玉子とお味噌とカツオだし

ハットリミキ

第1話

 ターンターン タンタンタン!


(ん……)


 ターンターン タンタンタン!


(このリズムは……)


 ターンターン タンタンタンタン

 タンタンタンタン タンタンタンタン

 ターンターン タンタンタンタン!


(あれだ)


 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!


 自然に口から出てくる歌詞。

 これは数を数えるためのうた。

 物心ついた頃にはすでに歌えていて、三十歳の今もカラダに染み付いている。歌詞の意味なんて、いちいち考えてはいけない。


 小鍋をコンロにかけている。

 中には、深さ一センチくらいの、茶色い液体。グツグツ煮えている。

 そこに玉子が三個入っており、匙を使って、それをぐるぐるかき混ぜている。


 いーちにーぃ さんまるしいたけ

 でっこんばっこん きゅーりのろんどん

 ぴーひゃらぴーひゃら こねこがにゃあ!


 これを五回繰り返す。


 ターンターン タンタンタンタン

「いーちにーぃ さんまるしいたけ」


 タンタンタンタン タンタンタンタン

「でっこんばっこん きゅーりのろんどん」


 ターンターン タンタン……!

「ぴーひゃらぴーひゃら こねこが……!」


――


 目をカッと見開く。

 視界に入ってきたのは、天井のノッペリとした白。

「あ……」

 部屋の中は、相当明るくなっている。

(あたし、なんで夢の中で“たまみそ”作ってるの……)

 あまり料理をする方ではないが、これだけは子どもの頃から作っている。そういえば、しばらく作っていない。

(そういえば、“パパちゃん”元気かな?)

 ある男性を思い出そうとする。

 しかし記憶の中、その人物の顔の詳細は非常に薄ぼんやりとしていて、明確に思い出せない。

 腹がキュウッと鳴った。

 空腹。何か食べたい。

(たまみそ、作ろうかしら)

 そうは思ったが、確か味噌を切らしていた。それに炊飯器をセットしていない。

(これから炊くと、時間かかるしな……って、えっ!)

 枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認した。八時十分。

「やばいっ!」

 飛び起きた。いつもより一時間も遅かった。

 これでは、作って食べる時間が無い。今日も朝食抜き。

 最近は、疲れがなかなか取れない。


 *


(あたし、今の仕事に向いていないんじゃないかな……)

 そう考えることが増えた。

 

 比較的新しい会社ではあるものの、業界では大手である企業に勤めて、かれこれ五年。インターネット上での会員制ポイントサイトを運営している部署に、所属している。

 ファッション、メイクなど、若い女性向けの広告やコンテンツを配信しており、そういったブランドが好きだった朱音(アヤネ)は、楽しんで仕事をしているつもりだった。

(でも……)

 三十歳になったあたりから、何かがズレた。

 少なくとも朱音はそう感じている。

 提案する企画が、片っ端からボツにされるから。

「それは、最近の流行じゃないでしょー」

 と、アラフォーのお局様に笑われながら言われる。親身な笑顔では決してなく、嘲笑で。

 また二十代の後輩たちが彼女を支持するから、朱音は迷う。

(あたしの感覚が、もう古いのかしら)

 真剣に悩む。


 そんな中、恋人から別れを告げられた。

 ここ三年ほど付き合っていた男。不動産屋に勤務していて、学生時代に柔道をやっていたとかで、ずんぐりむっくりとした体格。性格も真面目で、誠実。

 彼なら、誰かに――例えば自分の母親に――横取りされることも無かろうと、安心して付き合っていた。

(ふつうは、自分の母親にカレシをとられるなんて、無いわよね)

 その方面の不安は無かった。が、今回は違った。

 結婚の話もちらほら出始めていたのに、ある日突然別れ話を切り出された。

 理由は、他に好きな女性ができたから。

 とにかく真面目で誠実な男だったものだから、まず朱音と別れてから、新しく好きになった女性にアプローチをかけるのだという。

(そういえば、あたしと付き合い始めた時もそうだったわ)

 前カノと別れてきたから!と言われてから、告白された。

「このひと、誠実だわ!」なんて感動したが、要は毎回そういうことを繰り替えす男だったわけで。

 それに気づいた朱音はとてつもなく空しくなり、それで素直に別れに応じたのだった。


(だからますます仕事を頑張らなきゃいけないのに……)


