第12話

 仕事帰り、朱音あやねは不機嫌な面持ちで、待ち合わせのコーヒーショップに入った。

 例の如く、清美に呼び出されてのこと。

(お土産なんていらないのに)

 それよりも“雨の海”に行きたかった。

 ロイさんに会いたかった。

 最近の彼は、朱音の顔を見ると、うれしそうに微笑んでくれている。

 そんな気がする。

 楓に言われたことも、そう思わせる原因だろう。

 いつも待ち合わせでしか使わない、コーヒーショップ。客はまばら。ここのコーヒーは、あまり好きではない。

(ロイさんのコーヒー、飲みたいな)

 そう思いながら、ロイヤルミルクティーを買う。

 見ると、前と同じテーブルに清美がいた。そして立ち止まって、清美の話に付き合っている若い男性店員も、前と同じ。

 前回と違うのは、嫌々付き合っているわけでは無さそうなところ。

 ふたりで顔を突き合わせて、たのしそうに喋っている。

 ほんの少し、猥雑な雰囲気にも見える。

(何なの、あのコ。前は嫌そうにしていたのに)

 ムッとする。

 おもしろくない。

 話しかけがたい雰囲気にたじろぐが、とっとと用事を終わらせて、 “雨の海”に向かいたい。

「あっ」

 清美が朱音に気づき、手を振る。一緒に朱音を見た店員は、少し機嫌の悪そうな顔になった。

(そんな邪魔そうにしなくても……)

 前は助けてあげたのに。店にクレーム出してやろうか。そんなことを考えながら、清美のテーブルに辿りつく。店員は朱音に挨拶もせずに、カウンターへ戻って行った。

「遅かったじゃない」

 清美は文句を言うが、先日とはうって変わって笑顔。

 バリでエステでも施術されてきたのか、心なしか、肌艶がよい。目じりの皺も、首筋の皺も消えている。

(な、何なの?)

 美人は楓と同じだが、彼女は清々しく、清美の場合は禍々しさを感じさせる。

 その禍々しさが無くなっていた。聖母のような美しさ。

(清美って、こんなにキレイだったっけ?)

 笑顔は、“余裕”を湛えている。後光がさしているようにすら見える。その余裕オーラを浴び、思わず朱音は逃げたくなったが、なんとか二本の足で踏ん張った。

「座んなさいよ」

「う、うん……」

 朱音は清美の対面に座った。すると清美は、朱音の目を捉え、ニッコリ微笑んで言った。


「アンタ、本当にアタシのお古でいいの?」

 

 *


 天気の良い土曜日。

 こんな気持ちの良い日なのに、朱音は暗澹たる気持ちで、駅前商店街を駅に向かって歩いている。

 足取りが重い。まるで雪道を歩いているよう。

(土曜日だってのに、何だっていうんだか)


 最悪の目覚めだった。

 跳ね起きるほどの悪夢。

(な、な、な、な……お、お古って……!)

 あまりに衝撃的な言葉だった。

 夢に出て来た清美が、最高の笑顔で朱音に言う。

――アンタ、本当にアタシのお古でいいの?――

 確かに元夫婦なのだから、やることはやったはず。それは理解できる。認めたくないけれども。

 その通りではあるけれど、“お古”というのもずいぶん猥雑で下品な表現だと思う。

 まだロイさんがパパちゃんであるとは限らないのに。

 そもそもパパちゃんが、生物学上の自分の父親とは限らない。

(あの女のことだもの)

 ロイさんが、自分の実の父でなければ、まだいい。と思う。

(ほんと、嫌な夢だったわ)

 清美からはバリから帰ってきたとのメールは来たが、返信しなかった。ロイさんのことを訊いてしまいそうだから。永いこと考えていたが、結局出さなかった。

 もっともその後の追撃は無い。おそらく朱音には土産を買ってはいない。これはいつものこと。

 最悪の気分でベッドの中でゴロゴロしていたら、スマートフォンがメールを着信した。

(まさか清美……あ)

