第249話 一時

「おはよ、さくら……」


 自然と目が覚めるほどの鼻孔をくすぐる良い香りで、僕は思わず起床した。


「真冬おはよー!」


 さくらは朝にも関わらず燦々さんさんと輝く真夏の太陽のような笑顔で、僕の挨拶に応えた。


 忙しなく動くさくらのその手には、僕の目覚めを爽やかに誘ったであろう食べ物のお皿が乗せられており、一目見ればそれはかぐわしい匂いだけでなく、美味であることが約束された見た目からも僕の食欲をこれでもかというほど擽って止まない。


「…………」


 そのため、僕のお腹の虫は早く食べさせろと、音を鳴らして空腹を主張した。


「ほら、ご飯にするから顔洗ってきて」


 漫画のように鳴ったお腹の音にさくらは微笑しながら、未だ寝ぼけ眼の僕にタオルを手渡すと、ゾンビのような緩慢な動きしか出来ない僕の背中を洗面台まで押した。


「――――」


 さくらに押されて連れられた洗面台の前で、まだぼーっとして働かない頭のまま一人で目を擦っていると、下から僕と同じくらい眠そうな声が聞こえてきた。


「あ、ご主人様おはようにゃ……」


「あ、みゃーこおはよう」


 僕と同じく寝ぼけ眼と声のみゃーこは、水受けの細い縁で危なげなく器用にバランスを取りながら、これまた器用に水受けに溜まった水を前足で掬い、顔を頻りに洗っていた。


「ご主人様、目が開いてにゃいにゃ」


 一足先に顔を洗い終わったことによって僕よりも覚醒度が高いだろうみゃーこは、ぽんと水受けの細い縁から僕の頭に軽々と飛び乗ると、洗い終わったばかりのまだ湿り気のある前足で、早く起きろと言わんばかりに僕の顔をペシペシと叩き始めた。


「痛い痛い……分かったから、起きるって」


 頭上から降ってくるような肉球をガードしながら、頭に乗っているみゃーこを何とかどけようとするが、そのみゃーこの言う通り開いていない目では、頭という非常に限られたスペースにも関わらず器用に動き回ることによって捕まえようとする僕の手から逃げる姿を、捕らえることは到底出来なかった。


「――――」


 このまま濡れた前足でペシペシ叩かれるのは、もうごめんだ。


 いよいよそう思い、本気で捕まえようと重りのようにずしんと重かった瞼をやっと開く。


「――――ッ!!」


 開いた目に光が入ってきたその瞬間、前方を埋め尽くすように広がっていたのはピンク一色で、瞬時に察したそれは、おそらく僕の目を覚まさんとするみゃーこの肉球に他ならなかった。


「――――」


 そして、目を瞬かせる間も無く、みゃーこの肉球はタイミング良く偶然開いた僕の目に目掛けて、プニプニとして柔らかいはずだが決して容赦の無い一撃を食らわせた。


「あ……」


 頭の上から溢れた「やっちゃったにゃ……」が込められたその一文字。もちろんみゃーこの口から溢れた音だ。


「……みゃーこ、そう言えば、最近ちゃんとお風呂入ってないよね」


 ごくり、と文字通り固唾を飲む音が頭上から聞こえる。


「森で修行してたもんね」


「…………」


 みゃーこはすかさず僕の頭上から脱兎の如く逃げようとする。


 だがしかし、それよりも先に僕の目が捉え、すぐに両手がその姿を捕らえる。


「――――」


 そして、みゃーこと視線が合うところまで、森で修行をしていたため元の真っ白ではなく少しだけ薄汚れた薄グレーの身体をゆっくりと持ってくる。


「ご飯食べ終わったら、覚えててね」


 僕は満面の笑みでみゃーこに笑いかけた。


「…………みゃー」


 その応酬は、何とも情けない猫の鳴き声だった。




 さくらが作った料理は、案の定想像を何倍も超える美味しさで、僕たちは終始無言で黙々と食べ進めていた。


 しかし、しばらくが経ち、余りに美味しすぎるため口とお腹がさくらの料理を欲して止まないのが落ち着くぐらいまで料理に舌鼓を打った後、さくらは僕と、僕が手に持っている紐、そしてその先に繋がれている首輪とみゃーこに目を向け、おずおずと尋ねてきた。


「それ、どうしたの……?」


「――ちょっとね」


 さくらは、僕の説明が欠けるに欠けた返答に満足していないようだったが、首輪に繋がれ見るからにシュンとした猫1匹と、その手綱を握っている人と、いくら何でも異様過ぎる光景のため、それ以上突っ込んだ話はとてもではないが出来なかったようで、猫1匹――みゃーこの方を同情の孕んだ目で一瞥するだけに留まった。


「…………」


 みゃーこはさくらのその同情の視線から、少しばかりの情けすらも得られないと早々に察し、再度小さく鳴いた。


「…………みゃー」




 それからは滞りもなく、さくらが作ったご飯を食べ終わり、その後約束通り森での修行続きで汚れていたみゃーこの身体を入念に綺麗にするべく、早急にお風呂に連れた。


 お風呂では今にも死にそうな声を何度もあげたが、自分の行く先を悟って諦めたのかすぐに大人しくなり、今度は本当に死んでしまったのか怪しくなるほど、借りてきた猫のようにされるがままの状態へと化した。


「これで綺麗になったね」


 僕は大仕事をやりきった満足げな顔で額の汗を拭いていたが、対するみゃーこはタオルを頭にかぶったまま放心状態で呟く。


「もうお嫁に行けないニャ……」


 そんな心ここにあらずみゃーこをタオルと共に抱きかかえ、さくらは優しく水気を拭う。


「安心して、私たちが一生面倒見てあげるから」


 今身体を拭くのに使っているタオルよりもずっと、白くてふわふわとなったみゃーこの身体だったが、その表情は使い古したボロ雑巾のようであり、僕とさくらはその見た目の綺麗さと表情の汚さの落差から、どうしても笑いを堪えることが出来なかった。


「笑うにゃー!!」


 カリカリと怒るみゃーこだったが、それは火に油を注ぐ結果にしかならず、僕とさくらは更に声をあげて笑った。


「――――」


 そんな何気ない一時が、僕たちがこの街で過ごす最後の団欒の一時になることを、この時の僕たちはまだ知る由もなかった。

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