 これまで「どうせ私はまもなく結婚するから」という気持ちで仕事をしていたことに、初めて自分で気がついた。

 きっと周囲はみんな気がついていた。

(だから、挽回しなくちゃいけないのに)


 田中朱音は、最寄り駅から自宅へと、トボトボ歩いていた。


(まさか、救急車を呼ばれるとは思わなかったな)

 この日の午後、コピーをしに立ち上がった時に、よろけて座り込んでしまった。

「何やってんスか!」

 彼女の部下にあたる、派遣社員の青年が驚いて、救急車を呼んでしまった。

(村上くん、大げさなのよ……)

 ふだんは何を考えているのかわからず、ただボサッとしているように見える青年だが、救急車が来るまでの指示が的確だった。朱音や同僚たちは、それにただ、アワアワと従うだけ。

 運ばれた先の病院では、「過度のストレス」と診断された。

(“ストレス”って、便利な言葉よねぇ)

 病院から、そのまま家路に着いた。時刻は夕方の五時台。

(こんなに早く帰るの、久しぶり)

 今の会社に転職してからは、会社を出る時間が午後七時を過ぎることが多い。

 駅前からは、しばらく商店街を歩く。駅の近くだとファーストフードのチェーン店や、ゲーム店、パチンコ屋が並んで賑やかではあるが、駅から遠ざかると、地味な個人商店が続く。ふだんはすでに閉まっていることが多いが、この時刻だと開いている店が多い。

 その中に、弁当屋を見つけた。

 大手チェーン店ではない。道路にカウンターが面した小さな店舗で、客は注文を店員に告げて、その辺りで待つのだろう。その時は客はおらず、カウンターの向こうで店員である中年女性が、立ち働いているのが見えるだけだった。

(何か買って帰ろうかな……)

 自宅に何も無いわけではないが、料理をする気にはなれなかった。少し歩けばコンビニエンスストアもあるけれど、たまにはこういう店もいいかもしれない。

 立ち寄ろうとしたところ、店頭にあった貼り紙が目に入った。

“パート募集 時給八〇〇円”。

 朱音は呆然とした。

(仕事を辞めたとしても、その後あたしはどうなるの?)

 すぐに次の仕事が見つかるだろうか。

 五年前に転職した時は、まだ若かった。二十五歳。前職を辞める決心をして、面接に行った今の職場で、あっさりと採用された。

 その頃からは、確実に五歳年をとっている。その間についたスキルは、ネットマーケティング業界についての、ノウハウ。

 しかし、それは商店街の弁当屋では役に立たない。

(……これじゃ暮らしていけない)

 まずその金額では、今のマンションで暮らしていけなくなる。

 そもそもその貼り紙に、“扶養控除内勤務、大歓迎”“学生・主婦(夫)大歓迎”と書いてある。自分はそのどれにも該当しない。

“大歓迎”されない。

 今の生活を維持できる、新しい仕事を見つけることができるのか? それを考えると、暗い気持ちになる。

 折しも学生時代の友人が、最近転職に失敗したと聞いたばかりだった。

「アンタ、何も取り得が無いもんねー」

 母が、タバコの煙を鼻や口から吐き出しながら、歪んだ笑顔で言ってきたのを思い出す。忌々しい。

 もうため息しか出ない。

(帰ろう……ん?)


 その弁当屋のすぐ隣の店。ドアや窓から、灯りが漏れていることに気がついた。

 小さく古いビルの一階。壁にはヒビが入っており、蔦が這っている。

 入り口に、木の看板が掛かっている。すでに周囲は暗くなりつつあり、読みづらくなっていたが、目を凝らして見た。

“coffee 雨の海”とある。

 昭和を連想させる、ノスタルジックなロゴ。

 営業時間が“十一時から午後七時とある。そして休業日が日曜と祝日。

(ここ、空き家じゃなかったんだ)

 何しろ開いているのを見たことがなかった。

(へえ……)

 ここで、朱音は自分でも驚く行動に出た。

(え?)

