第3話

「数え歌?」

“coffee 雨の海”。すでに扉には、「close」の看板が掛かっている。

 カウンターで朱音あやねは源三と話していた。ロイさんは、離れた場所のテーブルを拭いている。

「ありません? いーちにーい、さんまるしいたけ、でっこんばっこん……っていう歌」

「あー、あれな。“どれにしようかな 神様の言うとおり”みたいなヤツだろ?」

「あ、そうです、そういうの」

「あと“ちゅうちゅうたこかいな”とか」

 ロイさんが店の仕事をしている間、朱音は源三と話していることが多い。

 源三は“チョイ悪”を意識した格好や話し方をしていて、実際に荒っぽい話し方をするが、人柄は好い。

 そしてその知識は、驚くほどに広くて深い。年の功と片付けるには、簡単すぎるほどに。

(ロイさんが、源三さんのことを“物書き”だって言ってたけど)

 そう言うものの、彼自身もあまり読まないらしい。自分も滅多に本を読んだりはしないから、聞いてもわからないだろうと思い、筆名などは訊いていない。源三も自分からは言わない。

「あれはな、その地方によって様々あるんだよな」

「そうみたいですね。今日だけでも、何種類も出てきて」

「しかも都道府県の違いだけじゃなくって、町や村、また家族なんかでも違ったりもするからな」

「そうなんですか?」

「ようは、自由ってコトだ」

「なるほど」

「何の話?」

 背後から聞こえてくる、低い声。だが華がある。少なくとも、朱音にはそう聴こえる。気持ちがときめく。

「数え歌だってさ」

「数え歌?」

 大雑把に源三が答え、気安くロイさんが応える。実は仲のよいふたりなのだと、そんな空気が漂う。

「ほら、なんだっけ。いーちにーい、さんまるしいたけ、でっこん……」

「ばっこん、きゅーりのろんどん」

 詰まる源三のあとを、朱音が引き継ぐ。

(あ……)

 ロイさんが意外と真剣な顔をして自分を見ていることに気づき、朱音は緊張し始めた。

「ぴーひゃらぴーひゃら……」

「おならがブウ! じゃなかったっけ?」

 恥ずかしくなって言いよどんだところで、思いがけずに助け舟が出た。ロイさんも“おなら派”だった。朱音はおもしろくなってしまい、笑い出した。

「えっ、違ったっけ?」

「いえ、あの、違っ……あははっ」

「お前みたいなハンサムが“おなら”とか言うから、ツボったんだろ」

 からかうように源三が言う。ロイさんは、悪友も認めるハンサム。

 最近、こうして閉店後に源三も含めて三人で話すのが、朱音の楽しみになっていた。

 いきなりロイさんとふたりきりよりも、源三も交えて話している方が気はラクだし、ロイさん自身があまり話さない自分のことや、朱音が遠慮して訊けな話題も、源三が提供してくれる。

「そろそろか?」

 先ほどからロイさんが時計を気にしている理由も、切り出すのは源三だ。

「そうだな」

 午後九時になろうとしていた。

「あ、どなたかいらっしゃるんですか? なら私、そろそろ失礼しなきゃ」

 もう少しここに居たかったが、まだ常連としては新人。少し遠慮をしながら、徐々に近づいていかなければ。

 それをやはり源三が止める。

「アヤネちゃん、大丈夫大丈夫」

「でも」

「大丈夫だよ。何か飲む?」

 最近はロイさんも、朱音に対して敬語を使わなくなってきた。目じりに笑みを浮かべて、話しかけてもくれる。この気さくさが、ジタバタしたくなるほどうれしい。

 その時、ドアが開いた。すでに閉店の看板を出しているというのに。

「!」

「おう」

 入ってきた人物に、ロイさんが源三と同じくらい気安く声を掛ける。

「こんばんはー」

(うわあ……)

 まず、“美人!”だと思った。

 入ってきたのは、ひとりの若い女性。

 長身でスレンダー。だが出るべきところは、きちんと出ている。長い黒髪は艶々で、白い肌もプルンとしている。派手ではなく、むしろ質素な服装だというのに、いるだけでそこらに春が来たような、華やかさがある。

(まさか、ロイさんの彼女とか?)

