第2話

 朱音あやねの勤め先は午前十時が始業時間。その時間帯になると、通勤電車も落ち着いている。

「はよっす」

「おはよう」

 オフィスに入ると、たいてい彼の方が早く出社している。

 まだひとが少ないオフィスの中、金髪のメッシュが目立つ。肌も白い。しかし生粋の日本人だと、彼は言っていた。

 彼は裸足になって、椅子の上で胡坐をかきながら、パソコン画面を眺めている。片手には五百ccのオレンジジュース。

(村上くん、また早い)

 派遣社員である村上は、他の社員が軒並み始業時間ギリギリに出社する中で、ひとりだけ三十分は早く席に就いている。その分の時給が発生するわけでもないのに。

「自分、遅刻だけは絶対にしたくないんで」

 最初の頃、「もう少しゆっくりめの出社でもいいんだよ?」と言ったところ、そんな答えが返ってきた。電車遅延などのやむを得ない遅刻でも、遅れた自分を許せないのだという。

 初めて彼に会った時、「絶対に続かない」と、朱音は思っていた。

 派遣社員の面談――法律では禁止されているが、“顔合わせ”という名前の事実上の面接――時に、たいていはスーツで来るところを、彼だけは長袖Tシャツに、膝のところに穴が空いているジーンズ、履き潰したスニーカー、という出で立ちで来た。その上、髪はボサボサの金髪。

 オロオロする派遣会社の担当営業をよそに、

「ども」

 とだけ言って、ニコリともしなかった。

 派遣会社から預かったスキルシートの内容だけは完璧で、その上こちらはすぐにでも人手が欲しかったものだから、採用を決めた。あまりに人が決まらなくて、ヤケになっていたというのもある。いつ辞めるかを賭ける社員まで出て来た。

 ところが、これが拾い物だった。

 彼は愛想が無いだけで、仕事は的確、指示にも従う優秀な派遣社員だった。

(まだ二十五歳って言ったっけ?)

 派遣会社からのスキルシートには、派遣社員の年齢は書いていない。一度、そのスキルをどこで培ってきたのか不思議になって、訊いたことがあった。

 奇しくも、自分がここへ転職してきた年齢と同じ。

 入社して半年以上経っているが、彼はすでにいろいろ任されている。

 朱音は最初から正社員採用であったが、彼の仕事ぶりなら、派遣社員から正社員への登用も夢ではないかもしれない。一度それを言ったところ、

「自分、正社員とか興味無いんで」

 と、心底興味が無さそうに返って来た。

 何事にも無関心なようでいて、何を話しかけてよいのかわからない。

(でもこのコの方から、声をかけてくることが多いのよね)

 適当に聴こえるが、挨拶だけはしっかりしてくる。そして他愛の無い話題をひとつふたつ。後は仕事をしている。

 残業はあれば嫌がらずにするが、それ以外は定時で帰る。

 社内の若手男性社員や、アルバイトで集まる大学生たちの会話を耳にしたことがあるが、たいていはテレビか女の話。話をふられても、適当に相づちを打っていれば、それでいい。

 しかし村上は違う。たいていの男性が喜ぶ話題に、喜ばない。きちんと自分の意見を言わないと、「自分が知りたいのは、田中サンの意見なんスけど」と機嫌を悪くする。面倒くさい。職場での付き合いだけでよかったと、正直思う。

「田中サン」

「は、はい?」

 村上に話しかけられることに、朱音はまだ慣れていない。

「明日の“ひとくちアンケート”、準備したんで、あとで確認お願いします」

「はい、ありがとう」

 この階のオフィスは、会員制のポイントサイトを運営しているチームで占められている。

 そのサイトトップには“ひとくちアンケート”というミニコーナーがあり、毎日質問が変わる。それに答えると、0.1円に相当する一ポイントが付与される。たったそれだけのポイントなのに、結構な回答数を得られる。その結果はグラフなどになってサイトに掲載されたり、企業への営業アプローチの材料になったりする。

 そのネタを考え、画面を作成するのが、現在は村上の仕事になっている。

(ラクになったわー)

 そう思う。彼の前の担当者は休みが多かったから、朱音が代わりに作業することが多かった。毎日のアイデアを捻り出すのもひと苦労で、毎日他の業務が遅れて残業、というパターンが多かった。

 ところが村上は、それを毎日こなしている。仕事もこの半年間は欠勤していない。

(ひとは見かけによらないわよね)