 考えるよりも前に、その店のドアを開けていた。

「いらっしゃいませ」

 やわらかいバリトンボイス。

「え?」

 その声で、張りつめていた気持ちがすっと溶けたのを感じた。

 声の主は、入った先のカウンターの中にいた。口髭と顎髭をたくわえた中年男性。黒縁のメガネをかけているが、その奥のやさしいまなざしと目が合った。

「おひとり様でいらっしゃいますか?」

「あ……は、はい」

「お好きなお席にどうぞ」

(えっと……)

 店内を見渡す。

 入り口の割に、店内は広かった。だが駅前のチェーンのカフェに比べれば、狭いし暗い。

 店員の居たカウンターの壁には、カップとソーサーが入った棚と、ギター、そして月の写真の額縁が飾られている。

 カウンターには椅子が五脚。四人掛けテーブルが窓際に二箇所、二人掛けがカウンターと四人掛けテーブルの間に三箇所。

 広くはないが、窮屈な感じも与えない。

 カウンターには年配の男性客がひとり、朱音に背中を向けていた。そして二人掛けテーブルのうちのひとつは、初老の女性客ふたり。四人掛けテーブルは両方とも空いていた。

 カウンターの男性客が、後ろを振り返って朱音を見た。

「ねえさん、この店は初めてだな? あそこのテーブルでいいんじゃないか?」

 男性は白い短髪で、どこかで焼いてきたような浅黒い肌とのコントラストが特徴的だった。顎で窓際の四人掛けテーブルを指した。

「え、でも」

「こんな時間だ。もう客も来ねえだろ。なあ、ロイさん?」

“ロイさん”と呼ばれたカウンター向こうの店員が、ニッコリと微笑んだ。

「どうぞ」

「あ、はい」

 朱音は指定された席に入り、自分の隣の椅子にバッグを静かに置いた。腰を下ろすと、椅子の台座の合皮が、キュッと小さく音を立てる。座り心地が良い。

(駅前のカフェとは、えらい違い……)

 テーブルは新しくはないが、厚くしっかりした板で出来ていた。その上には、ナプキンスタンド、コショウ、塩が入っている調味料入れ、そして麻が貼られている表紙のメニューが置いてあった。

 メニューを開くと、まずコーヒーのページ。

(しまった……)

 コーヒーが苦手だということを、思い出した。

(なのにどうして“coffee”って書いてある店に入るかな?)

 チェーンのコーヒーショップなら、生クリームたっぷりの飲み物もあるだろう。しかしカウンターに並ぶサイフォンが、本格派コーヒーを出す店だと主張している。

(どうしよう)

 一番上の“ブレンド”はまだわかる。そして“モカ”、“ブルーマウンテン”、“キリマンジャロ”は、名前だけは聞いたことがある。

 だが“メキシコ”、“グァテマラ”、“クリスタルマウンテン”、“コスタリカ”、“コロンビア”、“ベネズエラ”、“ハワイ・コナ”、“マンデリン”……コーヒーの品種としては、初めて聞くものばかり。

(生産国の名前?)

 ひとつひとつに、手書きで説明が書いてあった。“メキシコ”は、“酸味と香りがともに適度で、やわらかい味”、“ハワイ・コナ”は“強い酸味と甘い香り”……。

(……なんかよくわからなくなってきたわ)

 とにかく情報量が多い。投げ出したくなってきた。

「お決まりですか?」

「へっ?」

 気が付くと、先ほどまでカウンターの向こうにいた“ロイさん”が、冷水が入ったコップの載ったトレイを片手に、テーブルの傍らに立っていた。

 初めて顔をハッキリと見た。

(わあ……)

 ため息が出そうになるのを堪えた。実に端正な顔立ちをしている。

「あ、あの、その……実はあたし、ふだんコーヒーってあまり飲まなくて……今日のオススメとかってありますか?」

 有名なチェーンのカフェなどは、そういったメニューがある。打ち合わせなどで使う時は、たいていそれにする。すると“ロイさん”は困ったような表情になった。

「オススメとかそういったメニューはご用意していないんですけど……お任せということでよろしいでしょうか?」

「あ、はい、それでお願いします」

(やっぱりこういった昔ながらの喫茶店には、“今日のオススメ”なんてものは無いんだ)

 恥ずかしくなったが、こうなった以上は仕方ない。

「お待ちください」

 そう言って、“ロイさん”はカウンターへ戻って行った。

 彼は平均的な身長で、少し細い体型をしていた。見ると半分以上が白い髪が後ろで団子状に結われている。

(ロンゲなのかな。変わってる……)