 違った。“村上”とある。

 清美の時とは違う種類のため息が出た。

(村上クンが何……)

 ロイさんがパパちゃんである可能性を、知っているただひとりの他人。

 朱音はスマートフォンを手に取り、村上からのメールを開いた。メールアドレスは仕事で必要だったから、交換した。しなきゃよかったと、後悔してももう遅い。

 

『今日時間があったら、昼食に行きませんか?』


「は?」

 思わず声が出た。

 やはりいつもの「……っス」という語尾ではない文章が、ひどく村上っぽくないと思う。

 この日は土曜日。折角の休日。何故ただの部下と、ランチをしなければならないのか。――けれど。

(あれを知られてしまったからには、これをスルーするわけにはいかない……かな?)

 悩む。

「あ、あれっ?」

 悩んでいる間に、村上から追撃が来た。

 場所を指定された。隣の駅。最寄り駅と会社のある駅との間だから、定期券内で行ける。

『駅の北口改札、十一時半頃でよろしくお願いします』


 途中、“雨の海”の前を通った。

“Open”の看板は出ていたが、外からは賑わっているのかどうか、よくわからなかった。

(ロイさん……)

 心の中で、愛しいひとの名を呟く。あの笑みで、今もコーヒーを淹れているのだろう。このまま店に入ってしまいたい。

 けれど、これから会いたくもない人物に会わなければならない。


「うっス」


 指定された駅の改札に、村上が立っていた。

「ど、ども」

「すぐそこっス」

 やはりいつも職場で見る若者、そのまま。これがあの丁寧なメールを出す人物とは、思えない。

「あの、一体……」

「早く」

「は、はいっ」

 どちらが年上なのか。

 村上が指した店は、広くは無いが、洒落た定食屋だった。

 チェーン店では無さそうだ。この日のおすすめメニューが、外の黒板に書いてある。ドアのそばに大きな木の板が立て掛けてあり、それに“棗”と書いてあった。

「……」

「それ、“ナツメ”って読むんス」

「えっ」

 読み方に悩んでいたのが、ばれたらしい。

「わかんなかったら、訊いた方が早いっスよ。はい」

 冷たい声調で言い放ち、村上はドアを開けて先に入るように促してきた。

「あたしは……はい、ありがと……」

 さっきから、どちらの立場の方が上なのか、わからない。

 店内には、二人掛けと四人掛けのテーブル席がいくつかと、カウンター席が数席。そのほとんどがすでに埋まっていた。

(混んでるじゃない……)

 そこへ奥から従業員がやってきた。

「いらっしゃい、歌音クン」

 きれいな女性だった。

 身長は朱音よりも数センチ高いが、基本的に細い。化粧っ気が無く、顔立ちは美人というほどではないが、整っている。美人かどうかであれば、楓の方が断然美しい。

 だが“きれい”だと、朱音は思った。

 どうやら、村上の知り合いらしい。

「ウス……」

(ん?)

 ぶっきらぼうはいつものことではあるが、少々ぎこちないように感じた。

「予約ありがとうね。あの端っこの窓際の二人席、取ってあるから。座って」

 どうやら親しい間柄らしい。弟か、親戚の子に言うような口調で、その女性が言う。そして朱音を見て、ニッコリ微笑んだ。

「いらっしゃいませ。香川と申します。歌音クンがいつもお世話になってます」

「あ、はあ、田中です。こちらこそ」

(いくつくらいのひとだろう?)

