第220話 転換

 転んだ痛みが引き、練習を再開してからもう一時間、合計で二時間ほどステータスが最低状態での歩行練習は、ほとんど大詰めを迎えていた。


「リリスさーん!こんな感じでどうですかーー!!」


 僕はリリスさんを中心として円を描くように走り回っていた。


 まだ速度的には伸びしろがあるように感じる物の、現状で出せる最高速度の九割ぐらいの速さならば歩くことに対してほとんど意識を向けなくても、半ば自動的に動けるようになっていた。


「――――」


 しかし、僕がリリスさんの周りをただ回っているだけということから分かるように、今の僕の状態ではまだ実践では到底使えない、致命的なある欠陥を持ち合わせていた。それは、


「そのぐらい出ればとりあえず良い。次は方向転換」


 そう、僕は今のところ直進でしか走れないのだった。と言っても、本当に緩やかなカーブなら左右の歩幅の違いで徐々に曲がれるが、角度で言うと東京ドームの外周以上はまだまだ無理だ。


 何故なら、真っ直ぐ走るのは、行きたい方向と足の動きが常に同じなため体重移動がイメージしやすく実行もしやすい。でも、方向転換、それも戦いの中で求められるつま先が向いている方とは違う方向への急激な転換となると、どうすれば力を使わずして行なえば良いのかさっぱり分からないからだ。


 そして、方向転換は、360度全ての方向に対応せねば実践では役に立たない。


「やるから見てて」


 走り回っていた状態からゆっくりと立ち止まり、考え込む僕を見兼ねて、リリスさんは実際にやってくれると言ってくれた。


「――――」


 一呼吸置いて剣を抜いたリリスさんは立ち止まった状態から、一気にトップスピードに入り、僕の全速力を置いてけぼりにするような目にも止まらない速さで駆け出した。そして、僕からあっという間にそれなりの距離を取ると、そこから流麗な動きで次々と絶え間のない方向転換を見せた。


 前に走ったかと思えば右、右に動いたと思えば左、前に進むかと見せかけての後ろなど、まるで舞踏会で踊っているかのようなで淀みの無い洗練された動きは、それが戦いに使われるなどとは露ほどにも思わせないほどの芸術だった。


「――――!」


 どんな体勢からでも全方向へと即座に移動出来る様、例えるなら流れる水のような踊りを見せたリリスさんの雰囲気がここで様変わりした。


 今度は、激しい武闘の動きだ。


「――――」


 体重移動による強烈な足の踏み込みは地面をへこませ、決して少なくない衝撃を放つ。


 次に見せたのは、体重が乗っていない足での転換。普通の人間ならば歩くために足を前に振り上げ、体重が振り上げた足に乗ったのならば、地面に着くまで動き始めた足の慣性をキャンセルなど無理だ。


 しかし、どういうわけか、リリスさんは振り上げた足に全体重を乗せたまま、違う方向へと身体を持って行ったのだ。それも、僅かな予兆さえも感じさせずに。


「戦いの中では、動く方向を相手に悟らせない事が大事。それと、全ての方向にどんな体勢でも動けるように」


 リリスさんはそれだけ言うと、剣を仕舞いその場へと座り込んだ。


「――――」


 もう見せる事は無いらしい。


「ちなみに、また訊きますけど何かコツってあるんですか?」


 リリスさんの方向転換は、重力や慣性など物理法則を物ともしない動きで、筆舌にはし難いほど確かに凄かった。しかし、冒険者4位という実力から分かる通り、リリスさんの完成された動きを見ても、悪い意味でレベルが違う僕には何が何だか分からなかった。


 算数をやっている小学生にフェルマーの最終定理を見せても、意味不明なだけと同じような物だろう。


「コツ……今回はやるしか無い」


 とりあえず取っ掛かりさえ掴めれば良いかな、位の気持ちで質問してみたのだが、今回はリリスさん本人も何で出来るのかが分からないらしい。首を捻って数秒でやるしかないというやや体育会系な結論に至ってしまった。


「とりあえずやってみよう」


 何でもかんでも人に頼っては駄目だ。そんな感じで、僕はひとまず方向転換をやってみることにした。


「――――」


 まずは真っ直ぐに歩いていた状態から右に曲がる練習だ。


 真っ直ぐにただ歩くのは、足が決められた道筋を辿るように無意識で出来るようになっている。しかし、右に曲がるとなると、つま先を進みたい方向の真っ直ぐに出すのでは無く、右方向に向けて出さなければいけない。つまり、足を捻りながら踏み出すのだ。


「――――」


 真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ、右!!


