第217話 格差

 僕とマルスさんとの距離は数十メートル。


 今の僕のステータスならば一秒もかからずに詰めることが出来るその僅かな間を、何の躊躇いもなく一気に駆け出したが、マルスさんは腕を組んだまま初期位置から一歩も動かず、もっと言えば勝負をけしかけてきた時から何もかもが全て静止したままだった。


「――――」


 微動だにしない怪しげなマルスさんへと徐々に近付くにつれて息が苦しくなるほどの濃密で鋭さのある剣気は、戦いへと精神を移行させたマルスさんがそこにただ存在するだけで発せられており、大鬼とはいかないが、本当にそれ以下の魔物であれば窒息させることさえ可能そうだ。


 だが、曲がりなりにも大鬼を打ち負かしたという自負がある僕は、それに負けじと剣気を物ともせずに突っ込んでいく。しかし、ただ闇雲に向かっても何かしらの対処されることは目に見えているので、走るための足を敢えて細かく動かすことによって、急な方向転換の余地を残すように調整していた。


「まさかそのまんま来るつもりじゃねーよな」


 嫌悪を声に含ませ呟かれたそれは、確認と言うよりは挑発に近いもののように思え、間もなく、僕とマルスさんとの間に障壁のように危険な匂いを薄らと感じた。


「――――!」


 勘が告げる本能の赴くままに、細かく動かしていた足で地面を横に蹴り、危険と思しき場所から一気に離れる。


 すると、僕がマルスさんへと向かっていた道中で、髪が少しなびくほどの爽やかな風が下に生えている草を揺らすように吹き抜けたかと思えば、その後、地面にはぱっくりと大きく深い亀裂が入り、その亀裂の内側は砂や土がドロドロの液体状になるほどの熱を持っていた。


「馬鹿はすぐに死ぬぜ」


 マルスさんは剣気を放ちながらも、定位置と言うべき場所からは少しも動いていなかった。


「――――」


 予備動作無し、しかも立っている場所から一歩も動いていないにも関わらず、あの大鬼でさえ楽に倒せてしまいそうな一撃をマルスさんはいとも簡単に繰り出せる。そしてそれはマルスさんが言う通り、僕を殺すために放たれた紛れもない攻撃だ。


 本気や、殺す気なんかでは足りない。マルスさんは殺さなければいけない本当の敵だと認識を改める必要があるようだ。でなければ赤子の首を捻るように僕が殺される。


「やっと本気の目ん玉になったな」


 マルスさんは僕が認識を改めたのと同時に、悪魔のように口角が張り裂けそうなほどに笑った。そこで先ほどの微弱な危険信号では比にならないぐらいの数と質で、死の危機が五感に訴えかけてきた。


「これぐらい目瞑っても交わせなくちゃなー!」


 楽しんでいるように見える、というか実際楽しんでいるマルスさんの屈託のない笑顔とは裏腹に、まるで弾幕ゲームのように絶え間なく僕へは攻撃が飛んできていた。


 その攻撃は一見すると窓から入り込んだカーテンを揺らす風のように気持ちよく優雅な形をなしていたが、その実地面に当たると、はたまた遠くの空の雲に当たると、優雅という外面の良い面を被っている狂気を孕んだ一撃だったと初めて知ることとなる。


 当たった地面は地獄の釜のようにグツグツと煮えたぎるような液状と化し、雲は実体の薄い白い形をまるで最初からその場に無かったかのように綺麗さっぱりと姿を消される具合だ。


「――――!」


 そして、僕が逃げ回った場所全て、つまり一歩も動いていないマルスさんの全周囲が真っ赤な液状と化し、数分前までは緑豊かな草原だったが、ここだけを切り取れば地獄の形相に映るほどの有様に成り果てる。


 一瞬でも足を地に着けば機動力を完全に奪われるという事態を避けるため、とうとう足の踏み場が無くなった僕は宙を蹴り、距離を取るためと遙か上空へと移動した。


「そろそろお迎えに上がりますか」


 退屈そうにプラチナの剣でトントンと肩を叩くのを止めた瞬間、今まで足を交差させて立っていた場所から忽然と姿を消した。


「ほらよ、今度は避けるんじゃなくて堪えろよ」


 ――まずい。


 認知速度を極限まで上げていたにも関わらず、認知できない早さで目の前に急に現れたマルスさんに、対応しようと何とか食らいつくように剣を振り出すも、それは霧を斬りつけたかのようにマルスさんにぬらりと呆気なく交わされる。


「おっそいな」


 上から振ってきた声に反応し、ようやくマルスさんの姿を目で捉えられると思いきや、すぐさま視界いっぱいに手が広がった。


「ほらよ」


 デコに尋常ではない衝撃が走ると、僕の身体は投げつけられたように地面へと向かって弾き飛ばされた。


 そしてそのまま余りの勢いで自由に動かせない身体を先ほどマルスさんが居た場所、つまり周辺で唯一液状になっていない地面に叩きつけられた。


「――――ッ!!」


 草原でそこそこ柔らかい地面のはずなのに身体が軽く弾むほどの大きな衝撃のため、肺に溜まっていた空気が強制的に吐き出させられ、空気を求め僕の身体は苦しげに喘ぐ。

 しかし、そんなことはお構いなしに数百メートルは下らない上空から瞬時にこちらまで接近し、


「まだやれるよなー!?」


 軽く弾んだせいで横になった状態で地面から浮いていた僕をマルスさんは、腕を取り、足を地へと付けさせ強制的に立たせた。


「こっからが剣士の戦いだ」


 マルスさんの周囲を囲む空気が更に鋭く、尖った物と変わる。


「…………」


 何故立たされたのか分からないが、とりあえずは呼吸を整えながら体制を立て直し、次に備える。だが、十分に整ったと言えないながら剣を構えた瞬間、


「準備がとろい」


 半ば呆れに似たその声と共に僕を襲ったのは、身体の内部を伝う骨が粉々にされる心底不快な音と、立っているのが困難になるほどの右ふとももへの激痛だった。


「――――!?!?」


 マルスさんの姿が欠片も見えず、何をされたか分からずの混乱の最中、今度は剣を持っている左腕に同じ程度の衝撃が走った。


「――――ッ!」


 そこからもマルスさんの姿形は一向に見えず、攻撃をどこからされてどういう風にされているのかも予想が立てられないため、為す術も無くサンドバック状態で僕は袋叩きにされた。


「これがてめーの今の実力だ。アルフの野郎に認められてんのかなんだか知らねぇーが、てめーは俺に手も足も出ねーほどの雑魚だ。分かったら出直してこい」


 身体の余すとこ無く剣で叩かれた痛みで意識が朦朧とする中、マルスさんは僕を見下ろすように姿を現わし、唾棄するように言った。


 そして、


「ほらよ、さすがに見てられねーから」


 マルスさんは僕に何かしらの液体を、雑草に除草剤を撒くかのように雑に振りかけた。


「…………」


 その液体が身体にかかった瞬間、あれほどまでに暴れ回っていた痛みはすーっとまるで無かったかのように消えていき、薄れ掛かっていた視界も通常通りに戻った。


 しかし、やっと見えるようになった景色の中に、マルスさんの姿はなかった。

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