第7話

「韓国? オレ、行かなくてもいいっスよね?」

「まあ、ハケンさんは行かなくてもいいけど……」

 しかしできれば、同行して欲しい。

 業績目標達成によるご褒美、韓国・ソウル社員旅行。同じチームのメンバーを二手に分け、時期をずらして行く。

 二泊三日。ただし、ひとり一万円の追加料金が必要なせいか、派遣社員は辞退者が多い。会社としてこれは不本意で、できれば多く参加して欲しい。

「だって、オレが休んだら、このコーナーどうすんスか?」

「う……」

 彼に任せている仕事が多すぎる。二泊三日とはいえ、その穴を埋めるのが難儀。

「それに、ひとり一万も追加って、なんなんスかね。そんな金あるんなら、新しいエフェクターでも買うっスよ」

 村上が何を言っているのか、朱音あやねにはよくわからない時がある。

 五歳差でこれなのだから、ひょっとしたら、二十歳以上年上のロイさんにとってみれば、朱音の言うことがわからない時もあるのかもしれない。そんなことをふと思った。

「田中サンは行くんスか?」

「まあね……」

 正社員だから、仕方無い。

 実は乗り気ではない。二泊三日とはいえ、“雨の海”に行けなくなるのは嫌だ。

「ああ、愛しのマスターに会えなくなるっスからね」

「んんっ!」

 動揺を咳払いで誤魔化す。それをすべてわかった体で、村上がニヤリと微笑む。弱みを握られているわけで、気分はよくない。

 ちょうどその時、社内メールが届いた。タイミング良く、その社員旅行に向けての案内だった。

「あ、あれ?」

 メールを良く読む。“パスポートを提出のこと”と書いてある。

「ああっ!」

 思いがけず、大きな声が出てしまった。すぐに周囲の注目を浴びる。村上も驚いた顔で、朱音を見ている。

「な、何なんスか?」

「……あたし、パスポート持ってない……」

「は?」

 すっかり忘れていた。

 慌てて調べる。書類を揃えて、申請してからおよそ一週間で発行とある。旅行まで十日間あるから、何とか間に合いそう。

「まさかそこを忘れるとか」

 調べている横で、村上が呆れている。面目ない。

「住民票の写しと、戸籍謄本と……」

「戸籍抄本でもいいんスよ」

 横から突っ込まれると、ますます混乱する。

「えっと、一般旅券発給申……」

「それは役所にあるっス」

「それと写真……」

「それも申請するトコロで撮れるっス」

「それじゃ後は……」

「運転免許証があれば、それだけで受け取れるっス。それか会社の身分証と健康保険証があれば、大丈夫」

「あとは」

「住民票も戸籍謄本も、区役所か区民事務所に行けば取れるっス」

 村上は思った以上に便利な男だった。

「あ、ありがとう……」

 どのみち時間があまり無い。会社からの案内を読むと、所定の書類を用意すれば、あとは旅行会社で手配してくれるらしい。朱音は慌てて翌朝の遅刻を申請した。

「今日この後、早退して行ってくればいいじゃないスか」

 時刻は午後四時。急すぎるし、閉所までギリギリになる。

「いいの」

「そしたら、最愛のカレに早く会いに行けるじゃないっスか」

「いっ、いいのっ!」

「カワイイっスね」

 村上はフフンと笑って、キーボードを叩き続ける。

 カチンとは来るが、あまり腹も立たなくなった。本当のことだし、からかわれていること自体がうれしく思えてきた。

(あたし、本当に恋してるんだなぁ)

 そう思うだけで、胸がほんわかとあたたかくなる。

 ロイさんの笑顔を思い出すだけで、胸がキュッと切なくなる。

 これだけで切なくなるなんて、これまで思ってもみなかった。

(まるでこれまでの恋が、恋じゃないみたい……)


「ところで、“たまみそ”なんスけど」

「へっ?」


 恋から“たまみそ”に意識を引き戻されると、あまりの落差に驚く。

「作ってみたんスけど、どうしても単なる“かき玉汁”になるっス」

「え? それ、お水が多いんじゃないの?」

「そっスね」

「ダメじゃん」

 思わずそう言うと、村上は口を尖らせた。

「田中サン、水の量について何も言わなかったじゃないっスか」

「少量って言ったと思うけど」

「田中サンの“少量”とオレの“少量”は違うんス」

 さもありなん。村上は昼食を自席でとっているが、近所の弁当屋の弁当を二種類食べている。痩せの大食いとは、彼のこと。

「そっかー……」

「作ってくれないっスか?」

「ひぇ?」

 想定外の提案に、素っ頓狂な声が出た。

「材料、コンビニにあるっスよね。オレ、金出すんで。百円ショップで鍋も買ってきて……」

「ちょ、ちょっと」

「レンジでチンする白米買って来て……」

「コロッケも買って来ていい?」

「へ?」

 通りかかった同僚が、突然口を挟んできた。

「何かお惣菜も買って。炊飯器もあればよかったんだけど」

「システム開発部に三合炊きの炊飯器があるらしいですよ。でも茶碗とか買わなきゃだし、洗い物しなきゃだから、今日はそこまではね」

「それもそうっスね」

 いつの間にか、参加人数が増えている。朱音が困惑している間に、口を挟めない状況になっていた。


 *


 合計五名となった。

 オフィス近くにスーパーがあり、そこで六個入りの玉子と、カップに入った合わせ味噌、そして小瓶に入った顆粒のカツオだし、あと人数分のレトルトの白米を買ってきた。

 小鍋は村上が、百円ショップで購入した。安っぽい素材ではあるが、この際仕方ない。

 給湯室にはふだん使っている電気ポットの他に、実はカセットコンロも置いてある。そして菜箸は無かったが、ティースプーンとカレースプーンがあった。

 オフィス内では煮炊きが出来ないから、給湯室で調理をするしかない。

 給湯室は狭く、大人が四人も入れば身動きが取れなくなる。とりあえず換気を良くして、朱音と村上だけが入った。残りの賛同者三人は、オフィスの打ち合わせテーブルを拭いたり、結局山ほど買ってきた惣菜をセッティングしたりしている。

