第6話

(そういえば、あれ、何だろう?)

 見ればわかる。ギターだ。弦が六本あるから、ベースではなくギター。そのくらいは、朱音あやねにもわかる。

 そのギターが、カウンター向こうの壁に貼り付けてある。

 いつものように退勤後に立ち寄った“雨の海”。この日は源三が来ていなかった。

 こんな日は胸が高鳴る。ふたりきりであるという喜びと、何を話してよいのかわからないという困惑で。

 カウンターには何本かのサイフォンが並んでいる。壁には棚が設置してあり、たくさんのコーヒーカップとソーサーが並んでいる。高級そうなものから、シンプルなデザインまで。注文された飲み物や、その日の客のスタイルに合わせて変えていると、源三が言っていた。その基準は、ロイさんにしかわからないらしい。

「同じ客にロイヤルコペンハーゲンのを出した翌日に、すんごい安いもので出したこともあるし、その逆もある」

 そのカップの良し悪しで、朱音はロイさんの自分への思いを量ろうとしたことがあったが、「このカップ、蚤の市で百円だったんだけど、最初に自分で買ったのに似ていたんだよ」と彼から聞いた時に、無駄だとわかった。

 これで、ロイさんのことがさらに好きになった。

 店内も、よく見ると不思議なもので満ちている。統一性があるようで、実は無い。

「お父さんの趣味、変わってるでしょ?」

 楓がそう言って笑っていた。

 彼女とは、すっかり打ち解けて話せるようになっていた。自分はそこまで社交性があるわけではないから、彼女が人懐っこいのだろう。

 楓には、永い付き合いの男性がいるらしい。今はデザイン事務所に勤めているが、パティシエである彼がいずれは店を構えるから、それの手伝いをするのだと聞いた。

 こんなことまで話してもらえる。

 ただならぬ縁を感じずにはいられない。

(楓ちゃんが、あたしの娘になるとか……)

 そんな妄想をしては、キャーッ!と頭をブンブン振る。

 そしてハタと「あたし、何やってんの」と我に返る。

 恋は、ひとをおかしくする。つくづくそう思う。

 それはさておいて、ギターの話。

 朱音は楽器に縁が無く、ギターの良し悪しがわからない。壁に掛かっているのも、アコースティックギターであることが、かろうじてわかる程度。

「あの……」

「ん?」

 のんびりとカップを拭いているロイさんに、声をかける。すっかり常連だし、“アヤネちゃん”と呼ばれているのに、未だに緊張する。

「あのギターって……」

 そう言い掛けたところで、ロイさんの目が光ったのを感じた。

「これ? よくぞ訊いてくれたね!」

(あ、まずかったかも)

 と、正直思った。専門的な話をされても、頷くくらいしかできない。けれど、彼が一方的に話してくれるのを聴くチャンスでもある。

「これね、おれが使っていたギターなんだよ」

 躊躇している間に、話し出した。

「使っていた? ロイさん、ギター弾くんですか?」

「若い頃ね。二十代くらいまでだけどね」

 懐かしそうに目を細めて、宙を見上げる。そんな表情もハンサムだと思う。

「バンドとかやっていたとか?」

「バンドもやってたけどね。ひとりでやってることが多かったかな」

「プロを目指して?」

「あはは、そうだね。そんなスキル無かったけどね」

 屈託無く笑うロイさん。プロになれなかったことに、悔いは無いらしい。

「これ、いいギターなんでしょうね」

「そんなことないよ。三十年前当時で、十万くらいだったかな。しかも中古。ただ左利き用だから、珍しいといえば珍しい」

 ギターに左利き用というのがあることを、朱音は知らなかった。

「当時の彼女にも、下手だってよく言われたよ。ちゃんと稼げる仕事をしろってさ」

 三十年前の話だというのに、昔の女の話に少しだけ傷つく。

「こうして飾ってあるってことは、今はもう弾いてないんですか?」

「ちょっと腱鞘炎をやっちゃってね」

「そうだったんですか」

「あ、今はもう全然平気だけどね」

 そう言って、ロイさんは両手をヒラヒラさせた。

「その彼女さんとは?」

「え?」

 つい口に出てしまった。まずいことを訊いたなと思い、つい顔を伏せてしまった。

「ああ、その時のね。入籍までしたんだけどね。おれ、稼げなかったから、すぐに捨てられたんだ」

 無邪気に笑っているロイさんを見ながら、朱音は勝手にパニックに陥った。

(あ、あ、あたし今すごい話を聴いてない?)

