Sketch for June ─6月─
旅をするのが私の仕事だった。
旅から旅の間、訪れた街のことを原稿にして送る。それで金を稼いで、また次の街へ旅をする。そんな生活をもうずっと続けていた。
カウンターの隣に座った男が、へぇ、とさして興味もなさそうに相槌を打つ。
「それで、今まで行った場所で一番印象に残っているのはどこです?」
低くくぐもった声で彼は言った。
そんな質問はとっくに聞き飽きていて、当たり障りのない答えもいくつか用意していたはずだった。
けれど、その時だけは。どうしてだろう。
これまで誰にも言ったことのない、ある街の思い出について話してみようという気になった。
いつの間にか店内に客は私たちだけになっていて、奇妙なことにさっきまでカウンターの向こうにいたバーテンダーの姿すら、どこにも見当たらなくなっていた。
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その街は一年中雨が降っている街だった。もう何年も、止むことなく振り続けているらしい。
陽が当たらないせいか、皆一様に色白く不健康そうで、その分女たちは美しかった。
まだ街に来てすぐ。私は一人の女に声をかけた。宿の場所を尋ねたかったのだ。雨のせいか視界が霞んで、女の輪郭はひどくぼんやりとしていた。
呼びかけても女は答えなかった。雨音で聴こえなかったのかと思い、何度か繰り返したけれど、振り向きもしない。私は諦めて近くの食堂へ行き、そこで「雨女」のことを知った。
雨女、というのはこの街特有の現象で、街角のあちこちにいつの間にか存在しているのだという。大抵は、ただぼんやりと立っているだけだが、ふと目を離すと位置が変わっていたりするので、自ら移動することは出来るらしい。
生まれたばかりの雨女は、存在そのものがぼやけているみたいに、曖昧で不安定なのだが、時が経つにつれて段々顔立ちもはっきりしてくるのだという。
といっても、ほとんどの雨女は、数日から数週間で、現れたときと同じように唐突に消えてしまう。
けれど、雨女の中には数年以上を生きたものもいて、そんな雨女はほとんど人間と見分けがつかなくなるのだという。
街の人々は、雨女の存在を受け入れつつも、積極的に関わろうとはしないのだという。捕まえたり殺したりしない代わりに、雨に打たれ続ける雨女に傘を差し出したりもしない。
雨女はつまるところただの現象で、庭に茂る雑草や、パンの表面を覆うカビと同じようなものなのだ。
だが、私はそんな禁を犯した。雨女を捕らえて、飼育しようとしたのだ。
その日私が見つけた雨女は、これまで見たどの雨女よりも美しかった。長い長い髪が腰まで伸びて、身体を覆っていた。髪に隠されるように、その下にはまるで透き通るかのように輝く身体があった。
十年以上を生きていることが一目でわかる、はっきりとした目鼻立ちをしていた。大きな瞳を縁どるまつ毛は長く、常に泣いているみたいに雫を滴らせていた。
手を引くと、雨女は抵抗することなく私の後をついてきた。ホテルの部屋に連れてきてみると元気がないようだったので、シャワー室に入れてやった。
それから私はホテルの部屋で原稿を書き、時折雨女に話しかけた。雨女は何も返事をしなかった。けれどその瞳は確かに意志を持っていて、じっと私を見つめていた。その瞳に射抜かれると何故か、遠い昔に置いてきてしまったものを思い出させられるような気がして、胸が締め付けられるような気持ちになるのだった。
そうして雨女と暮らし始めて数日が過ぎたとき、私はついに我慢できなくなって、雨女を抱いた。雨女はか細く「ああ……」と声をあげながら私に抱かれた。
雨女の中はどこまでも捉えどころがなく、まるで川底に沈んでいくような気がした。
それが愛だったのかは分からない。けれど、私は確かに雨女の中に人格を見たのだ。
雨女は私の動きに合わせて、ただ小さい声で呻くだけだった。それでも私は、彼女が喜んでいるのだと分かった。
そして私が最後に激しく動いた瞬間、雨女は甲高い叫びを上げたかと思うと、パシャッと音を立てて破れ、身体から水が流れ出して、そして消えてしまった。
私はびしょ濡れのベッドの上で、長い間ぼんやりとしていた。
それから机まで歩いていき、パソコンの中の書きかけの文章を消して、街を去った。
街を出たあと振り返ると、さっき私が通ってきた道の片隅には、生まれたばかりの雨女が数匹、固まって蠢いているのが見えた。
それが、私が雨女を見た最後だった。
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「それで?」
私が黙ると、それを待っていたみたいに男が言った。
「それだけですよ。この話はどこにも書いていない。雨女のことも話したのはこれが初めてです。それに、もう一度行こうと思っても、不思議なことにどうしても辿り着けない」
「そうですか」
男は分かっていたとでも言うように、微かに笑う。
何故、今日に限って雨女の話をしようと思ったのか、そのとき解った。
その男からは、雨の匂いがするのだ。
「雨女というのは、人に愛されたい雨粒が、人の形を真似しているものらしいですね」
男が言った。私は何も答えなかった。
「あなたと一緒にいたその雨女は、人に愛されて幸せだったのでしょうね」
男が目深に被っていた帽子を脱いだ。長い髪が、はらりと落ちた。
それから、目や口が風船を割ったみたいに裂けて、パシャリと音を立てて、その雨女は流れて、消えていった。
後には灰色のレインコートだけが残された。それは、かつて私が雨の街に忘れてきたものだった。
「そうか。言葉を憶えたんだな」
いつの日か、また会えるだろうか。
私はレインコートを着込む。
店の外はいつの間にか、泣いているみたいな柔らかい雨が降り出していた。
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