 村上の隣の自席に座り、パソコンを起動した。

「体調はどうっスか?」

「へっ?」

 村上が自分のパソコン画面を見ながら、訊いてきた。彼はそういうところがある。

「体調って?」

「忘れたんスか。救急車呼んだの、まだ半月くらい前なんスけど」

 思い出した。

 同時に、少しだけ暖かい気持ちも感じた。その病院帰りに“雨の海”に寄り、“ロイさん”と出会ったから。

「ありがとう。もう大丈夫よ」

 過度のストレスによる、目眩。

 それを上司に伝えたら、苦笑いされた。

 しかし村上だけは「ストレスって、人を殺せるっスからね」と言っていた。

「ならいいっス」

 笑顔は無い。視線はずっとパソコン画面。さて、そろそろ自分の仕事を……と思ったら、不意打ちがきた。

「田中サン、カレシ、出来たんスか?」

「えっ!」

 うろたえてしまい、椅子から転げ落ちそうになってしまった。

 それで初めて、村上は朱音を怪訝そうに見た。

「何やってんスか?」

「か、カレシって、いや、無い無い!」

「だって田中サン、最近小ぎれいじゃないっスか」

「小ぎれいって!」

 言い方が失礼この上無い。

「女が小ぎれいになるのって、たいてい恋している時じゃないっスか」

「違う違う! ロイさんはカレシなんかじゃ……あっ」

 失言というのは、口から出した途端に気づく。

「ろいさん?」

「あっ、いや、それ違っ……」

「田中サン、今、外人と付き合ってるんスか?」

「ちがーうっ!」

 ふと、周囲の視線に気づく。もうだいぶ出社してきていた。まもなく十時。

「コーヒーでも飲んで落ち着いたらどうスか?」

 そう言って、村上はニヤリと笑みを浮かべながら、朱音を見た。してやられた感はあるが、気分は悪くない。彼の笑顔は、なかなかに魅力的。

(でもロイさんの笑顔には、まだまだ敵わないわね)

 そう思うと、気持ちに余裕ができる。

 ロイさんは、笑うと目の周りに皺が集まる。

 やさしく、慈しむように笑う。

 思い出すと、胸がふわっと温かくなる。

 会いたい。

(そのためには、仕事を早く終わらせなきゃ!)

 だらだら仕事して、うっかり残業する羽目になったら、“雨の海”は閉まってしまう。

 朱音は気を取り直して、パソコンのメールソフトを開いた。

 確かに村上から、仕事完了を知らせるメールが届いている。作成した記事について書かれていた。

(どれどれ)


――お粥を食べる時、何をおかずにしますか?――

 ① たくあん・漬物

 ② 焼鮭

 ③ タラコ

 ④ ふりかけ

 ⑤ 


「あれ? ⑤は何も無いけど?」

「思いつかなかったんス。田中サン、粥の時はどうしてるんスか?」

「お粥の時……“たまみそ”とか作るけど」

「たまみそ?」

(しまった。面倒くさいことになった)

 そう思った。

 これまで“たまみそ”と言って、自分が認識しているのと同じメニューを思い描いてくれたひとは、誰もいなかった。最初から説明しなければならないのは、骨が折れる。

 もっとも、朱音の考えている料理の正式名称が、本当に“たまみそ”という名前で良いのかどうかは、彼女自身も知らない。だから、

「あ、“たまみそ”が正しい名前かどうかは知らないけどね」

 と前置きしてから話し出す。

「名前から察するに、玉子と味噌っスよね」

「そう。味噌味の炒り玉子って感じ」

「炒り玉子……ってことは、砂糖とか塩とか入れた玉子液をフライパンで、菜ばしでシャカシャカかき混ぜて……」

(妙に料理に詳しいわね)と思いながら、訂正する。

「フライパンじゃないわ。小鍋が作りやすいかも」

「このくらいの?」

 両手で直径十五センチほどの輪を作る。

「そうね。で、味付けは味噌とカツオだし」

「カツオだしっスか? あの粉のやつ?」

「そう。わざわざ鰹節とか昆布でとったりはしないわね。それで少量の、濃い目のお味噌汁を作るの」

 頭の中で手順を思い出しながら、語る。

「それで沸騰したら」

「味噌汁、沸騰させるんスか?」

 味噌の風味が飛んでしまうから、味噌汁は沸騰させてはならないと、確かに家庭科では習った。

(よく知ってるなぁ)

 彼が料理をしている姿は、とてもではないが想像できない。

「そう。そこに玉子を三、四個割りいれて、スプーンか菜箸でかき混ぜていくの」

「はー」

「わかった?」

「どのくらい、かき混ぜるんスか?」

 さらに詳しく訊いてきた。

 が、答えに悩む。きちんと測っているわけではない。

「好みによるわね。生に近いのが好きなひとは、そんなに時間をかけないし、固ゆでが好きなひとは、とことんまで火を通すだろうし」

「田中さんは?」

「え」

 即答できない。

「えー、何分とか考えたこと無かったわ」

「どういうことっスか?」

「数え歌を、五回。それくらいで出来上がるのが、好み」

「数え歌?」

 村上はキョトンとした顔で、朱音を見る。

「いや、ほら、あの、いーち、にーい、さんまるしいたけ……ってあるでしょ? あれを五回歌うと、ちょうどいいの」

「あー」

 聞いたことがあるらしい。

「いーちにーぃ さんまるしいたけ でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ……ってヤツ」

「え?」

 またキョトンしとした顔をする。

「こねこ……?」

「え? 違う?」

「うちは“おならがプウ”だったっスね」

「は?」

 そこへ、ふたりの対面の席の女性社員が、会話に入ってきた。

「あ、それ、うちはの方は“でっこんばっこん”じゃなくて、“でっこんぼっこん”でした」

「うちの方は、“さんまるしいたけ”じゃなくて、“さんまのしいたけ”ですね」

「“さんまのしいたけ”って何ですかそりゃ」

 雑談の人数がどんどん増えていく。どうやら地域によって、異なるらしい。

「 “きゅーりのろんどん”だって、わけわかんないよね」

「全部数えて、ちょうど十じゃないしね」

「なるほど。今度のアンケートのネタにするっス」

(さすが)

 何でも仕事のネタに生かす、出来る男・村上。

 村上が真面目な顔でパソコン画面を見ながら、手元では“さんまるしいたけ”だの“でっこんばっこん”だのを打っているのを想像すると、笑えた。

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