第5話

 これまで何度も痛い目に遭ってきた。


 物心がついた頃は、祖父母と暮らしていた。

 朱音あやねは祖父母のことを両親だと思っていた。 “じいじ”と呼んでいた祖父を父親、“ばあば”を母親だと認識していた。

 そしてその家には時々、派手で臭い女が出入りしていた。

 その“臭さ”は化粧品特有のものだと、後に知った。静かな暮らしにドカドカ踏み込んで来ては、また帰ってゆく。自分には見向きもしない。たまに目が合うと「元気じゃん」と言って、小突いていく。それが案外痛い。時々、毒々しい色の爪が、さっくり刺さることもある。

 その女が出て行くと、じいじとばあばは、毎回ため息をついていた。これも後で知ったが、金の無心をされていたらしい。

 朱音はその女のことが、嫌いだった。

 ところが。


 どういった話し合いがされたのか。当時三歳くらいだった朱音にはさっぱりわからないが、いつのまにかその女と、知らない男性との三人で暮らすことになった。

 嫌がって泣き喚くほどの情報も与えられず、いつもは買ってもらえない菓子を与えられ、気がついたら車に乗せられて、あるアパートに連れて行かれた。愕然とする自分の顔を覗きこんで、あの女は言った。

「今日から、“ママ”と暮らすんだよー?」

 当時、朱音は“ママ”の意味を知らなかった。“ママ=母親”と知っていたら、立ち直れないほどのショックだったろう。

 そして一緒にいた男性は、自分の“パパ”なのだという。

 背がひょろりと高く、少し頼りない感じがした。

「今日から、朱音のパパだよ!」

 自分を抱き上げて、そのひとはそう言った。

“ママ”は嫌いだったが、このひとは好きだと思った。だから、祖父母の元に帰りたいとは騒がず、新生活がそのままスタートした。

 朱音は、そのひとのことを“パパちゃん”と呼んだ。


 ママは夜の仕事に出ており、パパちゃんは昼間に働いていた。だがパパちゃんは午前中だけフラッと出てゆき、午後早い時間には帰ってきていた。そして家事をやったり、ギターを弾いたり、朱音の面倒をみたりしていた。

 朱音はパパちゃんがギターを弾いているところを見るのが、好きだった。パパちゃん自身のことも大好きで、ママが夜に居なくてもさみしいなどとはひとつも思わなかった。

 たのしい日々だった。

 ママが数日間帰ってこなくなっても、気にはならないほどに――。


 ママが帰って来なくなって三晩経った頃から、パパちゃんの様子がおかしくなってきた。

 どこかに電話したり、足音が大きくなったり、夜中でもギターを弾いて、近隣から苦情が来ても怒鳴り返したり。朱音が話しかけると一応は笑顔を見せてはくれるものの、すぐに上の空になる。

 朱音は好きじゃないママがいなくなってうれしかったが、パパちゃんの元気がなくなっていたのもわかっていて、それは悲しかった。


 そしてその日は突然やってきた。

 ママが突然帰ってきて、夜通しパパちゃんと大喧嘩をしていた。終いには近所から通報されて、警察が来ていたほどの大修羅場。暴力は発生していなかったから、厳重注意されただけで済んだが。

 その翌朝、朱音はママに連れられて、また祖父母の家に戻った。

 祖父母との暮らしが、再び始まった。そのこと自体はうれしいことだったが、パパちゃんが居なくなったことだけが、朱音には寂しかった。

 パパちゃんはどこに行ったのか。

 ママ――清美は、朱音を祖父母宅に預けると、またどこかに行ってしまった。そして金が無くなった時だけ帰ってくる。その際には、朱音がいようといまいと、お構いなし。朱音も(またあの女が来た)程度にしか思わない。

 そんな日常に戻った。

 朱音は祖父母の家でその後も暮らし、やがて幼稚園にあがり、就学し、“じいじ”や“ばあば”の意味を自然に知る。

“ママ”が、自分を生んだ女であるということも。

 そして清美とパパちゃんの関係も、お節介な親戚から知らされる。

 パパちゃんは売れないミュージシャンで、清美とは一応籍が入っていたらしい。付き合い自体は長く、朱音の実の父でもあるという。

 しかしいかんせん、清美が自由奔放すぎる。

 別れたりよりを戻したりを繰り返し、ついに破綻した。


 その頃には周囲の友だちの“ママ”や“パパ”が、自分のそれとは違うことにも気がついていた。

 自分には叶わない存在である、ということも。


 *


 朱音は仕事帰りに、自宅最寄り駅ではなく、反対方向への電車に乗っていた。“雨の海”に行けないのは残念だが、仕方ない。

 待ち合わせは、駅前のコーヒーショップ。大手チェーン店で、若者が多い。

(こういうところをわざわざ選ぶところが、清美らしいわ)

 朱音は母親のことを“母”とは呼ばない。名前で呼ぶ。

 時間帯としては夕食の時間だからか、店内には客が少なかった。

(いた)

