第170話 離別
コンコン
部屋の扉を軽くノックする音で目が覚めた。ボヤボヤと不明瞭な頭と目で音の元であるドアの方を見ると、母親がこちらを見て苦笑いをしながら、
「おはよう、私仕事でまた海外に行っちゃうから。朝ご飯は机の上にあるし、色々溜まってた物も片付けといたから……それじゃあね」
とだけを言い残し、扉を閉めて部屋から出て行った。
「そっか、また行っちゃうのか」
寝ぼけ眼を擦りながら仕事で海外に行ってしまう母を、いつも通りこの部屋で見送った。が、
「関わったことのある人の記憶から僕が消える」
頭を過ぎったそれは言葉にした途端、急に現実を帯びてきた。
「――――!!」
僕はすぐさま布団から身体を投げ出し、足下がおぼつかないながらも目標を見据えた足でしっかりと踏み出して、急いで部屋から飛び出す。そして風のように階段を駆け下り、まだ微かに母が居る気配がする玄関に向けて、ただただ走る。
そんな途中リビングである光景を一瞥。
「全部……」
母は朝ご飯は作ってあると言ったが、その量が到底朝だけでは食べきれるだけの量ではなく、今日の昼夜どころか、ここ一週間分の朝昼晩は足りるほどだった。しかも保存が効くように調理されている物が多く、前もってそれを計算されているようだった。
それに加え、僕が異世界に行っていた間に溜まっていた郵便物は、重要な物や支払いの必要がある物など種類ごとにキッチリと分けられており、後でまとめてやろうと思っていた洗濯物は、綺麗にアイロンまで掛けられてまとめて畳まれてあった。
おそらくそれらは僕が寝ている朝方に全て完璧に終わらせておいてくれたのだろう。改めて感じる親のありがたみと凄さを感じ噛みしめながら、追いついた母の背中に向かって叫ぶ。
「――母さん!!」
僕についての記憶が全て消される、目の前にある現実離れした現実に、勢いがあったはずの僕は頭の中がごちゃごちゃになっていた。
消してしまったら最後記憶が戻ることはないのかも知れない、記憶を消す意味が本当は無いのかも知れない、など取り留めの無い思考が溢れて、玄関を出ようとしていた母を前に、僕は下を向き黙り込むことしか出来なかった。
「どうしたの?朝からそんな大声出して……」
母は外に向かっていた足をこちらに向けて顔を覗き込むようにすると、僕の心の中を見抜いたかのように納得のいった表情をして、
「そっか……見送りに来てくれたんだね」
その言葉に素直に頷くことが出来なかった。何故なら気持ちが見送ることを反対しているからだ。
ここで母と別れたら、次会えたとしてももうすでに僕についての記憶が消された状態なので、今の親としての母とはもう今後一切会えない。だから引き留めたい気持ちが今更ながら出てきてしまっていたのだ。
「――――」
そんな心情から慌てて引き留めた以降、一言を言葉を発さない僕に母は、過去を思い馳せるようにしながら、
「こうしてさ玄関で見送ってくれるのって初めてなんだよね、いつもは部屋でだったから。それで何でだろうっていつも考えてたの……それが今何となく分かった気がする」
母は薄く微笑みながら続ける。
「本当は行って欲しくなかったんだね、遠くに。だからいつも部屋でさよならだったのかな」
「――――」
「理由は分からないけど、でも今日は初めてこうやって玄関まで来た、ということはちゃんと見送りに来てくれたんだよね」
嬉しさが滲み出ていた母の声音が急に変わった。そのため僕は思わず地面へと逸らしていた顔を上げる。
「泣くつもりなんて無かったのに……」
母は誤魔化すように笑いながら、涙を袖で拭く。しかし次々と溢れて止まることを知らない涙はいくら拭けども意味を為さなかった。
「最近真冬の前で泣いてばかりだね……親失格かも」
「そんなことない!!」
母の口から出た親失格という言葉に対して反射的に飛び出た言葉に、母はもちろん発した張本人である僕も驚いていた。しかしそれは嘘偽りのない言葉だったと、驚きながらもスラスラと出る続きの言葉がそれを瞬く間に証明していく。
「朝ご飯って良いながらいつも一週間分ぐらい作って行くところとか、あとでまとめてやろうと思ってた事なのに全部さらっとやって行っちゃうところとか……本当に余計なお世話だよ」
「ほらやっぱ「――でも!」」
母の同意の言葉に重ねるようにして、
「でも、それが母さんで、そんな母さんだったから僕はここまで来れたんだ。」
「そっか、ありがとね」
今のこうしたやり取りも、僕が異世界に行く頃には母は全てを忘れて、無かった事にして生きていく。だから意味が無いのかもしれないが、僕は母に普段言わないお礼を言わずにはいられなかった。
「ううん、こっちこそいつもありがとう」
母にかしこまってお礼を言うことが少なかったため多少の恥ずかしさはあったが、おかげで母とちゃんとお別れする決心が付いた。
「それじゃあ、最後に……行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
僕は初めてとびっきりの笑顔で、僕のことを覚えている母を見送った。
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