“ロイさん”が幾つくらいなのかわからないが、あのくらいの年代でそんな髪型をしている男性には、朱音は会ったことがなかった。

 そしてチェーンのカフェと異なり、こういった店では待たされる。朱音はすぐに手持ち無沙汰になり、スマートフォンを取り出した。

 電話もメールも着信なし。上司からも後輩からも。

(誰も心配してくれないんだ)

 さみしくてたまらなくなった。

 うっかりすると泣き出しそうになるから、朱音はスマートフォンの電源を切って、バッグに突っ込んだ。

 そうなると本当にやることが無くなり、とりあえず店内を見回した。

 店内は全体的に茶色く、クラシカルな作り。昔ながらの喫茶店といった風情があるが、古ぼけた感じがしない。

 一方店内を小さく流れる音楽は、アコースティックギターの音色。談話を邪魔することもないし、耳がさみしくなるわけでもない。他の席の、スプーンがカップに当たる音が小さく聞こえる。

 見るところも、意外と無い。他の客をあまりジロジロ見ても、失礼になる。朱音は目の前のメニューを、もう一度手に取った。

 コーヒーのページしか見ていなかった。もちろんページはまだ続いており、ココア、紅茶、フルーツジュースや、ケーキやサンドイッチ、トースト、スパゲッティなどの軽食のメニューもあった。

(紅茶にすればよかった)

 メニューの変更が出来ないかと、朱音は“ロイさん”に声をかけようとした。

 その時。

(あ……)

 これまで嗅いだことのない種類の、甘い香りがしてきた。

(コーヒーの匂い……?)

 カウンターの向こうで、“ロイさん”がコーヒーを淹れている。サイフォンがポウッと光っており、彼の顔をあたたかく照らしていた。

(へえ……)

 感嘆の声が出そうになった。

 絵になる。と、そう思った。

(あのひと、すごいイケメ……違う、ハンサムだ)

“イケメン”でも間違いではないが、その言葉はどこか違うような気がして、表現し直した。“ハンサム”が合っていると思った。 

(若い頃は、さぞ美青年だったんだろうな)

 彼の視線がサイフォンに落ちているのをいいことに、朱音はまじまじと彼の顔を見ていた。

「男は顔じゃない」と、朱音は常々思っている。

 面食いである母親は男性関係にだらしなく、ちょっと気に入ったからと、すれ違う男にちょっかいを出している。

 そんな女と自分は違う。

 けれどさすがに、これは見ていたい顔だと思った。

「ねえさん」

 そこで不意に声を掛けられた。カウンターにいた中年男性が、いつの間にか後ろを振り返って、朱音の顔を見ていた。ニヤニヤしている。

「ロイさん、ハンサムだろう?」

「えっ、あっ、すみません!」

 何故謝ったのか。ますます朱音は恥ずかしくなった。

 中年男性は豪快にガハハと笑っていたが、“ロイさん”に「おいっ!」とたしなめられていた。

(やだ、もう見られないじゃない)

 地味な三十女が、ハンサムに見惚れている。それがばれたのが、恥ずかしくてたまらない。

 仕方ないから、今度は窓から外を眺めることにした。

 すっかり暗くなっていた。

 たくさんのサラリーマンやOLが、駅から自宅へと向かっている。その表情はほとんどが、無表情か疲れた顔をしていた。

(あ……)

 そしてその窓ガラスに映った自分の顔も、疲れていた。

 きっとあの家路に向かうひとの波に、昨日まで自分もいた――となんとはなしに思う。

「お待たせいたしました」

「ひゃっ!」 

 おかしな声が出てしまった。

 見るとテーブルのすぐ横に、トレイを持った“ロイさん”が、少し困ったような笑顔で立っていた。気づかなかった。

(やだ、恥ずかしい……)

 もうこの店には、二度と来られないと思った。

「驚かせてしまって、申し訳ございません」

「あ、いえ、大丈夫です。あたしこそすみませんっ」

「こちら、グァテマラです」

 テーブルの上に、ソーサーごとカップが置かれた。スプーンが朱音の右手に柄が来るように、セットされた。

 カップの中では、漆黒の液体がやわらかい湯気を立てていた。そして小さな砂糖壷とミルクピッチャー。コーヒーミルクはポーションではなくて、きちんとステンレスのミルクピッチャーに入っている。