 ロイさんは二十代の頃に、一度結婚していた。けれど、早々に別れたらしい。

「それがひどい捨てられ方でさ。おれ、金無かったから、何も言えなくて言われるがまま。それで呆然としていたら、美佐江さんと出会ったんだよ」

「ミサエさん?」

「かみさん。楓の母親」

「ああ」

 どうやらロイさんの離婚暦が一回だというのが判明した。

(バツイチなんだぁ)

 悪い感情は無い。これだけのハンサムなのだから、女性遍歴はもっと華やかなのだと思っていた。

 前に源三から聴いていた。ロイさんは愛妻家だったと。

「オレの知っている限り、ヤツは一度も浮気したことねえよ」

 そもそもロイさんと源三の付き合いの長さを知らないが、そんなことを言っていた。それを聴いて、ますます「素敵!」と思った。

 ところが五年前に、妻は乳がんを患って亡くなったのだという。まだ四十台という若さで。

「あん時はさぁ、後追い自殺でもするんじゃねえかってくらい、落ち込んでいたよ。楓ちゃんは大学の寮にいたんだけどな、一時休学して帰ってきて、ロイさんを支えていたんだよ」

 その話を聴いた時、朱音は嫉妬をするよりも、涙を堪えるのに必死だった。

(素敵……)

 こんな家族が、羨ましかった。自分には無かったものだから。

 そして思った。こんなふうに素敵な家庭を、自分がもう一度、ロイさんに与えることが出来たら――けれど。

(それはさすがに無理よね……)

 清美を思い出して、暗い気持ちになる。

 祖父母にはよくしてもらったが、やはり普通の家庭ではなかった。その祖父母が相次いで亡くなった時、清美は帰ってきて遺産が無いことを確認すると、

「年寄りが先に死ぬのは当たり前でしょ? いつまで泣いてるのよ?」

 と言い放って、さっさと出て行ってしまった。

 自分はそんな女の娘なのだと、絶望した。

「どうしたの?」

 ふと我に返ると、ロイさんが自分の顔を心配そうに覗きこんでいた。わりと近い。心臓が跳ね上がる。

「いっ、いいえっ! 何でもないですよっ!」

「そう? ならいいけど。顔も赤いし」

 それは今、アナタが近かったからですよ!とはさすがに言えず、朱音は苦笑いで誤魔化した。

(ああ、でも、好き)

 心からそう思う。ロイさんのことが好き。

 けれど知らないことは山ほどある。

 年齢は推定でしか知らないし、そもそも本名を知らない。

(自分でも信じられないけど)

“ロイさん”というのが、あだ名だというのはわかる。

 しかしいざ訊こうにも、フルネームというのはなかなか訊けない。知り合ってからずいぶん時間が経ってしまったために、今さらとも思う。

(源三さんに訊こうかな……)

 彼は朱音の恋心に気づいている。こうなったら開き直って、訊いてしまおうか? と思っているところに、ドアが開いた。

「よう」

 源三だった。ナイスタイミング。

 しかし今日の源三は、いつもの適当な格好ではなく、スーツを着ていた。

「クローズって出てるだろうに」

「そんな冷たいこと言うなよ~。ブレンド飲ませてくれ」

「あいよ」

 苦笑いしながら、ロイさんが応える。本当にこのふたりは仲が良い。

 朱音は初めて見る源三のスーツ姿に驚いている。

「よう、アヤネちゃん」

「こんばんは。スーツ珍しいですね」

 スーツとは言え、スリーピースで、ビジネスというには堅苦しい。しかしフォーマルとも異なる。胸元のポケットに赤いハンカチが入っているのが、気障っぽい。

「男前、上がっただろ?」

 ニヤリと微笑む。疲れていそうだが、そこはいつも通りの源三だった。

 源三は上着を脱いで、カウンターの椅子に適当に掛け、ネクタイをするりと取り、ワイシャツのボタンを上から二つまで外した。

「お疲れ」

 そう言って、源三の前に冷水の入ったコップと布おしぼりを差し出す。源三は礼を言ってから、水を一気に飲み干し、おしぼりで顔を拭いた。そしてタバコを取り出して、朱音に目配せをする。

「どうぞ」

 微笑んで促すと、「サンキュ」と言って源三はタバコを咥える。朱音は横でタバコを吸われても、特に何とも思わない。祖父がヘビースモーカーだったから。清美だけは、腹が立つけれど。

