Sketch for November ─11月─
「偉大な大先輩を取材できるということで、いまとても緊張しています。あなたの仕事をずっと尊敬していましたから」
テーブルの向かいに座った若い女性編集者はそういって、まっすぐな目で私を見ていた。
「期待に応えられれば良いのだがね」
私は苦笑して応えた。
長く続いた連載だった。
はじめはただの思いつきだったものが思いがけず読者の反響を呼んで、雑誌の看板にまでなった。連載は単行本化されて、小規模ながらベストセラーとも呼ばれた。
私が会社から独立しフリーのライターになってからも、その連載だけはずっと私が続けてきた。
そうして書き続けて三十年以上。永遠にも思えた長い仕事が、ようやく終わる。
これまで数多くの人たちにインタビューをしてきた。そして、最後にインタビューされるのは私自身だった。
「それでは、そろそろ始めさせて頂きます」
女性編集者が言って、ボイスレコーダーのスイッチを押した。
さて、何から話そうか。普段なら決して言えないような隠し事でも、今日だけは何でも話せそうな気分だった。
---
その連載は「夫婦」というタイトルだった。
毎月発売されるとある雑誌の一コーナーとして、タイトル通り一組の夫婦が毎月登場する。
登場する夫婦には、事前に条件を定めていた。
まず第一には、自他共に認める仲の良い夫婦でなくてはならないということ。
そしてもう一つは、基本的には二人暮らしであるということだった。
単身赴任で離れて暮らしている状態ではいけないし、子供が一緒に住んでいてもいけない。距離を置いていれば仲良くできる夫婦や、子供を間に介して共にいることを夫婦愛だと思い込んでいるような夫婦を取材するつもりはなかった。
取材やインタビューも私自身が行い、夫婦の仲の良さをあらゆる角度から検証していく。
という、それだけの企画だった。
初めはただの思いつきだったのだ。
当時の私は離婚をしたばかりで、激しく傷つき、夫婦というものに深い絶望を抱いていた一方で、永遠の愛といったものへの強い憧れで胸が押し潰されそうになる事があった。
今になって考えればあの頃の私は、ある意味で精神を病んでいたのだろう。
この連載は、矛盾した感情に囚われ続けるそんな状況を打開するために立ち上げた、非常に個人的な企画だったとも言えるだろう。
恐らく、たいして期待されていなかったのだろう。どうせ大して売れていない雑誌の誌面を埋めるだけなのだから、好きにすれば良いと、そう思われていたのかもしれない。
かくして私の企画は思った以上にすんなりと通り、それ以来私は、毎月毎月、一組の夫婦の取材を続けることになった。
夫婦の仲の良さと言っても様々あると思う。要は、お互いが幸福でありさえすれば良い。
今で言うモラハラのような、暴力的な夫と奴隷のように付き従う従順な妻。あるいは共依存のような関係であっても構わない。
あらゆる夫婦の関係を肯定していくことが、この企画の隠れた趣旨のひとつだった。
一方で、一見仲良さそうに振舞っていても、どこかに無理があるように見える夫婦に対しては、面談の際に正直にその胸を伝えて、取材を辞退することもあった。
意外なことに企画は当たった。編集部に届く葉書は膨大なものになり、取材希望の申し込みも殺到した。
私は出来る限りの時間を割いて、取材対象となる夫婦を選別して、打ち合わせやインタビューのために夫婦の元に何度も足を運んだ。
二人揃ってだけではなく、それぞれ個別にインタビューすることもあった。相手の居ないところでこそ本心が見える場合もあるからだ。
十代の夫と五十代の妻という歳の差夫婦。様々な人生の危機を共に乗り越えてきた夫婦。幼い我が子を事故で亡くし、哀しみを癒すように生活を続ける夫婦。人生の最期を迎えるため、病室で二人だけの時間を過ごす夫婦。
そうして様々な夫婦の形に触れるたび、私は深い感銘を受け、いつしか夫婦というものに感じていた絶望も薄らぐようになっていた。
これだけ様々な形の夫婦愛があるのならば、自分にもいつかまた、何かが見つけられるはずだと、そんな風に思うようになった。
---