「ひと口だけそのままお飲みになってみて、厳しいようでしたらお砂糖とミルクをお使いください。もしそれでも難しければ、他にも紅茶やジュースがございますので、お申し出ください」

「あ、ありがとうございます」

(こんな至れり尽くせりでいいのかしら……)

 朱音は“ロイさん”がカウンターに戻るのを見送ってから、再びコーヒーに視線を落とした。

 舌に残る苦味が苦手で、好きじゃなかったコーヒー。

(でもさっきの甘い香りは、おいしそうだった)

 朱音は言われた通り、まずひと口、ストレートで飲んでみることにした。

「――わあ」

 思わず感嘆符が口から漏れた。

(甘い……)

 これまでに飲んだどのコーヒーよりも、甘かった。

 苦味が嫌で、これまでミルクや砂糖をたくさん入れて、ムリヤリ流しこんできた。それでも苦味はいつまでも口の中に残り、後味にげんなりしてきたのに。

 これは砂糖の甘さじゃないと、わかった。

「よろしかったら、こちらもどうぞ」

 目の前に置かれた皿には、手のひらよりも小さいくらいのシリアルバーが、ふたつ乗っていた。

「えっ、でも」

「サービスです。あまり甘くないように作っていますから、そちらに合うと思いますよ」

“ロイさん”が微笑むと、目の周りに皺が集まった。

(思ったよりも年上かも)

 それでもハンサムはハンサム。朱音もつい自然に笑顔になる。逆ににやけるのを抑えなければならないほど。

(シリアルバーか)

 オートミールかグラノーラを溶かしたマシュマロか蜂蜜で固めたものだというのは、仕事で知った。「オシャレ女子のオシャレレシピ」なんてタイトルのサイトページを担当したことがあり、作り方だけはうっすらと憶えていた。

(作っていますって言ったよね。このお店で?)

 作り方は知ってはいても、一度試しに作ったそれが甘すぎたから、それ以降食べるのは避けてきた。

 しかしサービスと出されて、食べないわけにはいかない。しかもハンサムからのサービスには抗えない。恐る恐る口に入れてみた。

(ん!)

 香ばしい。そして甘さは適度。サクサクと歯ごたえもよく、腹に少しずつたまる。

 結局、朱音はコーヒーにはミルクも砂糖も入れずに飲み、シリアルバーも平らげてしまった。

(おいしかったー!)

 ふと時計を見ると、七時を過ぎていた。客はすでにカウンターの中年男性と自分だけになっていたことに気がついた。

(あ、閉店時間)

 表の看板に、“close 19:00”と書いてあった。

 朱音はあわててバッグから財布を出した。

「あ、ねえさん、急がなくてもいいぜ」

 カウンターの中年男性が声を掛けてきた。

「どうせ看板を閉店にして、そのままオレらはここで飲み続けるだけだからな」

「またかよ」

“ロイさん”は布巾でコーヒーカップを拭きながら、中年男性を一瞥して言った。どうやら仲のよいふたりらしい。目は笑っている。

 しかし、それならますます帰らなければならない。

「いいえ、そろそろ失礼します。今日は会社を早退しちゃったので」

 口にした途端、(いらないこと言っちゃった!)と思った。案の定、“ロイさん”とカウンターのおじさんは驚いた顔をして、朱音を凝視した。

「えっ、具合が悪いのかい?」

「体調悪い時に……コーヒー、苦手なんですよね?」

“ロイさん”が申し訳無さそうな顔になるのを見て、朱音はあわてた。

「あ、大丈夫です! ほんと、大丈夫です。あのコーヒー、おいしかったです。生まれて初めて、コーヒーがおいしいと思えました。だから大丈夫です!」

 すると“ロイさん”は表情を緩めた。目の周りに皺が寄る。

「ああ、それならよかったです」

「あとシリアルバーもおいしかったです。あれは手作りなんですか?」

「そうなんです。娘がそういうのを作るのが得意で、教わったんですよ」

(娘?)