「あーっ、疲れたな」

 源三はおいしそうにタバコを呑む。と同時に、コーヒーの香りがしてきた。

「お前、ああいう仕事は苦手そうだもんな」

 サイフォンを注視しながらも、ロイさんが源三に声を掛ける。

「そうなんだよ。オレには合わん。誰かを選ぶなんて、分不相応だな」

「お仕事?」

 朱音は源三が何の仕事をしているのかをよく知らない。

 いつもこの時間に、この店のこの席で、コーヒーを飲んでいる。物書きとは聞いたから、自由業なのだろう。駅の反対側に住んでいると言っていた。

 五十台のロイさんとは同い年というのは知っている。前に昔のアイドル歌手の話をした時、「おれもその頃小学生だよ」「当たり前だろ、同じ年の生まれなんだから」といった会話をしていたから。

「他人が書いたものを読んでだな……いや、まあ、つまんない仕事さ」

 途中で説明が面倒になったらしい。端折られた。

 そこでロイさんが、「ほい」と源三の前にコーヒーカップを差し出した。源三はそれを受け取り、心の底からうれしそうに飲んだ。

「やっぱうめえなぁ」

 ロイさんが店内のテーブルを拭きに行ったのを見届けて、源三さんが朱音にそっと話しかけてきた。

「ふたりきりだったのに、ゴメンな」

「えっ!」

 やはりばれている。頭に血が上ってきて、思わず俯いてしまった。それを見て、うれしそうに源三が笑う。

「何か話せたかい?」

「え……あ、それ……」

 朱音はカウンター向こうの壁のギターを指さした。

「あ、あれか」

「ご存知でしたよね?」

「まあな。あの頃はまあ、いろいろあったしな」

 珍しく言い澱む。

「最初の結婚の話とか」

 すると源三は目を見開いた。

「アイツ、そんなことまで喋ったのか! へえ、アヤネちゃん、信用されてんなぁ」

「え……」

 うれしいことを言ってくれる。しかしあからさまに顔に出すのは、躊躇われる。

「そうなんだよ。美人なんだけど、コブ付きの女と入籍したんだよ。コブって言っても、アイツの子どもらしいんだが」

「!」

 楓の他にも、子どもがいた?

「一度そういう関係になって別れたんだが、後で彼女が自分の子どもを生んだと知って、よりを戻したんだよ。だが、わりと早く浮気された。その上、出て行かれてな」

「は、はあ……」

「子どもとも会えなくなっちまってさ。ほんとひどい女だったなー、あいつ。なんて言ったっけな」

 ロイさんがそんな女と一回でも婚姻関係を結んだということよりも、やはり子どもがもうひとりいたということの方が、朱音にとってはショックだった。

(で、でもひとりもふたりも同じじゃない)

 そう思い直して、自分を奮い立たせる。二度あることは、三度ある。すなわち、自分が三人目の妻になって、三人目を生むことだってありうるわけで――

(って、あたし何考えてんのー!)

 つまり、自分はいつか、ロイさんとセックスしたいと思っているわけで。

(で、でも……あれ?)

 恋はしているけれど、そういえばそういったことを想像したことが、ほとんど無い。抱きしめられたりはしたいと思うものの……。

(え、あたし、三十にしてもう枯れ始めてる?)

 ひとりで勝手に赤くなったり、青くなったりしている。

「アヤネちゃん、大丈夫かい?」

 ひとりでワタワタしている朱音のことが、さすがに心配になったらしい。不安そうに朱音の顔を覗こうとしている源三を、後ろからロイさんが軽く殴った。

「こら、お前、若いお嬢さんに何やってんだ」

「な、何もしてねえよ」

「何もなくはないだろ。アヤネちゃん、大丈夫かい?」

「は、はい。源三さんは何も悪くないんです」

「ホレ見ろ」

「ほんとかー?」

 ロイさんは、再度奥のテーブルに戻って行った。

「す、すみません」

「いや、いいんだよ……さすがにちょっとショッキングだったかな」

「いいえ。あたしももういい歳なので」

「言うなよ。まだアラサーだろ? オレの娘のようなもんだ」

 苦笑いしながら、源三はタバコの煙を吐いた。祖父のタバコと似た匂いがしている。

「あ、あの、源三さん」

「んー?」

 祖父は、哀れな身の上の朱音を、相当かわいがってくれた。その祖父と同じタバコの匂い。だからつい、甘えてしまう。

「ロイさんの本名って、何ですか?」

「へ?……え、知らなかったのかい?」

 朱音は黙ったまま頷いた。

「あれ、そうか。オレずっと“ロイさん”って呼んでたからな。そっかそっか」

(納得していないで、さっさと教えてー!)