話しているうちに順調に緊張が解れてきたのか、若い編集者の質問は徐々に容赦のないものに変わっていった。
「雑誌に掲載された後で離婚した夫婦というのは居ましたか?」
「そりゃ、あっただろうな」
「それは割合としては、どれくらいだったんですか?」
「どうだろうな。雑誌に載った時点でその後の処理はスタッフに任せてしまうからな。その後のことを調べたこともないんだ」
「気になったことは無かったんですか? 例えば取材の後で、どんな風に夫婦の在り方が変わったのだろうと思ったりは」
私は少し考えた後で答えた。
「そうだな。例えば、同じ人物が、再度取材を申し込んできたりということはあったかな。夫婦揃っての場合もあれば、どちらか一方だけが別のパートナーと一緒に、ということもあったか」
「それは、どうしたんですか?」
「基本的には全て断っていたよ」
「……それはまた、どうしてでしょう?」
「人間というのは、なかなか変わらないものだからね。同じ夫婦の場合はもちろんだが、離婚して別のパートナーと夫婦になった場合もね。連載を始めてまだ日が浅い頃、試みとして何度かそんな相手と会ってみたりもしたんだけれど、結局、相手が変わったとしても同じような夫婦関係を築いていることが多かったんだ」
編集者は合点が行ったという様子で、何度か頷いている。
だが、お行儀の良い答えだけでは物足りなかったのだろう。彼女は手元のメモ帳に視線を落とすと言った。
「取材の過程で、誌面には載せられないような出来事が起こったということはありましたか?」
確信に満ちた瞳。
理知的な女だ、と私は思った。
「ああ。時にはそんなこともあった」
「そんなときは、どうするのですか?」
「そのことによって夫婦の関係が危ぶまれるのなら取材は打ち切るし、もちろん誌面には載せられない。だが逆に、その秘密によってこそ夫婦愛が成立しているというケースもあって、そんなときはそのまま取材を続けたりもした。つまり、全ては場合によるということだ」
無難な受け答えが不満なのだろう。編集者は小さく「そうですか」と呟いた。
「あなた自身はどうでしたか? あなたは離婚された後でこの企画を始めました。ご自身の経験が、この連載に影響をあたえたということは?」
「そりゃあ、その通りだよ」
「仲の良い夫婦を羨むような気持ちは無かったのですか? 幸福な夫婦を傷つけて、壊したいと思ったりしなかったのですか?」
「それもあっただろうな」
私のあっさりとした言葉に、編集者は意表をつかれたように目をしばたかさせた。
「その気持ちは、取材相手のご夫婦にも伝わっていたのではないでしょうか」
「そうだろうな。むしろ、そんなことはとっくに知られていたのだと思う。本当に、あなたはそのパートナーで満足しているのですか? 僕はそんなことを、くどいくらいに何度も問いかけたのだから」
「それは……やり過ぎてしまったりということは?」
「それはなかった。主婦の何人かとは寝たけれど、それで彼らの結婚生活が揺らいだことはなかった」
「寝た?」
「ああ。何度かは、そんなこともあったよ」」
「……それは、流石にまずいのでは?」
「そうだろうか。それどころか、夫から妻と寝てくれと頼まれることだってあったし、夫にこのことを話して、夫婦仲に役立てるつもりだといった人までいた。少なくとも、彼らは皆、そのことが夫婦関係を悪くすることは無いと言い切っていた」
「はあ……」
彼女は困惑した表情を浮かべていた。
「そういう夫婦もいるということだよ」
「いや、それでもそれは……」
「私のやったことは間違いだろうか?」
「わたしには、そう思えます」
「だが彼ら自身が、それを望んでいたのだ。例えば、他の人間を一切排除したところでしかお互いを愛せないのだとしたら、その夫婦関係は、随分と歪だと思わないかね?」
「そう、なのでしょうか……」
「とにかく。私はそうやってこの連載を続けてきた。それは間違っていたのかも知れないが、少なくともトラブルといったものは殆どなかった。関係を持つのは、互いの同意があったときだけだ。夫と妻と、そのどちらもがそれを望んだのだよ」
