第9話
“雨の海”。
その日は源三も、楓も居なかった。
他にもうひとり居た客が帰り、店内はロイさんと朱音、ふたりきりになった。
「おかわりいる?」
「あ、大丈夫です」
一体何が“大丈夫”なのか。おかしな受け答えをしてしまったと、後悔。
朱音はカウンターに座っており、隣の空いたカウンターチェアに、バッグを置いていた。その中には、区民事務所の封筒。
(訊かなきゃ……)
そうは思うが、何と切り出せば良いのか。いきなり書類を出して、「これはロイさんですか?」と訊くのはおかしいだろう。元妻の名前を尋ねるか? それとも子どもの名前を……
「ロイさん!」
「何だい?」
いつの間にか、音楽が消えていた。静かな店内に、朱音の強い声が響いた。
「あ、あの、おかしなことを訊きます。前の奥さまとの間のお子さん、その子の名前は?」
「えっ?」
朱音は思わず目を瞑った。
「おれの娘の名前?」
こわい。
「お」
(お?)
「おならがブウ」
――――
汗をかいている。鼓動も激しい。
カーテンの隙間から入ってくる陽は明るく、静かな部屋の中、自分の心臓の音だけが響いて聞こえる。
(こんな夢……)
むっくりと上体を起こした。背中が軋む。
(やっちゃった)
枕カバーがファンデーションで汚れている。前日は化粧も落とさずに、ベッドに入ってしまっていた。着ているものも、仕事に行く時の格好そのまま。
時計を確認する。朝五時十分。
(シャワー浴びなきゃ……)
ふと、テーブルの上に置きっぱなしにしていた封筒が、目に入った。
「……」
それをしばし睨む。
しかし逃げたくなって、目を逸らした。
(夢じゃなかったんだ)
認めたくなかった。
(いや、何かの間違いだと思う……そんなこと、ありえないし)
そう思ってみたものの、“ありえない”とは誰が保障してくれるのか。
(支度しなきゃ……ごはん……)
食欲は無いが、冷蔵庫には炊いて小分けにした冷凍の白米と、ねぎ、玉子、味噌が入っている。このところは、きちんと料理をしていたから、材料は揃っている。
(あ、“たまみそ”……)
だが、作る気力が無い。
(いっか……)
一時期、ダイエットも兼ねてゼリー飲料を飲むだけの朝食が多かった。その時に買いだめしていた残りが、まだ数個冷蔵庫に入っているはず。
――アヤネ、ちゃんと食べるんだぞ。
「!」
ふと、あのひとの声が聞こえたような気がした。
(パパちゃん)
あのひとのことをそう呼んでいた。
ひとつひとつ、ゆっくりと、記憶が蘇ってゆく。
ただ、その“パパちゃん”の顔が思い出せない。
(ロイさんの顔を見ても思い出せないってことは、やはり違うと思うのよね)
前日に知らされた衝撃の事実を、否定したかった。
(でも)
再度、封筒を見る。
朱音はベッドから降りて、その封筒を見下ろした。
茶封筒ではなく、白く、封が無い。中に書類が入っていることがわかる。封筒の表面には、住んでいる自治体の地図とマーク、そしてどこかの商店の広告が載っている。これは区が住民票の写しや戸籍抄本を発行する時に入れる封筒。
区役所で発行してもらった、戸籍抄本が入っている。朱音のもの。
(――ダメだわ)
ひとりで考えていても、決して答えは出ない。それだけはわかった。
(確認しなきゃ)
決心する――が、心が痛い。
「もーーーーーっ! どうしてこんなことに!」
朝から弱音。
弱音を吐いても吐かなくても、確認をしなければ先には進めない。
その時。
「ひゃっ!」
枕元に置いていた、スマートフォンが鳴る。思わず跳ね上がってしまった。
それはメール着信の音。
ベッドの枕の側に置いていたのを、急いで手に取った。が、画面に表示されていた、“清美”の二文字に落胆する。
届いたメールを開くと、色鮮やかな絵文字だらけで、目が痛い。
『やっほー! バリから帰ってきたよー!』
そこだけ読んで、メールを閉じた。
あとは決まっている。何人の男にナンパされて、何人の男と関係したか。そして自分がいかに若く見られたかの自慢。
『三十台に見られたわよー!』
(せいぜい三十台後半じゃないの? 五十三歳が)
確かに清美は肌がきれいで、顔の作りが良い。ファッションも派手で、五十三歳には見えない。並んで男の視線を集めるのは、三十歳の自分ではなく、清美だろう。しかし。
(自分の“母親”がこんなんだってのは、いやになるわね)
そう思ったところで、だんだん腹が立ってきた。
そもそも。
(母さ……この女が)
母親だと思いたくなくて、頭の中で言い直す。
(この女の下半身がだらしないから、あたしが悩む羽目になるんじゃないの!)
