第10話

「とにかく、余計なこと言わないでね!」

「ウッス」

 何度目かのやり取り。職場から最寄り駅を経て“雨の海”の前に到着するまでで、軽く二十回は超えた。

 村上の口車に乗せられ、朱音あやねは彼を連れて店に向かっていた。

「いい加減オレを信用してくれてもいいと思うんスけど。ヒトの恋愛、邪魔したくないっスよ」

 ブツブツ言いながらもついて来る。本当はまいて逃げたかったが、彼は店の場所を知っているから意味が無い。

(でも、この状態で連れて行きたくはなかった……)

 ロイさんが自分の父親かもしれない、という疑惑。

 それを思い出すたびに、首を横に振る。

「何してんスか?」

「なんでもない」

 これも数回繰り返しているやり取り。

 店のドアの前に立つ。“Open”の札が出ている。時刻は午後六時半。まもなく閉店になってしまう。

「あと三十分で閉店っスけど」

「大丈夫……だと思う」

 思わず常連ぶって言ったものの、迷惑かもしれないことを考えた。

 ロイさんは客を追い立てることは一切しないから、朱音自身も遅くまで居座ることが多い。源三や楓、もちろんロイさんと話が盛り上がると、どうしても。

 けれど、いつも遠慮は考えている。

(しつこい客って、嫌われたくないもの)

 客として行った店で、そんなことを考えたことなど、これまで無かった。

 これは恋による、自分の変化のひとつ。

 朱音は嫌な予感を抱きつつ、ドアを開けた。

「いらっしゃいませ。やあ、アヤネちゃん」

「こんばんは」

「あっ」

 ロイさんは、アヤネの背後にいる青年に気づいた。

「ウッス」

 初めて職場に出勤してきた時と、同じ挨拶。軽く目眩を感じたが、それを諌めるのは違うと思ってやめた。

「いらっしゃいませ。アヤネちゃん、弟さん?」

「は?」

 思わずいつもより大きな声が出た。

「いつも姉がお世話になってるっス」

 そこで村上が冗談を言うものだから、話がややこしくなる。

「村上くん!」

「違うっス。オレ、アヤネさんの会社の部下っス」

「あ、そうなんだ。申し訳ない」

「いいえ」

「あ、ロイさん、今日はこっちに座りますね!」

 空いていたテーブル席に、村上を誘う。

「何でカウンターに座らないんスか。アヤネサン」

「え、いえ、ちょっと……」

 書類をテーブルに出して、何となく仕事の打ち合わせの体を作る。村上が自分の好きなひとを見に来た、などと知られてはいけない。断じて。

「少なくとも、オレがアヤネサンのカレシには見えることは、無いと思うんスけど」

「うるさいっ」

 ロイさんがトレイに水の入ったコップとおしぼりを載せて、運んできた。

「あたしはグァテマラのホットと、パウンドケーキをお願いします」

「はい」

「オレは……焙煎ってワガママ言ってもいいっスか?」

「どうぞ」

 村上はメニューのコーヒーのページを、指さした。

「それじゃこれを、深炒り、ホットで。それとハムサンドをお願いします」

「かしこまりました」

 心なしか、ロイさんはうれしそうだった。ワクワクしているように見える。

 コーヒーを淹れている時は、非常に穏やかで、朱音の好きな表情になる。そんな彼だから、コーヒーに拘る客が来ることがうれしいのだろう。「うまい!」と言わせてやるぞ!という、やんちゃな顔にも見える。

「カッコイイね、コーヒーの注文の仕方」

「そうっスかね。アヤネサン」

 ところでさっきからおかしい。

「ちょっと待って。さっきから何なの、いきなり下の名前で呼ばないで」

 いつもは“田中サン”なのに、この店に来てから“アヤネサン”と呼ばれている。くすぐったい。

「いや、だって、朱色の“シュ“に“オト”で“アヤネ”って読ませるなんて、ちょっとおもしろいって思って。オレ、漢字は知っていたけど、読み方わかんなかったっス」

「おもしろいって」

 正しく読まれなくて、どれだけ苦労してきたことか。

(あ!)

