第8話
翌朝、
(戸籍謄本と、抄本。どう違うのかしら……)
運転免許証を持っていない朱音は、戸籍謄本も抄本も、取るのは初めてのこと。大学入学時や入社時にも、必要無かった。
書類作成コーナーにいた係員に訊ね、パスポート発行には抄本で十分だろうということを聞き、それと住民票の写しの申請書類を書いた。
(面倒だなぁ)
旅行のことや、こうして書類を揃えなければならないことはそうは思う。
けれど“雨の海”で話したところ、楓から「いいなー」を連発された。ひと昔前に流行った“韓流ドラマ”に、今ハマっているのだという。茶を買ってくるよう頼まれた。
源三は「買って来て欲しい精力剤があるんだが」と冗談を言い出し、ロイさんに叱られていた。
「あそこは食べ物もおいしいし、楽しんでおいでよ」
ロイさんはそう言ってくれた。そう言ってもらえるなら、全力で楽しんで来たい。
(みなさんにお土産を買って行かなきゃ)
韓国土産はどんなのがある? 何を買って行けば、喜んでもらえるだろう? 面倒な気持ちも、ひと晩で盛り上がってきた。気分の切り替えの早さに、自分で呆れる。
「田中様、田中あけ……失礼しました、あやね様―」
(何でお役所が間違えるのよ)
朱音はよく名前を読み間違えられる。 “朱音”を“あやね”と読める者が少ない。
(良くて“アカネ”かしら)
“ジュネ”、“シュネ”、 “アケネ”と呼ばれたこともあった。
この名前は、パパちゃんがつけたのだと聞いた。
(パパちゃん、どうしてこんな読みづらい名前にしたのかしら)
そこだけは恨む。
しかし清美に言わせれば、本当は“彪”という字にしたかったのだという。 “虎の皮の模様”という意味の漢字。
(勝手に“朱音”と書いて出生届けを出したパパちゃんに、感謝だわ……)
受付に行くと、若い所員が笑みを浮かべながら書類を二枚、提示してきた。
「田中様、お待たせいたしました。こちら住民票の写し、こちらが戸籍抄本になります。表記に間違いが無いかお確かめください」
ふと戸籍抄本を見ると、自分の名前にふりがなが無かった。なるほど、最初こちらを見て、名前を呼び間違えたらしい。けれど住民票の写しにはふりがながある。
住民票の写しは、自分ひとりだけの表記だけ。ひとり暮らしだから当たり前。けれど。
(……あれ?)
戸籍抄本。“戸籍に記載されている者”の欄には、大きく自分の“朱音”の文字。“生年月日”、その次に“父”“母”“続柄”と続く。
「へっ?」
思わず声が出た。対面の所員が焦った顔をする。しかし朱音の声が出た原因は書類に誤りがあったわけではなくて――
(えっ? えっ? 何これ……)
母の欄に“後藤清美”とある。母は何回目かの結婚をしており、現在その苗字を名乗っている。そして自分の続柄は“長女”。これはいい。
(何で? 何でここ、あの人の……)
全身の血が、ザーッと降りていくのがわかった。
父親の名前の欄に、信じられない名前を見つけた。
――五百蔵優爾――
「あ、あの?」
「えっ?」
突然対面から話しかけられて、キョトンとした反応をしてしまった。
「あの、どこかに間違いがございましたでしょうか?」
「いえ、あの、これ、本当にあたしのですよね?」
「は?」
言いながら、バカなことを訊いていると自分で思った。そもそもそこに書いてある、名前、生年月日、母親の名前――どれをとっても、自分しか有り得ない。
目の前で、所員も困惑している。
「あ……すみません、あたしのですね。紛れもなく、あたしの……」
再度書類を見る。
“五百蔵優爾”。
何度見ても、その画数の多さは変わらない。
朱音は所員に促されるまま料金を払って、区民事務所を出た。フラフラしていたせいか、出入り口にいた警備員に声を掛けられたが、耳に入らず無視してしまった。
区民事務所から出て、近くの私鉄駅に入った。
このまま仕事に行かなければならない。
しかしその気持ちになれず、朱音はとりあえずホームのベンチに腰を下ろした。
(えっと……これ、どういうこと?)
手先が震えている。
なんとかバッグの中から封筒を出し、改めて書類を見た。
やはり、“五百蔵優爾”と書いてある。
「な、なんでここに、ロイさんの名前が書いてあるの……?」
誰も答えてはくれない問いを、小さくつぶやく。
書類は言っている。“五百蔵優爾は、お前の父親だ”、と。
「うそ……」
目眩がした。
何度か電車が停まっては発車した。乗ろうにも立ち上がれない。
「!」
スマートフォンにメールが着信した。見るとそれは職場からで、村上の名前が出ていた。
『今日はこれから出てこられるんですよね?』
いつもの“っス”という語尾ではないから、村上からのメールだと言われてもピンと来ない。
(メール文面と話し言葉はやはり違うんだなー)
そんなどうでもいいことを考える。
しかし、同時に思い出す。村上に訊かれたことを。
――「あ、片思いっすか」
(ああ……)
自分が今恋をしている相手が、自分の父親――
(――かもしれない)
まだわからない。
(同姓同名かもしれないし)
同姓同名なんてよくある話。
“五百蔵”だし、“優爾”だけど。
(えっと……)
考えがまとまらない。
何を考えても結論は出ないし、何を考えても“でも”で終わる。
朱音は、ゆらりと立ち上がった。そして手にしていたスマートフォンから、職場に電話をかけた。相手は上司。
「あ、すみません、田中です。大変申し訳ないのですが、本日お休みさせてください」
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