Sketch for December ─12月─
「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったのね」
「ああ、ごめん。ちょっと仕事が忙しくて」
「……そう」
僕は棚からカップ麺を取り出して、お湯を注ぐ。妻が申し訳なさそうに「ごめん」と言う。
「いいんだ」
「あの、ホントごめん」
「いいって。ご飯は食べる奴が作ればいいんだ。それよりさ、もっと笑っていてよ。今日も会社で嫌なことばっかりあって、それでもきみの笑顔を思い出して我慢してたんだ。だから、さ」
「うん」
僕がズルズルと麺をすする姿を、彼女はずっと眺めている。
「美味しい?」
「いや、そうでもない。美味しくないってことはないけど、やっぱり飽きちゃうんだよな」
「ふぅん。でも、美味しそうに食べるよね」
「そう?」
「うん。初めて会った時から、そう思ってた。美味しそうに食べる人だなって」
「いつも腹空かせてるだけかも」
「あはは、そうかも」
彼女が笑ってくれる。それだけで僕は、嬉しくなる。
彼女はいつもこうやって、帰宅が遅い僕の帰りを待って、それから嬉しそうにニコニコしながら、僕が食事をする傍に居てくれる。食事をするのは、いつも僕だけだ。
そりゃ僕だって、できるなら一緒に食べたいさ。一人きりの食事は寂しいものだから。
そう言って彼女を困らせたこともあった。
けれど今はもう違う。傍に居て、笑顔で居てくれたら良いのだと、心の底から思う。
彼女は食事をしない。もう、食べなくなってから、一年になる。
---
開けっ放しだったカーテンから差し込む朝の光が、僕を乱暴に起こす。
「おはよう」
彼女がほほ笑んでいる。
「ああ、おはよう。今何時?」
「七時ちょうどよ」
「……ああ。起きないと」
「昨日も遅かったのにね」
「でも仕方ない。仕事が残ってるんだ」
彼女は少し寂しそうに眼を伏せる。
「今日も遅くなるの?」
「ああ、多分」
「……あんまり無理しないでね」
「大丈夫さ」
急いで服を着替えて、顔を洗う。
「朝は食べないの?」
「ああ、いらない」
「私に合わせてくれなくていいのに」
「そういうわけじゃないんだけど」
「前は毎日食べてたのに」
「でも、本当に要らないんだ」
仕方なく僕はコーヒーを二口だけ飲み、上着を羽織る。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。頑張ってね」
僕はそうプログラムされたロボットみたいな気持ちで、会社に向かう。
彼女はいつも、笑いながら手を振って僕を見送ってくれる。
彼女は寝ない。もう、眠らなくなってから、一年になる。
---
夕方。デスクで仕事を片付けていると、先輩がやってきて僕に話しかける。
「今日はもう帰るのか? なら帰りに一杯やっていかないか?」
「いえ、今日は、その……」
「なんだよ。またダメなのか?」
「すいません」
「いや。やっぱり駄目だ。今日は絶対に付き合ってもらうからな」
すっかり逆らう気力も無くなって、僕は頷く。
「分かりましたよ」
「よし! 今日は俺が奢ってやる。しっかり食えよ。お前最近痩せてきたぞ」
「ダイエットですよ」
「アホか。必要ないだろ」
先輩は嬉しそうに肩を組んでくる。
ああ、仕方ないな。本当に、早く家に帰りたいというのに。
運ばれてきたビールジョッキを一息に飲み干して先輩は言う。
「なあ、本当に大丈夫なのか? 言っとくけど俺は本気でお前のこと心配してんだぞ」
「分かってますって」
「いや、分かってないよお前は。俺がどれだけお前のことを気にしてるのか」
僕は返事に困って、ほとんど減っていないビールジョッキに、仕方なく口をつける。
あれやこれやと、先輩が頼んでおいた料理が並び始める。
「おい。もっと食えよ」
「食べてますよ」
「そんなこと言って、さっきから全然じゃないか」
「いや、食欲ないんですよ」
「食欲ないって、体調でも悪いのかよ」
「いえ、平気ですって」
先輩は気づくと飲み物をビールから日本酒に切り替えている。これは長くなりそうだな、と僕はため息をつく。
散々飲んでふらふらになっている先輩を抱えて、僕たちは店を出る。