「――――ッ!!」


 まずは左足から前に向かって歩き、三歩歩いたところで右に曲がろうと右足を曲がりたい方向の右に向けて出しかけた瞬間、振り上げた右足が急激に重くなり、吸い寄せられるようにして右足が地面へと着地してしまった。

 その結果、右に曲がるためと真っ直ぐ進むためとほとんど違いの無い残った足、つまり左足だけが余計な力が掛かっていない軽いまま動いたので、足が縺れ再度顔から地面に突っ込んでいった。


「痛たたた……」


 やはり直進から急に曲がろうとすると無理な動きや力が加わってしまうのか、糸に引っ張られるように半自動的に動いていた足が急に重くなり、言うことをちっとも聞かなくなってしまった。


 そのせいで顔がヒリヒリと痛む。


「それなら……」


 直角に曲がることはもちろん直進していた状態から曲がるのも、まだ体重移動が不慣れなため奇跡でも起こらなければ叶わない。しかし、先ほどリリスさんのお手本を見せて貰う前、多少の歩幅の違いで曲がれるような緩やかなカーブならそれが出来ていた。


 ならば、緩やかなカーブからだんだんと角度を付けていけば、いずれは直角、あるいはそれ以上の曲がり方も出来るのではないか。そして、徐々に角度を付けていくということは、真っ直ぐから真横、まで全角度で曲がれるようになっていくので、一石二鳥だ。


「――――」


 そこから僕は一心不乱に曲がるための体重移動を身体に教え込んでいった。


 最初は曲がろう、曲がろう、と過度に意識した瞬間に、変な力が入り緩やかなカーブでさえ出来なくなってしまったこともあったが、それらは転ぶ回数が増えるにつれて徐々に直進と同じく半自動的に出来るようになった。


 そして、例えみっともないほど派手に転んだとしても、立ち上がって再度練習に取り掛かれば転んだその前よりも目に見えて成長が感じられて、何回、何十回、何百回転んでももう一回、と心が折れることなく何度でも立ち上がることが出来た。


「そろそろ薬も切れる。だから終わり」


 リリスさんがおもむろに近付いてきて、終わりを告げた。


「――――!!あ、はい!」


 自分の世界に入ったという言葉が相応しいほど極度に集中していたため、唐突に横から聞こえてきたリリスさんの声に僕は軽く跳ねながら驚いてしまった。そして、異変を感じた辺りを見渡すとまたもや驚愕した。


「もうこんな暗くなってたんですか!」


 周囲はすっかりと真っ暗になっており、マルスさんの日課を見た早朝から考えると、実に半日ぐらいは修行に没頭していたようだ。


「凄い集中してた」


「す、すいません。こんな遅くまで……」


 僕は大慌てでリリスさんに謝った。何故ならリリスさんも次のダンジョン攻略に向けてそれ相応の準備をしなくてはならないにも関わらず、僕の修行に丸一日付き合わせてしまったから。


 しかし、返って来た言葉は意外にも迷惑どころか感謝さえ感じ取れた。


「大丈夫。君の動きを見てると勉強になったから」


 リリスさんはそう言って手に持っていた剣を仕舞った。


 おそらくはリリスさんも僕の修行の様子をずっと見ていたのではなく、自分のために素振りなり何なりをしていて、その合間に僕の不格好な動きを遠目から見ていた。その中で、どこが勉強になったかは皆目見当が付かないが、リリスさんなりに僅かながらでも吸収出来るところがあったのだと思うと、一日付き合わせてしまった罪悪感から少しは心が軽くなった。


「それなら良かったです」


 ほっと胸を撫で下ろしたと同時に、今は慣れてそこまで感じていなかった鉛を詰められたような身体の異常な重さが、フワッと軽くなった。


「丁度薬も切れましたね!それじゃあ街に帰りましょう」


 リリスさんが先ほど言ったように、タイミング良くステータスを初期化する薬の効果が切れたようだ。そのため、僕は見上げるほど高い壁に囲まれた街の方に振り返りながら、一歩踏み出した――はずだった。


「あ、待っ――!」


 リリスさんの慌てふためく声を遙か後方へと置き去りにして、僕は街の壁が迫って来て、ドンドンと大きくなる様をどこか他人事のように見ていた。


「これって危ないんじゃ」


 そう思ったのも時すでに遅し。


「――――ッ!!」


 僕は街の壁に向けて吸い込まれるように突っ込んでいった。


「…………」


 降り積もった新雪に倒れ込んだ時みたいに、くっきりと人型のまま壁にのめり込んだ僕は、この日数百回目の、そして今日一番の痛みを経験したのだった。


「戻った直後は危ない」


 顔面はおろか耳まで深く壁にのめり込んでいるため、くぐもってはっきりは聞こえなかったが、ステータスの上がった今なら大体言ってることは分かった。そのため、


「そういうことは早く言ってくださいよ……」


 痛みと驚きと埋まっているため、細やかな声でしか抗議できなかった。

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