 その次にそう思った。美男美女。最高の組み合わせ。

 胸がザワザワし始める。

「源三さん、お久しぶりです」

「楓ちゃん、相変わらず美人だねー」

 源三の鼻の下が、若干伸びたような気がした。(男ってのは)と、正直思う。

「遅いじゃないか」

 ロイさんは、少しだけ機嫌を損ねたように見えたが、美女は悪びれない。

「だって、仕事が終わらなかったんだもの。仕方ないでしょ。こちらは?」

 美女が朱音を見て問う。朱音が慌てて会釈をすると、彼女はニッコリ笑って「初めまして」と挨拶した。嫌味がない笑顔。

「常連のアヤネちゃんだよ」

 源三が紹介をする。

(アラサーなのに、こんな美人相手に“ちゃん”付けで紹介しないで欲しい……)

 逃げたくなってしまった。いきなり聖なる光を浴びた幽霊になった気分。美人は絶対に光を放っていると、朱音は思う。

「でね、アヤネちゃん、この子はカエデちゃん。ロイさんのひとり娘だよ」

「へっ?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。

 美女・楓は朱音の隣に颯爽と座った。基本的に姿勢が良い。

 そしてカウンターの中に、ロイさんが立っている。美男と美女。そのツーショットが、非常に神々しく見えた。

「いつも父がお世話になってます」

 笑顔の楓に、照れくさそうではあるものの、誇らしげにも見えるロイさん。

(あ……お嬢さんなの……そうなの、そうよね)

 恋人ではなかったことを喜ぶところだが、意気消沈してゆく。

(そうよ、もういいお年なんでしょうから、結婚していて、このくらいのお嬢さんが居てもおかしくないわよね)

 妻子持ちではないという可能性――左手薬指に指輪をしていなかったから、期待はしていたものの、見事に外れた。

 ロイさんもハンサムだが、娘を見ていると、母親もさぞ美形なのだと想像できた。そんなひとには、敵わない――もっとも不倫は嫌いだから、どうすることもできないが。

「お父さん、お母さんの着物、どこにしまったの」

 ちょうどその奥さんの話題。

「知らないよ。母さんの箪笥は手をつけてないぞ」

「でも大島紬が無かったんだってば。お母さんの箪笥、私欲しいんだけど」

「えー」

 ロイさんが、娘に対して駄々っ子のような反応をする。意外でかわいい……しかし、ますます暗い気持ちになる。

 しかし。

「お母さん死んで、何年経つと思っているのよ」

(――“死んで”?)

 不謹慎だと、自分でもわかってはいる。だからその一言で一転した気持ちを、朱音は表情に出さないように堪えた。

(ロイさんの奥さん、亡くなってるんだ……)

“チャンスかも”と思った。妻は美人だったのだろうが、鬼籍であれば、自分にもチャンスがめぐってくるわけで。

(いやいやいや、そんなっ)

 そう自分を戒めてみるものの、うれしい。奥さん、ごめんなさい!とは思うけれど、やはり。

 目の前で美形父娘の口ゲンカを見ながら、自分の中で葛藤していると、隣に座っていた源三がそっと朱音に耳打ちしてきた。

「ホッとした?」

「へっ!」

 心臓がバクンッと跳ね上がった。

 ニヤニヤした顔の源三に、朱音はどんなリアクションを返していいのかわからない。ただ自分の体温が上昇していることだけはわかる。

「ふふっ」と満足げに微笑みながら、源三は残っていたコーヒーをひと口飲んだ。

「まあそんなわけなんで、がんばれヨ」

「は……」

“い”は何となく飲み込んでしまった。

 がんばれよ、と言われましても。

 

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