第11話

「何やってんスか、朱音あやねサン」


 本当は、「うるさい」と言いたい。

 けれど悪いのは自分なので、言えない。

「ごめんなさいね、カノンクン」

 せいぜい憎まれ口を叩くだけ。からかうつもりで、下の名前を揶揄するような口調で言う。

 しかし彼にとっては本名を言われただけなので、ダメージは無い。それがまた腹立たしい。

「オレに謝ったって、しゃーないじゃないっスか」

「……」

 返す言葉も無い。それどころか、子どもじみた真似をした自分が、恥ずかしくなってしまった。

 今日は朝から何回、ミスをしただろう。大きなものから小さなものまで。まだ懲戒ものの大ミスはやらかしていないものの。

「まあまあ、村上クン。田中さんもミスしたくてしたわけじゃないんだから」

 いつもは朱音に厳しいお局様からも、フォローが入る。それほど朱音は抜けているし、村上は辛辣だった。

 そこに内線電話が掛かってくる。

「はい、田中です」

『総務の加藤です』

「あ、お疲れさまです……」

『田中さん、戸籍抄本と住民票の写しはどうしました?』

「え……?」

 思い起こす。

 昨日、“雨の海”を出てから、村上に中味を見られた。

 父親の欄に、ロイさんの名前。


「え、朱音サン、自分のオヤジさんを好きになったんスか?」

「ち、違う!」

「違うって、この五百蔵って、あのロイさんの名前じゃないんスか?」

「人違いよ、きっと人違い!」

「でも下の名前……苗字も名前も珍しい名前と漢字なのに、完全一致しているじゃないスか」

「違うんだってば!」

 往来で怒鳴って、村上から書類を奪い取り、そしてそれから走って帰ってしまった。


(――あ、あの後……)

 帰宅して、テーブルの上に書類とバッグを乱暴に置いた。

 それからシャワーを浴びて、速攻眠った。なかなか眠れなかったが。

 そして少し寝坊してしまい、バッグだけを持って家を出た。

 テーブルの上に書類を置き去りにして。


 *

 

「えっ。韓国旅行、行けなくなったの?」

「……ハイ……」

“雨の海”。

 朱音はカウンターに突っ伏している。

 彼女を挟むように、右側に源三、左に楓が座っていた。

 ロイさんは、カウンターの中で食器を拭いている。三人とも、気の毒そうな表情で、朱音を見ていた。

 この日は残業になった。店の前を通ったら、“close”の看板は掛かっていたが、灯りがついていた。ドアを開けたら三人が談笑しており、朱音に気づくと、快く招き入れてくれた。

 ロイさんが悪いわけではないのに、申し訳無さそうに問う。

「書類が間に合わなかったの?」

「はい……」

「書類って?」と源三が訊くが、楓が代わりに答えた。

「パスポート申請用のでしょ?」

「おおっ、そうか。アヤネちゃん、パスポート持ってなかったんか」

「あれって、取得まで結構時間がかかるもんね。会社も待ってくれないのは、厳しいよね。余裕もって、書類提出日を決めればいいのに」

「ハハハ……」

 本当は、余裕を十分もって言われていたのに、取りに行くのが遅くなり、さらにそれを持って行き忘れたのは、自分のせい――と説明するのも自分のばかをさらけ出すことになるから、朱音は力なく笑うだけにした。

「それは残念だったね」

 楓が親身にそう言って、朱音の肩に自分の頭を載せた。彼女の髪から、いい香りがする。美人は体臭さえも、美しいような気がする。

 一方自分は、必死になって体を洗い、汗の匂いを消すように、スプレーをかけまくる。

(こんなに違うってことは……やはりあたしたちは、姉妹じゃないと思うんだ)

 顔の作り、手足の長さ、体からたつ香り、雰囲気……何ひとつ似ているところが無い。母親が違うからというだけで、ここまで違うのは有り得ない――と思う。

 そこで思い出した。

「あっ、楓さん、思い出した。そんなわけでごめんなさい、頼まれたお茶を買って来られなくなっちゃって……」

 楓にナツメ茶を買ってくると、約束していた。すると楓は驚いたような表情になった。

「ええっ、そんなのいいのよ! 全然ごめんなさいじゃないわ。それに“楓さん”ってやめて。なんか他人行儀でヤダ」

(他人行儀って……)

 複雑。できれば“他人”でいたい。そうであれば、万事オーケー。でもここでは違う意味だろう。

「じゃあ、か、楓ちゃん?」

「それでもいいし、呼び捨てでもいいわよ」

「え……」

 楓には出会ってからまもなくから、かなり懐かれている。それは自分でも不思議なことだった。

(若い女の子に、こんなに親しくしてもらったことがないんだもん)

 職場の後輩たちは、もう少し自分を遠巻きに見ている、ような気がする。

「オレもカエデって呼んでいいかな?」

 源三さんが絡む。そこへカウンターの向こうから、ロイさんが布巾で源三の頭を叩く。

「何すんだよ」

「黙れ」

 このふたりはひどく仲がよい。

「アヤネちゃん、気を落とすなよ。な? そうだロイさん、ちょっと調べたいことがあるんだが……」

「ん?」

 そう言いながら、源三はロイさんを伴って、店の奥にある控え室に行ってしまった。

 そこにはコーヒーに関する本がかなりあるらしく、源三は時々そこの本をカウンターで読んでいる。かなりの読書家らしい。

 店内は楓と朱音、ふたりきりになった。

 何となく、美人とふたりきりは気まずい。

 逃げたいような気持ちになっている横で、楓は変わらない様子で、コーヒーを飲んでいる。自分の卑屈さに気がついて、嫌になる。

「ねえ、アヤネちゃん」

「ひえっ?」

 おかしな声が出た。楓は大きな目をクリッとさせてから、かわいらしく笑った。

「あのね、お父さんのこと、どう思う?」

「ひえっ?」

 また同じ、おかしな声が出た。

 今度は、楓は笑わなかった。笑顔のままではあるが、声が少しだけ小さい。朱音は慌てて、ロイさんと源三が入って行った部屋の方を見た。話し声は聴こえてくるが、こちらに戻ってくる様子はない。