やはり納得しかねるといった様子で、編集者は息をついた。まだ若い彼女は、世界の大半は綺麗なもので構成されているのだと、そう信じているのだろう。
何度か首を振ったあとで彼女は、小さく頷いた。
「分かりました。それでは別の質問にします。これまで取材したご夫婦のなかで、最も印象に残ったものを教えてください。事情があって掲載できなかった、というものでも構いません」
「ああ、そうだな。そういうことなら、ひとつある」
「それは、どんな?」
「別れた妻が取材を申し込んできたんだ。若い男を連れて、ね」
「それで、どうされたんですか」
「もちろんすぐに断ったさ。だが、妻は再度申し込んできた。断っても、何度も何度も。根負けした私は、何度目かのときに、とりあえず会ってみることにした」
「奥様は、どんな意図があってそんなことをしていたんでしょう」
若い編集者の真っ直ぐな質問に、私は思わず笑ってしまいそうになる。
「そりゃあ、当て付けだろう。私に見せ付けたかったのだろう。幸福な夫婦の姿というものをね」
「どんな気持ちでした?」
「これ以上ないくらい腹が立ったさ。危うくみっともなく殴りかかりそうになるほどにね」
「それでも、あなたは取材をした」
「ああ。私は知りたかった。妻が何を望んでいたのかを。私のどこに不満を持って、別れを選んだのかをね。そうやって傷つけて、そうして分かり合うのが夫婦ってものなんだ」
「あなたは、別れたあとも、奥様を愛していたのですね」
「もちろんそうだとも。でなければ今更会ってみようだなんて思わない」
「あの……。失礼な質問だとは思うのですが、その、つまり、そのとき奥様とは、肉体関係を持ったりしたのですか?」
「ああ。したよ」
「……」
彼女が眉根を寄せる。
「あの時の私は、間違いなく幸福の中にいた。失ったものを取り戻せたような、捜し求めていたものを手にしたような気分だった」
「……それから、どうなったんですか? その記事はどうしてお蔵入りになったんです?」
「私は、壊そうと思ったんだ。妻の家庭をね。本当に嫌な相手だったら、女性は決してその相手と寝たりしないものだろう?」
「そうかもしれませんが。あの名企画を三十年もやってきた人の言葉とは思えませんね」
「そうだろうか。……そうだろうな。だが良いんだよ。自分では上手くいかなかったのにしたり顔で他の夫婦を分析したり、そのくせ無くしたものを取り戻そうとみっともなくもがいてみたり。そんな馬鹿みたいな男の視点から見たものが、世の中の望んでいるものなのだから」
呆れたみたいな、小さなため息の音が聞こえた。
恐らく、私に対する尊敬の念が粉々に砕け散ったのだろう。
私はおかしくて、笑い出したい気分だった。
そのとき、部屋のドアをノックする音がして、妻が部屋に入ってきた。
「お茶をどうぞ」
「ああ、ちょうど良かった。こっちへ来なさい」
「あら。わたしは……」
「いいじゃないか」
私は妻を横に座らせて、編集者に紹介する。
「妻だ」
編集者は驚いた顔をしていた。
「ご結婚なさっていたんですか?」
「ああ」
私は今、満ち足りた気分だった。
なぜなら、妻が隣にいるのだから。
過去を語るのは辛く、心をさらけ出すことは恥ずかしい。それでもこうしてすぐそばに妻がいると、その辛さもやわらぐ。
「彼女とは二度目の結婚なんだ」
「……ということは」
「そういうことだ。結局、壊してしまったんだよな。彼女の家庭を」
妻が笑いながら言葉を添える。
「ひどい人でしょう? こういう人なのよ。昔も、今も」
編集者は、返事に詰まっているようで、ただ苦笑いを浮かべていた。
これまでたくさんの夫婦を見てきて、少しは夫婦というものが分かるようになったかと思えば、案外そうでもない。
結局どれだけ答えを探したところで、そんなものだ。
唯一分かったことといえば。
夫婦の形なんてものはそれぞれの夫婦によってまるっきり違っていて、だからこそお互いにとっての理想の形をずっと探し続けるしかないのだ。
今日のインタビューの最後には、そう言ってやろう。
私は、そんなことを考えていた。
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