこと?
(まさか……ロイさん……)
しかし。
清美が、朱音の首元に手を伸ばした。
朱音はネックレスをしていた。細い十八金。あまり流行っているデザインではないが、シックで落ち着いている。
「これ。懐かしいわね。ばあさんからもらったのよ」
そうだったと聞いている。祖母から清美に、高校入学の祝いか何かで買ってもらったとか。
「でも地味なのよねー! だから置いてきたのに」
清美は高校在学中に男と家出した。そのネックレスを置いて。
地味ではあるけれど、朱音の好きなデザインだった。一連の由来は聞いたものの、モノに罪は無い。だから使っていたのだけど。
(今日してこなきゃよかった)
今ここで、ネックレスを引きちぎりたい気持ちになった。
「で、何?」
用件を終わらせて、さっさと帰ろうとした。
「あ、そうそう。これ!」
清美は傍らに置いたバッグから、紙切れ一枚とボールペンを出してきた。
「……は?」
薄い白地の書類。「婚姻届」と書いてある。
「証人のところに、ヨロシク」
「……」
朱音はバッグから、ふだんから持ち歩いている印鑑を出した。そして清美からボールペンを受け取り、乱暴に書き出した。
こんなことは、珍しいことではない。
「アンタ、相手の名前も見ないのね」
「……」
すぐに離婚するかもしれないのに?と喉まで出掛かったのを、堪える。うるさいから。どうせ、また呼び出されて、離婚届の証人を書かされるに決まっている。
言われて一応相手の名前を見るが、頭に入ってこない。
「……あのさ」
「な、なによ」
改めて朱音の方から話が始まることが珍しいから、清美は一瞬怯んだ。
「五百蔵さんって、憶えてる?」
「イオ……?」
すぐには、思い出せないらしい。
「五百蔵優爾さん」
「ああ、ユージか」
胸がトクンと跳ねた。
自分が今、何を訊こうとしているのか――朱音はそれを思い出してしまった。
「なんかイオザキとかイオロギとか、そんなヘンな名前。なんか何百の蔵、みたいな漢字だったのよねぇ。金持ちそうな名前なのに、全然金持ってなかったけど」
そう言いながら、げひゃげひゃ笑う。品が無い。
「一時期は自分の苗字にもなったでしょうに、よく忘れられるわね」
「だって結局、離婚届に書いたくらいで、他には書く機会なんてなかったもの」
呆れる。しかし気を引き締めて、本来したかった質問をする。
「……そ、そのひとが、あたしの父親なの?」
「へ?」
「その、五百蔵優爾さんがあたしの父親なの?」
胸が苦しい。早く答えが欲しい。
清美はしばらくキョトンとしていたが、
「何で今頃そんなこと……そうよ。多分ね」
「多分って何なのよ、多分って」
つい声にイライラが混ざる。
「やだ、そんな怒らないでよ。わっかんないわよ。あの頃、誰とやったとかなんて、いちいち憶えてないわよ」
ああ、そういえばコイツはこういう女だった――そう諦めるしかない。朱音は押し黙った。
「何なのよ。そのユージがどうかしたの?」
「……戸籍抄本で名前を見つけたから。どんなひとかなって思って」
「どんなって……忘れちゃったわ」
それ以上訊いても埒があかない。朱音はバッグに印鑑を戻し、席を立った。
「あ、顔はハンサムだったわ」
「ああ、そう」
「で、アンタとよく何か作ってた。その時の歌がうるさくてさぁ、こちとら夜勤明けだっていうのに。ホラ、なんつったっけ。いーちにーぃ さんまる何とか、ってヤツ」
「!」
立ち止まって、清美を見た。
「でっこんぼっこん なんとかかんとか
ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!って」
「こねこ?」
思わず清美に詰め寄る。
「な、何?」
「こねこがにゃあ!って、言った?」
「そ、そうよ。それがうるさくて……」
「ありがと!」
「へ?」
唖然とする清美を置いて、朱音は颯爽と店を出た。
(パパちゃんは“こねこ”だけど、ロイさんは“おなら”。同姓同名の別人だわ。きっとそう!)
*
午後七時になっていた。
思ったよりも早いうちに、清美の前から退散できた。
それでも“雨の海”は閉店時間がまちまちだから、朱音は最寄り駅から小走りになった。たいていは遅くまでロイさんがいるが、本来の閉店時間よりも早く、鍵が閉まってしまうこともたまにある。
駅前商店街の途中から、“雨の海”の灯りが点いているのが見えた。
楓がいるかもしれないし、源三かもしれない。他の客もありえる。
しかしいずれにせよ、ロイさんはいる。
朱音は喜び勇んで、“close”の看板の下がる店のドアを開けようとした。
――が。
「……?」
雰囲気が少々おかしいような気がした。
中にいると外の喧騒など聞こえてこない。なのに外から中の様子が何故わかるのか。説明はできないが、ただそう感じたとしか。
“雨の海”の道路に面した窓は小さい。その上蔦を這わせてあるから、中を伺うのは難しい。だが何とか隙間を見つけて、朱音はそこから店内を覗いた。
カウンターに楓が座っていた。
(楓ちゃん? どうしたのかしら?)
座っている彼女の右半身が見えるだけだが、それだけでわかるほど、彼女は沈んでいた。
いつも明るい楓の、初めて見る様子。
両手を膝の上に置き、俯いている。
一方ロイさんは、カウンターの中でコーヒーカップを拭いている。
決して楓に何か話しかけているわけではなく、しかし彼女に背を向けることはせず、黙って、微笑を湛えたまま、手元のコーヒーカップを見ている。
(楓ちゃん、泣いてる?)
楓が時折手を目元に運び、拭き始めた。
すると。
ロイさんは初めて手元の布巾と食器を置いて、左手をそっと楓の頭に載せた。
楓は少しだけ顔を上げて、ロイさんを見て、また俯いて目元を拭った。そんな娘が愛おしいのか、ロイさんは少しだけ乱暴に彼女の頭を撫でた。
横顔だけでも、楓が笑っているのが見えた。
ロイさんが楓に笑いかけている。
楓がそれに応えるように、また微笑む。
朱音は、窓から離れた。
そして、自宅へ向かって、早足で歩き出した。
ふたりは、確かに父と娘だった。
誰もが、もちろん本人たちも自覚している、親子。
そんな光景を見て、朱音は嫉妬とも、焦燥とも言える、しかしそのどちらからも遠いような、自分でもよくわからない感情に襲われていた。
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