「ど、どう思うって……?」

「ぶっちゃけ、アヤネちゃん、お父さんのこと好きでしょ?」

「!」

 心臓が一瞬止まった。と、そう思った。

「こんな流行らない店に、ほぼ毎日来てくれてさ。元はコーヒーが飲めなかったっていうじゃない? そしたらお父さんかなって」

「そ、そそそそそんなことはっ!」

 思わず大きな声が出たが、楓が慌てて人差し指を口元に立て「シーっ」と言うので、朱音も必死に落ち着こうとした。

「あのね、責めているわけじゃないの。私ね、お父さんとアヤネちゃん、お似合いだと思うのよ」

「え……」

 さっきから頭が追いつかない。

「でもお父さん五十三歳だから、アヤネちゃんとは……あれ、アヤネちゃんはいくつ?」

「えっ、さ、さ、さんじゅう……」

「あ、そっか。まだ三十か。それじゃ歳離れすぎかな」

「い、いや、あの、それはっ!」

 なんと言っていいのかわからない。

 いきなりロイさんとの仲を、その娘から薦められるのもおかしな状況だが、一方で楓が言った「まだ三十か」に喜んでいる自分もいて、混乱している。

「あのね、お母さ……母が死んで、もう五年経つのよ」

「はあ」

「なのに、お父さんたら、女の影がなくてね」

「はあ?」

「ほら、我が父ながら、ハンサムでしょう? 若い頃は女性遍歴が激しかったようなのよ」

「はあ」

「母との結婚生活の中でそこはどうだったか知らないけどね、まだ五十三歳なんだから、これからも人生を謳歌してもらいたいわけですよ。娘としては」

「はあ」

「そこでアヤネちゃんなの」

「は?」

 わけがわからない。

「お父さん、最近アヤネちゃんの話題が多いのよ」

「え……あたし?」

「仕事や何事にも一生懸命なお客さんがいるってことから始まって、今日はこんなこと話したとか、アヤネちゃんの話が多いのよ」

「え、え、でも」

 信じられない。

「お父さん、お客さんの話題をすることはあまりないのよ。最初にアヤネちゃんが来て、苦手って言っていたコーヒーをおいしそうに飲んでくれたって話が、最初だったかな。すごくうれしそうにね。それからほぼ毎日来てくれているってこともね」

「……」

 思わず両手で自分の頬を触った。熱い。うれしい。

 好きなひとに、家庭で話題にされるのが、こんなにうれしいことだとは思わなかった。

「あ。アヤネちゃん、最近会社の部下を連れてきた?」

「へ?」

「おもしろいヤツを連れてきたんだよーって、これまたうれしそうで」

「……」

 興奮が、少々冷めた。

 そこでまた思い出す。

 自分の戸籍抄本に書かれていた、実父の名前。それはカウンターから見える、食品衛生責任者名が書かれているプレートと一致している。

“五百蔵優爾”。

「まあ、それはさておき」

 楓の話はまだ続くらしい。

「母の七回忌はまだだけど、できればお父さんにはそろそろ幸せになって欲しいのよ」

 どうやら冗談ではないらしい。彼女の朱音を見る眼差しが、そう語っている。

「でないと私、家を出られないわ。お父さんをひとりにできない」

「え。楓さん……」

「楓ちゃん!」

 即座に訂正される。

「あ、か、楓ちゃん、それってどういうこと?」

 そう訊かれて、それまで率先して喋っていた楓が黙った。心なしか、モジモジしている。かわいい。

「……えっとですね」

「うん」

「……彼にプロポーズされたのよ……」

(わあ!)

 内容のめでたさよりも、楓が顔を真っ赤にして俯く様子のかわいらしさの方が、朱音の胸を貫いた。

(そういえば、長く付き合っているカレシがいるって)

 ロイさんから聞いたことがある。「早く片付いてくれんかねー」とぼやいていた。

 楓はしばらく黙ってしまっていたが、話のことを思い出した。

「でね、でね、お父さんひとりになるから、アヤネちゃんと付き合えればいいんじゃないかなー……なんて……ホラ、お父さんの髪の結い方も教えてあげるし!」

「で、でも……」

 そこで楓は、ハッとした顔になった。

「そ、そうよね、アヤネちゃんにも選ぶ権利はあるわよね」

「えっ、違う、そういうことじゃなくって……」

「じゃあどういうこと?」

「えー……」

 言えない。言えるわけがない。

 ロイさんが自分の父親かもしれない、ということは同時に、楓が自分の妹かもしれないということだから。それがハッキリしない限りは、何も解決しない。

(どんな顔して言えばいいの……)

 答えに窮していたら、奥の部屋からどやどやとふたりの中年男性が戻ってきた。ふたりは何やら話しながら戻ってきたが、楓と朱音の様子が少しおかしいことに、すぐに気がついた。

「ふたりとも、どうしたんだ?」

 源三の問いに、ふたりして顔をブンブン振って、

「な、何でもないわよ! ねえ、アヤネちゃん!」

「そうそう。何でもないの! ねー、楓ちゃん!」

 と答えた。

「女どうしの話ってヤツじゃないか?」

 ニヤニヤしながらロイさんが言う。そんな顔も、美形だ。

 つい見とれてしまう。


(やっぱり好き……確認しなきゃいけないのに)

“パパちゃん”とロイさんが同一人物であるかどうか、ということを。


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