「飲みすぎですよ」
「そういうお前こそ。もっと飲めよー」
先輩を引っ張って、ようやく僕たちはタクシー乗り場に向かう。
「あのな」
酒臭い顔を近づけて、
そしてこればかりは真顔に戻って先輩は言うのだ。
「あいつのことな。もう、忘れろよ」
僕は答えずに、先輩をタクシーに押し込む。
妻を初めに僕に紹介してくれたのは、先輩だった。大学のときの、サークルの後輩なのだと言っていた。
先輩と僕と、彼女と。三人いつも一緒に笑っていた。彼女と結婚することを伝えたとき、先輩は自分のことのように喜んでくれてたっけ。
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「おかえりなさい」
「うん。遅くなってごめん」
「ううん、いいの」
「帰りに先輩に捕まっちゃって」
「いいのよ。本当に」
やたらと喉が渇いて、僕は蛇口から直接水を飲む。
彼女はいつものように微笑みながら、それをじっと眺めている。
「なあ、幸せかい?」
そんなことを彼女に尋ねてみたくなった。
「なんなの、唐突に」
「どうなんだ? 答えてくれよ」
「ええ、そうね。幸せよ。……多分、前よりももっと」
「僕も、そうなれるかな? 君みたいに」
彼女は微笑む。僕の質問には答えずに、その代わりに尋ねる。
「……辛いの?」
「ああ、そうだな。……辛い。時々、胸を掻きむしりそうになるほどに」
「……ごめんなさい」
彼女はそっと僕の身体に手を回す。
その手は、ひんやりと火照った僕の熱を冷ましていく。
---
周囲がやけに騒がしい。
「おい、大丈夫か!」
「動かすなって。救急車、救急車!」
「大変だ!」
頬の下にひんやりと冷たい地面の感触。
起き上がろうとするけれど、何故か身体が上手く動かない。
どうやら僕は、仕事中に倒れたらしい。
「おい、しっかりしろよ。なあ!」
先輩の声も聞こえる。
「大丈夫ですって」
そう答えているつもりなのに、先輩には届いていないみたいだ。
僕の身体がどこかに運ばれていく。大勢の人の声が聞こえる。
ああ、早く帰らないと、彼女が待っているのに。
そんなことを僕は考えている。
「大変危険な状況です」
医師らしい男の声。
「なんとか、助けてやってください」
「我々もできることはやりました。あとはご本人の生きようという意思次第でしょう。ところで、ご家族に連絡は取れますか?」
「あの。こいつの奥さん、一年前に亡くなっちゃって」
「他の親族の方は?」
「それが、居ないらしいんで、俺がまあ、代わりってことで」
医師が出て行って、病室には僕と先輩だけが残されたようだ。
「なあ、しっかりしろよ。お前まさか、あいつの後を追おうって、そんなこと考えてんじゃないだろうなあ、おい」
僕の目は閉じられたまま。
ねえ先輩、大丈夫ですよ。死ぬことなんて、きっと大したことじゃない。この一年間、多分僕はちょっとずつ死んでいたんですよ。そう考えると悲しいことなんて無いって、そう思いませんか?
気が付くと、彼女が傍に居た。
目を閉じていても彼女の姿だけははっきりと感じることができる。
「迎えに来てくれたのか?」
彼女は何も言わない。ただ寂しそうに微笑むだけだ。
僕は彼女に向って手を伸そうとする。
すると身体もすっと軽くなって、起き上がることもできた。
僕の手が、彼女の手をつかむ。彼女の、冷たい手のひらの温度。
「さあ、早く行こう」
彼女の手を引いて、歩き出して。
けれど、彼女はそっと僕の手を振りほどく。
驚いて彼女を見る。彼女は微笑んだまま、首を振っていた。
「どうして」
彼女が、病室の中を指差す。
「おい。しっかりしろって。なあ。目を開けろって!」
その先には、僕の手を握って大声を上げる先輩の姿が。
彼女はもう、病室から出ていこうとしている。
「待ってくれ。俺も、連れて行ってくれよ」
僕の声に彼女が振り返る。その表情はやっぱり笑っていて。
それから、言った。
「生きて」
その瞬間、僕の身体は急に重くなる。
彼女から引き戻されて、痛みの感覚が戻ってきて、頬に涙が伝う……。
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