 ここで朱音は思い出した。自分の名前の字面と読み方で、ロイさんが反応してきたらどうしよう? パパちゃんがこの名前を付けた。ならば彼が反応したら――

 ロイさんを見ると、ひどくご機嫌な様子で、豆を焙煎していた。こちらの話し声など聴こえていない。朱音はホッとした。

(い、いや、いつかは訊かなきゃいけないんだけど)

 そうは思うものの、怖い。

「正しく読まれなくて苦労するって、わかるっス」

 冷やを飲みながら、村上が言う。

「え、村上くんの名前って……」

 派遣会社から送られてきたスキルシートを見たはずだが、あまり印象に残っていない。社内で他に“村上”がいれば、メールアドレスなどで必要になるから見ることもあるが、たまたま居なかったし、すぐに辞めると思っていたから、気にしていなかった。

(でも、あたしと同じ“音”の字が入ってたな)

「“ウタ”の“オト”」

 つまらなそうに、村上が言う。彼が言う通りの漢字を脳裏に描く。

(――“歌音”?)

「それで“カノン”って読むんス」

「かの……?」

 その読み方と目の前の男のギャップ。思わず朱音は噴き出した。これはいくらなんでも失礼だが、わかってはいてもどうしようも出来ない。

「朱音サンはいいじゃないっスか。こうして笑われることも無いんだから」

 彼は非常に冷めた顔をしていた。怒ってもいない様子。おそらく笑われ慣れている。

「ご、ごめんなさい……」

 さすがに申し訳なくなった。

「しゃあないっス。それにしても、いい店っスね」

「でしょ?」

 自分の店でもないのに、誇らしげになる。

「店構え、いいっスよね。昭和っぽい感じかと思えば、あんなところにいいギター飾ってるし」

「あれね」

「あと、店の名前もオレ、好きっス」

「雨の海……?」

 言われてみれば、これまであまり考えたことは無かった。

「おっ。うれしいね」

 気づくと、トレイを持ったロイさんが立っていた。

「お待たせいたしました」

 わざとかしこまった表情で、オーダーを置く。朱音の前に置かれたコーヒーと、村上の前に置かれたコーヒー。両方ともコーヒーの香りだが、朱音にもわかるほどの違いがあった。

 村上は相変わらず無表情ではあったが、気のせいかうれしそうに見える。

「“雨の海”は、月の海のひとつなんだよ」

 ロイさんが説明を始めた。朱音は耳慣れない単語に、キョトンとしてしまった。

「月の海……?」

「月の表面の、黒く見えるトコロっス」

 村上が補足する。「そうそう」とロイさんは本当にうれしそうだ。

「実際に水があるわけじゃないけどね」

「そうなんですか?」

「月に水があるわけないじゃないっスか」

 横からの村上の突っ込みに、イラッとする。

「ほら、月のウサギってあるだろ? 餅をついているやつ。あの顔の部分が、“静かの海”っていうんだよ」

「へえ」

「月には海の他にも、大洋とか沼とか入り江とかもあるんだが、雨の海は、“海”の中では一番大きいんだ。アポロ十五号が降りたところだね」

「そうなんですね」

「朱音サン、ちゃんとわかってるんスか?」

 うるさいな。と思うものの、ロイさんの前ではおとなしくしているしかない。笑顔が引き攣る。

「死んだカミさんが、月とか宇宙にまつわる話が好きだったんだよ。ファンタジー方面よりは、NASAとか。科学雑誌も読んでいたな」

 おもしろい奥さまだ、と思った。

「とりあえず、コーヒー、いただくっス」

「あ、そうね。いただきます」

 忘れていた。熱いうちに飲みたい。

「……んっ!」

 村上が唸った。緊張が走る。

「む、村上くん?」

「……オレの好きな味っス。旨いス」

 朱音とロイさんの緊張が解けた。

「気に入ってもらえたようで、よかったよ」

「オレもこの近所なんで、ちょくちょく寄らせてもらうっス」

「えっ!」

「朱音サン、何か?」

「いや……えー……」

 完全に弱みを握られた感が強い。拒否は当然できない。

「うれしいよ。ぜひ!」

 しかしロイさんはうれしそうだ。

「よろしくっス。マスター……えっと……」

「珍しい苗字で、五百蔵っていうんだ」

「五百の蔵って書いて、“イオロイ”っスか?」

 村上は物知りだ。

「そうそう」

「オレ、村上っていいます。朱音サン共々、よろしくお願いします」

(共々って……)