 自分と同じくらいにも、村上と同世代にも、ずっと年上にも見える。

 席につくと、すぐにスタッフの若い女性が、冷やとおしぼりを持ってきた。村上が“今日のおすすめ定食”を注文したから、朱音も同じものにした。

「最近、体調はどうっスか?」

 オーダーを終えて、冷やを飲んでいたら、村上が話し出した。

「あ、ああ、おかげさまで何とか」

「やっぱ恋してる時って、違うっスよね」

 危うく噴き出すところだった。

「それでどうするんスか?」

「え、え、どうするって……」

「ロイさんへの気持ちをどうするかっていう話っス」

「……」

 単刀直入すぎる。

「本当に、朱音サンのオヤジさんなんっスか?」

「それは……まだ」

「何で確認しないんスか?」

「そ、それは……」

 確認すればいい。それはわかる。しかしどうやって切り出せばよいのか、わからない。

「私はあなたの娘かもしれない、なんて言えないのは、わかるっス。なんか確認する術は無いんスか?」

「確認する……手段?」


 考える。

・最初の妻の名前が、“清美”かどうか。

・最初の妻との間に娘がいたかどうか。その名前。

・それは何年前のことか。


「えっと、何年前なんスか?」

「え……二十……六、七年かな」

「今、三十路っスよね?」

「みそ……?」

 首を傾げる朱音を見て、村上が言い直す。

「ミソジ。三十歳のことを、そう言うんスよ」

 何故わざわざそう言い換えねばならないのか、朱音にはわからない。

「そ、そうよ、三十歳よ。パパちゃんと暮らしたのは、三歳くらいの話」

 つい当時の呼び名を出してしまったが、突っ込まれずに済んだ。

「二十七年前。ロイさんは今何歳なんスか?」

「五十三……」

 これは楓から訊いた。

「それじゃ朱音サンが生まれた時、二十六歳。まあ有り得るっスね」

 ひとつひとつ、村上が詰めて行く話に、自分が勝手に傷ついているのがわかる。ズキズキと、胸が痛い。

「なんかさ……」

「はい?」

「どれもそのものズバリって言うか……」

「その方が、手っ取り早くわかっていいじゃないっスか」

「だけど……」

 朱音が言いよどんでいたら、「お待たせいたしましたー」と、最初にふたりを迎え入れた女性が、盆を持って現れた。

「わあ……」

 思わず声が出た。

 テキパキと配膳されたテーブルの上を見て、思わず声が漏れた。

 中央には大きな楕円形の皿。これがメインディッシュらしい。黒い皮の魚を煮たものに、くたくたに煮た長ネギが添えられている。

 小鉢は紐状に切られたニンジンの炒めもの。ツナと輪切り唐辛子が見え、白ゴマが散らしてある。

 それに黄色と白のたくあんの小皿。玉ねぎとわかめの味噌汁。そして白米。

 きれい、だと思った。

 しかし魚。

「この魚は?」

「子持ちガレイっスね」

「食べづらそう」

 魚を食べるのは、昔から苦手だった。煮魚は特に生臭く感じる。あまり食べないでいたら、祖母が朱音に出さなくなったから、食べる機会も少なかった。メニューをよく見てから注文すればよかったと、後悔した。

「いいんスよ。きれいに食べようと思わなくったって」

「……そう?」

「いいんス。ロイさんに見られているわけじゃないんスから」

 朱音はムッとしたが、村上は構わず、両手を合わせて「いただきます!」と言ってから食べ始めた。

「そっか……まあ、そうよね」

 朱音も両手を合わせて、「いただきます」で食べ始めた。

 まず皮を剥がして、箸で白い身をつまむ。ほろりと骨から外れた。生姜と醤油の香りがいい。

「……ん!」

「ね、うまいっしょ」

 生臭くなかった。魚の身のうまみがおいしい。思わずご飯がすすむ。

「皮も食べられるんスけどね。玉子、いってみてくださいよ」

 上下に、一袋ずつ袋状になった玉子が、煮汁が染みたいい色になっていた。口に入れて噛むと、プチプチと歯ごたえがいい。

「うん、おいしいね!」

 添えてある長ネギもトロトロになっているし、実は苦手な部類だった生姜もおいしく煮えている。

 小鉢のニンジンは、村上によるとキンピラらしい。ニンジンにはえぐみが無く、その甘みと、ツナのうまみ、唐辛子の辛味が効いていた。

「醤油を使っていないキンピラなんスよ」

 ごま油と塩で、うまく調理してある。

「そうだね。キンピラって醤油を使うものだと思ってた」

「メインが醤油の味付けっスからね。味がダブらないようにしてるんスよ」

「へえ……」

 子持ちガレイの煮付けは、確かに醤油ベース。なるほど、と思った。

「おまちどうさまー」

 そこへ、また先ほどの女性が、トレイに鉢を載せて現れた。(まだ注文してたっけ?)と思うのも束の間、テーブルの中央に置かれた惣菜を見て、朱音は思わず声をあげた。“たまみそ”だった。