 見る前に、女の甲高い笑い声が聴こえた。

 耳障りな声。それは、男に媚びる声。

 うんざりとしながら、その方向を見る。すると、遠目から見てもわかるほどに派手な女が、若い男性店員相手に話している。が、どう見ても一方的で、店員の方は客だから相手にしているだけといった表情だった。

(何やってんだか)

 恥ずかしい。このまま踵を返したいところだが、そういうわけにもいかない。

 あの店員のことも助けなければ。急いでカウンターで、飲み物を買う。

「清美!」

 呼びかける声に、若干怒りが入る。

「あ!」

 こちらを見る清美の表情には「気が効かないわね」といった感情が、そして店員のそれには「助かった!」という感情が浮かんでいた。あからさま過ぎて、朱音は笑いを噛み殺した。

「待たせたわね」

 朱音は清美の座っていたテーブルの対面に座った。

「話してるの、わかってたでしょうに。気の効かない子ね」

 そう言いながらバッグからタバコを取り出したが、そこは禁煙席。朱音はタバコを取り上げて、禁煙席のマークを指差した。

 清美がよく使う「○○な子ね」と朱音を表現する言葉を聞くと、ひどく嫌な気持ちになる。

「いい年して、若い男にちょっかい出してんじゃないわよ。恥ずかしい」

「あたしは外見が若いんだから、いいのよ」

「ほーら、首筋に年齢が」

 小ばかにしたような口調で、清美の首筋を指さす。手先は家事をしていないせいかそうでもないが、首筋にはどうしても年齢が出てしまう。

「うるさい。親に向かって何、その口のきき方」

(“親”なんて、どの口がほざくのよ)

 そう思いながら、言わずに無視して話を進める。

「で、何の用なの?」

 わかっているが、呼び出された理由をあえて訊く。

「あっ、そうそう」途端に機嫌を直して、両手のひらを上にして朱音へ差し出す「はいっ」

「は?」

「は?じゃないわよ。お、せ、ん、べ、つ。ほらー、バリに行くって言ったじゃない」

 そんなメールを受け取った後に、会いたいと来た。だからわかっている。

 朱音はその手のひらを汚いものを見るような目つきでしばらく眺め、それから面倒くさそうに、自分のバッグから銀行の封筒を出した。

「はい」

「ありがとー!」

 清美は手のひらに載せられた封筒を、うれしそうに受け取った――が、すぐに眉間に皺を寄せた。

「なんか軽くない?」

「仕方ないでしょ。給料日前だもの」

 清美は遠慮なく中身を見る。

「でも……たった三万?」

 三万円だって、高給取りとは言えない朱音にとっては、小さな金額ではない。毎月少しずつ貯金に回している中から、引き下ろしてきた。

「文句言うなら返して」

 うんざりして手を出したが、「いやよ」と、清美はそそくさと封筒を自分のバッグに入れた。小さくて、十代の派手な少女が持っていそうな、毛むくじゃらのかわいいバッグ。

「五十三歳でこういうのを使っているとか、ばかじゃないの」

「うるさいわね。あたしは永遠の二十二歳よ」

「……」

「アンタこそ三十でその地味さって、おかしくない?」

「仕事帰りだもの」

「アンタ、今カレピいないんでしょ。枯れるのが早くなるのよ」

 調子に乗って、朱音をバカにし始める。反論したい気持ちはあるものの、余計に面倒なことになるのはわかっているから、朱音は黙ってコーヒーを飲む。

(うわ……にが……)

“雨の海”のおかげで、ずいぶんコーヒーが飲めるようになってきていた。

 最近では店のドアを開けるとロイさんがそわそわし出す。

「今日は珍しい豆が手に入ったんだよ」

「今日は深煎りにしてみたんだ」

「今日のはちょっと酸味が強いかもしれないな」

 とてもワクワクしている。

 そして客が少ない時は、朱音の反応を見ている。

「いいんだよ。素直に美味しいかどうか言っておくれ」

 ロイさんの淹れたコーヒーだから、すべてに「おいしい」と返事をしたい。

 しかしやはり苦手な苦味、渋み、酸味がある。

 それらを、朱音は嘘をつかずに、正直に伝えることにした。すると次に出てくる一杯がとてもおいしいものになる。

 ロイさんは、「おいしい」という素直な言葉を聞くと、ニカーッといい笑顔になる。目の周りに皺がギュッツと集まる。

(あの笑顔はあたしのもの……)