 そこにカウンターの中年男性が割って入ってくる。

「あれはカエデちゃんが作ったのか?」

「教わったって言ってるだろうが」

 彼女に対する態度と、中年男性に対するそれとは、違いがありすぎる。

(おもしろい……)

 すると“ロイさん”はまた心配そうな顔をして、朱音の顔を見た。

「お体の具合は……」

 言われて思い出した。だいぶ良くなっている。目眩はまだあるが、今朝方よりは数段ましだった。

「あ、もう大丈夫です」

「近藤のタクシー、呼ぼうか?」

 カウンターの中年男性が、また口を挟む。“タクシーの運転手をしている近藤”と言う友人がいるのだろう。

「いいえ、この近くなので」

「そうでしたか」

“ロイさん”は、レジを打つ。レジスターは古く、その音をリアルタイムで聞いたことも無いのに、朱音は懐かしい気持ちになった。

 五百円と、この店で一番安い金額を提示された。こんな安くていいのかと不安になりながら、財布から五百円玉を取り出した。

「ありがとうございました」

「ごちそうさまでした」

「明日はできたら仕事をお休みして、ゆっくりされた方がいいかもしれませんね」

「でも、仕事を投げ出して来ちゃったので……私は何でも中途半端で」

 つい自嘲気味に言ってしまった。

(やだ、甘えているみたい……)

 いつも言わなくてもいいことを言ってしまう。それに後悔していたら、“ロイさん”はにっこりと微笑んで、こう言った。

「でも今日は、苦手だったコーヒーを克服しましたね」

「!」

――そうだ。

 そして“仕事を辞めたい”という気持ちも、いつの間にか消えていたことに気がついた。

 この喜びとかうれしさを、朱音は言葉にして伝えたい気持ちで一杯になった。だがそれは言葉にならず、だからただ一回だけ、深呼吸した。

 すると、ほろりと一粒だけ涙がこぼれた。

 ふいに“ロイさん”を見ると、彼は動揺することもなく、朱音をやさしく見つめていた。それに釣られて、朱音も自然と笑顔になった。

(ああ、あたし、弱ってたんだな)

 仕事がうまくいかなくて、オトコに捨てられて、将来が不安で――。

「よかったら、またお越しくださいね」

「はい」

「おい、あんまり女泣かせるなよー」

 またもや茶々が入る。

「うるさいな」

「あははっ」

 思わず笑い声が出た。それを聞いた中年男性ふたりも、思わず声をあげて笑う。

 満ちる――という気持ちを、朱音は久しぶりに感じていた。


 *


 それからというもの、朱音は “coffee 雨の海”に通うようになった。

 毎日定時で……というわけにはいかないが、それでも閉店三十分前までには滑り込める時間に、帰ることができるようになった。

 それにこの店は毎日きちんと午後七時に閉まっているわけではなく、“源三さん”――初めて訪れた日にカウンターにいた中年男性や、他の常連さんたちのために遅くまで開いていることが多かった。

(毎日ここの前を通っていたのに、まったく気づかなかったわ)

 自分のことで精一杯で、周囲のことが何も見えていなかったということだろう。


 まず、それからすぐの休みに、美容院に行った。

 これまではさぼっていたマニキュアを、毎日整えるようになった。

 自分の顔が明るめに見えるような、メイクを研究した。

 鏡を見て、笑顔の練習をした。

(ぱっとしない顔だよねー)

 自嘲気味にそう思うが、それでも笑顔だとだいぶましになると気がついた。

 そして新しい洋服が欲しくなった。自分に似合い、且つ、“雨の海”の店内レイアウトに似合う感じのものを。

 そうこうしているうちに、

「いらっしゃいませ」

 始めのうちはかしこまっていた“ロイさん”も、やがて

「いらっしゃい」

 と砕けて言ってくれるようになった。

(これは、“常連”と認定されたようなものよね!)

 源三は二回目から早くも、「よう」と気安くなった。

 それもうれしいが、やはり“ロイさん”に常連として認められたのが、朱音は何よりもうれしかった。

「今日は、“雨の海”常連記念日―!」

 うれしさのあまり、スケジュール帳のその日付に、ハートマークを書き込んでしまったほどに。


(――って、あたし?)


 そこまでやって、朱音は気がついた。

“coffee 雨の海”に行って、“ロイさん”の顔を見て、安堵する。

 声を聞くと、うれしい。

 話す時に、少しだけ緊張する。けれど気持ちが満たされる。

 コーヒーもだいぶ種類を飲めるようになってきた。

 その話をできることが、うれしい。


(これって)


“恋”という単語を、久しぶりに思い出した。


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