「さて、と」

 朱音の隣で、村上が腕を組んで様子をジッと見ている。ふだん作っているものではあるが、こんなふうに見られると緊張する。

「あんまり見ないでよ」

「恥ずかしがらなくってもいいっスよ。さ、早く」

「もう……」

 仕方ないからスタートする。

 鍋は直径十五センチほどの、雪平鍋と見せかけた安物。一度洗ったそれに、朱音は一センチになるかならないかくらいの水を入れた。それにカツオだしをティースプーンで一杯、ゆすいだ同じティースプーンで、味噌を三、四杯、山盛りにして適当に入れる。

「そんなに入れたら、濃くないっスか?」

 村上が横から話しかけてくる。

「ご飯のお供だから、このくらいでいいの」

 味噌を溶かすが、すぐに鍋肌がチリチリ言い始め、このままだと焦がしてしまう。

 そこへ玉子をすべて割って入れるのだが。

(やっぱ、少し恥ずかしいな)

 祖父母以外の誰かに見られながらこれを作るのは、初めてだから。その祖父母も、初めて朱音が“たまみそ”を作るのを見た時は、呆然とし、笑い出した。

 しかし鍋の中をこのままにしておくことはできない。覚悟を決めた。


「サン、ハイッ! 

 玉子とお味噌とカツオだし!」


「へっ?」

 いきなりリズムを取りながら、玉子を割り出した朱音を見て、村上が目を白黒させた。

「玉子とお味噌とカツオだし!

 玉子とお味噌とカツオだし!」

 そう言いながら、玉子を割り入れる。“玉子とお味噌と”で一個、“カツオだし!”で一個。リズミカルに六個すべてを割る。そして、

「ハイッ!」

 と言うのと同時に朱音はカレースプーンを取り出し、中をかき混ぜ始めた。

「いーちにーぃ さんまるしいたけ」

 そして歌い出す。村上はすっかり無言になってしまって、恐ろしいものを見ているような表情で朱音を見ている。

「でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!」

 これを五回。

「いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!」


 最初は頭の中で歌っていればいいと思ったが、やはり口に出さないと調子が出ない。子どもの頃から、こうやって作ってきたから。

(村上くん、ドン引きしてるだろうな)

 そうは思うが、止められない。これは、時間との勝負。


「いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!

 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこが……」

「えっ!」


 ここで動きをぴたっと止めた途端に、村上が驚きの声をあげた。

 朱音は構わず鍋をコンロの火から離してから、火を止めた。できあがり。

 しかし横で村上がアワアワしている。

「な、何なんスか? なんか途中で終わられるの、すっげえイヤなんスけど!」

 歌ったことや、歌の内容ではなく、途中で止めたことにこだわっていた。

「そんなこと言われても……」

「なんか気持ち悪いっス!」

 彼がここまで狼狽えるのは、珍しい。

「気持ち悪いって言われても」

「にゃあ!はどうしたんスか! にゃあ!は!」

 意外と面倒な男だった。朱音がどうするか困っていると、一緒に昼食をとる同僚のひとりが様子を見にきた。

「こっちセッティングできたけど?」

「あ、そうよ。食べなきゃ。たまみそ、冷めちゃうし」

「にゃあ!は!」

「いいから!」

 村上はまだ納得していない様子だったが、早く食べ始めないと昼休みが終わってしまう。

 朱音は鍋のまま“たまみそ”をテーブルへと運んだ。囲んだ全員が、それを覗き込む。

「これは……」

「お味噌のいい香り」

「おいしそう」

「見た目がグチャグチャじゃん」

 それぞれが、言いたい放題。

 レンジで温めた白米のパックを、その器のまま食べる。各々がスプーンで、“たまみそ”を白米の上に載せる。ホワンと湯気がたち、味噌の香りが漂う。

「いただきます」

 全員が手を合わせたり、会釈をしたりしながら言う。

「ん!」

 誰かが声をあげる。

「これ、ご飯に合いますね」

「んー、私は好みじゃないかな」

「ぼくは好きですね」

 また各々が、言いたい放題の感想を述べる。

 そんな中、朱音は村上の様子がおかしいことに気がついた。彼はひと口目を口に入れて、そのまま固まっている。

「む、村上くん?」

 思わず声をかけると、全員が彼に注目した。

「……へ?」

 彼がそんな呆けた表情をするのを、初めて見た。

「なんか動かないから」

「いや、オレ、驚いてたっス」

 そうだろう。目を真ん丸くしている。

「口に合わなかった?」

 すると彼は首を横に振った。

「いいえ、逆っス。オレ、これ好きっス」

 朱音は何故か安堵した。と同時に誇らしい気持ちになった。そうでしょう、そうでしょう。そうでしょうとも!

「味噌と玉子なんて、最強タッグよね」

 ひとりがそう言いながら、今度はスプーンに山盛りにして、白米の上に載せる。

 全部食べられてたまるもんかと、村上もまた食べ始めた。“がっつく”という表現が正しい。自分が作ったものをそんな風に食べてもらえるのは、ちょっとうれしい。思わず顔がにやける。

 だが彼は不意に顔を上げて、朱音を見た。


「でもオレ、“にゃあ!”だけは納得いかないっス!」

「う、うるさい!」

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