思わずスマートフォンを壁にぶつけようとしたが、思い留まった。そんなことをしても、清美ではなく、自分の財布にダメージがあるだけ。
「もう……何なのよ」
朱音は訊きたくてたまらなくなっている。
――あたしの父親は、誰? と。
*
「何休んでるんスか」
着席すると、村上がこちらを向いて責めてきた。
「あ、あ、す、すいません……」
そう言うしかない。
「何言ってんスか、田中サン。オレ、部下ですよ? すいませんって、おかしくないっスか?」
またおかしなところに拘る。常識があるのか無いのか、不可解な男だと思う。
「ごめんなさい」
素直に謝り直す。すると村上は、眉間に皺を寄せて、朱音の顔を覗きこんだ。
「どうしたんスか?」
「どうしたって……」
「元気ないっスね。失恋でもしたんスか?」
「!」
顔がこわばってしまった。
(いやっ、失恋じゃないけど!)
例の書類が言っていた。
お前の恋は、これで終わりだ――と。
(いやいやいやっ! まだわからないし!)
「え? マジで失恋したんスか?」
心底気の毒そうな、村上のまなざし。つくづく失礼な若者だと思う。
「ち、違うわよ」
「ならいいんスけど。それか、まだ体調が良くないとか?」
前日は急病ということにして、欠勤したのだった。
「ううん、それはもう大丈夫なんだけど……」
弱った。話題を変えたい。
「ならいいっス。失恋もしていないんだったら、なおさらいいんじゃないスか」
彼の口から“失恋”という言葉が出てくるたびに、ズクッと胸に木の杭を打ちつけられているような気分になる。まだ決まったわけではないのに。
「ほんとおかしいっスよ?」
また顔を覗きこまれた。近い。反射的に、顔を逸らした。
「おかしかないわよ」
「そうっスかね。あ、ところで」
「はい?」
「今日の昼間、また“たまみそ”やりませんか?」
「たまみそ……」
いーちにーぃ さんまるしいたけ
でっこんばっこん きゅーりのろんどん
ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!
(あれは――確かパパちゃんに教わった歌……)
清美に食事を作ってもらった記憶は無い。
祖母も“たまみそ”を知らなかった。祖父母と暮らしている時に、「どこで習ってきたの」と言われた。
パパちゃんしかいない。
(三歳くらいだったのに、数か月しか一緒にいなかったパパちゃんが作ったのを見て、覚えたの……?)
それしか作れなかったのか、他の料理を思い出せないほど、それがおいしかったのか。どちらにせよ、三歳の自分が不憫ではある。
それはさておき。
(つまり、ロイさんがたまみそを作ることが出来たら、さらにあの数え歌が歌えたら――)
それはすなわち、ロイさんが“パパちゃん”だということ。
(いや、その前に、あのひとに「最初の結婚の時に、お子さんいませんでしたか?」って訊けばいいだけの話じゃない?)
さらに最初の結婚相手が清美か否かを訊けばいいのだが。
(でも……訊く勇気が……)
「田中サン、本当に大丈夫っスか?」
「えっ……あ、ごめんなさい」
「本当にどうしたんスか。昨日、愛しのカレシに会えなかったからっスか?」
ロイさんを思い出す。愛しいのと、そして傷つくのとまぜこぜな気持ちになる。
「カレシじゃ無いって……」
「ああ、片思いなんでしたっけ? コクらないんスか?」
「コクるって言われても……」
別のことを告白する羽目にならなければいいとは願う。
「いいんスか? 若くいられる時間は短いんスよ?」
村上はこんなに饒舌だったか? そして今どきの若者のくせに、説教じみたことばかり言う。
「ほ、放っておいてよ。村上くん、あたしのことよりも自分の方を心配しなさいよ」
「オレ? なんでオレが出てくるんスか? オレ、関係なくねっスか?」
心外そうに言う。
「あたしだって、あなたに色々プライベートのことを訊かれる筋合いは無いわよ」
「えっ」
キョトンとしている。その表情に悪気がまったく無かったので、朱音の中に罪悪感が芽生えた。
「あ……それもそっスね。すんませんでした」
彼は無骨にガクンと頭を垂れて、謝罪してきた。
「あ、あたしもちょっと言い過ぎたわ。ごめんなさいね」
「ほんとっスよ。オレだって傷つくっス」
「そうよね」
「お詫びに、今度その喫茶店に連れて行ってくださいよ。つか、今日一緒に行きましょう」
「えっ」
「はい、決まりっスね」
あれ?
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