「ちょっと朱音」

「へっ」

 いきなり現実に引き戻された。残酷なほどに絶望的な現実に。

「なにポヤーンとしてるのよ。キモ」

「う、うるさいな」

「ははーん、さては恋してるな?」

 照れ隠しに飲もうとしていたコーヒーが、気管に入る。

「やっだー、汚い」

 眉間に皺を寄せながら、言われる。不愉快極まりない。

「恋だなんて、何言ってるのよ?」

「だって、夢見る乙女~みたいな顔して、にや~っとしてるんだもん。キモ。ねえ、どんな相手よ? もうヤッたの?」

 今度は朱音が、眉間に皺を寄せた。

「やっだー、まだ昔のことを根に持ってるのぉ?」

「……」

 忘れるもんか。

 彼は、同じ大学の同じゼミの学生だった。在学中から付き合いだして、社会に出てからもしばらく付き合っていた。

 二十五になったら結婚しようね、なんて話も出ていた。けれど自分の育った環境がかなりおかしかったから、果たして普通の家庭を築けるのか……打ち明けて、嫌そうな顔をされたら別れようか。月に一度はそんなふうにセンチメンタルに悩み、それでも愛されているという幸せを実感していた。

 彼の見た目は普通だったと思う。イケメンではなく、かといって悪くもない。ただ優しかったという印象が強い。

(優しかったから……)

 結婚の話もしていたから、母親である清美のことも話した。「生んでもらっただけで、育ててもらってもいない」と。苗字すら違う。朱音は清美の二番目の夫の苗字を使っている。就学した時の苗字で、コロコロ変えるのは躊躇われたから。

 いっそのこと居ないことにしてもよかったが、結婚となるとそうもいかない。

 意を決して打ち明けてみたらば、彼は「朱音は朱音じゃないか」と、お付き合いの継続を決めてくれた。これで月一回のセンチメンタルは無くなるのかと思えば、さらにひどい結末が待っていた。


「あの子、すんごくエッチが下手だけど、アンタあれで大丈夫なの?」


 ある土曜日夕方のファミリーレストランで、いきなり普通の声量でそう訊かれた時は、頭の中が真っ白になった。

“あの子”とは、紛れもなく彼のこと。

「本当は朱音と暮らしたかったのに、経済的な事情でそうもいかなかった。しかし朱音は自分を恨んでいる。どうやったらこの隙が埋まるのか」……などというよくある相談の手口で呼び出し、迫ったらそのまま――。

(いくら優しいからってさぁ、アラフィフとヤる?)

 清美にも腹は立ったが、彼への怒りの方がひどかった。

 道理で最近はデートにも「お母さんを誘おうか?」と言い出したり、「これまで一緒に暮らせなかった分、お母さんと仲良くしなきゃ」とか説教じみたことを言ったりしたのだと、納得した。

 彼とはスッパリ別れた。初めての恋人だったが、母親と“ヤッた”男と夫婦なんて出来るか!と。

「アンタ、心狭いわよねぇ」

 最近彼がどうしているのか訊いてきた清美に顛末を話したら、そう言いながら笑われた。この頃にはすでに、清美は次の男と暮らしていた。

 朱音の次の恋人は、清美の好みの範疇ではなかったらしい。話題にも出なかったし、その前に清美とはほとんど会わなかった。

 その頃の清美は、何度目かの結婚生活の最中だったが、やはり修羅場になっていた。何度制裁を受ければ、 “既婚者と恋愛をしてはいけない”と理解するのか……。

(その時に貸したお金も返ってきてないな)

 もっとも返ってくるとは思っていない。娘には何を言ってもいいし、何をしてもいいし、何を奪ってもいいと思っている。

 むしろ“奪う”という感覚は無く、“自分のもの”として手に取っているだけなのかもしれない。

「あっ、もうこんな時間。アタシ、行かなきゃ」

 清美は騒々しく立ち上がった。

「アンタ、ネイルしてみれば? 赤っぽいのが似合うわよ。髪もね。ちょっと伸ばしてみてもいいんじゃない? 化粧はもっとちゃんとしなさいね。じゃあね」

(余計なことを)

 と思いながら、黙って手だけを振って見送る。清美は自分を“女の先輩”だと思っているらしい。

 彼女は尻をプリプリ振りながら、出口に向かって行った。振り返りもしない。

(うわ、ミニスカートだよ)

 そうは思うが、伸びる脚は細くて形がよい。それは認める。

(でも首に年齢は出ているし、顔の皺だって増えたし)

 それでも今の恋人は、四十一歳の公務員なのだという。今度は独身らしい。

(年上女が好きな男って、わからないな……)

 そう思っておいて、違和感を覚えた。

 自分が今好きなのは、年上男。歳の差があるのは、同じ。

(そういえば、ロイさんって幾つなんだろう?)

 五十台なのはわかる。娘である楓が二十六なのだから、そのくらいにはなるだろう。

 そして自分との年齢差を考える。軽く二十歳は年上になる。

(で、でもあたしは女だし。男性が年上なのはいいよね)

 何故なら、女が若ければ子どもを生めるから。逆では難しい場合が多い。


 しかし、ここで思いとどまる。

――だから、なに? 

 あの女の子どもで、まともな家庭環境で育たなかった自分が、母親になる?

 一方、もう子どもは生めないだろうに、それなのに、清美は何故もてる?


 口に合わないコーヒーの入ったカップが、冷たくなっていることに気がついた。

(あんな女の娘だってわかったら、ロイさん、幻滅するかな)

 彼の淹れてくれるコーヒーが恋しかった。


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