 頭痛がした。


 *


「いい店っスね」

 源三や楓が現れる前に、ふたりは“雨の海”を出た。

「でしょ」

「なんで朱音サンが誇らしげなんスか。さっきもそうだったけど」

「うるさいな」

 口では“うるさい”と言ってしまうものの、最近このテンポに慣れてきた。

「カウンターに掛かっていたギターの話も訊きたかったな」

「ギター? あ、あれね」

 昔、ロイさんが音楽をやっていた頃のギター。

「オレもギターやってるんス」

「へえ」

 村上の外見からは、わかる。エレキギターをギュンギュン鳴かせて、ハードロックでもやっていそう。むしろやっていないと、おかしいとまで思う。

「それにロイさんって、すんげえハンサムっスね。朱音サン、面食いだったんスね」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 面と向かって“面食い”とか言われると、否定したくなる。

「しかもいいひとっぽいじゃないスか。安心したっス」

「なんで村上クンが安心するのよ」

 返事の代わりに、村上は笑う。その顔を見て、何故だかホッとした。

 最近はこの部下に助けられていることが多い。以前よりも話すことが多くなり、職場の雰囲気はとてもよい。

(でも……村上クンがいたから、訊けなかったな……)

 実際、居なかったとしても訊けたかどうかわからない。何だかんだと理由をつけて、訊けなかったような気もする。

 あなたは、あたしのお父さんですか? などとは。

(夢の中みたいに、思い切れたらいいのに)

 朱音と村上は、少しだけ歩いて、住宅街のY字路に出た。朱音は左側、村上は右側に向いている。

「それじゃ、オレこっちなんで……あっ、そうだ」

「?」

 村上は自分のリュックの中から、見覚えのある封筒を取り出した。

「朱音サン、これ、さっき店に忘れてたっスよ」

「へ?……あっ!」

 それは区民事務所の封筒。中には戸籍抄本と住民票の写しが入っている。会社に提出しなければならなかったのに、すっかり忘れて持ち歩いてしまった。

 しかしそれは、今やただの個人情報ではない。あのロイさんが自分の父親かもしれないことが書かれている、朱音にとっては見なかったことにしたい書類――

「さっき、書類とかテーブルに出した時に、落ちたんじゃないっスか」

「あ、ああ、そうかもっ。あ、ありがとう」

 早く取り戻したい。

 そういう時に限って、失敗する。焦って手を出したためか、村上の手首にチョップをする形になってしまった。

「おわっ!」

 封筒はそのまま地面に、バサリと落ちた。封の無い封筒だったために、中味の書類が飛び出してしまった。

「……あれっ」

「うわっ……」

 よりによって、戸籍抄本の方が上。しかも、“五百蔵優爾”の名前がわかる箇所が。

「これ……」

 アワアワしている朱音に代わって、冷静な村上が書類と封筒を拾い上げる。

「ちょっ、村上くんっ、それ、返してっ!」

「なんでここに、ロイさんの名前が?」

 今日初めて知ったはずのロイさんの名前を、村上はしっかり覚えていた。元々記憶力のよい彼だが、あれだけインパクトのある名前なのだから、無理もない。

「この欄、“父”って? え? どういうことっスか?」

 ロイさんが自分の父親かもしれない――認めたくはない可能性を、わざわざ思い出させられている。朱音はその場にへたり込みたくなった。

「う……」

「朱音サン、これって……」

「う、うるさいわねっ!」

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