 ロイさんを見やると、拭き掃除があらかた終わったらしい。そろそろこちらに戻ってきてしまう。

「“イオロイユウジ”っていうんだ」

「へっ?」耳慣れない言葉が来た。「いおろ……?」

「イオロイユウジ。ホレ、あそこに漢字で書いてあるぜ」

 源三の指さす方向に、“食品衛生責任者”が書かれているプレートが掛かっていた。

 食品衛生責任者とは、こういった飲食店を経営する上で必要とされる公的資格で、数時間の養成講習を受ければ取れる。飲食店である“雨の海”にも当然必要なわけで、ほぼひとりで運営しているロイさんの名前が書かれている、はず。

 つまりは、恥ずかしい思いをして源三に訊かなくても、これを見ればわかったわけで。

(あたしったら、どうして気づかなかったんだろう?)

 そう思いながら、そのプレートを見た。

(ん……?)

 五文字。後半の文字が、少し大きい。画数が多いせいか、手書きの字が黒く潰れているように見えた。

“五百蔵優爾”

「ご、ごひゃくくら……?」

「それは“イオロイ”って読むんだよ」

「え?」

 すぐ背後に、ロイさんが苦笑いしながら立っていた。

「パソコンとかスマホで変換してごらん」

 そう言われて、朱音は素直にスマホを取り出した。“いおろい”と打つと、変換候補として“五百蔵”が出て来た。

「いわゆる難読苗字ってやつだな」

 何故か源三が満足げに言う。

 ロイさんには聞かれてしまっていたことだし、朱音は開き直って本人に訊いた。

「そ、それじゃ下のお名前は?」

「ユウジ。優しいの“優”に、石原莞爾の“爾”だね」

「いしはら……?」

 知らない名前が出て来た。

「歴史でやらなかったか? 二・二六事件を鎮圧した軍人さんだな」

 憶えていない。歴史は苦手だった。

 源三は近くにあった紙ナプキンを取り出し、自分のポケットから細いマジックを取り出し、サラサラと“爾”の字を書いた。漢字自体は、見たことがある。

(これ、“ジ”って読むんだったんだ)

 無知がばれると恥ずかしいから、心の中で驚く。

 そして“ロイさん”の“ロイ“の意味がわかった。“イオロイ”の“ロイ”だ。

「さすがに本人のおれでも、書くのが面倒くさい」

 苦笑するロイさん。

「なんか金持ちっぽい名前だろ? 金はねえけどな。それで女に捨てられたわけだ」

「うるさいな」

 ロイさんが拳を作って、源三の頭を叩く真似をする。

(とりあえず漢字で書けるようにしなきゃ)

 ようやっと好きなひとのフルネームを知れた。

「難読苗字なだけでなくて、書くこと自体も面倒なんだぜ。習字とかすると、たいがい下の方の字が大きくなって、バランスが悪くなるんだ」

 なるほど、と思う。何も考えずに書くと、“樹”や“藤”の字が、どうしても大きくなってしまう。

「せめて素直に読める名前だったら、よかったんだがな」

 これも朱音はわかる。“朱音”と書いて“アヤネ”と一発で読めた人物は、過去にいない。

 そこでふと思いついた。そういえば、朱音は源三の苗字も知らない。

「源三さんの苗字って……?」

「えっ」

 ロイさん、源三ふたりが同時に驚きの声をあげた。

「アヤネちゃん、知らなかったの?」

「?」

 キョトンとして、ロイさんの顔を見る。呆然としたハンサム顔も、また新鮮だった。

「タカミネっていうんだ。高い峰……山の峰で、高峰」

「へえ! 高峰源三さんですか。ほんとだ。ロイさんに比べると、ふつうに読めますよね」

 しかし、ロイさんも源三も、非常に微妙な表情をしている。

「え……どうしました?」

「あ、いや……」

「まあ、そうだな。五百蔵に比べればな! アハハ」

「? ふふ」

 空気がおかしい感じもしたが、源三本人が笑っていることもあって、朱音もとりあえず微笑んでおいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る