第227話 余裕

 最初に挑み、尻餅を着いてから1時間ほど経過した。しかし、ナビー曰く最難関ということだけあって、未だに満足のいく結果、つまり前のめりにもならず、後ろにもバランスを崩さずに綺麗に停止出来たことが一度たりとも無かった。


 進む力に対して停める力が弱ければ、前のめりになり倒れる。反対に進む力に対して強ければ、尻餅をついて後ろに倒れる。

 理屈で言えば強すぎず弱すぎず、その間で良いだけなのだが言うは易く行なうは難し、という言葉があるように、そう簡単に中間を掴むことが出来ないのが現状だ。


 その一番の障壁となっているのがやはり、刻一刻と変化する推進力。


 比喩抜きでコンマ一秒単位で前に進む力が激烈に変化するので、例えて言うなら次々と間を置かないで最大から最小まで大小問わずランダムにリアルタイムで追加される表の全体の平均値を、必要な時に一瞬で求めるのに近いだろう。それぐらい高難易度だ。


「少し休憩」


 声を掛けられるまで気が付かなかったが、あまりの難易度にひれ伏しそうになっている僕の元へリリスさんがいつの間にか来ていた。しかし、行き詰まってしまっている事に対しての心遣いは嬉しかったが、僕は首を横に振った。


「いえ、まだやれます」


 僕は異世界に来てから今まで、割とトントン拍子にここまで来てしまったような気がする。


 とは言っても、大小様々なピンチがあり、いつ命を失ってもおかしくないような状況は確かにあった。しかし、どれほど大きなピンチもその場その場のことだけで事態は完結し、次の日になってしまえばまた笑って過ごせるような、その場限りの危機だ。


 だから、今回のようにダンジョンを踏破するまで2週間という長いとも短いとも言えないタイムリミットが存在し、その間に可能な限り強くならなくてはいけない状況は生まれて初めてに等しい。


 そんなタイムリミットという終わりはある物の、それまでどれだけ頑張ったとしても絶対に満足することが出来ない途方も無さは、近い物で言うなら高校受験が似ているかもしれないが、かけられている物がたかだか自分の進路と、数万人は下らないであろうこの街の全住人の命なのだから、似て非なるものだろう。


「僕はもっと……もっと強くならなくてはいけないんです」


「どっちみちその身体じゃやっても無意味」


 リリスさんが指をさしたのは転んだ時に付いた草と土と、擦りむいた時の血がべっとりと付いた僕の身体だった。


「焦りは禁物、強くなりたいなら尚更」


 修行を始める前、マルスさんの日課を初めて目にした日の朝に、リリスさんに同じ事を言われた。そして、再度僕も同じ事を思う。


「リリスさんは今すでに強いから余裕を感じるんです。でも、僕は違う……僕は弱い。今よりも何倍も強くならなければ駄目なほどに……弱いんです」


 醜いまでの八つ当たりだった。


 ここまでチートのおかげでトントン拍子で進んで来られたため、いくら修行と言っても同じくらいとまではいかないまでも、それほどの苦労をしないでドンドン進めると心の何処かで思っていたのだろう。


 しかし、現実はそうはいかなかった。自分や自分の大事な人を馬鹿にした人に叩きのめされ、甘く見ていた修行でも数百回は転び、地に這いつくばって泥を舐めるような時間を過ごした。


 転んでも転んでも一向に進歩のない自分にイライラし、それでも街の人を早く楽にしてあげたいという思いが先走り、そんな先の見えない霧の中をひたすらアクセルで進んできた僕のただの八つ当たり。自覚もあるし、端から見てもただそれだけのことだった。


「何でマルスが強いか分かる?」


 八つ当たりに対してリリスさんは意図の読めない質問で返してきた。そんな掴めないリリスさんに当惑しながらも、八つ当たりをしたことによる罪悪感と嫌悪感から逃げたい僕は、冷静に装いながら答える。


「それは……並々ならない努力をしているからです」


「正解。じゃあマルスは努力の最中焦ってるように見えた?」


「いいえ、落ち着いてました」


 マルスさんがしていた修行を思い出す。


 目を瞑り、全力を込めて剣を降る姿は汗が飛び散るほど激しかったが、それと同じく冷静であった。


 一見矛盾するようだが、それは決して違う。マルスさんの剣に込める力は大時化の海のように激しく荒れ狂っていた、しかしマルスさんの心だけは動物も人も誰も訪れない秘境にある湖の如くピタリと時間が止まったように凪いでいた。


 だが、それは冒険者2位という確かな地位と実力を持っているからこその余裕で、現に4位のリリスさんも同じく単純に強いから余裕を持てているのではないか。


 そう思った矢先、リリスさんは心を読んだように首を振る。


「違う。強いから余裕があるんじゃない、余裕があるから強くあれるの」


 それは一種の言葉遊びかと思ったが、リリスさんの真剣な目つきと醸し出す雰囲気から、因果関係を反対にしたその言葉が心に染みついてくる


「――――」


「君が負けた戦いは全部、焦りが原因。だから戦いの最中は、頭は冷たくが鉄則」


 今までの敗戦は確かに、何かしらのミスから焦りが生まれ、その結果負けた。反対に言うと、終始焦りのない戦いは勝っており、実感としてもその最中は頭だけがやけにクリアに保っていられた気がする。


「真冬さん、リリスさんの言う通り根を詰めすぎです。それに気が付いてないかもしれないですが、身体も悲鳴をあげています。少しはゆっくりする時間も必要でしょう」


 ナビーに言われて気が付いたが、どうやら身体には慣れない動作による疲労と、転倒時に出来た傷のせいで体力が底を尽きかけていた。そのため、ナビーやリリスさんの言葉に逆らって修行を続行させようと身体を動かそうとしても、もはや一歩も動けない状態になっていた。


「……分かりました、少し休憩します」


 そう言って座った途端、身体が思い出したように更なる疲労を僕に自覚させたため、少しではなくご飯休憩をすることにした。尚ご飯にすると言ったその際、普段は口数が少なく言葉足らだったが、それ故かリリスさんの表情は分かりやすく喜んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る