「ナツメさん、サンキュ」

 いつもと同じ抑揚で、村上がその女性に言う。彼女の名前が“香川ナツメ”というらしい。つまり、ここは彼女の店。

「歌音クンにレシピ聞いて、賄いで作ってみたら、好評で。サイドメニューに入れさせてもらえないかなって、思っているんです」

 ナツメは朱音に向かって言った。つまり、店のメニューに入れる許可を出して欲しいと。どうやらこの日ここに連れて来られたのは、このためらしかった。

「あっ、あたしのオリジナルじゃないんで……でも出所がわからないんで、いいんじゃないですかね。著作権?とか発生しないと思いますよ」

「いいんじゃないスか?」

 やはり平坦な声調で、関心無さそうに村上が言う。

「熱いうちに食べてみてください。味はこれでいいかなって」

 朱音も村上も、鉢に添えてあるレンゲで掬い、各々のご飯茶碗にのせた。鉢はいいものっぽく見える。簡単適当料理も、この器だと立派な和食に見える。香りは朱音が知っている“たまみそ”と同じ。

 ふたり同時に、食べてみた。

「!」

「……うん」

 朱音は驚愕、村上は平常心。しかしそれぞれが、納得している。美味だった。

「おいしいです。お味噌が違うからその違いはあるけど、これもいいですね」

 朱音が感想を述べると、ナツメは「ありがとうございます」とうれしそうに微笑んだ。魅力的な笑顔だった。

「あっ、そうだ。教えてもらった数え歌、あるじゃないですか」

 村上はそこまで教えたらしい。

「いーちにーぃ さんまるしいたけってやつ。あれ、自分の故郷でよく言ってたやつに替えて、作りました。

 いーちにーぃ さんしょのしいたけ

 でっこんぼっこん きゅーりのつけもの

 ぴーひゃらぴーひゃら おはようさん」

 初めて聞いたパターン。おもしろい。

「いろいろあるんですねぇ……あっ」

 突然、思い出した。

 朱音の知っている数え歌は、

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 これは、パパちゃんが朱音に教えてくれた歌。

 しかし、ロイさんは違っていなかったか?


――おならがブウ! じゃなかったっけ?


「そうだ。“おなら派”だったわ」

「は?」

 思わず口に出してしまった。村上もナツメも、キョトンとしている。食べ物屋で、それはいけない。

「あっ、あのっ、ごめんなさい!」

「あ、いいえ、ごゆっくり」

 ナツメはそう言って、入り口へ新しい客を招き入れに行った。

「朱音サン、何言ってんスか?」 

 呆れたような口調で、食事を続けながら、村上が訊く。

「思い出したのよ。数え歌!」

「数え歌?」

「あたしは“こねこがにゃあ”で終わるけど、ロイさんは“おならがブウ”なのよ」

 場所が場所だけに、“おなら”という単語が出た時だけ、村上は顔を顰める。

「あたしのこの歌は、パパちゃんから教わったの。だから、パパちゃんとロイさんは、別人なのよ!」

「はあ……そっスか」

 特に感動も無く、そのまま食べている。

「そっスかって、村上クン……」

「とりあえず食事を続けましょう。それから“パパちゃん”って何のことなのか、教えて欲しいっス」

「そうよね」

“パパちゃん”のことや、朱音の母親である清美、ロイさんの最初の結婚のことなど、村上には何も話していなかったことを、朱音は思い出した。


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